乙女ゲーに転生したら本編前の主人公と仲良くなった。   作:4kibou

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23/渚の水をすくう君

 

 

 

 

 

 結局、胸に引き摺った渚の想いは軽く拭えなかった。

 

 一旦彼と別れて入った手洗い場。

 その鏡の前で、バシャバシャと思いきり顔を洗う。

 

 気持ちを一度切り替えるために。

 

(――――……)

 

 ひとりになったのは偏に申し訳なさからだ。

 

 肇と居るのは楽しい。

 どんな時だって彼が隣に居るだけで世界は明るく見える。

 

 けれど、この(ココロ)に染み付く情念はまた別のもの。

 

 折角の肇との時間だというのに、気持ちを沈ませたままでは勿体ない。

 なによりこうして付き合ってくれた彼自身に申し訳が立たない。

 

(……私は…………)

 

 蛇口から流れていく水をぼんやりと眺める。

 

 意識は暗く、深く、沈むように彼方へ飛んでいく。

 

 それは遠い遠い昔話。

 彼女がまだ生まれる前の、幸せだったときの記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――それなりに裕福な家に彼女(わたし)は生まれた。

 

 父親はとある大企業の社長。

 母親はしがない舞台女優。

 

 傍から見れば玉の輿な夫婦は、事実片方が上手く()()()()()だけでその通り。

 

 ――母親は、自己愛と欲に塗れたようなヒトだった。

 

 自分が大切で、自分が一番で。

 お金が好きで、幸せになりたくて、お酒に溺れるような人間。

 

 正しく愛されたコトなんて一度もない。

 けれど、小さい頃は何度も危害を加えられた。

 

 ……それもほんの少しだけ。

 

 詐欺師の男に引っ掛かった母親は父の会社の資金を盗もうとしてそれが発覚。

 未遂に終わったとはいえ、それまでの一見して――ともすれば騙されていた父は間違いなく――円満だと思っていた家族事情は白日の下にさらされたのだ。

 

 結果として両親は離婚。

 彼女は父親のほうに引き取られ、事なきを得た。

 

 人生の不幸なんて言ってしまえば、これにて一回終了である。

 

 

『――すまない、陽嫁。私が悪かった。これからは沢山、おまえと一緒にいよう――』

 

 

 その事件を契機に父親は家にいることが増えた。

 仕事は相変わらず忙しかったけれど、多少無理をしてでも時間を割いて学校行事にまで顔を出すようになった。

 

 顔を合わせてご飯を食べて、甘やかしてもらって、撫でてもらって、誕生日なんか祝ってもらって。

 

 前と比べれば随分幸せになったけれど、でも、足りないものはある。

 

 いつだってどこだって、人の世に完璧なんてあるはずもないのだから。

 

 

 〝――羨ましいな〟

 

 

 一言でいえばそんな感情。

 

 笑う同年代の子が等しく全員羨ましかった。

 最初から幸せなままでいた、父母揃っている家族に憧れた。

 

 思えば心の余裕が生んだ、子供らしい望みだったのだろう。

 

 生来の明るさと、母親譲りの芝居上手で誰とも仲良くはなれたけれど。

 本当の意味で満たされるような気にはならない。

 

 だって彼女は生まれたときから、家族に罅が入っていたから。

 

 

『陽嫁。おまえに、弟がいるみたいなんだ』

 

 

 そんな時だった。

 

 父親から急に、そんなコトを言われたのは。

 

 聞いたところによればその子は離婚当時、すでに母親のお腹に居たらしい。

 それが完膚なきまでに縁を切ったせいで今まで気付けもせず、この度無様にも事故死した母親のせいで掘り起こされたとか。

 

 なにせ電撃離婚するまでは顔の良さに眩んでやる事やっていた欲塗れだ。

 

 いまさらそんな事実には驚かなかったけれど。

 

 

『――――――、』

 

 

 はじめて()()()に出会ったとき。

 

 彼女は、自分のすべてが崩れていくコトを感じた。

 

