異能というのは便利と不便を兼ね備えた一枚の魔法のコインのようなものだ。日本では異能特務課、海外でも様々な組織が日々異能という超常現象の解明に勤しんでいるが、未だその実態は明らめられていない。俺としては一日でも早く科学技術なり、異能研究所なりの革新を経て異能現象の全貌を赤裸々に解明してほしいところだ。というのも、ここ最近異能の暴走が乱発して辟易している日々なのだ。なら使わなければ良いと実情を知らない奴は言うだろう。そんな奴らに俺は問いたい、お前は文明の利器を手放せるのかと。
異能というのは携帯電話のようなものだ、或いは電車だ、車だ…冷蔵庫だ。一度利便性を味わってしまえば二度と失うことができない宝物なのだ。だからこそ、せめて異能現象の研究に携わる機関に金銭なり差入なりで投資したいところなんだが…そういった組織は大抵行政機関なので俺のような犯罪者はお呼びじゃない。
午前に辻村と別れた後、俺は地方の菓子屋に行く予定だった。断じて俺の為ではない、期間限定のクリームサンドを強請ったQの為である。この間、俺が一時期面倒を見てやった知り合いとの訓練で新たな境地に達したらしくその褒美に好きなものを買ってやることにしたのだ。とはいえ、Qの選んだ店は日中行列ができるほどの人気店で宅配サービスがないので取り置きにして貰って俺が取りに行くことになったのだ。態々電車に乗って何本も乗り換えるのが煩わしいし、辻村を待たせるわけにはいかないということで異能を使った。そして繊細な転移の制御を誤ったーーかつて一度となく量子コンピューター並みの統制ができた試しはないし、想像力だけが俺の取り柄だーー俺は何処かの図書館にいた。
純白を主軸にした清潔感のある図書館だ。丁寧に配架され陳列した本棚がなければ多目的ホールと見紛うほどに広大で、見えない最奥は照明と内壁の白と相まって白飛びしたように霞んでいる。窓もなく、白銀の世界に美術品のように櫛比する書架は近未来のアーカイブスのようだ。階段を伝って一階に降りてみる。見たこともない分類の仕方だった。分厚い一冊を手に取ってみる。
『ダイナミクスの視点による特異点』
「…………。」
何やら物理学観点に基づいた特異点発祥に関する論文らしい。異能力者にとっては勉強になるが、最近の図書館というはこういった極秘文書らしきものも開けっ広げに取り扱うのだろうか。そも異能を知らない一般人が手に取るのだろうか。
試しに内容を披見する。著者は俺も以前ヨーロッパで顔を合わせたことのある異能技師だった。他にも目に留まった二冊程を拝借して壁際に設置された椅子に腰掛けると、俺は少しの間読書に浸った。
難解な箇所を解読しようとしても時間の無駄なのでペラペラと通読していればあっという間に最終章へと突入した。
「ッはぁー…」
アデノシンの影響か猛烈に眠気に襲われていた。腕時計を確認すれば一時間が過ぎていた。そろそろ引き上げようか、それとも三十分程度でも昼寝してから行こうか。本の見開き頁をアイマスク代わりに乗せようとした時だった。
「犯罪者が何の用かしら。」
声が奏でられた。魚すら棲まない清廉な小川のせせらぎを連想させる澄んだ声調が。俺は本を閉じて目線のみを動かしてみる。女が佇んでいた。本棚に半身を預けて、暖房の風に呂色のポニーテールから外れた後毛をさわさわと落花のように揺らめかして。
「なんだ、幽霊か。」
「女性に失礼よ。」
誰かに酷似した淡い色合いの瞳が歪められた。本を閉じる。丸テーブルの対向の椅子を足で引いてやれば、彼女は微音も立てずに座った。絹の擦れる音もしないようじゃ本当に幽霊になのではと思えてならない。噂では死んだと聞いていたが…
「矢張り生きてたか、深月。」
「相変わらず馴れ馴れしいわね、グレイ。」
辻村深月、綾辻の監視役たる辻村深月の同姓同名の母親。行方を眩ます前までは特務課きっての異能武闘派と世界的に恐れられていた彼女と俺は何度も命懸けの鬼ごとをした経験がある。…そうだ、今度貴重な生存者として逃亡のノウハウを書籍化しよう。どれほどの収益になるかな。ともあれ、戦闘になると『グロリア』並みに気迫に満ちた女へと変貌する彼女が任務でちょんぼして絶命したなどとは俺自身信じちゃいなかった。おおよそ深月に虐げられた雑魚どもの負け犬の遠吠えだろう。
