文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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仮構事件

 

 

新磯子町は横浜駅から電車で僅か三十分程離れた工場夜景の名所である。澄み渡った青空の下には要塞もかくやの迫力満点の工場が密集しており、快い朝風が港風と入り混じり工場地帯を吹き荒んでいる。プラントのタンクを囲う無機質なパイプは猛々しい唐獅子の血管の如く製油所を這い回っており、何処からともなく口を開け、芯から鳴動して煙を吐き出す煙突の夥しさはSF映画のような一種の幻想を孕んでいた。 

 

「もうグレイって本当に酷いんだから!」

「変ね、グレイって失敗するようなオトコじゃないのに。」 

 

グレイが辻村の看病をしている頃、グレイの異能により目的地とはかけ離れた場所に飛ばされたQは偶然出会ったエリスに事の次第を頬を膨らませながら吐き散らしていた。横浜ベイクウォーターの期間限定のフラワー綿飴の販売日を待ち侘びていたというのに、佳日にあろうことかグレイの異能により味気ない工場地帯に転移させられるとは…。憤懣遣る方無いといった様子のQに、エリスは彼の憤りよりもグレイが異能の使用を誤ったというあり得ようもない訴えを狐疑していた。 

 

「それで、ホテルに戻るの?」

「んーん、なんか特務課のお姉さんに用事があるっぽい。」

「特務課?何だか面白いことになってるのね!」 

 

容姿年齢が近しい異能生命体と話しているうちに、段々と機嫌を取り戻した少年は折角の三連休最後の一日をエリスと共に過ごすことにした。元々文とは約束を取り付けていなかったのである。

両手サイズのポシェットに仕舞っておいたマーキングチョークを取り出すと人型のチョークアウトラインを引く。長らく監禁されていた十三歳の子供は年齢にそぐわぬ稚拙なアンバランスさを抱えていた。 

 

「それじゃあさ、此処で遊ぼうよ。」

「良いわよ、なにして遊ぶ?」

「マフィアごっこ!」

「賛成!じゃあ死体役はアナタからね。」 

 

終戦前後まで全国各地で流行した戦争ごっこと大差ない脅威的に理念哲学のない遊戯に没入する子供二人。通りすがりの施工管理の一団が南無三たるやの面相で距離を置く様がその後須臾の間散見された。 

 

更に時は流れ、マフィアごっこから世間並な鬼ごっこや石蹴り遊びへと嬉戯を変容させたQとエリスは高速道路から至近距離のメタリックなプラント群を散歩していた。 

 

「その注射器って何入ってるの。」

「今は空っぽよ。」

「ふーん。」 

 

非異能力者の目もあるが故に、エリスは等身大の注射器を華奢な両腕で抱え浮遊することなく両足でコンクリートを軽やかに踏み込んでいる。少女らしいしなやかな柔足を動かすたびに赤丹のスカートの裾がひらりと靡いた。「あ!」脈絡もなくQは拳と掌を合わせた。 

 

「僕、最近春蝉お兄ちゃんたちの特訓のおかげで異能のコントロールがうまくなったんだ。」

「あら、すごいじゃない!」 

 

まるで姉弟の受答だ。

同居当初こそグレイ本人に訓練をせがんでいたQだったが、ひょんな流れでグレイに定期報告に現れた春蝉らに精神操作という複雑な異能の制御の術を教わることになったのだ。最初こそ不精を決め込んでいたQだったが、見兼ねたグレイがもう一人の滅多に顔を見せない知人に本格的な訓練を頼んだところ、正に死の淵に臨むような劇的な体験をする羽目になった。可愛い子には旅をさせよの精神で珈琲を片手に二人の修行の光景を眺めていたグレイに、それ以来Qは己が異能を完璧に制御できるまでは挑まぬことを堅く誓ったのである。

 

兎にも角にも、興味津々なエリスの相槌を受けて得意になったQは特訓の成果を発揮しようと辺りを見渡す。己の指示で奇行に及ぶ人々の混沌たるものを披露しようと都合の良い人間を探るが見当たらない。一緒になってエリスもポートマフィアの構成員が転げてはいないかと目線を見回して、俄かに怒声が謦咳に触れた。 

 

「ねぇ、今の聞いた?」

「聞こえたよ。」 

 

