一言一句を違えずに代弁した綾辻に、さしもの二人も滅多にない絶句の顔色を描いた。その反応に綾辻と京極は己が内幕を包むベールに手を掛けたことを理解した。どうやらこの事件、悪徳新興宗教の詐術並みに虚飾に満ち満ちているらしい。胡乱な視線を突き刺す綾辻に、何方かが繁雑そうな息差しを漏らした。
「京極の明察通り、茂木邸で事を起こしたのは本物のグレイじゃないわ。オットーランク、海外では有名なA級異能犯罪者よ。」
「…茂木議員のグレイの容姿に関する供述は完璧に一致していた。」
「無論、奴の異能は『ドッペルゲンガー』。他人の外見から異能までを細胞レベルで鏡に映したように模範することができる…手に負えん能力や。」
A級異能危険異能者は世界に二十人も登録されていないが、オットーランクは後天性の発現により彗星の如く名を轟かせたという。全てを模範できるのならば確かに議員が偽物をグレイと認識するのも無理からぬことだ。だがそこで、綾辻の瞼の裏に一弁の不合理な花弁が視えた。あの魔神もかくやの本意に沿わず偽物が粗悪な狼藉を働くなど可能なのか。疑問のままに尋ねてみると、深月が詮無いとばかりに両肩を上げた。 分かりやすい仕種だった。
「そうね、偽物さん、おいたしすぎたみたい。だからグレイは此処に来た。」
「果ては奴が腰を上げた所為であの無彩三人衆まで動き出した。異国の暗黒街ではオットーランク活動などという狂気の沙汰が拡がりつつあるが、奴の模倣相手が相手なだけに一人として下手を打てんそうや。グレイもそれを承知の上で辻村に接触したんやろう。」
半々の正誤である。確かにランクはグレイを騙り悪行の限りを尽くす…正にドストエフスキーが賞賛するような神をも恐れぬ狂行を片手間にやってのけるが、当初、グレイ本人は注意勧告程度に留めるつもりで寧ろ便利な異能だと感嘆する程であった。ランクがグレイの知人の地雷を踏むような真似さえしなければ、恐らく彼は今でも闇社会で指名手配されるような始末にはならなかっただろう。
「グレイは何の目的で此処に。」
現時点における最大の謎を綾辻はぶつけてみる。深月は「尋人を求めて。」と前置きした。彼女の娘の辻村とランクに関する情報請求を迫ったようだが、直接深月と取引することに方針を変えたと。それを聞いた時の種田の顰めっ面の滑稽なこと…。グレイですら深月の脅威を銘肝している事実は特務課としては誉高いことであったが、如何せん局長補佐兼裏ボスと称される彼女と対面する際の針の先端に立つような心地を種田は上手く形容することができなかった。詰まるところ、過去に深月と異質な間柄であった生きる厄災ですら深月にはある程度の義理を通すのだ。おっかない男女ーー方や老爺ーーが双方横浜に根差しているというのは如何にも覚束ない不安と安堵を種田の裡に共存させていた。
兎に角、グレイはランクの居所の代わりにとある女に関する情報を求め、深月は対価にランクの強奪品を巡る横浜への物理的不干渉を言い渡した。既に先日の大爆発で破壊され尽くした横浜の街並みをこれ以上一人の男に好き勝手に一新させるわけにはいかなかったのだ。
「まったく、アレをグレイに任せるなど閉じ籠りすぎて脳が沸いたんとちゃうか。」
「そう怒らないで頂戴。」
「待て、アレとは何だ。ランクは誰から何を奪ったんだ。」
己を差し置いて勝手に話を進める二人にすかさず綾辻が割って入る。種田と深月は再び視線を交わらせる。一つ頷いた。今後、彼の頭脳が特務課、ひいては横浜の命運を左右するであろう展開を思って詳細を語るべく唇を震わせた——。
*
横浜ベイクウォーター横浜駅近辺の商業施設。曲線を多用したオープンエアクルーズ型の白亜の建物は横浜の清涼な海風を存分に感じられる造りとなっている。豪華客船をイメージした外観は広大な天を仰げる広場、下層階につれて甲板のようにせり出したテラスなど創意工夫に富んでおり、上質な芸術、人々の繋がりを追求するベイクウォーターのコンセプトに忠実に寄り添っている。館内にはグルメやファッション、雑貨等の個性溢れる店舗が数多く出店していて来館者は気の赴くままに水辺の景観を楽みながら散策することができる。
穏やかな天候に恵まれた三連休の最終日、某ショッピングモールを含めて横浜駅周辺はどこもかしこも活気漲っていた——。
「そろそろご飯も食べよう…何にする?」
「ポキボウル」
「牡蠣」
「パッタイ。」
「…………。」
見事に噛み合わぬ希望に鏡花はつい口を噤んだ。脳裏に浮かんだ食べ物を明け透けに言語化したのはエリス、聡太、Qである。ところで鏡花の脳内は鰻丼で埋め尽くされていた。
