「中区山手町、外国人居留地としての歴史を背負ってきた丘陵地の住宅街。其処は、明治三十二年に至るまでは欧米人専用住宅街だった。
日本人と異国人間の衝突を回避する為の開港場の一貫として設けられ、学校をはじめとした教会、病院等異文化の根差した高台から望める発展した港と市街地の佇まいは過去から紡がれた人々の物語を感じられる景観となっている。同じ異国情緒漂う多文化共生都市でも理解と寛容を気質の髄まで染み入らせた横浜の山手と、雑居地と街全体を差別的に見下ろしてきた岩だらけの香港のピーク・トラムとでは、土地を育む面影も空気も対照的に異なるものである。歴史的背景も舞台の国際色もかけ離れている何方かの優劣を煎じ詰めるわけではないが、生まれ育った土地で培われてきた愛着感は苦を無くしてたった一度旅行で訪っただけの港に移ろうはずもない。
波風に恵まれた港湾で心地良さげに揺蕩う鴎、生命輝く大海が空との境界に霞む瑠璃色、水辺の大桟橋から丘公園の展望台まで街に抱かれしありとあらゆる設備、意識の障壁を超えておのがじしの立派な出で立ちを確かめ合う四季折々。冴えない中村川沿いを自転車で駆け抜けて頬を擽った風も、老若男女共通の昔懐かしい駄菓子屋で食べるロングフルーツの味も…此処で息づき触れ合ってきた文化や暮らしの歴史が聡太にとっての宝物だった。
毎朝目を覚ませば額に触れる恩愛を、あの日々に拝んだ旭日を、快美な当たり前に無邪気を返禮できた己も二度として不可逆な過去に過ぎない。思い出は光陰矢の如しであり、咀嚼すればするほど宝物の原子たる母親の影は苦味を増していった。
コンコン。
若しも母の生前の望み通りに彼が邪険に扱う学友と相和することで、夢の中だけでも再会を果たせるのならば近所の痴呆の老人にでも愛想を振り撒いただろう。
聡太の母親は半年前の葉月に帰らぬ人となった。その時のことを彼はよく記憶している。
梅雨前線が北上し記録的大雨に見舞われた週、最早光線とまでいえる村時雨は蒸し暑さに反抗していた。暴風雨警報の発令に伴い集団下校が決行されると横浜の学生らは揃いも揃ってしとどに降る雨よりも激しくはしゃいだ。物珍しくも聡太もまた、欣喜雀躍する雨合羽の集団の一員だった。
父親の出張の折、一秒でも早く帰宅して慈愛に満ちた眼差しに迎え入れられたい。吸い寄せられるように暗澹とした雨空も帰路につく彼の眼には春を先取りした麗らかな色彩に映っていた。ところが柔らかな日差しも長閑な風も所詮は十五の純情が生み出した夢に過ぎなかった。
コンコン。
ステンドグラスに寝そべりあどけなく微笑む星薊を内開いたのはあれが最期だった。
年少時代、幾度も遊戯に役立てられた収納棚は壊れた古時計の如く只のヴィンテージと成り果て、散り散りに砕けた白の星薊は鮮血に彩られて花粉となり、その花言葉の通り神聖なる猛毒な思い出の先鋭へと仕舞われた。辛うじて潜り抜けられる程の小窓から眺めていた景色は暗闇と破裂音と絶叫によって強烈な傷痕を聡太の胸臆に刻み込んだのだ。
そうして星薊を枯らして王侯の如く咲き誇ったのは薔薇だった。白々しい棘を爬虫類の如き柔軟性で優雅に外見を拵えただけの醜悪な保身者だ。
コンコン、コ…
「もう、五月蝿いなあ。なんなんだよ!」
取手を捻るよりも先に扉がぬるりと開かれた。
部屋の主の許可も得ず無作法に侵入したのは彼此半年も敬遠していた召使いだった。聡太の母親が彼が高校生にもなって、一家の大黒柱に身内らしからぬ懇願をした末に勝ち得た家事代行である。雇立ての身でありながら事始めから機能を詰め込みすぎた家電製品のように働き回り、ある日聡太に迫った雀蜂を敏捷な動作で宙返りののちに箒で叩き落とした際はサイボーグを疑った程であった。
最初こそ派出婦として家に野太く寄生する彼女に自己主張期真っ只中の少年は小間使いなどと辛辣を浴びせていたが、愈々真に精密機械かと疑うほどの強靭な精神力を前にしては——何より夜叉と変じた母の峻厳な叱責を受けては——心安くせずとも頑なに拒み続けるわけにはいかなかった。卒然と茂木邸に紛れ込んできた異物を渋々受け流しているうちに、落ち着くところ違和感も感覚の一部として馴染んできた。その矢先に彼等の精神的な架け橋であった女主人が頓死したのだ。