二人は顔を見合わせる。激した声の高鳴りの裡に微かに若々しい張りが滲んでいたのだ。正確に音の発生源を聞き分けたエリスに続いてQは工場の迷路を歩き始める。すぐにコンテナバースへと辿り着いた。

そこで再度、今度は慥かな危な気のある肉声が届く。基地の脇に構える二階建ての事務所だ。エリスの浮遊に身を任せて二人は半端に割れた二階の窓ガラスから顔を覗かせた——。 

 

 

「——Ai dat-o în bară!」

「Nu știam că este implicat în asta!」

「Nu-mi pasă!!」 

 

一人が足を勢いよく振り上げると、食べかけのピザが箱と共に宙を舞い己の足先に転がった。 オーブンで融合しきらなかったチーズの欠片がぱらりと散った。食欲が失せる色合いだ。

 

「————!」

「————.」 

 

尚も男達は互いの胸ぐらを掴まんばかりの威勢で激しく言い争っている。寸秒遅れて食い散らかしたフライドチキンの骨が額に当たった。けれども後ろ手に縛られ口元を塞がれている自身に反抗などできるはずもなく、精々が誘拐犯をゴブリンなどと胸中で中傷する歯痒さに歯軋りするしかできずにいた。先程殴られた腹部も今になり熱を帯び始めている。

 

既に少年の盾突く意思は挫かれてしまっていた。何よりも、真綿で首を絞められるような心痛にも剃刀を押し付けたような瘢痕を茫と眺入る空虚も、日常的に耐え忍ぶ癖を習慣化させた聡太には眼前に広がる諍いなど瑣末なことであった。結局、漸次過激化する異国語の口論を繰り広げる男達とは決して相いれぬ別世界に己が存在していると自得することが最上の救済だった。 

 

聡太は見苦しい者達を自失のなかで観察する。金色、憲法色、黒…ユーラシア大陸の多種多様な国々を例挙しても際立った国籍は見受けられない。共通点といえば長身に、健全な程度の骨組みに適正水準の体つきであることか。取り立てて像のような巨体や粗鋼もかくやの逞しい恰幅のものはいなかった。皮脂が酸化して腐ったような悪臭を漂わせるほつれたリネンシャツは彼等の一周回って称賛すべき俗悪さをそっとあらわしている。大方、褌担ぎに過ぎぬだろう。  

 

己と男達が混じり合わぬ空気を共有していることは紛れもない事実だが、この雑然極まる狭小な汚部屋から一刻も早く身を移したくて身動く。「んっ、」と虚しい声が洩れるだけだった。今になってあのショッピングセンターで特務課の捜査官を遠ざけた己が選択を恨めしく思った。 

 

『あれ、それどうしたの?大丈夫?』

『ごめんね、いきなり触っちゃって。』

「………。」 

 

一瞬触れ合った赤の他人の人肌は、今になって振り返れば驚くほどに温かかった。半年前に亡くなった母親が以前眠れぬ夜に作ってくれたホットミルクを飲んだ時の、あの繭の布団に包まれるかのような安心感を何故だか思い出してしまって聡太は己の静穏な誤解を払拭するように首を横に振った。今更懐古したところで、同質の温もりを取り戻すことは叶わず、ましてや現況を挽回することも到底不可能。

 

何にも増してあくまで捜査官は捜査官としての責務を全うすべく子供の駄々に応えたのだ。振り返っても詮無いことに思考を飛ばすのは止そう。聡太は圧迫される手首を捻って思索する。 

如何にか現状を打開する術はないか。ありとあらゆる小物が散乱し、生活感溢れる部屋を見渡して、しかし青年期の発育盛の少年の肉体では何一つ打破できる手掛かりを見出せなかった。最早潔く諦めて運命の流れに任せようと瞼を閉じようとして、 

 

「こんにちはー!」 

 

突如、室内に響いた軽快な声音に聡太のみならずその場にいた者達は一斉に視線を走らせた。そして発見する、二階へと繋がるではなく、修理の施されていない窓ガラスの小さな穴から器用に身体を滑らせて侵入した二人の少年少女を。 

 

「Cine naiba ești tu!」

「えー、なに言ってんのコイツら。」

「知ーらない」

「んんン!」 

 

見るからに己よりも年下の少年少女が、経緯は不明だがこのような物騒な場所に現れたことに聡太は瞠目する。我武者羅に身悶え逃げるように訴えるも、二人は冷蔵庫の傍らで拘束された聡太を指差す始末である。 

