乙女ゲーに転生したら本編前の主人公と仲良くなった。   作:4kibou

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18/間違いなく気付いている

 

 

 

 

 

「――――ねぇ」

 

 テントに帰る途中、ふと誰かに話しかけられた。

 

 声をかけてきたのは私服姿の男子で、当然見覚えはない。

 

 何事だろう、と振り向きながら肇は首をかしげる。

 

「……さっき、放送で聞いたけど。君が水桶くん?」

「え、あ、はい。そうです……けど……?」

「…………、」

「…………?」

 

 見知らぬ男子はじろじろと肇を観察する。

 堂々と値踏みするような、ともすれば不躾なぐらい無遠慮な凝視。

 

 それに疑問を深める彼だが、あいにくと心当たりなんて微塵もない。

 

 そもそも、相手は見覚えがあるなら忘れそうもない容姿だった。

 

 日差しを受けて輝く栗色の髪と、前髪の隙間から覗く翠緑玉(エメラルド)じみた碧色の瞳。

 身長は百六十五あるかないか。

 小柄だけれど明るさは薄く、どこか落ち着いた暗さを受ける態度。

 

「……あのパネルは君も?」

「? あ、いえ。俺はぜんぜん手伝ってないですよ」

「……だろうね。ちょっと聞いてみただけ」

「そう、ですか……?」

 

 余計分からなくなりながら、脳内でクエスチョンマークを乱立する肇。

 

 突然の邂逅、突然の質問、突然の事態。

 なにもかもが突発的で、どうにも彼には現状が不明すぎた。

 

(――――あれ)

 

 夏の終わり、秋のはじめ。

 まだ熱の残る乾いた風がするりと通り抜ける。

 

 そこでようやく、手にかかるモノを覚えた。

 

 いや、どうでもいい部分ではあるけれど。

 目の前の男子から香る微かな匂い。

 

(……これって……)

 

「君、進学先は?」

「え?」

「……高校。どこにするかは、もう決めてると思うけど」

「…………とりあえず、星辰奏を目指してます、けど……」

「……そうだね。それがいい」

 

 言うだけ言って、少年はくるりと踵を返した。

 

 名前も知らない、出身も分からない、見たところ同年代ぐらいの男子。

 

 肇からすると本気でなんなのかさっぱりだ。

 流されるように色々喋ってしまったが、もしかすると新手の詐欺かなんかだったのでは、とすら思えてきたりする。

 

(……でも、あの匂いって……)

 

 過去、嗅ぎ慣れていた――今になって再び身近になったモノ。

 おそらくは他校の美術部員かなんかだろう、なんて勝手に結論づける。

 

 だとするならどうして彼にわざわざ話しかけてきたりしたのか。

 

(まあ、受賞作とかで、その方面だと名前は見るコトもあるだろうけど……)

 

 にしたって相当なモノでないと見られはしない。

 

 他校の一般生徒なら先ずないであろう機会。

 

 その上彼はもともと帰宅部だ。

 部活動の一環とかなんとかで、大々的に取り上げられるコトもない。

 

(……たまたまどっかで見かけたのかな。それで親戚がいるから来てたとか? まさか俺に声かけるために足を運んだのじゃあるまいし)

 

 うんうん、とひとりで答えを導きながら彼は歩みを再開した。

 

(…………それにしても)

 

 どこか喉に小骨が刺さったみたいな感覚に空を見上げる。

 

 翳のある表情と、落ち着き払った様子。

 栗色の髪に緑色の目。

 おそらく否応なしに女子が押し寄せるであろう美貌。

 

 この目で見た記憶はさっぱりないけれど、その姿はなんとなく引っ掛かった。

 

(……名前ぐらい、聞いておけば良かったかな……)

 

 苦笑しながらテントに向かって駆けていく。

 

 ちょっと不安になるやり取りは、けれども同時に安心する言葉をもらったものでもあった。

 

 ――それがいい。

 

 誰かも分からない他人だけど、高めの志望先に対してそうハッキリ言われたのは初めてだ。

 

 その一言がなんとなく、肇にとっては喜ばしかった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 それぞれの出場競技を終えれば大半の生徒は応援に回る。

 