 弟の名前は彩斗、歳は六つ下。

 髪と目の色が父親と同じで、雰囲気はどこか母親似で。

 

 そして――そんな容姿がとてもじゃないけど分からないぐらい、酷い様相だった。

 

 右目の瞼は切れていて半分しか開かない。

 同じ右の耳も潰れたように歪で不格好。

 左手の小指なんてぐにゃりと曲がっている。

 

 おそらく神経から骨から筋繊維までなにもかもズタズタ。

 一生涯完治しまい、というほどの惨状。

 

 それをたった六歳の身体で受けたという衝撃。

 

 ――信じられなかった。

 

 なにを勘違いしていたんだろう、と自分自身に憤る思い。

 

 彼女は十分恵まれている。

 最初が躓いただけで、いまは苦労もなく幸せな道を歩けている。

 

 だというのになにが足りないのか、どこが不満なのか。

 

 そんなのは、目の前にいる相手を見て言えるハズもない我儘だ。

 

 ――初めてだった。

 

 身近で、明確に、より正確に、自分より酷い誰かを見たのは。

 

 だから、彼女は。

 

 

『――君が彩斗くん? 私は陽嫁! 今日から君のお姉さんになります!』

 

 

 目の前に現れた彼を、心の底から救いたいと思った。

 

 

『………………、』

『よろしくね、彩斗!』

 

 

 それまで母親のもとで育っていた弟はなんともまあ最悪だった。

 

 まず上手く話せない。

 声がでない、喉自体がちょっとおかしい。

 表情がまったく変わらなくて感情を出さない。

 

 おまけに全身痣だらけで、無事なところなんてないぐらい。

 

 ……本当、どれだけ最悪な環境か分かるぐらい酷かった。

 

 

『彩斗っ! お姉ちゃんと遊ぼっ!』

『――――――、』

『はいっ、彩斗、ケーキだよ! 食べて食べて! 美味しいよ?』

『………………、』

『今日、誕生日だよね彩斗! これ、プレゼント! ふふっ、どうかな?』

『…………、ぁ……――――』

 

 

 いつも周りには明るく振る舞っていた彼女だけれど。

 弟の前では殊更突き抜けるように気分をあげた。

 

 唯々、なんら難しいコトでもない、普通の幸せを教えてあげたくて。

 

 その成果は自ずとして実を結んだ。

 

 ひと月経てば声が出るようになって。

 二月も世話を焼けば微かに会話ができて。

 三ヶ月を過ぎる頃には微かに表情も増えてきて。

 四ヶ月目には声にも顔にも色が乗るようになって。

 五ヶ月頃となると笑った顔が見られて。

 

 そして半年も一緒に暮らせば、そこに居るのが当たり前になった。

 

 

『ただいま彩斗っ! お姉ちゃんだぞー!』

『……うん。お帰りなさい、姉さん』

 

 

 彼女と、もちろん父親もありえないぐらい優しくして。

 

 愛情を伝えれば伝えるほど彼は元気になった。

 彼が笑うとそれだけで彼女の苦労は吹き飛ぶようだった。

 

 あげたもの。

 返ってくるもの。

 

 それが暖かくて、尊くて、大事で、大切で、唯一で、至上で、最高で。

 もうこれ以上なんてないぐらい、幸せだった。

 

 たったひとりの、切っても切れない血の繋がった家族(きょうだい)

 

 ――ああ、彼女が救いたいと願って彼に幸せを教えたように。

 彼の花咲く笑顔は見返りとして、いまとなっては懐かしい彼女の空白を埋めたのだ。

 

 少女の人生は、それでありえないぐらい満ち足りた。

 

 

 

 ――――弟の身体が、致命的に悪くなるまでは。

 

 

『……落ち着いて聞いてください。彩斗さんの命は、もって――』

 

 

 そのときはまだ、悲しかった。

 辛かった。

 泣き腫らすほど落ち込んだ。

 

 当の本人のほうが苦しいだろうに、彼の前で弱い姿を見せるほど。

 

 

『……大丈夫だよ、姉さん』

 

 