 

「やっぱこれ誘拐だよね、ね?」

「間違いないわね。ココ、ポートマフィアのなわばりなんだけど。」

「じゃあアイツら潰しちゃっていっか。…よーく見ててね、僕の異能力…」 

 

殺気立った空間で、それ以上のきな臭さを不均一にしなった口端から、三日月に歪められた目元から醸し出してエリスとQは含み笑う。

 

どこからともなく注射器が顕現され、不気味な人形がぱっくりと口を開いた——。

 

 

Qとエリスが新磯子町で遭遇し、辻村とグレイがホテルの一室で取引を交わしている頃合い、遡ること数時間前のこと。辻村の誘拐。それが過去二十七年の綾辻の人生の中でかつて経験したことのない颶風を巻き起こすことになるとは夢想だにしなかった。  

 

 

ツンツンという寒雀の愛くるしい囀りに聴覚を刺激され、綾辻は童話風の目覚めを迎えた。…というのは物は言いようである。出だしこそ安眠用の自然音のように歌声を披露する鳥達だったが、徐々に鳴管を軋ませ都心部の公害の如き不協和音を奏で始めると綾辻は怠惰に瞼を上げた。見慣れた探偵事務所の天井の代わりに超拡大された文字が飛び込んでくる。 

 

「ふっ…ぅ、」 

 

顔面にのし掛かる重みを無視して大きく伸びをすれば、椅子の軋みとともに背骨から首筋が痛んだ。どさりと擦れる音をたてて本が膝に落ちてきた。

「Alter Ego Determination」味わいがあるのかないのか分からぬ学問的なタイトルに次第に最後の記憶が蘇ってくる。風呂上りに六百頁にも及ぶ本の続きを読破しようとして、時計の針が丑の刻を過ぎたあたりからは覚えていない。眠り落ちたのだ。 

 

卓上の時刻は十時を示している。寝不足が祟ったか、綾辻はサングラスのパッドの痕を指先で抑える。いつもの流れで己の監視役というよりかは召使に近い相方に挨拶代わりに指図する。 

 

「辻村君、珈琲を作ってくれ。」 

 

沈黙。返事は返ってこない。もう一度声掛けるまでもなかった。稀代なことに辻村は出払っているのだった。昨日の坂口から連絡を受けた際の辻村の意気揚々たるや、想起すれば薄ら笑ってしまうほどの噴飯物である。

 

『一週間で帰ってくるんですから、寂しいなんて思わなくて良いですからね!』

 

不在の間に部屋を散らかすなと警告した辻村に、己が失態を演じるなと返したときの彼女の膨れっ面は今でも綾辻を愉快な心持にさせる。 

 

「くかか。気鬱か、綾辻君。」 

 

己の胸懐を知ってか知らずか悦喜を神色に滲ませる京極を綾辻はいつもの如く聞き流した。とはいえ、彼の忠告は日々の生活の隅々で頓馬が目立つ辻村への紛れもない本意だった。果然予想が的中しないことを祈ってやるほかはない。綾辻は再度大きく伸びをした。監視役の目がないだけで、こんなにも穏やかな朝を迎えられるとは…。

 

半開きの窓の外で下手くそな大合唱会を開いている鳥達と、辻村の然も己がハウスキーパーと言わんばかりの囀りが重なって綾辻は躊躇いなく窓を閉めた。途端に空気も音も薄まった媒質の所為で遥か彼方の世界へと退いていってしまった。何故己がそのような心緒を抱いたのか、ほとほと判らなかった。 

 

 

朝の身だしなみを整えて、珈琲と一冊の本をお供に一人掛けのビンテージソファで寛いでいたときのこと。一人の来客が訪れた。 

 

「相変わらず辛気臭い顔だな、坂口君。」

「ええ、まぁ」 

 

慇懃を全身に被ったような佇まいで坂口は歯切れの悪い返事をした。珈琲ポットに残った作りたての珈琲を一杯淹れてやると、意外にも坂口は受け取るばかりか一口口にした。もはや化粧と見間違うほどの隈はカフェインでも摂取しなければやってられないといった感じだ。 

 

