「どうした、こんなもんかァ?」
「お客様、そろそろお止めになられては…」
「良いんだよマスター、好きにさせてやれ。」
「ハッハ!」
猥雑な笑い声をあげる男達に辻村は口端についたアレキサンダーの名残を指先で拭う。疾くにも負けず嫌いの根性が発揮されていた。果たして男達が聡太についての価値ある情報を有しているかどうかなど、酔いの回った彼女にとっては部屋の隅の埃に等しき瑣事となっていた。続いてB52はどうかと煽り立てるマフィア構成員に辻村は首を縦に振ることで応える。最早声を発する余裕もなかった。
ところでこのマスター、応対役がポートマフィアであるが故に注文を拒絶こそしなかったが一般的な道義は持ち合わせていた。初手のルシアンの嗜み具合で辻村の可能飲酒量を看取した彼は内密に酒に水を混入させることで濃度を薄めていたのだ。無論、男衆に工作が発覚した場合の保険はかけてある。しかし彼の予想以上に辻村は弱く、それでいて頑固な質だったが為に現状が出来上がってしまった。
そして時は満ちた。アルコールが血液を伝って脳に到達すると最初に視界に異変が現れた。
地球が回っている。否、回っているのは自分か。辻村は回転を始める世界に平衡感覚を失う。どくどくと己の心臓の動悸が鮮明に全細胞を以て伝えられた。体の軸の感覚が失われるのを辛うじて堪えることで精一杯だった。そして到頭…彼女の意識は暗闇へと引き摺られてしまった。
さて、カウンターテーブルに突っ伏し朦朧とする辻村に男達はしたり顔を見合わせる。
「お、お客様」
「五月蝿えな。会計だけ済ませてくれよ。」
「それとも何だ、いらねェってか?」
椅子から立ち上がり得意満面に身を乗り出す無頼漢にマスターは僅かに退く。その反応に、男達は気を良くして多めの札を叩きつけると辻村に悪辣な手を伸ばす。遂に時間切れかとマスターが白髪混じりの睫毛を伏せた時だった。
ギィ、と店の階段がしなった。間をおかずにコツコツと鷹揚な足取りを聞き取って男達は視線を流してみる…
「邪魔するぞ。」
「なっ!」
卒爾の来客が暗がりから身姿を露わにすると、四人の男達は震撼した。反してマスターは保険が舞い込んできたことに胸を撫で下ろした。
「よォ、良い夜だな。」
質朴なスーツのポケットに両手を突っ込んでグレイは無難な挨拶を口にした。たじろいだ男達を他所にマスターとも言葉を交わすとグレイは店内をぐるりと見渡す。呆然と佇立する男達の隙間から一人の女の姿を捉えると、濃厚な漆黒を細めた。
「マスター、彼女と同じモンを五杯頼む。」
——丁度ライターも手元にあるしな。
その台詞に慄いたのは男達だった。B52はカルーア、ベイリーズ、グランの均等な三層が魅力的なショットカクテルである。度数の高さからアメリカの爆撃機の名前に因んで名付けられたB52は店によっては表層に着火して提供する場合もある。あくまで個人の好み次第だが、彼等の目前の男に限ってストローで一息に吸い込むことはあるまい。よもや喉焼きを強要し、己が高熱に悶えている隙に撃ち殺す腹づもりでは…それも単なる余興で。外道と評される怪物を前にして、誉高いドーベルマンからポメラニアンへと落魄したマフィアの構成員達は一転して背筋を伸ばした。
「い、いや俺たちはもう帰るところで…」
「そうか?てっきりこれから色々と翫味するもんだと思ってたんだが」
「いやいやいや!飲み過ぎちまって肝臓が死んでんだっ、もうお腹いっぱいなんだよ!」
「とても火なんざ飲めねェ…」
「じ、じゃあグレイ…さん、俺らはこれで」
