文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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Cellar door

 

 

綾辻行人は珈琲を一口含むと、気だるげに欠伸をしてみせた。

 

「綾辻先生!話を聞いてますか?」 

 

色素の薄い双眸が憤慨を露わに綾辻を貫く。 

此処、綾辻探偵事務所は如何に複雑な難事件であろうといとも容易く解決する並外れた頭脳を有する綾辻が営む決して一般客の訪わなぬ個人事務所である。また、探偵事務所という表札に相反して異能特務課が秘匿する程の良い危険異能力者収容所であるにも拘わらず、厚顔で変わり者の探偵が唯一羽を伸ばせる居場所でもあった。

 

異能力『Another』は希少性の高い絶対的真実に基づいて発動する異能だ。咀嚼するとある特定の条件下で推理すると、対象は如何なる物理的障壁を超えて非業の死を遂げるいう道理を超越した能力である。

使い用次第では最悪とも最上とも看做せる異能を有する綾辻と特務課との延々と続く関係の発端は遡及すること五年前。然る島で島民ぐるみの陰湿な事件を推理した結果、犯罪に加担していた十七人が不慮の最後を迎えるという凄惨な事態に陥った。当初その島に滞在していたある特務課捜査員との秘密交渉により、殺人を犯した綾辻は特一級危険異能者として特務課の監視下に置かれる限りは処罰を免れるという待遇を受けることになったのだ。

斯くして、監視対象とはいえ特務課の一員に加わった彼は長年の好敵手とも決着を付け、爾来政府から与えられる眇眇たる職務に退屈を過ごしていた。

 

「全くもって倦怠、斯様な面輪をしておるの、綾辻君。」 

 

頭上から耳朶に触れた嗄れ声には反応を示さず、彼は再び湧き上がる欠伸を噛み殺した。己の言葉通りの冗漫ぶりに呵々と朗らかに笑う老人に綾辻はさも煩わしいとばかりに煙管を握り込んだ。

 

「いい加減黙れ、狒々爺。」

「やれやれ、輓近の若者は目上に対する態度がなっとらんのお。」 

 

芝居めいて態とらしく肩を竦める老人をそれ以上視界に入れぬよう、綾辻は机に置かれたキャスケットを深く被った。 

 

京極夏彦、それが綾辻が狒々爺と誹謗した老人の名である。

かのシャーロック・ホームズとジェームズ・モリアーティのように、綾辻と京極は五年以上に渡って世紀の宿敵として対立してきた。二人の日本列島全土に及ぶ長年の確執が生み出した血生臭い物語は割愛するが、帰結として京極は人ならざる者として現世に留まることとなった。皮肉にも彼を最も忌み嫌い、滝壺へと追い詰めた綾辻の傍で。半透明な全身を宙に浮遊させる京極の有様は本人曰く憑き物だの妖怪だそうだが、結局のところ成仏できない幽霊に近しい存在だろうと綾辻は常日頃袖にしている。

 

鬱陶しい背後霊の存在を意識から掃出すように、綾辻は特注の一人掛け本革ソファーに凭れ掛り埒の明かぬことばかりに思いを馳せていた。

珈琲を一杯淹れ、窓から差し込む麗らかな陽光に微睡みながら特務課が寄越した事件資料に目を通していた静穏な午前、住宅街の一角を漂う閑静を薙ぎ払うわんばかりの勢いで彼女が現れた。 

 

辻村深月は特務課でも抜きん出て優秀な捜査官である。

配属二年の新米捜査官にも関わらず、特一級異能力者たる綾辻の監視任務を単独で請け負う実力を備えていた。だが上位の成績を収め試験を通ったとはいえ、相手は横濱においては江戸川に次ぐ穎才と称される男である。常日頃より召使の如くあしらわれ、彼の口賢さにまんまと流されては無断任地離反して上司の坂口に叱咤されるのであった。無論、二人に当てられた始末書を書くのは辻村一人である。

 