月のもっとも明らかな季節に齎された秋霖は実りの機会を失ったまま凍りついてしまった。最早塗り替えられたステンドグラスに見向きもせず、一点の雲も留めぬ空を曇天と見做し、花瓶に挿された一輪の薔薇にも粛々と仕事をこなす召使にも十五年間経済的支援を継続した父親の背中にも睥睨を差し向ける聡太に誰もが取り付く島もなかった。痛恨のどん底で未練と好悪の落としどころを見出しかねている聡太に辛抱強く、彼の母が度々作ったアップルスチーマーやホットミルクを再現する健気な召使に至っては一度として視線が合わさることさえなかった。
聡太は知っていた。母親の死後、掃除料理洗濯から家計管理、父子への玄関先での見送りまでを成し遂げる召使の実像を。そこはかとなく母親を意識した華やかなポニーテールの項を穢い目遣いで流し見る父親の市議会議員で掩蔽できぬ弊衣破帽の内面を。一切合切の嘘偽りの素性がとって代わることのできない宝物を汚さんとしている有様が顔馴染みの神父の面前で聖書を燃やすよりも度し難かった。
「関わるなって言ってんだろ、なんで放っといてくれないんだよ!」
それは坦々たる日常を享受していた聡太の細やかな意志に反して自ら壊れだした運命への訴えでもあった。
星薊の刺繍が施されたエプロンを着て召使は佇んでいた。変哲のない黒髪と焦茶の虹彩を瞬かせて。ちっとも母親には似ても似付かぬ、どちらかといえば公務員の方が適している平凡な身なりは余計に彼の神経を逆撫でた。エプロンは大らかな母親が採用記念に刺繍を施してやったものだった。自身の死を微塵も悼まぬ薄情者にも彼女は分け隔てなく懇ろに接していた。
「聡太君、おはよう。」
それでも育ちの良い嗜みを心得ている少年がしどろもどろに素っ気ない挨拶を返すと召使は蝋燭の火を吹き消すように笑った。直様唇を歪め文句を顔面一杯に押し出す聡太に召使は人差し指を押し付けた。…いつにも増して奇抜な態度だ。
よもやこの腹に一物を抱えた女は自身の身分を失念して父親に媚びる為に母親面を被って認識のコンセンサスを図ろうとしているのではあるまいか。そう考えると火葬場の炎よりも烈しい熱が澎湃として内に起こって聡太は彼女に掴み掛かった。
この際だから不謹慎な召使に恨み言の一つや二つでもぶちまけてやらねば母も浮かばれぬどころか、葬式以降胸を掻きむしり続ける己の無力感も報われまい。鬱憤が促すままに喉元まで込み上げる怒りを吐き出そうとして…。
——気付けば聡太は一階の収納家具に押し込まれていた。
六ヶ月前から等身大の空き巣となった彼の隠れ家に。壊された蝶番が左の扉を開けっぴろげにしたまま誰一人直そうともせず放置されているガラクタに。
暗闇が蘇る。荒天の真昼に茂木邸を襲った最悪の悲劇を。耳も目を覆いたくなる現実が生き地獄へと変じたあの日を。
「だ、出し」
空気が張り裂けた。聡太は一瞬、今し方鼓膜を振動させた破裂音が自身の恐怖の高鳴りと勘違いした。召使が胸ぐらを掴んだ腹いせに質の悪い冗談を図った所為で心的外傷が誘発されたのだと。しかし現実は真逆だった。
どさり。
リネン製のエプロンを衣擦れさせて上半身を棚に預けたのは彼が詫びを口にしようとした相手だった。
最近の動画配信サイトで流行りのジャンプスケアの真似事らしく前のめりに出現した女に悲鳴を転び出さなかったのは彼の本能に備わった危機感知能力が咄嗟に発動したからであった。両唇を縫い合わせるように喉元から溢れ出そうになった声を押し殺した聡太に、外の室内の自然光によって薄暗く浮かぶ女の顔が慈悲深い地蔵の綻びと重なった。
「そ…たく、ん」
嗚咽が混じったような息苦しい途切れ声が聡太の喉元までもを詰まらせた。少し前に伸ばした人差し指は今もピンと立てられたまま、されど彼女自身の口元には届くことはない。
「隠れ…んぼ、ね?」
蚊でも聞き取れぬほどの囁きは、確かに聡太の心に伝えられた。彼が只々首を縦に振って忍ぼうと必死になっていると、召使はさぞ満足げに莞爾として微笑んだ。
聡太は知っていた、召使が扮装の達人であることを。如何なる大木や雑草で道を覆おうともその者が歩んできた軌跡を天性の眼をもってありありと見透かすことができた。聡太にとって最大の不幸は誰も彼もが彼を欺こうとしたことだった。