 肇たち三年生もその例には漏れない。

 ポツポツとある全体競技以外はテントに座って、応援部隊に混じって声出し。

 

 基本的にはずっとそんな調子だ。

 

 最高学年というコトもあってある程度自由に動いてもなにも言われないのだが、流石に自分たちのチームをほったらかしてずぅーっと遊んでいるワケにはいかない。

 

 例えば応援部隊の隊長なのに外部用テントに行ったきりの比良元(だれか)みたいに。

 

「おいあのクソイケメン連れ戻してこい! 旗振る仕事残ってんだよ!」

「誰か双眼鏡持ってる? あと読唇術習得してる?」

「アイツさっき見てきたけど借り物で抱っこしてた女子に叩かれてたぞ」

「ざまあッ! あんな真似するからだボケェ!」

「というか比良元にそんだけできる女子って凄えな。マジじゃん」

「なにがマジになんのよ、なにが」

 

 まあ、とはいえ強制ではない。

 最後の体育祭というコトで皆気合いの入れようは違うが、ちょっと抜け出して他校の友人や家族に挨拶をしにいく生徒もそれなりにいる。

 

 競技の流れに支障さえなければ、在校生として常識の範囲でわりとどうでも。

 

「比良元くん、凄いねそれ」

「水桶……」

「俺はじめて見たかも。紅葉のおてて」

「――いくら女子にモテるからって、幸せとは限らないんだぜ……!」

 

「これはどう考えてもアウトだよ」

「おぉい聞こえてんぞイケメンッ!!」

「死なすっ! 今こそ死なすっ!!」

「応援ほっぽって彼女とイチャついてんじゃねぇよクソがッ!!」

 

 ちなみに彼女ではなく中学が別になってしまった幼馴染みということだが関係ない。

 

 是非もなし。

 慈悲もなし。

 

 なにはともあれ職務を放り出して女に現を抜かしていた野郎(イケメン)有罪(ギルティ)

 愛に飢えた男子連中(ケモノども)に袋叩きにされても文句は言えないのだ。

 

「なぁにが体育祭マジックだ。けっ」

「一生旗振ってろ。死ぬまで振ってろ」

「てかあの娘。地味目だけど……あれだよな、スタイル良さげだったよな……ワンちゃんある?」

「あぁッ、てめえ誰に手ぇ出そうと――」

 

「そこでマジギレするあたり比良元マジじゃん。大マジじゃん」

「だからなにがマジだって!?」

 

「なあなあ水桶! さっきの子なんだけど今からどう――」

「せんぱーい! どこ行くんですかぁ!?」

 

「頑張って、吹奏楽部……」

 

 ……とまあ、なんだかんだありつつもプログラムは時間と共に進んでいく。

 

 午前の部で個人種目も殆ど終わり、昼食を挟めばあとは午後の部だ。

 騎馬戦やら大縄やら百足競走やらと、団体競技を消化していく形になる。

 

 肇は選択の二種目を早々に終えたので、当然の如く全員参加の競技以外はお留守番。

 声を上げたり旗を振ったりメガホンを握ったりと、忙しくはないが暇でもない。

 

 今のところコレといって問題はなく、良い感じ。

 

「やれー! 取れぇー!」

「五騎全部ぶっ殺せぇー!」

「青、後ろガラ空きだよ! 狙って狙って!」

「比良元落ちろォ!!」

「騎馬崩せ、騎馬! そいつに活躍はいらねえ!」

 

「身内がいちばんの敵!!」

 

 騒がしい時間、賑やかな空気、熱を帯びた感覚。

 

 楽しいときはあっという間に過ぎていく。

 

 気付けばすでに終わりも間近。

 最後の最後、ラストを飾るのは得点配分が非常に大きい団対抗リレーである。

 

 一年生から三年生まで男女別に五人ずつ。

 団の中から選ばれた足に自信のあるものが出場する種目だ。

 

 前にもあったように肇は勉強でいっぱいいっぱいなので辞退している。

 

 同じようにテントから応援するだけだ。

 

 

 