「司法省から!事件解決の!催促が来てるんです!」

「何度も言わなくとも聞こえているよ、辻村君。」

「でしたら少しくらい返事をしてください!」 

 

一振りするだけで台風を起こしてしまいそうな藍緑色のポニーテールを軽やかに揺らしす辻村の面相には不満ですとありありと文句が書かれている。己の態度を咎め立てるこの茶飯事ももはや時間を繰り返しているかと思われるほどに慣れ親しんだものであった。京極の不快なお節介に次いで辻村の覇気のない叱責、工事現場の騒音にも劣らぬ騒々しさに限界を迎えた綾辻は遂に居住まいを正して辻村に続きを促した。 

 

事の発端はつい昨日のこと。監視対象の綾辻に関する定期報告の為に司法省への召喚を受けた辻村は坂口に伴われ身を運んだ。異能に関する事物のあまねくに対して超法規的措置を実行できる権限を有する特務課を煙たい存在と見做す司法機関局長、山崎太郎のいつもの如く何事につけた粗探しに抗弁し、意地悪く滔々と紡がれる嫌味に悶々と耐え忍んでいる折のことだった。

蒼卒に山崎の携帯が姦しく振動を始めた。耳朶に触れれば忽ちトランス状態に陥ってしまいそうな退廃的な曲調、鋭角的で緊張度合いの高い第一楽章、バルトークのヴァイオリンソナタだ。まさに因業爺と裏で揶揄されるに相応しい灰汁の強い着信音に白ける周囲を他所に局長は大いに狼狽えた携帯を取り出して…手を滑らせて床に落とした。

偶々己の足元に転がってきた一台のスマートフォン、目に留まった奇妙な液晶画面に辻村は内心首を傾げつつそれを拾った。しかし良かれ悪しかれ生真面目な捜査官はそれ以上他人のプライバシーを覗き見せず携帯を返したのだが。

 

——メールを見たのかっ! 

 

ところが携帯を受け取り画面を改めた途端、山崎は額に汗を滲ませ血相を変えて辻村と坂口に詰め寄ったのだ。あまりの剣幕に即座にかぶりを振る辻村だったが、男は彼女の盗視を確信して喚き声をあげる始末。騒ぎはフロント一体に瞬く間に拡まり、愈々罵詈雑言の矛先を特務課へと向けた山崎に見るに見かねた坂口が種田の名を出し間に入ったことで場は収められた。一方でいつしか己が周囲の注目を集めたことに気付いた山崎は一切を忘れるように釘を刺して横暴な足取りで去った。

元来癇癪を起こしては秘書を解雇させる俗に謂うモンスター上司として悪名高い為に辻村はさして気にも留めなかったが坂口は異なった。山崎の唯ならぬ狼狽ぶりに疑惑を抱き特務課に帰還後彼が真っ先に種田に報告した矢先に案の定それは起こった。

今朝方、山崎から直接辻村へと連絡が寄越された。先週より綾辻が拘っているとある事件が近日中に片付かなければ射殺命令を検討すると解決を催促したのだ。明らかな脅しであった。

 

「…それで、坂口先輩は昨日の件が絡んでるだろうと仰っていて綾辻先生には同時進行で山崎司法機関局長の不可解なメールの解読を進めてほしいと」 

 

辻村が一瞥しただけの画面を正確に記憶していたのが幸いした。

と、概要を説明した辻村は綾辻を見遣る。カツン、と相槌を打つように煙管を火皿に置いた殺人探偵は卓上で両手を組んだ。 

 

「で?」

「え?」

「寝ぼけているのか辻村君。そのメールの内容とやらを見せたまえ。」

「ああっ、はい!」 

 

聞く耳を持ち始めたらしい綾辻の言葉に辻村は目に見えて喜びパソコンの画面を向けた。

 

『From:山崎 太郎 

To:Oliver Smith

 