 でも弟は、嘆くように謝る彼女に声をかけて。

 

 

『自分のコトは自分がよく分かってるし。だから、大丈夫。あと少しだっていうのも、自覚あるんだよ、実際』

 

 

 困ったように笑って、そう言っていた誰かの顔を思い出す。

 

 

『――っ、なんでも。なんでも言って……っ、叶えられることなら、彩斗のためなら、なんだって叶えてあげるから……っ! 欲しいものだって、買ってあげるから……!』

『いや、そんな――…………、』

『なんでもっ、良いから……っ、遠慮、しなくても……!』

『…………だったらひとつ、お願いがあるんだけど――』

 

 

 家で絵を描いていたいという弟の要求は、治療の見込みが薄いのもあって比較的早々に叶った。

 

 それからはずっと家族だけで過ごす毎日。

 父親は仕事の量を強引に減らして時間を設け、彼女も同様にプライベートな時間を多めにつくって弟と一緒に居るだけ。

 

 そこで気付いたのは、彼がとてつもなく尖った人間だったコト。

 

 短命なのが()()理由だとしても納得いくぐらい。

 不幸だったのが揺り戻しだったみたいに。

 

 

『……ね、姉さん。俺の描いた絵って売れたりしない?』

『え、なんで!? 勿体ないよ、彩斗の絵を誰かに売っちゃうなんて!』

『でも絵画ってそういうものじゃない? ……それに、色々してもらってばかりで、こう……申し訳なくって……』

『もー! 病気の人がなに言ってるの! 彩斗は私たちに甘えて良いんだからね!?』

『……うん。でも、試してみてほしいな。それでお金が入るなら絶対良いと思うし』

 

 そこまで言われて、彼女は渋々弟の絵を出してみたコトがある。

 たった一度だけ、知人経由で教えてもらった有名な絵画のオークションサイトにだ。

 

 ――ほんの二時間。

 

 それまで一切、名前も何も知れ渡っていなかった彼の描いた絵は短時間で八桁を超えた。

 

 

『…………っ』

 

 

 もちろん出品は取り消し。

 

 当然売れない。

 売れるはずがない。

 

 価値を知った後でも手放すなんて考えられない。

 それほど大事な、弟の描いた絵だ。

 

 ……でも。

 

 怖いのは、それが彼女にとってだけのオンリーワンな代物ではなく。

 

 誰しもを魅了するぐらい、莫大な金額が付くぐらい優れた代物であること。

 

 ――彼自身にだって、知られるのは良くないコトに思えた。

 

 先の短いと自覚している弟が、自分の絵は金になると知ってなにもしない筈がない。

 きっと無理にだって、振り切ったって売ろうとするだろう。

 

 そんなのは彼女として、姉として、家族として。

 

 騙してでも、秘めておきたいコトだった。

 

 ――そうして、ちょうど現実(イマ)みたいな冬の日に。

 

 

『ただいま彩斗ー! お姉ちゃんが帰ってきたぞー! 今日は挽肉が安かったから私お手製のハンバーグです! 彩斗好きでしょ、ちょっとでも良いから食べてね。……彩斗ー? ……あれ、寝てる? もう、駄目だよー、こんなところで寝たら。体調が悪化しちゃう。……彩斗? ねえ、彩斗。ほら起きて。起きてよ彩斗。ねえ。彩斗。彩斗ってば。ねえっ、彩斗! …………彩斗? ……彩斗! 彩斗!! 起きて! ねえ! 彩斗っ!! 起きてっ!! 起きてよぉっ!! 彩斗――――――』

 

 

 最期までなにも知ることなく、弟はその短い生涯を終えた。

 

 二回目の不幸が来たのはその瞬間。

 

 彼のいない世界は酷く冷たくて。

 窮屈で、色がなくて、退屈で、薄汚れて、穢らわしくて。

 

 耐えられないような、地獄だった。

 

 

 〝――ね、もう一年間、お姉ちゃんは頑張ったよ〟

 

 

 だから。

 だから彼女は、あのとき。

 

