踵が地面を踏み締めた時には、客船型ショッピングモールは喧々轟々たる気配に満ち満ちていた。混乱、怖気、脅威、不安、焦燥…雑多な動揺がひとまとまりの大波になって押し寄せてくる。惑乱の波頭が感覚を叩きつけては消えてゆく。一葉に滴る一雫のように押延べられる緊張の覇気には、ともすれば正気を飲み込まれ、鎮っては飲み込まれる野次馬に感染する人々を押し除けひた進む。決して異能の影響ではないがこの騒動に身も心も巻き込まれずに済んでいるのは偏に俺自身が当事者であるからだろう。台風の目の中心領域は晴天を見上げる芝生のようにいつだって穏やかなのだ。
シーバス待合所から階段を使って三階に上がる。一層密度を増した人混みを掻き分けるにつれて情緒的な暴風雨が迫っているのを肌で感じた。遠巻きに後退ろうとする奴らを退けて歩を止めないでいると、騒ぎの向こうから微かに耳馴染んだ声音が耳朶に触れた。
「…ん…」
「…らが…う……よ」
真っ先に目に飛び込んできたのは放り捨てられた人形のように俯せに転がる辻村だった。
「エリス」
「グレイ!」
「ッ、」
彼女に寄り添うようにして庇っているのは数時間前にQを送り出したはずのエリス、それから久しく見ていなかった鏡花。俺を捉えた瞬間にさも幽霊でも出たかのような傴僂で銃を構えたままたじろぐ男ども。奴等の眼前を素通りして辻村の元で屈む。
患部に触れないよう仰向けにすると重力に従って垂れ下がる前裾、裡に潰れた柘榴色に染まったシャツが覗けた。銃弾が穿ったシャツを短く破れば下に見えたのは止めどなく血を流そうとする疵口。弾丸は左腕を貫通して脇腹に入ったようだ。幸いにも大腸には達しておらず、くしゃりと潰れた弾丸が穴の奥に見留められた。手に湿った感覚を感じて見てみると、後頭部も出血していた。近辺のドラッグストアのショーウィンドーの品々の後ろに隠れたガーゼを手繰り寄せて一先ず止血を試みる。ミイラみたいに巻きつけた綿紗の色味は増す一方だった。状況を鑑みて、被弾の衝撃に加え背後から殴られたのであろう脳震盪による負担を踏まえても一刻も早くここから出ねばならなかった。
自然と眉根が顰められるのを抑えられずに少女二人に辻村を任せて立ち上がればどよめきが耳を煩わした。どよめきは言わずもがな俺の前で銃口を上げては下ろしてを繰り返す優柔不断な屑どもによるものだ。
「Nu se poate!」
「Nu poate fi…」
「De ce a ieșit așa?」
有り得ない、そんなまさか、何故こんなことが。数ヶ月ぶりのその言語を訳せずとも、男達の今にも蒸発しそうなほどの混沌に染められた面相を見れば判った。
「聡太とQが連れ去られたの!アナタそっくりの男がいたわ!」
「そうか。」
Qとエリスと辻村と鏡花、四人が集団行動するに至る経緯は謎だが今の言葉で現況は察せられた。不謹慎極まりない誘拐犯どもにじっくり話を聞きたいところだが辻村が最優先だ。だから…俺は腕を上げると流れるような仕草で引き金を引いた。
「きゃあああ!」
「逃げろ…!」
裂けるような悲鳴が彼方此方から鼓膜を揺さぶる。しかしそれ以上に激しい爆発音が共鳴するかのように連動して程なく、双方の銃声は止んだ。というより、一方的に止まざるを得なくなった。
「ぁっぁああぁ!」
「グレイ!」
「逃すな」
「ほんっと、人使い荒いんだからぁああ!」
銃撃の最中に仲間を盾にして逃げ出した男を鏡花とエリスに追跡してもらって、俺はもう一度辻村の様子を診る。肩に触れてみるが反応はない。下手に起こして傷口を広げるわけにはいかないが…。周囲を見渡すと、ほとんどの見物人が蜘蛛の子を散らすように逃げていっても尚物見高くも離去る気配のない無鉄砲な輩が散見された。既に発砲沙汰を起こしているというのにここで異能を発動して事を大きくするわけにはいかない。仕方なしに辻村を丁重に抱えて、殺風景となったフロアを一歩一歩突き進むことにした。
其処彼処から突き刺さる視線に惑わされることなく歩くこと少し、とりわけ人気の少ない道を通ってスープ専門店から階段を横切るときには見物人の姿はすっかり消え去せていた。所々、物陰から忍び寄る不躾な好奇は俺が目線を寄越す前には無きものとなっている。人見知りの絶滅危惧種を相手にしているか、そうでなければ己がハリウッドスターにでもなったかの心地だ。
「エリスと鏡花は何処まで行ったか」
逃げ足の速い男を追いかけてもらったは良いものの一向に戻ってくる様子がない。天下のポートマフィア首領の異能生命体と仮にも元マフィア所属の暗殺者がたった一人の男を始末しこそねることがあるだろうか。もしや厄介な異能力者だったとか…?だが一瞥した感じでは曲者というよりかは我が身を顧みるタイプの只の臆病者にしか見えなかった。万一、万が一にも別動隊が待ち構えていたとしたら…。