彼等を一つの家庭で表すならば聡太が長男、次いで鏡花が長女、Qが次男——エリスは不明——になるが、日頃から十八歳の敦と一つ屋根の下で暮らす鏡花は少女と淑女の蕾が花となり綻ぶ年頃になりつつあった。つまるところ、お姉さんも悪くない、である。彼女の気分は鰻丼だったが、この面子においては恐らく精神年齢が最も成熟しているだろうと自負が譲歩の心理作用を働かせた。
「じゃあ、全部食べる?」
否、矢張り鰻丼への未練は捨てきれなかった。鏡花の提案に三人は搾りたての果実の爽やかさで頷いた。 そも、何故彼等がベイクウォーターで徘徊することになったのか。それは僅か一時間前にまで遡る。
敦からの連絡で一人連休最終日を味わうことになった鏡花は、三階の雑貨屋を散策しているうちに偶さか人混みの中に己の目を疑う三人組を発見した。
「何でこうなったんだ…?」
「聡太、次どこ行く?」
「あそこの花屋さん見たい!」
「アナタ聡太じゃないじゃない。まあ良いけど。」
ポートマフィア所属時代の首領の異能生命体エリス、自身よりも厳重に幽閉されていたQ。そしてもう一人、見知らぬ少年が二人と横並びに歩いている。経緯は謎だがどうやら三人で連休を満喫しているらしい。鏡花は逡巡した。エリスはともかく、Qは共にマフィアでの地獄の日々を耐え忍んだ仲であった為に久方ぶりの再会に声掛けるべきか迷ったのだ。だが探偵社の面々の話によれば彼は現在グレイという極悪人の庇護にあるという。
——泉鏡花。
「ッ、」
卒爾に、足元から悪寒が駆け上がって鏡花は両肩を抱きしめた。あの日、まだ己が血腥い裏稼業から足を洗おうと足掻いていた頃に対面したグレイの陰鬱な圧迫感を鏡花は正確に覚えていた。言うなれば男は、成仏を果たせなかった魂魄が阿鼻叫喚地獄たるやの形相で死の影を纏い屯する洞窟の、闇の静寂から喜怒哀楽に欠けた閻魔の風格を装っていた。敦の背中越しに対面したと言うのに、鷹下の雀のように鏡花は硬直した。その後、組合戦で森とも正対した。慥かに、森も死の恐怖に犇と揺さぶられる発汗ものの心地にさせられたものだ。だがそれでもグレイ以上の脅威は感じられなかった。寧ろそれが至極自然であり、あの男は人間が与え得る恐怖という感情の度合いを超越していたともいえる。
それ故に鏡花は、Qが自らグレイの元に身を移したと聞いた時生きた心地がしなかった。彼女にはあの平凡そうな身なりで釣合を取ったつもりでいる戦禍の化身と怖れられる男の、混沌極まる内面のどの要素にQが惹かれたのかが気になった。元気にしているのか、怖い思いをしていないか。まるで上京した我が子を想う母親のようであったが、マフィアでの受難が彼女の無意識かにある種の類似性の法則ともいうべき兄弟的愛着を招いていた。されど実際にはさして歓談の経験もない鏡花はQが己を記憶しているかすら有耶無耶だと尻込みしていた。…エリスと少年もいる手前矢っ張り止そう。身を翻して人混みに紛れようとして、鏡花の横耳に明朗な声がかかった。
「あー!鏡花だー!」
…………。
こうして鏡花は、クリスマスの児童合唱団の如き少年少女の一員に加わり彼此一時間ほど館内を巡っているのである。道すがら鏡花は事のあらましを聞いた。どうやら少年は茂木聡太といい、新磯子町の工場地帯で犯罪組織と思しき男たちに監禁されているところを救出されて、期間限定の綿菓子が食べたいというQの提案で臨時の保護者たる特務課の捜査官に連絡も入れずにベイクウォーターにやってきた次第であった。そして後付けすると、
「はぁ、は…やっと見つけた…!」
「見つかっちゃった。」
肩で激しく息をする辻村に、Qが変哲もなく綿菓子を頬張って云った。
お疲れさま。召使、お世話様。便乗する子供達の到底労りとは思えぬ台詞に、辻村は何故か疲労が増した気さえした。
遡及すること半刻ほど前、グレイの指示通り集合場所に一足先に赴いた辻村は時を同じくして花綿飴のケータリングカーの行列に並ぶ聡太達の姿に目を剥くこととなった。慌てて駆け寄り問い糺すと彼等は鏡花に話したものと同様の説明をして、都合が良いとばかりに辻村を保護者代わりに扱った。辻村は即座に特務課に連絡を入れようとしたものの、携帯をグレイの住まうホテルに置いてきたことを思い出し、そうこうしているうちに走り去っていった子供達と暗黙の鬼ごっこ擬きに弱三十分尽力していた。もう二度と聡太から目を離すわけにはいかなかった。
それにしても辻村は未だグレイの凄まじい聡明さに戦慄を禁じ得ないでいた。
——そうだな、ベイクウォーターあたりで待っといてくれ。