 

 〝そろそろ良いでしょ。十分、頑張ってみたよ〟

 

 

 狭い部屋の中で、ひとり空に浮かぶように。

 雨止みを願うつくりものの人形みたいに。

 

 

 〝――いまいくね、あやと〟

 

 

 孤独に、揺れて。

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………、」

 

 バシャバシャと、いま一度渚は水を浴びた。

 

 その選択を後悔したコトはない。

 けれど、今となってはハッキリ良くなかったと否定できる。

 

 ぐしゃぐしゃに潰れた心では、きっとしょうがない末路だったけれど。

 

 自ら絶った過ちの大きさは誰に教えられずとも分かっていた。

 

 だから、そう。

 いまの彼女は、大丈夫。

 

 少なくとも、彼のいない世界に絶望して死なないぐらいには正気だ。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 手洗い場から戻ると、肇は変わらぬ様子で渚を出迎えた。

 や、なんて気軽な調子で手を上げて彼女のほうへ歩み寄る。

 

「落ち着いた?」

「っ……なん、で」

「気付かないワケないでしょ。一体何ヶ月ずっと一緒の場所で勉強してると思ってるの」

「――――……そっ、か……」

 

 その言葉にほっと熱のこもった息をこぼしたくなるような。

 もしくは吐き出せずに肌を赤くしてしまうような、そんな気分に襲われる。

 

 〝少しだけ、お手洗いに行ってくるから〟

 

 できるだけ淀んだ心を悟らせないようにデリケートな言い分を選んだ渚だったが、どうにも無駄だったみたい。

 

「前髪、濡れてるよ。どうしたの」

「……なんでもないよ。ちょっと、顔を洗ってただけで……」

「そんな暗い顔で言っても説得力ないってば」

「っ…………」

 

 肇がポケットからハンカチを取り出して、彼女の前髪をそっと優しく拭いていく。

 

 撫でるような感触はこそばゆくて気恥ずかしい。

 跳ねる心臓は彼に向けられた一片の熱情から。

 

 過去(よごれ)に塗れた泥だらけの心は、それで少しだけ持ち直した。

 

 ……本当、単純すぎて反吐が出る。

 

「…………ごめん」

「良いから。それで、なにかあったの。……言いたくないなら言わなくてもいいけど」

「……ほんと、なんでもないよ。偶々嫌なコト思い出しちゃって、落ち込んだだけ」

「………………、」

「いつもと同じ……だから、なんでも」

 

 なんでもないと。

 再三、それこそ自分に言い聞かせでもするように。

 

 ぎゅっと拳を握って言い訳をする渚の姿は酷く翳っていて。

 

 とてもじゃないけれど、なんでもないとは言えない様子のままだ。

 

「……優希之さん」

「…………、」

「引き摺るのは、駄目なコトじゃないよ」

「っ――――」

 

 ふわりと、触れるみたいに渚の頭へ手が乗せられる。

 

 肇の主張、彼の考えが込められたいつかの台詞。

 

 そこに感じるのは何だったのか。

 思えばどうして胸に突き刺さったのか。

 

「…………ごめん」

「……謝らないで。優希之さんが迷惑かけたワケじゃないんだから」

「っ…………、……ごめん……」

「……もう」

 

 宥めるようにさらさらと髪を梳かしていく温かな手。

 

 迷惑だなんて言うのならとっくに、目の前の彼自身にかけている。

 

 こうやって何度も足を引っ張られて、勝手に沈んで、勝手に救われて。

 あまつさえ惚れ込んで、一喜一憂して、混乱して困惑して。

 

 ほんとう、迷惑ばかりだ。

 

 思わず胸が悲鳴をあげるぐらい、彼には返したいモノが多すぎる。

 

「………………、」

 

 消沈した様子で渚は息を吐く。

 

 人の機能(あたま)はときに残酷だ。

 

 それは理性としていえば合理的で、本能としていえばあまりにも不義理。

 

 いつか見た美しいもの、懐かしいもの。

 鮮やかな記憶、綺麗な風景、楽しかった思い出、輝かしい景色。

 