本をテーブルに置けば、深月はそれを受け取った。この奇妙な図書館の存在意義を理会した。
「他人の墓場を掘り起こすものじゃないわ。」
「知らねェな、いつから俺は天国に来たってんだ。」
「あら、地獄だとは思わないの。」
「言うなよ。」
互いに肉体が老いても彼女には瑠璃菊のような瑞々しさがあった。遥か昔に図らずも諸事情で夏目と俺と食事を共にしたことだってある。実をいうと深月には、それなりに特別な思い入れがあった。
「また会えて嬉しいよ。」
「そうね、私が現役だったら嬉々として影の仔を出したのだけれど。」
つまり嬉しくないということである。どこまでもつれない女だ。
「娘は何処にいるの。」
「さあな。」
ナニかが風を切った。尻目に本棚に深々と刺さったナイフが見えた。あと〇・〇一ミリメートルずれていれば頬に綺麗な赤い筋ができていただろう。
「…辻村と取引を交わした。」
興味深げに頬杖をつき、傾聴の姿勢に入った彼女に俺は暫し思案する。辻村はまだ新米の捜査官だが坂口の部下ということで取引を持ちかけた。だが親玉の深月がいるならば何も辻村に対価を要求する必要はない。
「これでも一応守秘義務は守るタチでな…お前が代わりに払ってくれるってんなら話してやらんでもないな。」
「へぇ、どんな対価だったのかしら。」
「特務課の情報開示だ。人を探している。男と女だ。無愛想な女でな、献上品がなけりゃ会ってくれねェんだ。」
小馬鹿にするように深月は失笑した。不恰好な男だと憐んでいるのかもしれない。
「女の大事なモンが例の男に奪われちまってな、それを奪い返して渡してやれば胸襟を開いてくれるんじゃないかと閃いたんだ。元より男には個人的に用があった。」
「成程ね、事情は判ったわ。貴方を怒らせるなんて、大した肝っ玉ね。」
「俺もこの間までは放置を決め込んでたんだが…今回ばかりは度が過ぎたな。」
「此処を知らない娘に取引を持ち込むのはフェアじゃないわね。」
「ある意味対等だよ。俺もついさっきまでは知らなかった。」
ーー嘘つき。
それが彼女の口癖だった。この世界で便利屋を始めた頃の波瀾曲折が思い起こされて、少しの唾を飲み込んだ喉が哀調を奏した。微笑んだ深月の笑窪にかつてはなかった小皺が浮かんでいるのを見留めれば、感慨深いものが胸を締め付ける。
よもや二度目の年派に遭おうとは、いやはや人生とは摩訶不思議なものである。
それから互いに過ぎた思い出を語り合いひとしきり追慕し、人探しに関する話題に入った頃…。
不意に俺の携帯に電話がかかってきた。発信主はルーシーだった。俺は深月に断りを入れてから応答する。
『もしもし、グレイ?』
「どうした。」
『今山手にいるんだけどね、——』
「…そうか有難う。」
電話を切ると俺は立上がった。長居し過ぎたようだ。
「もう行くの。」
「悪ィな、尋人が見つかった。男はもう善いから、ひと段落ついたら女の方を頼む。」
早急に歩き去ろうとして「茂木聡太」と、背後から呼び止められる。
「綾辻君は何れ
「強盗事件か。」
「情報の対価は横浜の守護よ。損傷なく持ち帰って頂戴。」
それは取引にしては些か荷重じゃなかろうか。そう云うと彼女は肩を竦めた。吐息の清白さが却って蠱惑的だ。
「強奪物を貴方に任せる時点で冒すリスクの高さはこちらの方が遥かに上よ。」
更には承諾しなければ教えないと脅迫されればこちらとしても頷くしかなかった。女の顔はもう、特務課局長補佐の仮面に切り替わっていたのだ。
ふと、見上げれば二階のアルミ製の大きな扉の前に何人もの捜査官らしき者達が立っていた。武器は構えていないが、彼等の眼は爆発寸前の線香花火でも見るかのように警戒を滲ませている。種田が閻魔大王もかくやの形相でこちらに向かってきている。どうやら正規の手続きを踏まずに訪れたことが厄介になっているらしい。是非とも拘わりたくないものだ。彼等の手を煩わせない為にも早急に此処を出よう。最後に横顔を深月に晒した。
「また来る。」
「来ないで結構。…それと、娘は私を知らないの。」
「…承知した。」
尻目に彼女の姿をしっかりと焼き付けてから、俺は特務課の擬似図書館を去ったのだった。
*
「道理でおかしいと思った。」
いつにない焦燥の音頭を速い歩幅に乗せて閉架図書館に現れた綾辻に種田と深月は見返った。