××議員から都筑区の工場直売所が転出したと伺った。近々福祉事業の件が一段落ついたら寄ろうと思ってる。私はチーズには目がなくてね、折角なので世話になってる同僚を複数人誘って小さなパーティを予定しているので是非ともメインディッシュのパスタと一緒に多めに用意してくれると有難い。ホットドッグは今回は不要だ。

 

 

From:Oliver Smith

To:山崎 太郎

 

勿論だ。

今回は新鮮なチーズが手に入ってな、パーティなら大口注文にして値下げ提供できるよ。司法局長サマの好みにドンピシャに合わせた品物だ、きっと気に入ってもらえるだろう。こちらの用意はできているので今夜にでも来てくれ。

それと、先日台所に鼠が入ったがアンタの紹介してくれた駆除業者を呼んだので当分は心配いらない。』  

 

全文を読み終えた綾辻は一つ屡叩いた。無音の息を吐き出したのを合図に、凡人の数倍も高機能の前頭葉を急速に回転し始める。

確かに司法局長の私的な電子メールとはいえ不自然な感覚が否めない。内容を真に受ければピザ屋のオーナーと常連との取り留めのない会話に過ぎないが、何らかの深意が示唆されているように見受けられるのは気の所為ではないだろう。

 

「ふむ、ぴざにちーずほっとどっぐとな…」 

 

片仮名をやけに嫌う京極が、舌っ足らずな言い回しでみ思考に耽っている。どうやら綾辻と疑念を一致させているようだ。

ピザ、チーズ、パスタ、ホットドッグ…これらの単語が隠語であることは間違いないが、綾辻の膨大な記憶の城に引っ掛かるキーワードは無い。大方何らかの筋の悪い団体、或いは組織が独自に用いる特殊用語だろうと当たりをつけると、本日三度目の吐息ともつかぬ欠伸を漏らした。 

 

「よっぽど食べ物の好みを知られたくなかったのか、とでも考えていそうな顔だな。」

「えっ?あっ、いや。一瞬そう思っただけで私も怪しいと感じてました!」 

 

目前で首を捻り彼女なりに脳漿を絞らせていた辻村は図星を突かれて手を忙しなく振りかぶる。捜査官としては優秀だが如何せん純粋すぎるのも考えものである。

 

「少し気になったのですがあの人、芳しくない噂が多いようです。」

「あの不芳な顔付きから幾らでも察せるだろう。」

「いや、まあご尤もなんですけど」 

 

よくよく思い返せば着信音の一つですら彼の悪評を助長させているようだと、辻村は仕切り直して一個のUSBメモリーをパソコンに差し込んだ。

数秒経ち液晶画面に表れたのは特務課が寄せ集めた司法機関に纏わる情報。枠からはみ出さんばかりの夥しい不祥事の数々は署名一つで起訴できる案件ばかりだが、それでも種田が実行を渋る事情は偏に山崎の後ろ盾となる複数人の政界の重鎮にあった。

綾辻は資料をざっと通覧して最も彼の興味を惹く項目を見つける。

 

「…児童買春が目に付くな。」

「はい。私も例の事件との関連を疑い深掘りしてみたのですが手掛かりは全くありませんでした。」

 

例の事件というのは、現在綾辻探偵事務所が最優先に取り組んでいる連続殺人事件のこと。先週、横浜のコンビナートにて幼年の身包みを剥がされた少女の遺体が山下町の港湾付近を犬の散歩に通りがかった通行人に発見された一件である。死後三日が経過しており遺体の腐敗は進行していたが、軍警と特務課の取り計らいで綾辻らも司法解剖に立ち会った。 

 

遺体安置所に寝そべっていた遺体の惨状は目にするや否や口元を覆った辻村が洗面所へと駆け込み、死体の前では常時淡白な無表情を貫く綾辻が思わずして目を伏せるほどの有様だった。事前の身ぐるみを剥がされたという状態では想像も及ばぬ乱暴を強いられた遺体からは、性的搾取のみならず何らかの意図的な暴行を長期に渡って一身に受け続けたことは一目瞭然であった。その極めて巧妙な手口から実行犯は単独にあらず組織的犯罪であろうことも。 