 盛者必衰の理は必ずしも現実のコトだけではない。

 

 古い映像はいずれ新しい衝撃に塗り替えられていく。

 記憶は掠れ、泡のように舞い、後方へ千切れて消えていく。

 

 そんなのは当たり前だ。

 特段忌避すべきコトでもない。

 なにより目の前のものを見て、味わって、体感して、未来へ進んでいく証拠だ。

 

 悪い機能(こと)では断じてない。

 

 やりようだって幾らでもある。

 塗り潰されると最初から分かっているのなら、その分、思い出せる今に噛み締めておけば良いだけのこと。

 

 ――――だから。

 

 そんな中でも鮮明に、忘れられないぐらい残るというのは酷く重い。

 

「…………水桶くんはさ」

 

 肇に手を引いてもらったのは一度ではない。

 それは精神面でも、物理的にも同じだ。

 

 彼にその気はなくても、彼女は十分助けられてしまっている。

 

 なんの因果関係もない――と渚は思っている――人に何度も何度も頼っている現状。

 

 錆び付いた記憶に後ろ髪を引かれ続ける自分と。

 その気持ちを他人に救われる形でしか軽くできない自分。

 

 どちらが惨めかなんて言うまでもない。

 

「……絵、得意……なんだよね……」

「……まあ、中学生にしては? だと思うよ。美術部(ほんしょく)ではないし」

「描くのは……好き……?」

「うーん……前も言ったけど、それなり?」

「……前にも言ったけど、そう言う人は、大体好きなんだよ……」

 

 時間にしてみれば十五年。

 遠い人生を合わせればおよそ十六年。

 

 あまりにもかかりすぎた。

 

 でも、ようやく。

 

 苦しくても、辛くても、悲しくても、痛くても。

 

「……じゃあ、さ」

 

 自分から前に進みたいと、わずかでも思ったのだ。

 

 

「もし、ずっと絵だけを描いて生きていられたら、幸せ……?」

 

「――――――」

 

 

 渚にとっては決意を込めた、ただの喩え話にしかならない質問。

 けれどその問いを受けた少年は、目を見開いて反応した。

 

 彼は知らない。

 

 彼女の正体も、その質問の真意も、裏に込められた誰か(カレ)への気持ちも。

 全部が全部、頭をかすめる程度にもならないぐらい知りもしない。

 

 だからこその驚愕、一瞬の空白だった。

 

 虚を衝かれたと言ってもいい言葉の奇襲。

 

「……それは」

 

 肇は胸を張れるほど絵が上手じゃない。

 描いたモノが売れなかった前世でそれは分かりきっている。

 

 あくまでいまの年齢でなら、せいぜい賞を取れるぐらいの実力だ。

 

 自覚だって昔からあった。

 なにせ初めて筆をとった時から、大して画力は伸びていない。

 死ぬときまでずっと、成長といえば手応えのない微妙なものだけである。

 

 けれど。

 

「――――――」

 

 少女が彼を見上げたまま固まる。

 

 目一杯に開かれた紫の瞳が波のように揺れた。

 思考回路の一切が上手く動かない。

 

 ――素敵だと思ったコトは何度も。

 

 彼の()()は眩しくて、見るだけで心が弾んだ。

 日差しのように綺麗な表情は見事過去に囚われていた彼女を仄かにも照らした。

 

 ――ならば、それを優に超えるのは。

 

「とっても、素敵な話だね」

 

 見たコトもないぐらい満足げに笑う、水桶肇(しょうねん)の横顔で。

 

「俺はあんまり絵を描かないから、実際どうかは分からないけど。でも、生きて描くだけの毎日はきっと夢みたいなんじゃないかな」

 

 彼は過去を振り返る。

 

 彼女のような泥に塗れる陰鬱さではなく。

 砂浜に埋められた大切な宝石を、大事に掬い上げるように。

 

 キラキラと、その周りについた小さな輝きにさえ喜びながら。

 

