「武器庫の次は租界の均衡崩壊...いやはや、一体いつから我々は庭を共有していたのか。」
「手入れが行き届いてねェんじゃねェの。」
「おや、これは手厳しい。」
人ん家で好き勝手してんじゃねェぞ。
迂遠な言い回しに含有された嫌味は振り返って顔を合わせずとも読み取れた。いやだって仕方ないだろ、最初に俺に絡んできたのアイツらなんだから…。だがそんな文句を首領に正面切って言えるはずもなく、収まりが悪くなって視線を戻すと男が口をぱくぱくと開閉していた。口が寂しいのだろうかと思いいつまでも這いつくばってるソイツの上体を起こす手伝いをしてやる。箱から煙草を一本覗かせてみると男は遠慮がちに引き抜いた。
「お前、名前は。」
「…ア、アタナシー…です」
ぼうっと、ライターが勢いづいた。アタナシー…不死、復活か。
「良い名前じゃないか。悪かったな、指潰しちまって」
「ぇ」
急いているとはいえ随分と卑劣な真似をしてしまった。矢っ張りこういう荒事は俺には性に合わない。森やフィッツジェラルドでもあるまいし…因みに一番残虐なのは言わずもがなクリスティ。彼奴は淑女を装って平気で野蛮な行為を遂行する。一年に一度も会いたくない女だ。
ともあれ、鞭を振るってしまったなら飴で復するほかない。地面に転がる薬指だった塊から外れた金色の輪っかを摘み上げる。多少歪んではいるが、AtanasieとDenisiaという二つの名前が彫られているのは読み取れた。後者の名前の意味は不明だが、成程配偶者がいるのか。まあ、脛に傷を持つ輩だって人間である以上恋はするもんだ。俺は背後の集団に見られないよう密かに左手のフィンガーレスグローブを外す。男のと見かけが類似した金の指輪を薬指から取ってみる。掌に二つを並べれば何十年も前の情景が脳裏に浮かび上がった。
「…奥さんは同い年か?」
何故かフルートを吹き損ねたような音が彼の喉から鳴った。心と体を解す為の会話にすら答えられないとは…
「…お前らがおっかなくてアタナシーがびびってんだろ。少し下がってくれねェか。」
「呆れたことを…」
下がる気配はない。よし、諦めよう。いや、諦めてくれアタナシー、一介の犯罪者如きにポートマフィアに指図できる権限はないんだ。
「デニシアとは同い年か?」
「ぃ、ィいえ…お、俺が六歳年上で」
「子供は?」
「………お願いしマす、どうかゴヨーシャを...」
「そんな難しい質問じゃねェだろ、子供はいんのか。いねェのか。イエスかノーだ。」
「イエス!」
指を立てていくと二本目でアタナシーは首を捥げそうなほど縦に振った。俺の妻は同い年だが子供が二人というところは共通しているようだ。漸くフランクな会話の出発点に立ったと、しかし未だに距離を置いてくれない森達に聞こえぬようにアタナシーの耳元に顔を近づける。紫煙が絡まり合った。蚊の羽音よりも小さく、囁いた。
「実はな俺にも息子と娘がいるんだ。嗚呼、事情があってこの世界にはいないんだが。」
「ヒッ」
だからなんで一々萎縮するんだコイツは。思わず表情筋が力を失ったところで、後方から鏡花が俺を呼んだ。
「ちょっと、危ないかも…」
遠目にますます青褪める辻村を見てしまえばこれ以上此処に留まり無駄話をするわけにはいかなくなった。傍観の姿勢の森は尋問会に加わってくれる様子ではない。もう拘ってる場合じゃないんだ。俺はタマの込められたワルサーをアタナシーの額に押し付けた。
「最後にもう一度聞く。オットー・ランクの居場所は。」
「お、俺たちのアジトが擂鉢街にあル!彼奴は用があるときハいつも自分からやって来たッ…今日はボスが一日中待ってるってぼヤいてたからもしかすると来るかもしれないッ!それ以上は分からない、本当ダ...です!」
途端に尋ねてもない仲間の情報までペラペラと漏らし出す男に、俺は引き金に指をかける。てっきり中原に傷めつけられてもむっつり黙り込んでるタイプかと思ったのに...たかが銃口で平伏する程度の野郎なら最初から直接脅せば良かった。
「なんだ、ちゃんと覚えてるじゃねェか。」
銃声が轟いた。ひしゃげた弾丸と仲良く転げ落ちたのは懇願の暇なく息絶えたアタナシーだった。これは細やかな謝意だ。生きたままこの場に取り残せばきっとこの男は銃槍だなんて生易しい死因じゃなく凄惨な最期を迎えただろうから。
成すべきことが増えたと眉間の辺りが引き絞られるような感覚に苛まれていると森が小馬鹿にしたようにせせら笑った。
「大層ご立腹のようだ。」
「当然だろう、お前は自分の偽物が好き勝手悪事を働いて心を痛めないのか。」
「っふ…ええ、胸が押し潰されるかもしれませんねぇ。」