 

「それで、医者の見解はどうだった?」 

 

検死の際に最も綾辻の目に留まったのは鼻中から眉間にかけて腐乱しふやけてしまった皮膚に僅かに残る穿刺痕。被害者らが殺害される直前に何かを抽出、又は注入されたのは容易に推測できた。 

 

「死の直前に筋弛緩剤を打たれ、松果体からアドレノクロムを抽出されたようです。」

「意識があるまま恐怖を煽りホルモンを分泌させたと?妙に聞き覚えがあるな。」

「はい、私も以前耳にしたことがあります。」 

 

アメリカやイギリスの裏社会には悪名高い人身売買カルテルが存在している。多くの国際治安機関が国際協力体制を築き大々的な捜査を行っているものの依然として全貌すら把握できずにいる明確な本拠地のない世界規模の犯罪組織。唯一明らかなのは彼等が人身売買目的に子供達を誘拐するばかりか甚振り、その際に分泌される高濃度のアドレノクロムという分泌物が混ざった血液を売り捌いていることだった。尚アドレノクロムとは酸化したアドレナリンのことで、恐怖を煽った時に濃厚なアドレノクロムが分泌されると謂れている。 

 

「…アドレノクロムは僅か数グラム皮膚に塗るだけで劇的な若返り効果を発揮するそうです。眉唾物ですが海外セレブや富豪婦人が大金を叩いて購入している記録も少しばかりですがあります。権力者の身内や知人が一枚噛んでいて誰も検挙に至ってないそうですが。」 

 

実に胸糞の悪い所業だと誰ともなしに歯軋りが静かな事務所に響いた。斯様な残虐行為を蔓延させる血も涙もない外道を生み出した怠慢な創造主の面を拝んでやりたいところである。殺人だの遺族だのには悉く無頓着を貫く綾辻であるが、それでいて世人の普遍的な日常が不合理な都合で脅かされることに遺憾を抱く人として当然の感性を持ち合わせてもいた。 

察するに今回発見された遺体は組織犯罪の氷山の一角に過ぎず、他にも水面下に押し沈められた数多の未発見の被害者が横浜…延いては世界中で今も正義の救済を魂の底から願っているに相違ない。

 

「水面下か…辻村君」

「はい。」

「倉庫の調査は進んだか?」

「はい、こちらです。」 

 

腐敗臭に微かに入り混じったカビ臭さは妙に綾辻の海馬を刺激した。あれは気密性の高い鉄筋コンクリート造で発生する独特のカビ臭だった。そう、譬えるならば地下倉庫のような地面を穿たなければ永遠に陽の目を浴びることのない地中深く。そこまで思い至った綾辻は辻村に街中に存在する未登録の地下倉庫を調査させていたのだ。 

木製書斎机の木目が埋もれるほどに隙間なく並べられた紙資料の一枚一枚に目を通してから、彼は辻村が淹れ直したばかりの珈琲を一口啜った。悪くはないが旨くもない、指摘するならば豆量に対して些か水分が多い薄味だ。だが一度そんな感想を転び出せば直ちに召使ではないと口喧しく訂正しだすことが目に見えていた綾辻は無言でカップを置いた。

一言、「辻村君。」とやたらと真面目くさった面差しで彼女を呼ぶと、只ならぬ空気を感知して辻村は背筋を伸ばした。

 ごくりと唾を飲み下す音がやけに己の鼓膜を震わせた。 

 

「もし此度の件に司法局長殿が関係しているならば事態は君達が思っている以上に深刻だ。」

「と、言いますと」 

「司法長官は処世術に長けているが全体像も、況してや商売の要路の人物一人すら定かでない規模の犯罪シンジゲートを指先一つで指図できるほどの智能はない。勿論深く踏み入る度胸もな。」 

 