「幸せだろうね。それこそ、一度限りでもう十分満足しちゃうぐらい」

 

 そう、あんな贅沢は一度だけで構わない。

 二度目なんてあったら甘すぎて苦いほどだ。

 

 だから簡単な話、未練なんて微かなものを除けば殆ど無かった。

 

 笑って過去(みず)に流せるぐらい、あれで良かったと心底笑えるぐらい満足な一生。

 

 幼少期に苦労した経験も、病気で大変だった時期も、早逝したコトも関係ない。

 

 あのとき生きて死んだ一生はかけがえのない時間だ。

 忘れることも消すことも、変えることもできない大切な思い出そのもの。

 

 なればこそ――与えられるばかりだった前世(いぜん)があるから――今回はきちんと返せるように、難しい試験も頑張って上に行こうと。

 

「なんなら笑って死ねそうかも、そんな生き方」

 

 言葉はそのまま響くとは限らない。

 

 読めない心は伝えるのも一苦労だ。

 

 彼女の喩え話が()()()()彼の記憶を震わせたように。

 彼の回答は()()()()彼女の思い出を真っ直ぐに肯定する。

 

 あのとき、笑って死んでいたのは。

 キャンバスを前に椅子に座って、燃え尽きるように眠ったのは。

 

 誰でもない、彩斗(おとうと)で――――

 

「――――……そう、なんだ」

「分からないけどね。もしそうなら、俺だったらって話」

「……そう、だよね……うん。そう、だろうね――」

 

 力無く渚が笑う。

 

 ここに来て、どうして彼の笑顔にやられるのか、その意味が正しく理解できた。

 

 過去(うしろ)に引っ張られる彼女とは違う。

 

 肇は鮮やかに前を向いている。

 生きていく上で当然のように、真っ直ぐ未来へ進んでいる。

 

 それは重いモノを抱えた人間には難しいコトだ。

 なんであれ暗い感情に呑まれないというのが先ず厳しい。

 

 ともすれば眩しいぐらい淀みのない歩き方。

 

 でも、ああ、だからこそ。

 

 

 ――――そんな(あなた)に、恋をした。

 

 

 心の底から好きで惚れ込んでいるのだと、誤魔化しようがないぐらい自覚してしまった。

 

 

「ていうか、急にどうしてそんな話を?」

「……私の遠い親戚が、絵を描き続けて死んだって聞いて。その人は、どんな気持ちで亡くなったのかなって……」

「……ごめん、配慮が足りてなかった。嫌なコト思い出させちゃって」

「ううん、いいよ。……いいの、もう……大丈夫、だから」

「…………、」

 

 ゆっくりと息を吐く渚は、沈んだ雰囲気さえあれど大分落ち着いている。

 戻ってきたばかりに比べれば幾分かマシな状態。

 

 少しでも手助けになったら良かったな、と肇は力を抜いて天を仰いだ。

 

 校舎内の空気は文化祭につき大分騒々しい。

 気持ち彼らの周囲だけ気温が下がっているのかと錯覚するほど。

 

(…………あ)

 

 ――――ふと。

 

 すっかり忘れていたことを肇は思い出した。

 

 別にそこまで大したものではない。

 なんてコトはない、言葉にすれば些細なもの。

 

 でもどうしてか、ここで言っておかなくてはいけない気がして。

 

 

「――――お帰り、優希之さん」

 

 

「………………ぇ?」

「いや、そういえば、言ってなかったなって。さっき」

「…………ぁ、そう、だね……あははっ……たしかに、そうかも……っ」

 

 渚にとってそれは、いつしか聞けなかった誰かの言葉で。

 

「……うん。ただいま、水桶くん……」

 

 ふたりで目を見て笑い合う。

 

 こびりついて離れない大切で痛い過去の思い出。

 

 それが今まではずっと潰れそうな重荷だったけれど。

 まだまだ重いのは相変わらずだったけれど。

 

 なんとなく、気持ち、引っ張れるぐらいにはなった気がした。

 

 一歩、踏み出せた気がしたのだ。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 乙女ゲーの世界というのは、なんであれ凄いらしい。