人身売買に武器取引と悪行三昧の組織の長に聞いた俺が間違っていた。もう良いと銃を懐に戻すと俺は二人の元へと向かう。一刻も早く辻村を医者に診せなければならない。隣町に以前救出したばかりのQを連れて行った闇医者がいる。あの老人に頼もう。
俺は辻村を抱え直し鏡花の手を握ってから異能を発動した。
*
グレイの姿が完全に絶たれると短時間のうちに衰運に見舞われたショッピングモールには濃密な闇が漂っていた。
辺りには人影はおろか猫の子一匹もいない。がらんどうのかごめ橋の入口を埋めるのは積み重なった屍体のみ。沈鬱な空気を受け止めて、中原は目線を流す。天頂に到達した太陽が地上に笑いかけ、新田間川が金粉を撒き散らしたかのように煌めいている。嘘めいたさざめきが現実であることは向こう両隣に掛けられた大通りと高速道路を疾走する車両の排気音と、己の異能に勧められた銃弾が届くか届かぬかの遠方で嫋々とする微風の如く密話する口さがない者達が証明していた。此程の騒擾を招いておきながらあっさりと昼寝の時間だとでも言いたげに唯ならぬ格好で行方を眩ました男に苦情を言い立てたいところであった。
絞る直前の雑巾のような亜熱帯にも勝るとも劣らぬドロリとした陰気の瀰漫を犇と感じ取った黒服たちは凍りついてしまったかのように微動だにしていない。彼等マフィアの裏面工作で意図的に到着が遅延しているパトカーの音が今や恋しかった。
無体流の空気から抜け出そうと敢然と発言を試みようとした中原よりも一足早く、エリスが何気なしに呟いた。
「リンタロウ、アタシポキボウル食べたかった。」
そうだ、この東京湾を反映させたような碧眼と、黄金色に靡く小麦畑のような髪色の少女は決して澱み沈んだ場に躊躇うような嬢ではない。寧ろ血腥い戦場を駆け抜け一度は対峙した怪物を前に然有らぬ顔つきでアイスクリームをおねだりするような遠慮無用の無敵幼女である。須臾の間グレイが始末した男を悪意も情も欠如した眼で見詰めていた森だったが、果たせるかなエリスの図々しい願いに微笑を浮かべた。
「良いねぇ、買って帰ろう!」
中原が目配せを送ると、首領の希望が叶うように一人の部下が店内へと駆けて行った。尤も、人払いの済まされたショッピングモールの飲食店に従業員が留まっているかは微妙なところである。朗らかな子供の声を皮切りに憂鬱が夥しい無惨な生臭さを残して雲散すると、幾分か足取りが軽くなった一同は森に従ってベイクォーターを後にした。
………。
複数人の部下に片付けを命じてリムジンに乗り移ると、近距離に聳え立つポートマフィア本部の高層ビルに向けた車は発進した。
車窓外の景色は今日に限っては寂寞が充満している。それもこれも街全体が寝入ってしまったかの侘しさの一助に自身らが含まれていると承知していればこそ、息を潜めて空を飛ぶ鳥達も孤独に嘆く街路樹もすっかり生気が抜けてしまった街ゆく人々も、遍く生命の活動の停滞が常態化しているよう。
「中也君。」
快調に鼻歌を奏でるエリスを横目に森が静かに云う。それだけで首領の意図を理解した中原は首肯すると仕切りの向こうから書類を受け取った。
「オットー・ランク、異能力『ドッペルゲンガー』対象の容姿と異能の完全複製、性能の劣化はなく模倣相手の能力を最大限に利用可能な能力です。」
「ふむ、中々に厄介だね。彼の異能は転移だったかな。」
「特務課長官は依然否認を保っていますが...各国の異能機関の観察によると、はい。」
無言で続きを促されると中原は書類に目線を戻した。
「オーストリアのゼーフェルトで誕生した奴は高校卒業まで地元の学校に通いインスブルック医科大学を卒業したのち臨床経験を経て地元で診療所を開きました。際立った不祥事は報告されてませんが医者としては三流で評判はまずまず。過剰処方や誤診も多々ありヤブ医者と罵られる光景も珍しくなかったとか。」
かつて軍医予備員として充足された新米医師が研修医気分から抜け出せず横暴な処置を繰り返した過去が森の脳裏に回顧された。治療しても治療しても増すばかりの負傷兵の手当てに忙殺されていた森が事態を認知したのは医療過誤が百人を超えてから。一人の軍医委託生による上申に衛生兵の三割を動員し徹底調査したところなんと軍医予備員十名あまりが懈怠、敵対勢力との密通行為を働いていた。結果、軍が抗命罪として死刑に処したのは衛生兵を含め四十名にものぼった。件の不祥事と今回の騒動とでは関連性はないがヤブ医者という単語を耳にするたびに森の胸を過ぎるのは決まってかつての異能大戦であった。
「全く、薮医者は最早悪夢だというのに」
「首領?」
「続けたまえ」
