白銀の書院は依然として姦しい有様だった。飛行機のエンジン音やピアノの旋律のような耳の穴を引っ掻き回すかの如き騒音ではない。誰かが本の頁を捲るたびに陽炎がよもやま話をするような、或いは其処彼処を照射するALSライトが特殊な機械音を出す際の耳障りな感触が幽寂の王国を包み込んでいた。居然とした領域は重なり合う作業音に澄んだ気を揺るがせ、普段は小耳に触れる秒針の振動音を遮断してしまう程度の絶妙な不快感に侵されていた。
「同意しかねる。」
苦言を呈する綾辻の声が図書館の一画に響いた。
「奴が口約束などを守るとは俄には信じられない。何よりそんな危険な物を引き渡すなど…グレイを一般のサラリーマンと取り違えているのではないか?」
「ふふ、これだけは信じてちょうだい。彼を一番知っているのは私よ。宣言を撤回しない、それが魑魅魍魎の王座を独占する秘訣だから。」
深月は語る。有言実行こそがグレイの五大要素だと。男が為すと告げれば必ずある者は死に絶え、ある組織は崩潰し、ある政府は瓦解する。かつて超越者を抹殺したように、それが白昼夢を現実化させるような険難であろうと彼は成し遂げる。最上級の履行率、それこそがグレイをグレイたらしめている事由なのだ。
とはいえ、あの凡庸な身なりと人畜無害な面構えで慫慂されれば知らず識らずに悪行に加担するのも已むなし、以前一度彼の平々凡々な雰囲気に惑わされた深月とて一家言を持たざるを得ないのである。
二人の舌戦が更に縺れてしまう前に種田は咳払いをした。
「何にせよ綾辻君、横浜を鎮定するには君の頭脳が不可欠や。今この地には二人の厄災が
「或いは黙示録の四騎士が出陣を待ち侘びている段階かもしれないがな。」
「娘のことは心配しないで大丈夫よ。」
「心配?心配などせずとも辻村君は事務所の台所ですら問題を引き起こす。長官殿、局長、一介の危険異能力者には荷が重すぎる。」
白花色のざんばら髪が綾辻の視界の端でそよいだ。
「らしくないのう綾辻君。儂に絶命もののきゃにおにんぐを経験させたあのなまはげの如き気概はどこへいった。」
「貴様は黙っていろ京極。」
綾辻とて現実を蝕む実状を理会していないわけではない。寧ろ理会していればこそもう二度として、京極を相手取るような命懸けの謀略戦争は御免被りたかったのである。
肯、確かに綾辻は怪奇を好んでいる。異能特務課の監視、庇護下で解明不可能な謎解きに没頭する日々は実に刺激的で彼の性に適していた。しかし刺激的な生とは相応に安泰な環境に恵まれていればこそである。特一級危険異能力者の身分で今更命など惜しくはない、だが探偵助手と探偵という安寧を死と怨嗟に塗れた人生から手放すこともまた受け入れ難かった。そう、淡淡しい梅鼠の双眼が三日月にしなり、白郡の蕪雑な団子が躍動的に揺れる愛しさを認めてからは…綾辻はらしくなくも相棒の喪失に強く動揺を抱いていたことを自覚した。
慥かに、京極の言う通り柄にもなく彼は辟易してしまっていたのだ。あろうことか自身の胸懐が宿敵の亡霊に見通されたことに嫌悪を催して、綾辻は小さく舌打ちを溢した。そうだ、自分は何も好奇心旺盛に火中に飛び込むわけではない、火が栄え業火になる前に安泰を取り戻すのだ。
「見返りは期待して良いのだろう?」
空威張りする子供のようにキャスケットを深く被ってみせた綾辻に種田と辻村は優しく綻んだ。
「貴方が望むグレイに関する調査書の全てをあげるわ。」
「宜しい、最善を尽くせるよう祈ってくれ。」
そう云って踵を翻した綾辻を種田が呼び止めた。
「一つ、オットー・ランクの異能の欠陥を教えておこう。」
そうして紡がれた言葉を一言一句記憶に焼き付けると綾辻は歩み出す。去り際に晒した横顔はなんとも得々としたしたり顔であった。
「偽物を本物に始末させ、ルーマニアマフィアを駆逐し、危険物には目を瞑る。なんだ、実に簡単な課題じゃないか。」
最後に言い残した弁舌は迚も死地に向かう者の台詞とは捉えられなかった。
大股気味に去っていった綾辻が見えなくなると、一人分の静けさが戻ってきた通路で誰に言うともなく辻村が零した。
「今の嫌味?」
「さあな。」
図書館は相も変わらぬ雑音に充ちている。時折壁際通路を横切る捜査官たちの慌ただしげな後ろ姿を見送っては、平時の静謐な図書館が恋しくなるものだと深月は感慨深くなった。
「しっかし、上手くいくかの。」