「――――足をひねったぁ?」

「あれだ、組体操のときだ。ちょっとタイミング合わなかったから」

「捻挫? 大丈夫なんそれ」

「軽めだから歩くのに支障はないとよ。けど全力で走んのは無理っぽい」

「おぉう……ここにきてかー、いやなんかあるとは思ったけどよぉ」

 

 バッサバッサと応援部隊から借り受けた旗をテント前で振り回しながら、うん? なんて肇が小首をかしげる。

 

 不測の事態でも起こったのか、後ろのほうがにわかに騒がしい。

 やけに空気がざわついている感じ。

 

 なんだろう、と気持ち耳を傾けてみた。

 

「どうするよ、補欠」

「何回か練習した奴はいるけどまあお察しだぜ!」

「言ってる場合か! いや、しゃあねぇだろ四人で走るワケにもいかないんだし」

「速い奴で手ぇ空いてる男子いねえの?」

「それこそそこで旗振ってる奴は速えけどな! なぁ水桶!」

 

「あはは、リレーは全然練習してないからねー」

 

 からからと笑いながら、我関せずといった風に旗を振り続ける二種目一位通過者。

 

 楽観しているのではなく、実際やれることがないからだろう。

 

 勉強の忙しさで個人競技を優先した彼は団体競技に参加していない。

 バトンを繋げて走るだけとはいえリレーも立派に連携の必要な種目だ。

 今のような事態に陥っても肇の出る幕はないのである。

 

 ので、彼の役目はもっぱら応援に力を入れることに尽きるわけであって。

 

「……なるほど、百メートル走ぶっちぎり……」

「……借り物競走でも一着だったよな、あいつ……」

「……つうか午後からほぼ出てねえよ水桶……応援ばっかしてる」

「体力も温存している、と……」

 

「?」

 

 ふむふむ、なんて頷く後方のクラスメートたち。

 

 肇はそれに気付かないまま無心で旗を振り続ける。

 

 ばさばさ、ばさばさと。

 

 みんな頑張れ、最後だ、ファイト、なんてわりと純真な気持ちで。

 

 

「――水桶クン?」

 

 

 そんな暢気者の肩に、ポンと置かれる手がひとつ。

 

「……どうしたの?」

「ちょっと、こっち来ようか……」

 

 ついでに、突き刺さる視線が四方八方幾つも。

 

「え、あっ待っ旗……ちょ、ちょっと……?」

「大丈夫大丈夫。少し付きあってもらうだけだから」

「な、なにを……?」

「そうそう。少し、あれだ。バトン持つだけで良いんだ」

「いや待って。待って待って」

「確保。ちょっくらパスの練習して即出場な。行くぞ」

 

 持っていた旗を奪われ、脇の下から手を回され、クラスの男子に囲まれながらあれよあれよと肇が連行されていく。

 

 ずるずる、ずるずると引き摺られるように。

 

 気分はさながら荷馬車に乗せられた仔牛かなにかだ。

 彼の脳内では絶賛ドナドナがリピートされている。

 

「みんな落ち着こう。きっと焦っていて冷静な判断が失われてるんだ」

「あはは、僕たちは落ち着いてるよ水桶くん」

 

「さっき小耳に挟んだけどあれでしょ。怪我した子ってアンカーだよね」

「そうだな。大事な大事なラストランだな」

 

「俺帰宅部だよ。荷が重いよ。ねえ待って。一旦落ち着こう。話し合おうよ、ねえ」

「はっはっは。水桶。落ち着いて考えるとおまえが一番適任だ。頑張れ」

 

 必死の抵抗も虚しく、ぽんと優しめに肩を叩かれた。

 

 たしかに肇なら体力も十分残っている。

 足の速さにしたってそうだ、もともと出来ないコトもない。

 

 ――が、にしたってぶっつけ本番、それもアンカーというのはいくらなんでもだ。

 

 酷い、あまりにも酷すぎる顛末。

 

「み、みんなして俺を生け贄にするつもりだね……!」

「うるせえちゃっちゃか走れっ! こちとらテメエが昼休みに家族ぐるみで美少女とランチしてたの知ってんだよッ!」

「そうだそうだ! なんだあの銀髪美女! 羨ましくなんかねえけど死ねぇ!」

「おまえを見てるあの子の視線の熱さ分かってる!? ぶっちゃけアホだよ君!?」

 

