文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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徒し契り 弍

 

——このようにして敦と綾辻は足並み揃えてベイクォーターへと現れたのだった。 

 

到着したての二人を出迎えたのは数台のパトカーと数人の警官、それから前回の別れから数時間も経たぬうちに酷く窶れた状態の箕浦だった。彼が冷蔵庫の野菜室で干からびたピーマンのような面相をしている訳は最初に述べた通りである。 

 

タイルの色が見分けられぬ程の洪大な血溜まりが遺されたかもめ橋で、綾辻と敦、依頼の撤回の為に一人居残った箕浦だけが佇んでいる。鉄錆の臭いは凄まじく、虎の異能により嗅覚が人間の三十倍以上に鋭敏な敦は催す吐き気を抑えるので精一杯だった。捜査協力の必要がなくなった以上即刻この場から立ち去りたいところであったが、太宰の指示とはいえ快く相伴ってくれた綾辻が興味津々に矯めつ眇めつする様相に言うに言い出せなくなってしまった。 

 

「あの男は綾辻って名だったか?探偵社の新人か?」

「いえ、別の機関所属の探偵だそうです。」

「頭が切れるのは確かなようだな。」 

 

尚も独り言の多い綾辻を半ば白眼視しながら箕浦は敦の肩を叩いた。 

 

「ま、そんな訳だから俺は帰るわ。今日は二度も悪かったな。」

「お疲れ様です。」

「お疲れさん。」 

 

片手を大雑把に振りながら箕浦の背中は遠ざかっていった。 

強い春風が遅れ髪を攫う。温度を失った鉛臭が追い風により少しばかり吹き飛んだのは幸いした。

不意に携帯が鳴る。「はい」と応答しようとした敦を鼓膜が破れるほどの喚き声が遮った。 

 

『敦っ、今何処にいる!』

「ひぇっ?く、国木田さん?...えっと今は」

『いや何処でも良い。兎に角早く帰ってこい!』 

 

速射砲の如く己の要件だけを言い募ると通話終了の合図が虚しく鳴り渡った。愕然と画面を見る。もう一度掛かってくる気配はない。 

——まさか太宰さんが何かやらかした?それとも苦情がまだ止まないとか?今日の書類は…ちゃんと終わらせたよな、 

第六感が不穏を告げている。常々敵に、又は同僚に苦境に立たされ満面朱を注いで声を荒げる国木田だが何故か今回は格別に胸騒ぎがする。

携帯を仕舞って面をあげる。今すぐ探偵社に帰ってこの忍び寄る影を振り払わなければ。

 

「綾辻さん!急なんですけど一緒に」 

——探偵社に付いてきて下さい。 

 

一歩を踏み出しそう言おうとして、何かを踏みつけた感触に敦は足を止める。片足を上げる。大の人一人分の血溜まりの中で、何かが陽光に反射してちらちらと輝いた。 

 

「これは…」 

 

腰を屈め伸ばした手が摘み上げたのは十七号ほどの大きさの金の指環だった。

 

 

遡及すること半刻前、敦と綾辻が閉架図書館を後にした頃合。 

 

通い慣れた雑居ビルの階段を上り四階に上る。袖を捲り腕時計を確認すると、到着予定時刻までまだ三十秒あった。

帰路に立ち向かった微風により仄かに乱れた頭髪を整える。就業者たる者、いつ何時も身嗜みを等閑にすべからず。一糸乱れぬ己の姿態に満足すると、次いで下方を見下ろす。残り十五秒。社員らが触れすぎて上塗が剥がれかけた取手を見る。国木田は思いの丈を零した。 

 

「塗装か、交換すべきか。」 

 

数秒思案した後に彼は手帳に書き込んだ。

「ドアノブ交換予約 三月三十日十三時二十分」

時間がやってきた。手帳を懐に戻し扉を開けようとした国木田の背に空気に染み透るような声が掛けられる。 

 

「国木田じゃないか」

「与謝野さん。」 

 

顎丈の打垂れ髪に添えられた真鍮の蝶がプレゼンスを放っている。華奢な片腕に抱えられた花束が、水無川の如き楚々たる風情を備えた彼女に美妙な彩りを加えていた。国木田の視線に気付いた与謝野は花々を包んだ包装紙の外れかけたセロハンテープを付け直す。「通りがかりに花屋の奥さんがくれたんだよ。先方の発注ミスだってね。」目覚めるような黄色は彼女の髪飾りの蝶が好みそうな繊細で優雅な情調を醸し出していた。 

 

「仕事はどうしたんだい?」

「特務課から連絡があり急遽舞い戻って参りました。」

「ふーん。それで、入らないのかい。」

「いえ、」 

 

ならお先にどうぞ。中紅の双眼が追随を告げると国木田は扉を開いた。 

 

「ただいま帰った。」

「うぇえええ…!」

「.........。」 

 

足元に感じる良くない温もり。壊れかけの機械の首を回すように、恐る恐る国木田は下を向く。豆乳の色合いの粘り気の強い、消化半ばの腐りかけのシチューのような汚物が磨き立ての革靴を染め上げる。だらしのない蓬髪蓬頭が足元で身動いだ。 

 

「ぐ、ぐにぎだぐぅん…ぼかぁもう…だめだ」 

 

小刻みに震えているのは誰か。何とも形容のし難い酸っぱい臭いが国木田の鼻先を擦る。与謝野が「く、国木田…息しな。」と猫背を摩る振動すら今の彼には不快に感じられた。這いつくばった太宰が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。 