気鬱な展開を想像するだけで、腕の中の重みが丸々肩にのしかかってきた。まるで俺を責め立てるように、餓鬼の頃に握りすぎた鉄棒の臭いを漂わせて。
「嗚呼、深月に任されたばっかだってのに」
矢先に茂木聡太とQの拉致とは、可及的速やかに収拾しないことには合わせる顔がなくなった。そもそも俺が早期に厄の芽を摘んでおけばこんな事態にはならなかったと痛感せずにはいられない。事を急こうとする心胸が時計の針を推し進めるように歩を早める。そうして足早に前進した先で連絡口まで辿り着きかもめ橋手前に塞がっていたのは彼奴だった。
「これはこれは、戦禍の化身に返り血とは箔がつきますね。」
「治療の功績と言ってくれると有難い。」
恰もオーラの副産物を背後に携えて。横浜駅の後方に威風堂々と構える黒龍の如き高層ビルの所有者をこの街で知らぬ者はいないだろう。横浜の地下深くに根をはる凶悪非合法組織、ポートマフィア。
「お困りですか。」
吸血鬼のように不吉な顔面が陰険に歪んだ。
「お困りな案件がまた一つ増えた。」
そう言い返すと、森は嗤った。エリスと鏡花の安否を案ずるなんざ俺には百年早かった。待てども待てども戻って来ない女子二人はこの場において最も屈強な男の側で控えていた。鏡花に限っては北極に放り出されたみたいに震えているが。
「ッガ…ギャァアア!」
「っせェな」
異能生命体と元暗殺者の身の毛もよだつ追跡から逃れた先は虎の穴。棲家を土足で踏み荒らし武器を振り回した代償が己の命だとは露ほども思っていなかったのだろう。丘程度に積み重なる死体の山を傍に、叫喚した男の手を中原が踵で踏み潰した。彼等の本部の目と鼻の先、マフィアの庭で傍若無人に振舞った馬鹿の末路など判りきっていたことだ。
辻村をベンチに置いてから道を開ける黒服の間を通り抜ける。森が興味深げに目尻に皺を寄せた。
「おや、彼女は?」
「特務課の辻村だ。トラブルに巻き込まれてな。」
「私が治療して差し上げましょうか。」
「怖いこと言うな。」
この闇医者なんぞに任せればどんな対価を要求してくるか分かったもんじゃねェ。即刻拒否するとマフィアの頭目は最初から返答が判っていたように肩を竦めた。この性根が捻くれたところがいけ好かねェんだ。
未だに小刻みに振動する鏡花に辻村の面倒を見るようにいうと次の瞬間には残像だけが残っていた。エリスは良いとして、こんなむさ苦しい男に囲まれちゃ十四歳の少女が怯えるのは無理もない。
「さてっと、」
中原が一歩下がると同時に俺は男の横に屈んだ。折られた歯の隙間から隙間風みたいな辿々しい英語が紡がれる。
「し、知らなかったンだ!本当ダ…」
「俺のドッペルゲンガーは何処にいる?」
「ニセモンだって分かってダら真っ先にアンタに引き渡…い゛ァアァ!」
「困るな、ちゃんと質問に答えてくれ。」
たかが二本指を潰したくらいで大袈裟な。俺の知る限り異能大戦の最中に指失くして騒いでた兵士は懲罰房に入れられてたぞ。マフィアに拷問されるくらいならと引き受けてやったってのに。溜息を堪えて煙草に火をつけた。
「最近は軟弱な同業者が増えたな。」
「知らない…じらねェンだ…」
「なら思い出すまで待ってやる。あと十八本分ある。」
男は汗と鼻水と涙の入り混じった顔面を地面に擦り付ける。ぐすっという擬音が聞こえてきた。いくらポートマフィアに囲まれてるとはいえ、あまりにも恥を捨て去った言動に顰めっ面を抑えられずにいると男はカサカサの唇から溢れかけた血液混じりの唾を呑み込ん薬指と人差し指の消えた左手を伸ばしてくる。不意に閃いた俺はその手を掴んで腕を捲った。
三本の黒薔薇の茎がコーディアンノットを描いているタトゥー。コイツらが交わしたルーマニア語。
「…セタニア」
「ッ!」
ピタリと言い当てられた男は大きく肩を揺らした。森が紅蓮の双眸を一層細める。
「成程、ルーマニア発祥の犯罪組織か。確か貴方が数ヶ月前に追い払った連中でしたね。」
「飲食の場を汚す奴は等しく地獄行きだ。」
数ヶ月前、敦と芥川の密輸船でエキサイトマッチを繰り広げた数日後のこと。とある事情で花袋とバールパンで飲んでいた時にコイツらが現れた。厚顔無恥という言葉を知らない暴れっぷりで銃火器どころか異能まで持ち出した連中を沈めたのが俺だった。あの場にも偶然出会したエリスがいたから大方あの出来事の直後に森に告げ口したのだろう。このちくり小悪魔め。当の本人は金髪を靡かせながら退屈そうな欠伸をしていた。