「優希之さんとはそう言うんじゃないんだけど!?」

 

「「「このクソボケ野郎ッ!!!!」」」

 

 三重奏の罵倒を浴びながら出荷されていく仔牛(はじめ)

 

 そう、クラスメートはちゃんと見ていた。

 

 何を隠そうこの男、両親と渚を含めた四人でちゃっかりお昼を一緒していたのである。

 

 なんなら母親が弁当を作りすぎて余っているから――と。

 コンビニでなにか買おうと考えていた彼女を引き入れて……というイベントまでこなしている。

 

 ちなみにその際、母親から大層渚が弄られたのは言うまでもない。

 

 比良元(イケメン)の件もあるが肇だって罪状はまったく等しかった。

 有罪(ギルティ)無罪(ノットギルティ)かでいえばもちろん有罪(ギルティ)だ。

 

「……というか一緒にご飯食べたいなら別に全然誘ったのに」

「馬鹿テメエ。そっちが本筋じゃねえ」

「裏でこっそり話しかけてた男子全員撃沈してんだわ」

「水桶に向ける笑顔の一割も他に向けてないからねあの子。おまえが見えないとすっげー冷め切った顔してるからね。なんなの? 氷の女王様なの?」

 

「あはは、そんなまさか」

 

「「「そのまさかなんだよッ!!!!」」」

 

 ともあれ、これにて役者は揃ったワケである。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

『次は団対抗リレー。団対抗リレーです。出場する生徒は待機場所に集合してください。繰り返します――』

 

 恒例の放送に耳を傾けながら、渚はぼんやりと空を眺めている。

 

 彼の誘いで休日をおして見に来た他校の体育祭。

 そのプラグラムも残すところあとひとつとなった。

 

 走るだけなら肇も出るのかと思っていた渚だが、聞いたところによると練習時間の兼ね合いもあって彼は参加しないらしい。

 

 なのでまあ、目前の競技に対する関心もそこそこに。

 まったく無いというワケではないけれど、限りなく薄く。

 

 ぼうっと、考え込むように視線を遠くへ投げる。

 

(――――――……、)

 

 頭に浮かぶのはやっぱりというか肇のコトだ。

 

 いつもは塾で勉強という建前に隠されているけれど。

 今日に限っては彼を見に来るという名目以外を彼女は持ち合わせていない。

 

 だからだろう。

 

 真剣な表情で走る姿が。

 明るくこちらに笑いかけてくる顔が。

 可愛いといって優しく頭を撫でてくれた感触が。

 

 忘れられないとでも言わんばかりに、胸をしめている。

 

(…………ほんと。どうしちゃったんだろ、私……)

 

 何度も言うように、最初はこんな筈じゃなかった。

 

 ただ偶然知り合っただけの塾生同士。

 得意分野を互いに教え合うだけの勉強仲間。

 

 その関係性自体はいまも変わりない。

 ふたりがどういうものなのか、と例えるならそれが一番しっくりくる。

 

 ……だから、そう。

 

 両者を繋ぐ関係はまったく変わっていなくて。

 

 変化したのだとすれば、なにより自分(なぎさ)だ。

 

 

 

「――あれっ、アンカー変わってる?」

「怪我したってよ、軽度の捻挫。んで代わりに野郎(クソボケ)放りこんできた」

「クソボケって誰よ?」

「水桶のヤツ」

「ちょっとちょっと! 肇くんになんてこと言うの男子!?」

「でもあいつ今年のパネル断ったじゃん。あと昼飯他校の女子と食ってたぞ」

「肇くんはクソボケっ! 異議無しっ!!」

「手のひらくるっくるだな」

 

 

(…………水桶くん?)