 

「一ヶ月ぐさらぜだジチュー…アレ、だめだよぉ」 

 

限界だった。 

 

「うぉぇええェ!」 

 

………。 

 

それから程なく、与謝野の介抱の甲斐あり健全な居心地を取り戻した国木田は太宰と三人揃って応接室のソファに腰掛けていた。 

 

「気持ち悪いったらありゃしない」

「ご迷惑おかけしました…」 

 

血色を失ったままの面差しに、ほんのりと肌色を回復しつつある唇が心底申し訳なさそうに謝罪を紡ぐと与謝野はかぶりを振る。危うく彼女までもが吐き気を催した原因は胃液のみを吐瀉した国木田ではなく、腐りかけのシチューに違法大麻を混ぜ合わせた劇物を食した末に全てを吐き散らした太宰である。当の本人は棒切れのような長脚を机に伸ばして「あ゛ー、与謝野さんの淹れてくれたハーブティで生き返った。これ何でしたっけ?」などと腑抜けた顔つきで寛いでいる。額にアイスクリームのように重なるたん瘤がなんとも嘆かわしい。

気慰み程度に与謝野は答えた。 

 

「カミツレさ。」

「ロマーシカ!モスクワからの便りに相応しい!」

「まさか花屋の奥さんも贈り物の花がハーブティにされるとは思ってないだろうね。ええ?」

「おまけに今日は連休終日!最高のプレゼントだ!お返しは何にしようか、マトリョーシカ?」

「はぁ…」 

 

そも道端に落ちた石を口に放り込むような、なんら赤子と変わらぬ根無し草に良識的な詰責をする方が烏滸である。もはや国木田も拳を振り上げる余力すら残っていなかった。はぐれ猿に法話を説くことがお笑い草なように、太宰と真面に取り合い無駄なエネルギーを消費するのだけは避けねばならない。与謝野に今一度礼を云うと国木田は事務室の己の席へと向かう。スリッパがパカパカと空元気を吹いた。

先程からしきりに時間を確認しては入り口を見遣る不審な挙動に与謝野が首を傾げる。 

 

「なんだい、来客でも来るのかい。」

「来客ではなく敦を。…坂口は貴様に任せたのだぞ、太宰…!」

「いやーだって敦君暇そうだったもん」 

 

暇なのはお前だろ。与謝野と国木田が胸中を揃えた。今にも薄手のコートを羽織り外に飛び出てゆかんばかりの様子に再度与謝野が尋ねる。すると国木田は特務課からの喫緊急の連絡があったことを打ち明けた。 

 

『綾辻先生をお願いします。』

『…すまん、もう一度言ってくれ。』

『先程太宰君にも伝えたのですが…。グレイとポートマフィア首領が接触しました。』

『は?』

『行方不明の辻村君の目撃情報も多数、それに軍警に勾留中の茂木議員の急死まで…今回は種田長官が直々に指揮しておられるのですが、正直僕も何が何だか。』 

 

曰く、茂木隆也が横浜軍警の留置場に勾留した直後に何者かにより殺害されたという。死因は割殺。日本刀のような重量のある刃物で腹部や胸部など随所に深い刺創があることから犯人は茂木を拷問した後に頸動脈を掻き切り殺害したものとみられる。 

 

「しかも殺害時刻にはあの甲分隊の一員が滞在していたそうです。」

「甲分隊、ってまさか猟犬?」

「はい。」 

 

日本の治安機関において右に出る者がいない特殊部隊。全国国内から選抜された悍馬の如き豪傑な軍人六名で構成された異能力者集団。グレイ絡みの事件だという理由で隊員が派遣されたが、なんとその者の守護を掻い潜り暗殺を成し遂げてみせた猛者がいるなどどうして信じられようか。耳を疑った与謝野は国木田がそうしたように三度訊き直した。挙句、同日に森とグレイの接触ともあれば暗殺の背景に不埒な賊徒の蠢動を想像せずにはいられまい。それも福沢と江戸川が不在の最悪の時期に。 

 

特務課捜査官一名の失踪、議員の殺害、グレイと森、軍警と特務課を襲う不調和。国木田と与謝野の会話を横たわりながら聞き入っていた太宰がむくりと身を起こした。いつしか開けた窓から侵入した風により、花瓶に活けられたカミツレが揺蕩する。右に左に揺すられる黄支子が嘲笑っているように太宰には見受けられた。 

 

「バーバ・ヤガーのマトリョーシカが良いかな。」 

 

人知れず囁かれた言葉は誰にも届くことはなかった。

社外を覗く。敦達の代わりに風船を握った少年少女が横断歩道を渡っている姿が確認された。居ても立ってもいられなくなった国木田が扉に手を掛ける。

そんな時、社内の空気が変容した。等身大の影が先んじ、続いて鮮明な人形が実体を持った。

 

一人、返り血を浴びた男。

一人、腹部と腕に包帯を巻き顔面蒼白で意識のない女。

一人、探偵社員泉鏡花。 

二、三度瞬きを繰り返して困ったようにグレイは笑った。 

 

「おっと、今日も調子が悪ィな。」

「………。」

「………。」

「………。」 

 

絶妙な静寂が辺りを包み込む。直後、 

 

「ぎぃやぁあああ!」 

 

絶叫が建物を突き抜け空高く響き渡った。

 

 

 

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