 

 今までそう意識してこなかったその事実を渚が思い知ったのは、改めて肇と文化祭を見て回って楽しんだ後のコト。

 

 さて、夜も更けるし今日はこのぐらいに――というところで、誰もがグラウンドへと集まりはじめた。

 なんなら一緒に歩いていた肇でさえ「行こっか」なんて嬉々として。

 

 ――そう、それこそが西中における文化祭名物。

 

 伝統と格式高い……かどうかは置いておいて、歴史ある最後の砦(グランドフィナーレ)

 

 キャンプファイヤーである。

 

「――おいこら三年一組男子ぃ!」

「最後を飾るってのにその格好はどうした野郎どもぉ!」

「しみったれた服装して恥ずかしくないの!?」

 

「いや普通に制服じゃん」

「女子のみんな、こういうとき急に元気だよね。怖い」

「こういうときじゃなくても常に元気だったぞ今日」

 

「正装に決まってるでしょ! ほら三の一(サンノイチ)集合! やる気ある奴は着替えだ着替えっ!」

「数多のお嬢様を楽しませてきやがれー!」

 

 

 ……とまあ、そんなコトもあり。

 

 

「それじゃあ一緒に踊ろっか、優希之さん」

「!? !!?? !?!?!?」

 

 着替えた彼(しつじはじめ!)に手を取られて歩いていく。

 

 中央には薄暗闇に映えて燃え上がる火。

 流れている曲はどこか聞き覚えのあるオーケストラ。

 

 すでに周りには彼らと同じく二人組の生徒がちらほらと見え始めている。

 

 ベタもベタ、新鮮さでいうなら零点必至の恒例行事。

 

 肇と渚、男女ペアでのフォークダンス。

 

 

 ――心臓が、九割九分九厘破裂しかけた。

 

 

 こう、ぱぱぱぱぁーん、と。

 

「ダンスの経験とかある?」

「っ、あ、あるにはある、けど……」

「けど?」

「…………だ、誰かとは、ない、です……」

「……なんで敬語?」

 

 それは貴方の格好とこの状況が私の言語野(こころ)酷く衝撃(ゴガガガンッ)とキテいるからです――なんて彼女の口から言えるワケもない。

 

 抵抗する力さえ失った渚はされるがままキャンプファイアーの近くまで。

 向い合うよう立った彼にいま一度仕込まれた礼を披露され、白い手袋をはめた眼前の執事にその手を取られた。

 

「適当に手を繋いでそれっぽくやろう。俺もダンスは分かんないし」

「そっ、そそそ、そんっ、あのっ、えっ……!?」

「なにか問題でも、お嬢様?」

「ひゃぅえ!?」

「あははっ、そこまで驚かなくても。すっごい声」

 

(驚くなって言うほうが無理があるんですけど!?)

 

 内心ではキレかけの渚だった。

 

 キャンプファイアー自体はまだ良い。

 

 なんなら幻想的で綺麗で、見ているだけで満足だ。

 

 そこでフォークダンスをするというのも同じ。

 

 学生たちが二人で踊る慣れない姿はとても良く映るだろう。

 

 彼女がそれに参加して、その相手が肇だというのも百歩譲ってまだ大丈夫。

 

 彼との接触はそこそこ多い。

 精神的にきついのは正直そうだが、耐えられないコトもない。

 

 では最後の仕上げに肇が接客時の執事服となっていればどうか。

 

 許容限界である。

 渚の頭はパッカーンと割れる思いだった。

 

 魅力度を測るそれっぽい機械があれば、たぶんボンッと爆発している。

 

「それにほら、みんな楽しんでるし」

「っ――――……、…………」

 

 言われて、ちらっと周囲を観察してみる渚。

 

 

 

「ああくっそ! 俺も女子と踊りてえ!」

「あいつらマジイチャつきやがって……全員燃えろ! 爆ぜろ!」

「だったら俺と踊るか?」

「男同士とか誰に需要があんだよ、誰に」

「一部にはあるだろ。そこでスケブ構えてる女子陣とか」

 