光幕天井の真下で種田の頭頂がてらりと光った。
「いくわよ。だって彼、お友達に会いたくて乗り気だもの。それに面目を潰されてるのは…」
「ポートマフィアだけやない、と。」
肯定の代わりに柔らかな睫毛が伏せられた。
つと、身動いだ種田の羽織が微かに旗めく。転瞬の間、深月は己が見たものを信じることができなかった。
種田を押し除け本棚に詰め寄る。
「ねぇ。あれ、何処に保管した?」
「何処って、お主がどれでもええ言うから儂が…本、に…」
血相を変えて問い糺す深月に種田は怪訝を眉間の皺に乗せて彼女の視線を追って…そして顔面を土色に変貌させた。そこは自然科学異能法則観の分類の本が陳列された本棚。特務課所属の研究員でも滅多に利用しない項目の内一段から一冊分の空白が生まれている。
深月と辻村は顔を数秒顔を見合わせそして、一気に駆け出した。
特務課長官と局長補佐が凄まじい形相で敷地を走り抜ける様に居合わせた捜査官達は何事かと立ち止まる。周囲の当惑を他所に二人は別な本棚へと辿り着く。そしてまた、一冊分の空白を発見した。
「奴が本を探す時間は?」
「私が準備に図書館を空けていた時間はたった三十分よ。此処に何百万札が蔵書されてると思うの?」
埃を被っていないスチール版の隙間を深月と種田は見詰め続ける。何十秒も流れ、ただ呆然と立ち尽くした末に最初に動いたのは深月だった。
「前言撤回ね。綾辻君だけに任せるわけにはいかない。」
「どうするつもりや。」
答えを判っていながら種田には尋ねることしかできないでいた。娘の物に良く似た水花模様のスカーフを首から解くと頭に巻いた。黒髪を留めていた髪飾りと一緒くたに纏めて。
「外出する。邪魔しないでね、長官。」
*
通報を受けた警察官が横浜駅東口に参着するまでに二十八分もの時間を要した。パトロールの最中の出動待機命令、道中の限定的で不可解な渋滞、職務に従ったはずの三十分弱は無為と化し現場に到着してから惨状を目の当たりにして応援が到着するまでに更に十分が掛かった。にもかかわらず初動捜査に取り掛かるや否や新たに下された指示は捜査の中止及び現場からの引き上げだった。
「あ゛ーいやになっちまうな、横浜のお巡りさんは。」
——こんな調子じゃ子供に満足に仕事を自慢してやれねェ
後頭部をぽりぽりと掻きながら箕浦は悪態吐いた。ふけを飛ばしながら苛立ちの念を表面化させる横顔に敦は同情を注いだ。
目線を流せば橋の腰壁に煙管の側面を軽く叩きつけている不審な探偵が目に映った。所々首を回すように空中を見回しては何事かを独言しまた火皿に息を吹きかける。その奇怪な挙動を見て敦は思った。一癖も二癖もある秀才に神が與えたもうた職業、それこそが探偵なのだと。それと同時に、探偵という人種は物事の是非を逐求める生まれながらの性故に一目二目で他人の根幹に迫ることができるのだと。そう思うに至ったのは僅か十数分前のこと——。
急遽私用を思い出したと早々に帰ったルーシーに取り残され鄙俗な図書館の児童コーナーの閲覧室で立ち尽くしてから暫く、いつからか行方を眩ませていた綾辻が舞い戻ってきた。
「待たせたな、中島君。彼女はどうした?」
二人を伴い図書館に素早い歩調で訪れた時よりも幾分か温厚な雰囲気を取り戻した綾辻に敦は腰を上げた。
「用事があるみたいで先に帰っちゃいました。僕は太宰さんから事件の解決を任されているので…えっとベイクォーターに行きましょう、」
「何故?」
「えぇーと」
現在の敦の心境を正確に表すとするならばこうだった。ぶっちゃけ、僕も知りたい。
実際のところ、ルーシーが去った離れ去った直後に掛かってきた一本の電話が敦をこの不可思議で口下手な誘導へと追い立てていた。唐突な太宰の話によると、探偵社宛てに箕浦刑事から連絡があり死体の見当たらない発砲騒動の現場に赴いてほしいという旨の依頼があったという。其れ丈ならば魔都横浜では新鮮味のない、乱歩がラムネ瓶片手に見物に行くような月並みの事件という予測で済むだろう。されどのみならず、太宰は彼が承知するはずのない敦達の同伴者綾辻の存在を言い当てるばかりか事件解決への協同を求めたのだ。…この際ちゃらんぽらんな唐変木がその癖奇想天外な天眼通を発揮する賢愚の使い手であるの為に綾辻の存在を見抜いたのは良しとして、何故に所属も目的も異なる一探偵を伴う必要があるのか、敦はさっぱり腑に落ちなかった。