 

 ふと、遠くに聞こえた声を拾って目を凝らす。

 

 グラウンド中央、リレー選手の待機場所には彼らの言うように肇の姿があった。

 

 最高学年の三年生にとっては最後の体育祭、最後の種目、最後の走者。

 

 かかるプレッシャーは計り知れない。

 そのせいなのか気持ち表情が青ざめているようにさえ見える。

 

 彼にしてはちょっとだけ、珍しい反応。

 

 

『――さあスタートです! 先ずは一年生、第一走者がトラックをぐるっと回っていきます! トップは青団、続いて赤団、そのすぐ後ろに黄団が迫ります!』

 

 

(……走るのはいちばんあとかな……)

 

 ほう、と渚が細く息を吐く。

 

 なにもかも分からないことだらけ。

 

 この世に生まれた時でさえこんな夢想はしなかった。

 

 彼女の心は沈んだまま。

 羽搏けるコトなどありはしない。

 

 翼をなくした鳥は地面に落ちて喘ぐだけだ。

 いずれは藻掻く体力すらなくなって、静かに密かに死んでいく命。

 

 ――そこに差した光に、いつかなくした羽の面影を見るまでは。

 

(そう、きっと……私は彩斗(あの子)と、(かれ)を重ねてる)

 

 いなくなった人間。

 死んでしまった家族。

 別れたはずの弟。

 

 それが被って見えるのは何故なのか。

 

 偶然でもなければ、無理やり脳がそうやって認識しているとしか思えない。

 

 ……言うまでもなく。

 ずっとずっと引き摺っている想いが、彼の中にある共通点を血眼になって探した結果だ。

 

 そんなのは何の救いにもならないこと。

 

 自分も相手も不幸にしかならない、醜いまでの愚かなすれ違い。

 

(だからこんなに意識しちゃうのかな……似てるから、そういうところがあるからって…………)

 

 細かなクセとか、それっぽい仕種とか、漂わせている雰囲気とか。

 本当に不思議なぐらい誰かさんとそっくり。

 

 ……けれど、全部が全部ピッタリ合うわけではない。

 

 彼は自分から進んで絵を描いたコトがないと言った。

 

 それを裏付けるかのように、肇の手は綺麗なままだった。

 筆を握った痕の殆どない、ペン胼胝も爪の汚れも油の匂いも一切しない彼本来の指。

 

 その指が嫌いというワケではないけれど。

 決して、そう決して嫌いというワケではないのだけれど…………、ほんの少しだけ、残念とは思った。

 

(……彩斗(あの子)が絵を描かないなんてありえない。筆を持たないなんて信じられない。それぐらいのめり込んでた。だから――(かれ)は)

 

 彼は彼だ。

 水桶肇だ。

 

 そんなコトは分かっている。

 それぐらいの事実はとうの昔に知り尽くしている。

 

 今更そうじゃないなんて癇癪を起こすほど愚かではない。

 

 だからこそ余計に分からない。

 

 肇を肇として認識しているのなら。

 家族以外の人間が胸をしめるのだとしたら。

 

 この気持ちは一体、どういうモノに分類されるのだろう――?

 

 

『次は二年生となります。――スタート! 第一走者並んでスタートを切りました! おっとここで黄団速い速い! 陸上部の抹流(まつなが)くんひとり抜け出しトップを走ります! さあ赤団青団追いつけるか! いまコーナーを曲がって――』

 

 

 渚には今までこういう経験がない。

 彼女自体がこういったモノに酷く疎い。

 

 昔を含めても恋人なんておらず、デートもキスもその先もさっぱり。

 

 そんな暇があるのなら彩斗(おとうと)のために時間をつくるほうが大事だった。

 それがなくなってからは、そんなコトをするような状態でもなかった。

 

 生きていくなんて、出来なかった。

 

 だから彼女はあのとき、自分から――――

 

 

『……さあ、ラストを飾るのは三年生です。中学最後の体育祭、全員が想いを込めてバトンを繋ぎます。…………スタートしました! 三人横並びになって一歩も譲りません! そのままコーナーへ!』

 

 

 そうしたら不思議なコトに今みたいになって。

 その名前も立場も役割も、錆び付いた記憶には残っていて。

 

 仕方がないから、生きていくことにした。

 

 ……やる気はあまりなかったけれど。

 

 正真正銘自分のモノでないと思うと、二度目の過ちを繰り返すような真似はできないから。

 

「………………、」

 

 少しずつ前向きになれたのは、偏に周囲の環境のお陰だ。

 

 両親はこんな彼女にも暖かくて優しくて、やれるだけのことはやろうと思えるぐらいにありがたい存在だった。

 