故に聡太は知らなかった。正偽とは物事の是非にあらず、何も全ての人間が偽善を纏っているわけではないことを知らなかったのだ。つい召使の面前で溢した父への愚痴が怒れる拳となって返ってこなかった健全な夕べのこと、母の死の間際に自身を抱きしめた温もりを、爾来すれ違っては一度として微笑を欠かさなかった無償の思いやりを。
…眸が一等暗がりに沈んだ。
聡太はやっと気付いた。召使が騙っていたのは母親ではなく、寧ろ二人は父親を騙る為に結託していたのだと。されども覆水盆に返らず。
母親の手料理を思い起こさせるホットミルクを作る手は彫像の如く微動だにせず、顔相に滲んだ優しさは完全に途絶え、絶えず聡太を気にかけていた正義感の魂は最期の一息とともに吐き出された。連休の一日に家の戸棚に閉じ籠る聡太に与えられた悟りは、唐突な隠れんぼが成り立たなくなったことだけだった。
話し声が迫ってくる。二人分の人声だ。
彼は召使が押し込む際に被せた大きな黒のブランケットを被って家具の内装と擬態した。
「碌でもない女だ。この私を馬鹿にするばかりかこうまでして貶めようとは。」
カチリ、聡太の潜む側の扉が半開きにされた。彼は気配を殺す。布越しにでも新緑の旨味を無理矢理引き出し濃縮したような咽かえる香水が鼻腔を撫でた。
「メイドに一杯食わされてたんだって?」
「お恥ずかしい限りですよ。それもこれも全部あの女が…妻が仕組んだことだったのです。」
憎悪を燻らせて隆也は吐き捨てた。
「仕組んだっつーのは。」
続け様に問うた男に隆也は器用に片眉尻を釣り上げた。今朝の朝食の献立を尋ねてくる同僚議員に対するような怪訝な面持ちだ。男が即座に近頃の多忙を附言すると得心がいったとばかりに首肯した。
「ほら、あの山崎の件ですよ。捜査のメスが入りかけたところで貴方が手を差し伸べて下さったでしょう。グレイ殿。」
「...ああ、あの件か。」
十年以上に渡り選挙の再選を果たして隆也は俗に謂うベテラン議員として横浜のみならず日本全土の政界に幅を利かせていた。新人議員の斡旋や界隈人同士の賄賂、横浜内外の非合法組織との癒着…一度捜査の手が伸びれば地位財産名誉諸々が散り果てるほどの狼藉を働いていた。
遡及すること一年前になって、ある司法省の人間が欲望をむき出しにして手順を踏み間違えたが故に彼を監視していた特務課に足元を掬われてしまったのだ。結果、彼が凡ゆる暗部に伸ばした金の臭いの染みついた触手が盛大に爆ぜ、その火の粉が横浜中の地方公務員から国会議員に至るまで官界に飛び散る羽目となった。
検挙の嵐の凄惨たるやは凄まじく、醜聞のど真ん中で界隈の荒ぶり様を目の当たりにした隆也もあわや捜査の手が及ぶかと彼の妻と子を置き去りにして横浜を一時的に去ったほどであった。それが偶然にも伏魔殿を発ち横浜に舞い降りたばかりの灰色の王の噂を聞きつけたお陰で、彼はその厚顔無恥の広さで仲介人を介して繋がり正義の搦手を回避したのだ。
——あろうことか唯一人の司法局長の失態で彼程までの大惨事が惹起されようとは想像できまい。山崎め、余計なことをしてくれたな…
そこではたと、件の騒動が他でもない彼の隣人によって引き起こされたものであることを思い出した。
鉛玉を胸に留めて息絶えた召使を見下ろしつつ、隣を見遣る。隆也の語る政治スキャンダルの頃合、イギリスにて私利私欲の巧詐を謀っていた男は…自称グレイは点と点が繋がったかの心得顔をして女の服を弄っていた。
隆也自身、地獄の底にまで轟き渡る悪名を仄聞していたがたかが同じ穴の狢として実際に対面するまでは侮っていた。昨年上半期、ありがちな給与生活者の如き出立で市役所に訪ったグレイの、世の魑魅魍魎の牛耳を執るに相応しい立ち居振る舞いに触れてからは高慢な男も井の中の蛙を思い知ることとなったのだが…。それが今は如何だろうか。
掃除に適したパンツの前ポケットから財布を取り出すと、グレイは御札入れから小銭入れまでを漁って隆也に放り投げた。中に残されたのは身分証だけだった。
あまりに底の知れた財布盗りの不品行、第一印象との断崖越しの落差に隆也は言葉を失った。約一年前の魔都の大洗礼では用済みの官僚を失脚させその家族を路頭に迷わせたとされる流言と、下風に立たされたことを自覚した初見とを回顧すればこそ、現時点で殺害した召使を家具の最下層の引き出しに詰め込む吝薔臭い後ろ姿を瞼を擦って再三見直さずにはいられなかった。
右端の奥行きで息を潜める存在に気付かぬまま扉は小隙を残して閉められた。