あの時、ソファに身を任せている己に然りげ無く腕を差し伸べた男の一文に一体どれ程の知略が巡らされていたのか…もはや聡明などと簡略的に形容して善いものかすら判断しかねる。そうだな、そのたった一言で彼は綾辻にも勝る宇宙レベルの数式を展開していたのではないかと、想像するだけで気が引けてしまった。
「なあ召使。」
「どうしたの、リトル綾辻。」
Qとエリスと鏡花が一番に目指す食事処を談議する後方で、自身の呼びかけに対して囃し立てるような渾名で返した辻村に聡太は渋っ面をつくったもののグッと堪えた。先に焚附けたのは自分であると自覚自制できる程度には彼は他の子供達よりも幾分か成熟していた。
「何で怒んないの。」
「え?」
唐突な脈絡のない問いに辻村は思わず訊き返した。この議員の息子という高慢ちきな少年の口からは、てっきり帰れとばかりの上目遣いの圧力が仕向けられるとばかり思っていた。「だから、何でずっと怒んないのって聞いてるんだけど」、繰り返す聡太に辻村はまじまじと見詰めてみる。
彼女の真剣な面差しを正面にして、聡太は焦燥したように視線を逸らした。目のやり場に困るといったふうに双眼を狼狽えさせて唇を噛み締める。両手は忙しなく指先を絡めさせていた。頬には誘拐犯に殴られたであろう痕が付けすぎたチークのように赤く残っている。他にも彼が走ってシャツを靡かせた際に隙間から僅かに見えた殴打の痕跡も。
辻村は目線を合わせるべく腰を曲げた。本来ならば護衛任務も中断して聡太を父親の元に送り届けるのが彼女の義務であった。だがそうしなかったのは偏に…
「聡太君、お家嫌いでしょ。」
「ッ」
分かりやすく肩を跳ね上げさせた聡太に辻村は気付かぬふりをした。
「私も昔は家があんまり好きじゃなかったんだ。」
正確には、母親がいる日の家が。揺蕩う帆のように、気分次第で家を留守にして出歩く母親とは関係が善い悪いと分別できる程の思い出もなかった。互いに顔付きの微細な特徴を思い出せる程の印象もないだろう。祝福として制御困難な異能を贈られるくらいには薄情があったのやも。それでもあの頃に戻りたいかと問われれば、快い首肯ができぬ割り切れない心境であった。
辻村は聡太の腕をそっと支える。今度は拒絶されなかった。
「もし辛いことがあるなら、どんな小さなことでも私が力になるからいつでも言ってね。笑ってる方が、ずっと素敵だよ。」
「…………」
裾の裡の隙間なく巻かれた包帯の下を覗くような無神経な真似はしなかった。只握手をするように、聡太の握り締められた拳を押し包んで…。
——聡太、どんな時でも笑顔を欠かさずにね。
季節の鮮やかさがゆるりと死に向かいゆく仲商。台風の生温さが過ぎ去り、新緑の瑞々しさを奪った。愛した星薊ホシアザミも赤に散って遠ざかり、冷気の訪れとともにステンドグラスは薔薇へと変容した。あの日から完全無欠となった透明な殻が己を囲っていた。誰にも干渉させず、自ら突き破ることもない。それが何故…。
清々しい香りを漂わせるみ空色の星薊の如き髪色の女によってヒビの入った殻を、聡太は自身でも信じることができなかった。
「あ、けどちゃんとせめて辻村お姉さんって呼ぶんだよ。」
なんておどけてみせる辻村に聡太は目を丸くして言葉を詰まらせるしかできないでいた。
パンッ!
あまりにも唐突だった。
この険しいまでの喧騒を、乾いた音が劈いた。人声に溢れ返っていた空間が停止する。時も、音も、光も、全てが止まったかのようだった。
どん、と硬い音を立てて膝から崩れ落ちた。誰が?しかし瞬間的に真っ白になった頭に反して、聡太の視覚は理会していた。
「あ、れ」
「キャアアア!」
誰かが叫ぶと、恐怖が伝播して聡太たちを中心に巨大な円形の空白が生まれた。
「お姉さん!」
「待って、二人ともっ」
人形を抱えたQが、小刀を抜いた鏡花と駆けつけようとするのをエリスが止めている。辻村は腕と腹部から止め処なく流れ落ちるソレと連動するように、口から溢れた深紅を拭うと片膝をついて踏ん張る。
「やめろよ、離せっ!」
「聡太君ッ、Q…!」
何処からともなく現れた異邦人の集団が聡太と、エリスの制止を振り切って駆けつけたQの腕を捻りあげているのを捉えると、力を振り絞って拳銃を抜いた。と、横からやってきた誰かに蹴り飛ばされる。
「は、」
刺客を睨め付けんと面を上げて、辻村は凍りついた。
風情のある低音、精悍な顔立ち。
「なんだ、心臓狙ったつもりだったんだけどな。」だが男は普段とは絶妙に異なる言い回しで指先に掛けたデザートイーグルを回した。何故、如何して…有り得ぬ筈の事態が正に今起こっていることに、辻村はとりわけ鈍く痛む腹部を抑えて必死に声を発そうとして、
「お姉さん!」
背後から忍び寄った凶器に視界を暗転させた。