それだけで綾辻の料簡を察知した辻村は青褪めた。

詮ずるところ彼は山崎を唆し大陸規模の悪事に加担させた第三者がおり、その人物の正体が司法局長以上の地位に就く為政者であると憶測しているのだ。蓋しそればかりか法務大臣、国会議員に連なる名だたる政界人が金と血生臭さが充満する泥濘に全身を浸しているだろうと。

 

「この一件が白日の下に晒されれば一体何十人の首が挿げ替わるだろうな。暫くは報道機関も退屈せんだろう。…無論俺もな。」

「呵っ呵!もだんにおける最大の政界醜聞となりそうじゃの。生き血が通わず歴史的瞬間に居合わせるのとは、何とも口惜しいことじゃ。」

「黙れと言ったのが聞こえなかったのか。下手くそな片仮名を使うな。」

「なっ、ななな!」

 

笑窪に悪辣を沈める綾辻と軽口を叩き合う京極に——余談だが憑き物の京極は綾辻以外には視えない——辻村はそのまま宇宙にでも跳躍してしまいそうな勢いで飛び跳ね、乱雑にusbを抜き取り鞄に仕舞ってから踵を巡らした。 

 

「坂口先輩に指示を仰いできます!ですので、絶対に先生は事務所から出ないように!良いですか絶対ですよ!」 

 

言い終えるよりも、彼の返答を聞こうともせずに飛び出していった捜査官を見送って、綾辻は益々笑みを深めた。

 

………。

 

「いやはや、若いのう。」 

 

終ぞ彼の真意に勘付くことのなかった、綾辻の言い回しを引用するならば「未熟でがさつなトラブルメーカー」の性懲りのない拙速具合に京極は心底愉快とばかりに大笑した。

綾辻の述べた懸念は決して虚言ではなかったが、彼の本心は別のところに秘められていた。言わずもがな、事件現場訪問の度に煩わしい手続きを踏みたがる監視役の排除である。意味深長な口調でそれらしく特務課の立場を懸念すれば案の定あっさりと信じ込んだ捜査官の単純な思考回路には感謝のしようがない。 

「さて。」綾辻は慌てん坊の捜査官が置いていった資料に目を落とす。流石は機密性の高い国家機関に二十代にして採用されるだけあり、絞り込まれた地下倉庫、廃墟の位置情報が秩序立って纏められており可読性に優れている。綾辻は各住所を一瞥で頭に叩き込んでから、建物外に潜む辻村とは別班の監視役が事務所の留守に勘付いてから辻村が大慌てで駆け付けるであろう時間内に巡れる最短距離を計算する。

 

山崎の電子書状に仄めかされた単語の一つ一つを紐解き、彼の明敏な頭脳はピザという単語が場所を示していることを文脈から把捉していた。だがそれよりも先ずは現場に赴き手掛かりを見聞したいとコートハンガーに手を伸ばして香色のジャケットを引っ掴み、不図綾辻は動作を止める。否、止まらざるを得なかった。 

 

「……は?」

「これはこれは」 

 

譬え明日死刑が執行されようとも顔色一つ変えないであろう泰然自若とした殺人探偵にしては間の抜けた声だった。彼の背後で浮遊する京極すらも瞠目ののちに、恰も感興の尽きぬ好敵手に憑いたことを自画自賛せんばかりの満悦を顔面に湛える。

何の前触れもなく現れ出でた稀有な出来事の正体は事務所の入口に佇立していた。

 

「突然すまないな、お勧めのピザ屋を教えてほしい。」 

 

開口一番そう言い放った男を綾辻は用心深く観察する。 

光沢がかった濃紺のシルクサテンソリッドネクタイを除いては鈍色で統一された背広。黒褐色の上質な紳士靴は手入れが行き届いており隆とした出で立ちをしている。

顔貌は鼻筋の通った陰影がはっきりしており、遮光眼鏡の下に透ける深掘りの二重はやや吊り目がちで、緩やかに弧を描いた口元からは円熟した雰囲気が漂っている。年は三、四十代といったところか。