事前の連絡もなく足を運んだにしては寡黙な坂口に綾辻は思考を巡らせる。

グレイに宣戦布告を行なって以来、綾辻は特務課にグレイに関する世界中のありとあらゆる犯罪白書を請求した。だが腹立たしいことにも、よりにもよって司法省から地方議会に及ぶ遍く国家機関が世界最悪の犯罪者を屠らんとする綾辻の足枷となったのだ。彼の男の干与する事件は、喩え些々たる事件に思えても追究すれば国家機密を脅かすと。如何にもな理由付であるが、その随所から漂う利権の悪臭に綾辻は鼻を摘まずにはいられなかった。ともあれ、万に一つの確率でも生きる厄災を葬り去れる可能性を綾辻が秘めているのならと坂口も上層部に働きかけたのだが…事もあろうに種田までもが難色を示す始末。 

 

——よく考えて発言しろ。最初から勝敗の決まっている賭けだぞ。 

忌々しいあの不敵な笑みは現状を見抜いてのことだったのだ。だがそれよりも、グレイの挑戦の際に躍起になって勘付くことができなかった己の間抜け具合が恨めしかった。今日も芳しくない生返事を聞かせに態々足を運んだに違いない。綾辻はここ数日の茶飯事と化しつつある催促を口にしようとして、坂口の言葉に思考を停止させることになる。 

 

「辻村君が誘拐されました。」

「…は?」 

 

脈絡なく放たれた一言に思わず訊き返す。そこで初めて、坂口の萎びた顔色が憔悴と同義であることに気付いた。 

 

「辻村君がグレイに誘拐されました。」 

 

単調な物言いの裡に隠しきれぬ剣呑を感じ取ると生まれて初めて綾辻と京極は見合わせた。脳漿を濁流の如く絞り始める。 

 

グレイ、足枷をかけるどころか掣肘を加えたのはまたもやあの男だった。何の為に辻村を。考えずとも判ることだ。あの男は綾辻の布告に応じ、S級犯罪者の才幹を聢と奮って行手を妨げる所存なのだ。何と忌避すべきことか。京極にしろグレイにしろ蛇蝎を地で行く魍魎である。 

辻村の色素の薄い瞳が酷似した女との誓いが胸を掠める。相棒を失った危険異能力者はジャケットを羽織りキャスケットを被った。 

 

「それで、最後の目撃情報は何処だ。」

「いえ、相手が悪すぎます。辻村君の捜索は我々特務課が総動員で取り組んでいるので綾辻先生には」

「何だ、大人しく謹慎か。」 

 

真平御免だ。その分が悪い相手がグレイであれば尚の事、マイナスの常態を招いた己が率先して責を負うべきである。でなければ男の兇悪さをはっきりいって軽く見積もっていた自身を呪う地獄の時間が刻々と過ぎてゆくだけだ。しかし坂口は否定した。 

 

「綾辻先生には別件で種田長官から特命を受けています。」

「特命?」

「はい、探偵社が行き詰るであろうとある怪奇事件を解決してほしいと。生憎辻村君がいないので貴方には一人で向かっていただきます。」 

 

そう云った坂口は綾辻の淹れた珈琲を飲み干すと礼を挟んで立ち上がった。曇りのない眼鏡を通した双眸は幾分力がなかった。薄色の遮光眼鏡に透ける二つの金色を見据えて、坂口はクリップで留められた資料を手渡した。 

 

「事件現場は山手町の邸宅です。」

 

 

「おはようございます。」 

 

悠々自適な朝の挨拶は、想像を絶する騒音にかき消された。 

 

『民族紛争が奮発するなどしてヨーロッパの火薬庫とも呼ばれていたルーマニアですが、アドリア海、エーゲ海、黒海の豊かな大自然に囲まれるバルカン半島のならではの魅力も盛り沢山なんです!』

『珠玉の観光スポットといえば、あの吸血鬼ドラキュラのモデルとなったブラン城やかつてモルドヴァ公国だった時に建築された美しいフレスコ画が特徴的な五つの修道院など…』

「んー、良いねー!今度の社員旅行は東南ヨーロッパにしよう!」 

 

探偵社の扉を開けると同時に鼓膜を突き破った爆音に思わず両耳を塞ぐ。有り得ないほどの騒音に混じって耳馴染みのある呑気な相槌が聞こえてきた。左側の窓に面した客間で太宰さんがソファに寝転びどこからか持ち運んできたらしいテレビを鑑賞していた。テロップにはBS放送の旅企画番組のバルカン半島特集という文字と一緒にヨーロッパの雄大な自然の映像が映し出されている。一人の事務員さんがデスクに突っ伏してピクピクと手足を痙攣させていた。 