矢継ぎ早に遠慮を述べると、男達は返事も聞かずにそそくさと店を後にしようとして。
「待て。」
有無を言わさぬ口調で呼び止められると、液体窒素を浴びせられたかのように彼等は硬直した。
「体調が悪いところ心苦しいんだが、帰る前にちょいと聞かせてくれねェか。」
——猿みてェにやかましく騒いでた理由をな。
*
リズム・アンド・ブルースの名曲が控えめに店内の落ち着いた空気に乗って流動している。
Monica『Before You Walk Out Of My Life』は九十年代の時代を創った名曲の一つだ。聞くに今俺の真横で突っ伏してる彼女のリクエストらしい。年頃の女にしか醸し出せない切なくも甘美なニュアンスが訴えかけるものがある。
「辻村らしいな、」
安らかに眠りにつく彼女の唇にかかった水浅葱の髪束を退けてやると、ふにゃりと破顔した。視界の端にマスターの徳の高さがありありと見て取れる腕が差し伸ばされる。テーブルに置かれたのはショットではなく手に馴染んだロックグラスだった。
「お知り合いでしたか。」
「ああ、少しな。マスターから連絡があった時は何事かと思ったが…心から感謝するよ。」
「滅相もない。間に合って善かったです。」
眉を開いて羊のような柔和な表情には五徳が滲み出ていて、矢張り彼の来世は石油王か大富豪だろうと感慨深くなった。
ポートマフィアの連中は事情だけ聞いてから追い払った。稀にだが、ああいう破落戸の中でも際立って悪質な連中がやってくるとルパンに限らず店に呼ばれることがある。俺のような犯罪者予備軍に助けを求めたところで性悪な奴らは引き下がらないと忠告はしてるんだが、如何いうわけか揃いも揃って脱兎の如く逃げるもんだから大した肝っ玉もない連中だろう。ポートマフィアだの組合だの時計塔だの見た目と肩書きに頼った空念仏の輩ほど厄介なもんはない。といいつつも、特に愛銃の火を吹かせることもなく片付くのでその後の流れで上手いタダ酒が飲める俺としては良いビジネスである。因みに森の面前で蚤の心臓のような部下を揶揄ってやりたいところだがそんなことをすれば首が飛ぶのは奴の部下だけでは済まなくなるだろうから未だ挑戦できた試しはない。
「さて、」
酒を飲むと気分的には飲み明かしたいところだが、今晩は面倒を見るべき客がいる。ポケットを弄って代金を出すと、断ろうとするマスターを差し置いて机に置いた。今晩限りの保護者としての迷惑代と云えば渋々といった様子で受け取ってくれた。最後の一口を飲み下してから席を立つ。辻村を抱えて礼を告げると、俺は店を去った。
表に出れば、寿命を迎えたテーパーポールの代わりに看板が月明かりのように淡い光を放っていた。月光とでも認識しているのか無数のユスリカが集っている。ふいと目線をずらせば数日前の大爆発で破損した一階の外壁に間一髪で原型を保っている監視カメラが俺を見下ろしていた。点滅するライトから起動していることが分かる。
「んん、しぇん生…こんどというこんどこそ、逃がしませんよぉ」
カメラ越しに映った、俺の袖を掴んだ辻村は刺激的な夢に翻弄されているようだった。夢の中でも奔放な綾辻に振り回されているのかと思い至ると、苦笑を溢さずにはいられない。それにしても爺が年若い女を路地裏で抱えているというのは、随分と拙い絵図である。
*
刻々と時計の針が回転を繰り返し、夜が明けた。
「ねーねーグレイ、あの人だぁれ。」
目覚めると己のベッドを共有して熟睡する一人の女に、Qはキッチンへ行くと重たげな瞼を擦りながら尋ねた。
「辻村だ。異能特務課は知ってるだろう。」