扉の前で両の手をポケットに突っ込み綾辻らを見据える風采はダンディズムを地で行くもののそこらの会社員か経営者と大差ない。偶然立ち寄った一般人の可能性が言下に否定されるのはそも民間人が行き着くこと自体が、綾辻の飯事じみた召使呼びが身を結びすっかり洗脳された辻村が自身を専属の召使と誤認するくらいには有り得ないからである。糅てて加えて、男の胸元でジャケットを僅かに膨らませる存在が察せられればこそ、綾辻が目前の男を単なる不審者と見過ごせるわけがなかった。

 

「如何やって入ってきた?」

「正面玄関が空いていた。偶々通りがかったんだが、迷惑だったか?」   

 

綾辻探偵事務所には全方位による厳戒監視体制が敷かれており、鼠一匹の侵入も許さぬ難攻不落の城と化している。内部での監視を担う辻村に限らず、特務課の執行部隊が警備に明け暮れ屠殺銃を手入して身構えているが貸切のアパート。そこに真正面から堂々侵入したと然有らぬ面相で言いのけた男にさしもの綾辻も返答に倦ねて黙り込んだ。戦闘に長けた者であれば一目でその者の武力の有無を察知するだろうが、生憎理知的な殺人能力はあれど戦闘経験など皆無な男には見抜くことができなかった。

言葉を発さぬ綾辻の隣で、京極が感慨深く唸る。 

 

「ううむ。こやつ、儂が見えておるな。」 

 

衝撃的な発言に己の耳を疑いつつも綾辻は目前の侵入者を見遣った。

…確かに、男は京極が空中浮遊する位置、綾辻の丁度左後頭部あたりに目線を注いでいる。となると彼は京極に生前異能を仕掛けられた手駒か。疑念を送った綾辻に京極は鷹揚にかぶりを振って否定した。 

 

「臭う。臭うぞ、禍根を創造せし者の異臭が。さては積悪の首魁であるか。」 

 

芝居めいた抑揚を帯びて放たれた好奇の台詞に綾辻は今一度男の頭頂から爪先までを精察する。先述の第一印象以上に男から得られる特質はないが、不吉の二文字をくっきりと言動に滲ませる男に対する京極の発言を鑑みても彼が伏魔殿の上座に居座る悦楽を知る者であるのはもはや疑いようもなかった。 

一方で待てども待てども考察に没入したまま現実に帰ってくる気配のない綾辻に男は口を開いた。 

 

「で、教えてくれんのか?」 

「…何故俺に聞く?」

「アンタなら知ってるだろうと思ってな、とびっきりのピザ屋を。」 

 

ピザ屋、ピザ。その単語が示唆するところを思索するまでもなかった。疑いようもなく一連の事件を言及した男に綾辻は眉根を顰める。曲者、山崎が送り込んだ刺客、或いは辻村が報告しそびれた特務課の関係者か?…否、幾ら杜撰な辻村とはいえ彼女が斯様な重大報告を失念する筈がない。刺客、にしては殺気が感じられない。よしんばそうだとして何故この折に現れた? 

数々の疑問が流星の速度の如く去来する。何れにせよ、目的も正体も明瞭でない不審者に不用意に関わるのは得策ではないと、綾辻は淡白に断りを入れる。 

 

「お生憎様、今は依頼で忙しい。」

「なら仕方ない、別の誰かに聞くとしよう。邪魔したな。」 

 

思いの外あっさりと身を引いた男に胸騒ぎを覚えたのは無理もない。果然、去り際に咄と溢された台詞に綾辻は身体中の血液が逆流し毛穴という毛穴が逆立つかの錯覚に陥った。

 

「嗚呼、思い出した。辻村だったな。…可愛い助手に会えなくて残念だ、一度くらい話をしてみたかったが。」

「待て。」 

 

辻村、明確な名前を挙げて暗に脅迫された時点で綾辻の心持ちは固く決まっていた。 

 

「…丁度息抜きをしたかった頃合だ。案内してやるとも、ピザ屋(、、、)にな。」

 

 

 

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