悶着した事の次第に行き場のない情感のさんざめきを抱えて抗議の一つでも言わねばと訪れたはずが、綾辻は地下へ降りるや否や稀覯な間抜け面を見せた。平時は蟻の足音さえも聞こえそうなほどに広大でしめやかな空間が、未曾有のどよめきに包まれている。
「何が異常事態でも?」
「異常事態ね。特務課が不吉の代名詞みたいなものよ。」
「はぐらかさないでくれ、辻村さん。」
種田の話によるとグレイが侵入したという。侵入経路は当然不明だ。特異点が扱う理論書に触れたらしく、他に彼が読んだか掠め取った書物がないか手の空いた捜査官たちが広大な空間の隅々を検分しているらしい。此処には世界中の機密文書が保管されている、単なる機密拠点ではない日本の異能機関のハブともいうべき場所にS級異能犯罪者の侵入を許したのは由々しき事態だ。関係者以外が来ようもない図書館の彼方此方に色違いの規制戦を引き、慌ただしく動き回る捜査官たちの姿が見受けられた。
「それで、どうしたの。突然連絡もなく来るなんて。」
さも己の来訪が異常事態とばかりに淡々と尋ねられると綾辻は一瞬呆れ返った。彼が足を運んだ理由は一つ、
「茂木邸の事件以外に用があると思うか?」
特異な命令だと事務所を出る当初から訝しんでいた。殺人探偵が確率を超越した殺人を犯すことを二十四時間にも及ぶ密着監視体制を敷いて危惧していたというのに、辻村の予期せぬ不在とはいえ一人で事件現場に赴かせた時点で組織が何らかの変調を来していることは察せられた。そして実際に異変は起きた。議員はあろうことか彼が強盗と呼んだ男達とグレイを家に招き闇取引をしていたのだ。しかし聡太は端無くも父親の取引現場を目撃してしまった。その結果、辻村を護衛に指名し聡太を始末して責任を特務課に擦りつけることで核心を強盗事件で曖昧にしてしまおうという魂胆だった。
「取引の際、グレイに心境の変化があったのか奴は男達を撃ち殺し、後始末を議員に任せて何処かへと去ったという。どこまでが真実かは微妙なところだがな。」
聡太の失踪と辻村の誘拐、強盗事件…数珠を繋いでいたのがグレイだったことが判明すると、綾辻の衷心で轟々と黒い炎が燃え盛るのも至極当然である。残りの事情聴取等は警察と坂口に押し付けて件の捜査の命令を下した張本人に弁難に参上したわけだ。その矢先にまたもやグレイ、綾辻の仁者には程遠い仏の顔も三度を迎える前に限界を超えようとしていた。
「茂木隆也は非合法組織との癒着による暴力団排除条例違反と司法省への贈賄罪等で儂等特務課が長きに渡り内偵捜査をしておった。」
曰く私人間の紛争も頻発しており、配偶者の茂木菊江の死去に際しては虚偽診断書等作成罪で秘書の一人に扮した潜入捜査官が不覚にも深い詮索を図り、危うく特務課の極秘捜査が露呈しかけたという。炭の如く黒々とした議員の逮捕は一筋縄ではいかないらしい。
「はて、奇体じゃの。」
「何がだ狒々爺。」
歯の隙間に食べ残しが挟まったような釈然としない口調で京極が疑念を溢した。沸々と苛立ちを募らせつつも反応を示した綾辻に、彼の妖怪との怪奇的な会話の容態を初めて目の当たりにした種田と深月は何とも絶妙な面持ちをした。ようは変人にしか見えないのである。
「いやのう…儂の見解ではの、綾辻君。彼れの如き男にしては疎漏が際立つと思うて。」
京極が故なく妄言を吐くような男ではないことは、彼と生死を賭した決闘を果たした綾辻には重々判っていた。この嫌気が差すほどに明敏な怨霊は真理を掴むのにこの上なく長けていた。彼は江湖を干からびさせ得る同質の存在としてグレイに好奇を示す一方で、彼の男の、いうなれば小説を完結させずに放り出してしまうような粗雑な素質を感知し厭忌してもいた。そのうえで一連のあらましを己が目で観察して、京極は確信していた。さあれどもグレイは生業の折に慇懃無礼を犯すような、ましてや如何なる瑣末な事件であろうともぞんざいな不始末をする男ではないと。綾辻も、グレイの愛銃のワルサーP38、それから予備のベレッタ92、SAAの何れも使用されなかったのは不自然だと感じていた。京極は続ける。
「そこでじゃ、是非君の口からそこな二人に問うてくれ。」
——茂木邸で火種を蒔いたぐれいとやらは後塵を拝する者か。
今後の表記で『辻村』は娘、『深月』は母親となります。