「うん。」
「事情があってな、少し面倒を見てやることにした。」
「へぇ。」
尋ねたわりにさして興味もなさそうにQは一つ欠伸をすると洗面台へと歩いていった。
ピピと電子音が鳴った。グレイが身体を翻すとトースターから両面をこんがりと黄唐茶に焼いた二切れのパンが半身を飛び出させている。手元のナイフを握り側面を寝かせてパンの表面を撫でてみる。カリカリ、カサカサとした手触りが完璧な焼き具合だ。常温のバターを塗り、皮膚に降りかかった雪のようにじんわりと溶けてゆくバターをコーティングしていると、丁度鍋が煮立ってきた。
頃合を見計らってグレイは沸騰したお湯に二個の卵を入れる。と、寝室で絹を裂くような悲鳴が響き渡った。どたばたと慌ただしい足音を鳴らして辻村がやってきた。
「おはよう。気分はどうだ。」
「な、な、な…!」
悠々とすくい網でポーチドエッグを掬い水気を切るグレイに、辻村はさも寝耳に水といった様子で一驚を喫する。気を抜けば白目になりそうだった。
「グググ、ぐ」
碌に呂律も回らぬ彼女にグレイはパンにレモンとすり潰したアボカドを敷きながら胸中で思案した。
——ぐ...具合が悪い…二日酔いだな。
最後にポーチドエッグを乗せて塩胡椒を振りかけるとアボカドトーストのポーチドエッグの完成である。皿に乗せてダイニングテーブルに置くと椅子を引いた。
「どうした、早く座れ。食って元気だせ。」
「なんで貴方がいるんですか!?」
「なんでも何も此処は俺の家だ。」
——厳密にはホテルだがな。
どこまでも逸脱した男である。もはや意図的を懐疑するほどの口不調法に辻村はますます絶望感に襲われた。
「うわあああ!やっちゃった、私宇宙一危険な男と…!」
「安心しろ、お前はQの布団を蹴って爆睡してただけだ。」
「どうしよう、万が一があったら辞職出して山奥に住まなきゃ!」
「ドラマティックだな。」
絨毯の上で蹲り腹を抑えて悲愴を醸し出す辻村は完全に己の四大悲劇的な世界へと没入している。グレイは小さく溜息を吐くと彼女の腕を引いて立たせた。
「良いか辻村、自分の格好をよーく見てみろ。」
「…うわああ、キャミソール着てますぅ…!やっぱり過ちを犯しちゃったんだ」
「何でだよ、キャミソールでも服着てんだろうが。」
「事後に着せた可能性も」
「態々悲劇に持ってく必要があるのか?」
…………。
それから暫くして、心身の健全を確かめた辻村は打って変わってカウンターチェアで縮こまっていた。頭蓋から割れてしまうような頭痛と、束の間曝け出した醜態に羞恥心に苛まれて。一方のグレイは彼女の発狂をさして咎めるでもなく、悪酔いタイプの下戸だろうと自己完結していた。
「飯は食えるか。」
「……はい」
陶器のように真白い素肌をトマトみたいに紅潮させて、辻村は眼前に置かれた朝食を眼差す。
満遍なく塗られたアボカドベースの隙間から覗くトーストの程度良く焦げた表面と、艶々のポーチドエッグに控えめに振られた塩胡椒が食欲をそそる。生唾を飲み込むと、小さく喉が鳴って辻村は恐る恐る手を伸ばす。
一口噛んでみる。ぷつりと生温い黄身が口内に雪崩れ込んできた。
一回、二回、三回と咀嚼する。奇怪な感覚が辻村を襲った。
「どうだ、」
「味がしないです。」
「二日酔いだな。」
想像以上に酒に耐性がないに違いない、辻村とグレイは感想を一致させた。そこに身支度を済ませたQが小さなポシェットをぶら下げて現れた。グレイの作った朝食を口にする辻村にプラスチックを貪る小魚でも見るかの淡白な視線を注ぐと、次いでグレイを見遣った。彼の保護者との共同生活での唯一の不満は、名付けて砂味手料理である。