 周りに溶けこむのは大変苦労したけれど、それでも世界は支えるように甘くて。

 このまま命を消化するぐらいなら、せめて関わるぐらいはしてもいいだろうなんて原作の舞台(しんがくさき)を選んだとき。

 

 なんとはない流れで、なんでもない日々の中で。

 

 ――――彼に出会った。

 

 

『バトンが渡ります! これで三人目! トップは青団、続いて黄団! 赤団わずかに遅れています! さあ三チームともバトンを繋いで――』

 

 

 穏やかに佇む人。

 

 花が咲くように笑う人。

 

 トゲを忘れたみたいに優しい人。

 

 それまでの彼女を大きく変えてくれた人。

 

 この胸に残る、心を震わせる、たぶん一番大きな人。

 

(…………水桶くんは)

 

 わりと良い人だ。

 拙い部分はもちろんあるし、足りないところも多いけど、少なくとも彼女からして嫌うほど悪い人ではない。

 

 進学に向けて必死に勉強している姿なんかは真面目にも映る。

 けれど気分が上がると行動に大胆さが増すし、距離が近付けばからかってくる一面もあった。

 

 前者は夏休みあたりから、後者は現在進行形で体験しているコトである。

 

 総評すると本当に、なんというか、()()の少ないひと。

 

 

『四人目! トップは引き続き青団! 赤団追い上げて黄団とほぼ同時にパスが繋がりました! 青団独走! 後方両チームともに追い上げます!』

 

 

 魅力的な人かと言えば、どうなのだろう。

 

 少なくとも彼が誰かに言い寄られている姿は想像できなかった。

 女子に囲まれている映像なんて尚更だ。

 

 通りを歩いていて、ふとすれ違った十人が十人とも振り向く、なんて格好良さはない。

 

 客観的に見ればあくまで普通、一般的、良すぎもせず悪すぎもせず。

 

 

『青団トップ! 赤団追走! 黄団はやや離されています!』

 

 

(……ああ、もう。なんか……)

 

 放っておいたらずっと、彼のコトを考えている。

 

 馬鹿みたいだ。

 なんともらしくない。

 

 目の前の光景も身の回りの状況も忘れて、唯々思考に没頭する。

 

 我を忘れたような意識の暴走。

 ほんと笑ってしまう。

 

 こんなのは、まるで――――

 

 

『そしてついに! ラスト! 最後! アンカーです! 最終走者一人目は……青団! すぐ後に赤団続きます! 少し遅れて黄団届きました! 皆さん頑張ってください!』

 

「水桶ぇーッ!!」

「頼む、頼むー! マジでお願いっ!!」

「抜けーっ! やれーっ! ぶっ飛ばせーっ!!」

「良いよー良いよー! 肇くんその調子ー!!」

「頑張れ水桶っ! 勝利はおまえにかかってんぞぉ!!」

 

 

 はっとして眼前の光景が目に入る。

 

 二番手に走る赤いハチマキをつけた体操服姿の少年。

 その必死の形相が、自然と瞼の裏に焼き付けられる。

 

 

『依然青団トップのまま半分を超えました! 赤団届くかどうか! 黄団もふたりのすぐ後ろまで迫っています!』

 

「だあああくっそ元陸上部ずりぃなァ!?」

「頼む頼む水桶っ! 水桶頼むマジ頼む――っ!」

「いけるいける! スパートかけろスパート!」

「体力あんだろ本気出せぇッ! ぶっ飛ばすぞオラァ!!」

「肇くーん! ファイトー!! 美術部の星ーっ!」

「だからあいつ帰宅部!」

 

 

 先頭との差はごくわずか。

 少しでも足が縺れたら決壊するような紙一重の差だ。

 

 それから後ろだって気を抜けない。

 

 そちらも人ひとり分空いているかどうかというところまで迫っている。

 

(――――――……)

 

 観覧席のテントからでも分かる苦悶の表情。

 午前中の二種目とは比べ物にならない。

 

 歯を剥き出しにして、髪を振り乱して、汗を散らしながら彼は駆けていく。

 