 

「ちょちょ、太宰さん!」 

 

危機感を募らせてリモコンを手に取り音声を下げる。平常の音量がどの程度かも分からぬほどに、僕の鼓膜も殺られていた。急速に激減した音波の振幅に暫し聴覚が刺激を知覚しないでいると、ありゃという太宰さんの声が辛うじて耳朶に触れた。 

 

「ありゃ、じゃありませんよ!近隣住民の方にご迷惑がかかってます…!」 

 

そう、僕が三連休の最終日に武装探偵社に赴いた訳は、偏に僕の目の前で平然と寛ぐベテラン探偵社員にあった。

中々に得難い連休、ルームシェアをする鏡花ちゃんと何処に外出しようかと話し合っていた時だった。探偵社の留守を任せられた事務員さんからメールが届いたのだ。何でも太宰さんの公害に近隣住民から苦情の電話がひっきりなしに来ていると。鏡花ちゃんには先に行ってもらって、社で起こっている問題を解決するべく僕は急いだ。…そして今に至るのである。 

 

「ちぇ、音過敏のストレスで心筋梗塞になるって完全自殺読本に書いてたから絶好の機会だと思ったのに。」 

 

要は自殺活動の一環であった。どこまでも傍迷惑な男だと、この場に国木田さんがいたならば鶏のように彼の首を絞めていただろう。 

 

「あれ、今日は国木田さんいらっしゃらないんですね。」 

 

几帳面な国木田さんは平日休日に拘らず出社するのだが、今日は姿が見当たらない。すると太宰さんが「急遽仕事が入ったそうだよ、今晩には帰ってくるよ。」と教えてくれた。因みに社長と乱歩さんはここ数日出張で横浜にはいない。探偵社の営業を臨時で委任された国木田さんの代わりに太宰さんが出勤することになったという。であれば彼が出社しただけでも目覚ましい進歩というべきだろうか。

そこまで考えて、矢っ張りかぶりを振った。苦情騒動になるくらいならば、いっそ寮で待機してもらった方が良かったかもしれない。

 

ちらと視線を動かせば、太宰さんの机の上に国木田さんから任されたのであろう事務書類が山のように積み重なっていた。一枚としてインクの滲みがない。予想はできていた。

 

 

「そうそう敦君。」 

 

まるで天気予報や近所の世間話でもするかのように太宰さんは云った。 

 

「悪いんだけど、仕事に行ってきてくれないかな。」

「仕事ですか。」

「うん、警察の要請があったんだけど乱歩さんはいないって言ったら他の社員でも良いっていうんだよね。」 

 

谷崎兄弟はオタノシミだし、与謝野さんも賢治君も皆休暇でしょ。さも僕の承諾が当たり前のように紡ぐ太宰さんは、自身が頭脳労働に最適だとは思わないのだろうか。或いは判っていて惰眠を貪ると決め込んでいるのか。どちらにせよ僕に拒否する術はなかった。早速向かおうと踵を返すと、再び太宰さんが僕を呼び止めた。 

 

「あ、一人じゃ大変だろうから彼女と行くと善い」

「彼女?」 

 

…………。 

 

「っていうことでお願いします、付いてきて下さい!」

「…アナタねぇ、」 

 

武装探偵社を構えるテナントビルの一階、探偵社員も足繁く通う喫茶うずまきにて。

 

事情を説明して頭を下げた僕にルーシーは煩わしさをざっくばらんに吐き出した。仕方のないことだ。探偵社員でもない彼女が、一時は組合の一員だったとはいえ鬱屈とした強盗事件現場に足を運ぶなど——ましてや彼女は女の子だ——気後れしないはずがない。正直デリカシーの欠片もない申し入れなのは重々承知だけれど、鏡花ちゃんが出先で知り合いを見つけたというので彼女を呼び戻すことができなくなったのだ。勿論、ルーシーに強要すべきことでもないけれど…。 

 

平身低頭に懇願していれば、何か年頃の少年少女の言合とでも捉えられたのかテーブル席の常連客が微笑ましげに笑った。 

 

「別に良いけど、私は何もしないわよ。」

「全然それで良い!多分刑事さんも僕じゃ力不足だってすぐに帰してくれるだろうから。」 

 

斯して僕達は急遽現場に出向くことになった。 

 

 

 

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