「ところが一年前、経営不振の町医者は自身の異能を自覚して人生を一変させた…奴はまるで人が変わったように大言壮語を吹き散らし犯罪に加担、終いにはグレイを偽り唯我独尊に振舞っているそうです。いずれにせよこちら側に踏み入れてからの日は浅く多岐に及ぶ暗黙の掟に無知だと思われます。あの男を利用しようとするくらいですから。」
「その人とんでもないバカね。それか余程のドジなのかも、オットっとーてね!」
「………」
——なんつーか、小雪のかかつてちぢこまるような寒さだな
よもや程度良く暖房の効いた車内でも花冷えを感じるとは思うまい。
「エリスちゃん…上手い!」
「なにそれ、やっぱ今のなし」
「あーっははっは、ふふっ!」
「えちょっとリンタロウ無理」
極め付けは窓霜を生み出しそうなほど絶望的なギャグセンスを披露した異能生命体の反抗的な態度を設定している張本人が腹を抱えて愉快な仕草をしてみせている様が三人を取り囲む音度差を激化させていた。
…とまれ、戯れも程々に厚革に深く腰掛け直した彼等は今一度現状を顧みていた。
「セタリアはルーマニアの新興組織、数ヶ月前にグレイが排斥した連中の所属先とみて間違い無いでしょう。」
グレイの信奉者と思しき無彩三人衆の隠蔽工作によりマフィアですら当時の暴力沙汰の真相は突き止められずにいるが、概略はグレイの機嫌を損ねた犯罪組織が日本支部諸共壊滅させられたという何とも緻密さに欠ける事件である。生きる厄災による排撃は即ち闇世界からの追放を指していた。ところがその後、如何いう経緯かはセタニアはルーマニア国内に限定した裏稼業が許されているという。けれども実のところ、森は訝しんでいた。数ヶ月前の出来事から今日に至るまでの一連の流れは彼にとってあまりにも単純に出来ていた、恰も完成された軌道に沿うように。
「グレイはランクを見せしめにするつもりでしょうか。」
「…果たしてそれだけだろうか。」
「というと?」
グレイという男を森はよく知っている。自身が戦禍の化身と称した人物の、邪悪しか知らぬような純粋悪の内方を知り尽くすことなど無論到底不可能であるが。それでも森は異能大戦での戦闘で、ポートマフィアも少なからず結びつきをもった異国犯罪シンジケートとグレイを巡る悶着で、近頃ではマフィアのお膝元ヨコハマでの災厄において、グレイの所謂行動特性とやらを朧げに把握するには至っていた。故に解せない。数多の陰謀を手掛けてきた怪物が、たかが気分を害した程度で新時代のマフィアも夢ではないと巷間で囁かれた薬物、銃器売買の新鋭を木っ端微塵に打ち砕くと?それも態々バールパンで。まったくグレイらしくない、まさに彼に扮したランクが犯しそうな軽率な愚行ともいえる。彼の悪名は久遠無窮だというのに、一体全体何を見せしめにするというのか。
セタニアの急激な衰退は当時組織間の多額の取引を進行させていたポートマフィアを含め異国の反社会的勢力の大勢に不満を抱かせる結果となった。セタニア日本支部の代表者は組織間の取引を反故にして帰国し森の不興を買った。それから僅か数ヶ月も経たぬうちに彼等はマフィアが就任の際に後ろ楯となった横浜市会議員の、あろうことか茂木隆也と関東での事業進出に纏わる極秘契約を締結せんと目論んでいるらしい。ポートマフィアを蔑ろにして。
「茂木隆也は今頃留置所かな。」
「既に茂木邸で奇妙な供述をしていて、なんでも偽物のグレイが英国人から強奪したある代物を議員に売り付ける腹づもりだったとか。」
「ある代物、ねぇ。」
魔都ヨコハマの夜を統べる王は確信していた。何か、目に見えぬ細い糸が頑丈に複雑に絡まりあって巨大な巣を作り上げようとしている。蜘蛛は一匹か、それとも毛色の異なる二匹目が潜んでいるのか。獲物は…?
「我々の地で、我々が万事を心得ていないなどあってはならない。そう思わないかね、中也君。」
「…成すべきことを成します。」
「よろしい。頼んだよ。」
「はい。」
セタニアの唯一の誤算は彼等が訪ったマフィア傘下のバーに
「今一度、ポートマフィアの存在意義を知らしめる必要があるだろう。」
——その相手が一等級の怪物であろうとも。
窓の外でしゃぼん玉が弾けた。七変化する透明の色彩の中に多様な渦紋が浮かび上がっている。少年がハンガーを振るたびに、澄み切った青空へと浮上した泡は存在を記憶する間も無く弾け散った。
あのいとも脆い空気の膜のように、誰かの一薙で無意味に終うほど横浜を覆う現実も儚いのかもしれない。それでも、願わくはしゃぼん玉を創造する少年のような無邪気な腕が己が培ってきた三刻構想までもを不如意にしてしまわぬように。そんな細やかな期待もまた、車のブレーキの音によって泡沫と成り果てた。