 文字通り絞り出すぐらいの全力疾走。

 塾で難問にぶち当たっている時だってあんな顔はしないだろう。

 

 それは同時にそれぐらい、たぶん肇がこの空気を楽しんでいる証拠で。

 

 

 

「…………頑張れ」

 

 

 

 無意識のうちにこぼれた声は小さかった。

 

 走る音、風の音、ともすれば周りの歓声に容易くかき消されるほど小さな響き。

 当然ながら死ぬ気で走っている彼に届くはずなんてない。

 

 なのに、

 

 

「――――――、」

 

 

 彼は、ひと息。

 食いしばっていた歯を緩めて、にっと笑うように。

 

(あ――――……)

 

 

『並んだ並んだ! 赤団並びました!! 黄団も来る! 黄団も来る! 青団どうだこのまま逃げきれるかー!?』

 

「水桶ぇーーーーっ!!」

「マジであいつ!? マジで!?」

「フレーフレーっ、肇! 来年こそパネル!!」

「私ら来年は高一なんだけど!?」

「どうでも良いから抜けっ! さっさと抜けっ! すぐ抜けーっ!」

 

 

 世界は広い。

 景色は明るい。

 

 視線は固定されている。

 それ以外に瞳に入れるものなどないように。

 

 意識はたったひとりに向けられる。

 

 

『ゴールまで二十メートルを切りました! さあ三人とも譲らぬまま今――――』

 

 

 思えば特別で。

 思えば新鮮で。

 思えば良好で。

 

 胸を弾ませながら(かれ)を見る。

 

 走り抜けた影は崩れるように地面へ倒れた。

 手足を放り投げて大の字にして、少年は荒く肺を上下させている。

 

 どっと湧き上がる歓声と、わっと立ち上がる中央の走者一同。

 

 結果を告げる放送はどこか遠く、別世界の出来事みたいに。

 

 

 

『――――ゴールっ、一着は赤団! 二着青団、三着黄団です!』

 

「ぃよっしゃぁあああああっ!!」

「ナイス水桶っ! やっぱアイツ出して正解だったろ!?」

「結果論、結果論! まあ俺は最初から信じてたけど!」

「きゃーっ! 肇くーん! 素敵ー! 格好良いー! パネルー!」

「パネルは褒め言葉なの? 普通名詞じゃないの?」

「あっはっは! 見ろよ水桶ぶっ倒れてる! すげー死にそう!」

 

 

(………………、)

 

 跳ねる心臓を掴まえるように、渚は胸の前で手を握る。

 

 分かっていた筈だった。

 

 こういうとき、余力を残して流せるほど彼は冷静な人でもない。

 冷め切っているワケではなく、本当にただぼんやりしているだけ。

 

 その変わり様は予想できた。

 

 花火でも、つい先ほどの競技でも、彼のテンションは高かったから。

 

 ――でも、終わってみればなんてコトはない。

 

 分かっていてもなお、胸の奥を突き刺したそれは。

 

(……ほんと、こんなのは――)

 

 

 

 そう、まるで。

 

 彼に恋でもしているみたい――――と。

 

 

 

 渚は微かに笑いながらそう思った。

 それが正解かどうかなんて、考えてもいないまま。

 

(ま、まさか……ね。そんな、私に限って、そんな。――そんな、こと――)

 

 答え合わせは唐突に。

 

 周りが肩を貸して立ち上がらせた彼が見えて。

 誰とも顔を合わせて笑い合って、ひと息ついた肇が真っ直ぐこちらを見ながら。

 

 くしゃりと力が抜けたように、笑うものだから。

 

 

「――――――っ」

 

 

 バクバクと心臓がうるさいぐらい拍動する。

 混乱と困惑と焦燥と、色んなものが脳内でぐちゃぐちゃに回っていく。

 

 ああ、なんてこと。

 

 偶然引っ張り出した知識(こたえ)だというのに。

 

 頭に染み付いて、感覚に刻まれて。

 どくどくと脈打つモノが言外に結果を告げてきた。

 

 否定する材料が見つからない。

 

 どうしよう。

 

 嘘みたいだ。

 

 

 

 ――――もしかしたら、私は彼に、恋してしまっているのかもしれない。

 

 

 

 


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