ともあれ、敦の説明を受けて何かしら思い半ばに過ぎるものがあったのか綾辻は瞬時の躊躇いの後に承諾した。そして横浜駅へと急行する道すがら、綾辻から件のグレイの偽物についての説明を聞いた敦は成り行きで己とグレイとの出会いを打ち明けることとなったのだ。
孤児院出身で自身の異能に気付かず道端で野垂れ死ぬ寸前だった敦を救い探偵社に導いてくれたこと、鏡花と自身の懸賞金を巡ってポートマフィアの芥川と死闘に至った際に曙光が差すような助言を与えてくれたこと、並々ならぬ因縁の院長の命を救ってくれた恩人でもあること…数え出せばきりがないほどの難渋な局面で暗礁に乗り上げた敦の手を引き幾度となく進路に導いてくれたこと。
「僕に親がいたなら、きっとお父さんはグレイさんのような人だったんだなって」
云っているうちに敦の心を占めるグレイという男が、彼にとって大動脈に等しき最大の理解者であるという自覚がはっきりと芽生えて敦自身面食らった。直様慌てたように頬を掻き、「えっと、勿論グレイさんが悪い犯罪者なんだって分かってるんですけど……すみません、」と困り眉を描くものだから綾辻は声帯を失ったかのように言葉に詰まってしまった。
悪い犯罪者?そんなかわりことばで表せるほどあの男は生易しくない。特務課の捜査員や坂口に口頭で訊いた数件の案件だけでも百回処刑しても足りぬほどの悪行で両手を穢し、未解決の災難の隅々で道徳的退廃の残滓が漂うている。彼の居場所こそが伏魔殿であり、伏魔殿とは即ちグレイそのものである。呼吸をするように惨劇を生み出す悪意の塊。それが畏怖の込められた数々の敬称を有する男を正確に認知する者達の——綾辻を含めた——共通認識なのだ。
この人情厚い青年の魂が、人の心奥に潜む瑕疵をいとも容易く看破する謀殺者に鷲掴みにされていると悟るには難くなかった。綾辻の瞼の裏に映じるのは京極の異能により憑物を付与された犯罪者達。それから使い魔の飛鳥井。彼等は皆京極に、彼の幾何学的な大いなる計算式に心酔してしまった為に畜生道に堕ちた犠牲者でもあった。
敦は知っているはずだ。グレイが数多の異能力者を狩り、血濡れた鎌を無辜の民に振り翳していることを。数週間前にもポートマフィアの武器庫を爆破し大勢を殺めたことを、知っているはずだ。そして理解するべきだ、その矛先が何時敦に向いてもおかしくないことを。食べる為に魔女に脂肪を蓄えさせられたヘンゼルとグレーテルのように、頃合いを見計らった魔神が青年を地獄の釜に突き堕とすかもしれぬ未来を。故に綾辻は、言葉を濁すことはできなかった。
「中島君。あの男に父性といった慈愛はない。」
「っ!」
婉曲的な言い回しは配慮ではなく人命を見過ごすことにほかならないから。
「奴はこの世で最も狡猾で醜悪な魂を宿した悪魔だ。人の命などそこらに生えた雑草と何ら変わらない。寝起きの気まぐれで百の犠牲を払える邪智奸佞の徒だ。忠告しよう。君がグレイに肯定的な感情を抱いているのであれば、全くのまやかしとして切り捨てろ。でなければ最期に己が奴の取るに足らない駒だと認めて無念に散るのは君自身となる。」
けどっ。異を唱えようとして開いた口は何も発さなかった。
けど、だけど…。心得違いをしているのはいったい何方か。頭で考えずとも敦とて判っていた。国木田や太宰が再三警戒を口にし、人徳者の福沢までもがその名一つで柄を握るほどの罪人。
勤労者の風姿で顔を合わせるたびに両腕を広げてくれる父親のような存在。遮光眼鏡の向こうの金色の双眸が突き付けた事実に亀裂を走らせたのは理想像だった。
「いえ…わかってます、すみません」
それでも生じた亀裂の隙間から灰色の光を手放すまいとする未練を見通した京極は胡散臭い憐情を言の葉に乗せた。
「ふむ、お主の訓戒もちぎれ木だったようじゃの。この童には望めんよ。現身の晩年に夜刀神を憑けた若者に似ておる。」
「貴様の使い魔と一緒にするな。それと夜刀神については後でじっくり聞かせてもらう。」
「え?」
「いや、こちらの話だ。」
これは好機だ。彼等がランクを追跡するその過程で何としてでも敦のグレイへの傾倒を踏みとどまらせなければ。この時点で善良な探偵は一種の使命感を抱いていた。京極により失われた命を尊び、グレイの陰謀に啖呵を切った晩のような倫理に則った使命感を。
綾辻はまた近く行く先を予期していた。必ずやグレイは敦の面前でとびきりの悪夢を実現するだろう。