「おのれ銀髪美少女ッ、肇くんの相手を務めやがってからにぃ……!」

「そう言いながらアンタもスケブ持ってるのはなに」

「踊れないならせめて描くっ! 悔しいけど画になってて――――悔しい! くそぅ!」

「嫉妬と絵描きの(サガ)に振り回される悲しきモンスター……」

 

「おい見ろ比良元の奴を。お姫様抱っこの君と楽しんでやがる」

「いや待て。さりげにめちゃくちゃ足踏まれてるぞ」

「……っ、この……! こんなことして、絶対許さない……!」

「良いだろふたりで踊るぐら――いたッ、いたぁ!? ちょっと待て! ああもう――」

 

 

 

 ざわめきは炎が燃える音に混じって空気に吸い込まれる。

 出来上がった雰囲気は寒空の下でも暖かく賑やかな空間だ。

 

 そんな中でゆったりと、指を絡めて手を繋いで、ふわふわと舞う執事(はじめ)お嬢様(なぎさ)

 

 非日常じみた全ての要素が、彼女の心を仕留めにかかっていた。

 

「ね?」

「……っ、そ、それは、そう……だけど……!」

 

 身が持たないので勘弁してほしい。

 

 渚の身体はひとつ、心臓もひとつ、頭もひとつしかないのだ。

 こうも一気に来られては処理しきれずにオーバーヒートも起こしてしまうもの。

 

 さっきから顔はもうとめどないほど熱かった。

 

 ヤカンがあればとっくに沸いてぴーぴー鳴っている。

 

「ふふっ……優希之さんが喜ぶと思って執事服(コレ)着てみたけど、正解だったね」

「えっ、あっ、や、その、そんなっ、ぁ、あぅ――――」

 

(ありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございます――!!)

 

「……もっと近くに寄ろうか?」

「ぴっ!!」

 

 訂正、もはやそれは彼女の鳴き声だった。

 ぴーぴーと鳴く恋愛感情生まれたてのヨチヨチ歩き、クソザコぴよこちゃん(前世年齢含めると余裕で三十路越え)だ。

 

「なに、どうしたのいまの声」

「な、なななんでも! き、きかっ、聞かなかった、ことに、して……!」

「そこまで慌てなくても。……可愛い声だったよ?」

「み、みなっ、水桶、くんっ!!」

「ごめんごめん」

 

 笑いながらリードする肇は例に漏れず絶賛ハイテンションプレイボーイ。

 渚との距離感が近いだけにその破壊力はいや増している。

 

 ……そう、なんとなく、本日一緒に見て回って彼女も気付いたコトだが。

 

 基本的に褒めたりなんだりと躊躇いなくやる彼だが、その中でも渚は特別ハードルが低いらしい。

 おそらく勉強仲間として色々親しくなったからだろう。

 

 つまり一応、ちゃんと、実はこういう台詞は彼女だけの特権であって。

 

「――――――っ」

 

 それを意識するとまた余計に、頬が溶けそうになる。

 

「……か、からかわ、ないで……っ」

「そうだね。ちょっとやり過ぎだった、うん」

「っ、も、もう……っ、ほんとうに……っ」

「でも嘘じゃないからね」

 

 ふわりと身体が浮く。

 

 腰に、背中に、腕が回される。

 

 距離が縮まる。

 

 目の前には眼鏡をかけた彼の顔。

 

 それが緩く微笑んで。

 

 

「今日も綺麗だよ、優希之さん」

 

「――――――ぁう」

 

 

 ――乙女ゲー主人公(ヒロイン)、優希之渚、十五歳。

 

 惚れた相手にストレートな殺し文句を言われて、再起不能(リタイア)――

 

 

(――なんでっ、どうして私ばっかり……! もうっ……もぉー!! 水桶くんの天然(あほ)ー!)

 

 

 女心と秋の空なんてよく言うけれど。

 

 彼女の心はそうそう簡単に変わってくれないらしい。

 

 

 


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