「文と遊んでくるー。」
「携帯は持ったか。」
「…うん」
妙な間を置いて点頭したQはグレイが問い質す隙を与えずに「ねね送ってよ」と強請る。驕児を一人送り出すのは気に染まないが、接客の最中に地団駄を踏まれては堪らぬとグレイはQの頭頂部に触れた。直後、行き先を訊かずに送り出したことを悔いたが下手な通り魔よりも小悪魔的な子供であるが故に大層な面倒事は起きぬだろうと、半ば天に願いながら観念したのであった。そんな彼等の傍で戦禍の化身、片や犯罪者の卵のまるで父子のようなやり取りに辻村は目を丸くさせていた。
程なくして、朝食を終えると二人はリビングで向かい合っていた。様々な過程を経てようやっと平静を取り戻した辻村は、混乱を乗り越えた先で深刻な宿酔に苛まれるとは思ってもみなかった。
「頭が痛い、」
頭痛薬を飲んでも尚治らぬ額の痛みに顳顬を抑えてソファーに半身を預ける辻村。生気を失くして死人のようになった面輪はアルコールに対する耐性のなさを物語っている。
「これを飲むといい。」
差し出されたのは経口補水液だった。ラムネ瓶の最後の一滴を吸い込むように、控えめに口付けると如何にもブドウ糖の味がした。僅かばかり鈍痛が治ったような気がして、辻村の脳裏に今度は新たな頭痛の種が生まれる。
「長官に合わせる顔がないです。」
「…特務課には俺から連絡を入れておいた、心配するな。」
グレイの返答に辻村は差し迫る悪夢から解放されたかのような安堵感に胸を撫で下ろした。久方ぶりの単独任務、特務課の顔に泥を塗りかねない大失態は身に堪えるものがあったのだ。しかし心身が快調でないうえに半透明な重圧が軽減されたと思い込んでいた辻村は、惜しくもグレイの巧言に勘付くことはなかった。
「昨日ルパンでお前に絡んだ連中から話は聞いた。」
辻村が上半身を起こせるようになってから、グレイは切り出した。
「茂木聡太を探してるんだろう?」
「はい。」
暗黒街を一枚の葉に喩えるならば、葉脈のように広がる情報網の本流たるグレイをおいて通暁する者など他に存在しえないだろう。辻村は縋るような目で見詰めた。対してグレイは煎りたての珈琲を口に含むと彼女を見据えた。
「実をいうとな、俺も人を探してるんだ。」
「…人を?」
「正確には男女をだが、まあこうなったら女の方は後回しだな。」
途端に辻村の胸に漣のような不穏な影が迫ってきた。無機的な黒の双眸は、彼女が特務課にて頻繁に見受けられる坂口の義務的なそれと同一であった。辻村本人ではない、彼女が有する肩書をあたかも首から提げられたネームプレートを見るかのようにグレイは正対している。如何程の無理難題がその冷淡な唇から紡がれるのか。辻村は無意識に息を呑んだ。
「そこでだ、辻村。俺が茂木聡太の捜索に加わろう。その対価として特務課の情報を頂く。…なに、すげない尋人に関する情報さ。お前ら特務課が危惧するようなモンじゃねェ。」
提案ではなく問答無用の指図であった。グレイの求める尋人とやらが果たして特務課の情報網に存在しうるのか。それすらも怪しいが、この期に及んで自ずから匙を投げるわけにはいかなかった。だがしかし、一連の成り行きを取り巻く穏やかならぬ陰影を認めることなく辻村は首肯することで答えた。グレイは胡散臭い笑みを深めると、革手袋を被っていない方の手を差し伸ばした。
「んじゃ、俺は先に済ませたい用があるから…そうだな、ベイクウォーターあたりで待っといてくれ。」