乙女ゲーに転生したら本編前の主人公と仲良くなった。   作:4kibou

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28/甘いものと意味

 

 

 

 

 お正月が終わればあっという間に冬休みは終わり――了華も南女子の寮へ戻り――肇にとってはいつも通りの毎日が帰ってきた。

 

 涙ながらの別れをしてきた妹のコトはちょっと気になるが、いまはそれより自分のコト。

 

 変わらぬ日々の流れは差し迫った受験への対策でいっぱい。

 学校で授業を受けて、塾で諸々勉強して、家で課題を済ませて自習に励む。

 

 忙しない時期は時間の経過も早いもの。

 

 なにより年の初めは古くから色々と行事ごとも重なっている。

 一月往ぬる二月逃げる三月去るとは有名な言だ。

 

 なので、

 

「もう二月だよ優希之さん……」

「……そうだね」

 

 気付けばまるまるひと月を何事もなく消費してしまっていた。

 

 いや、学力的に成果は十分あるのだが――それとこれとは話が別。

 

 不安の種は早々取り除けるものではない。

 目下彼らの志望校である星辰奏は立ち位置的にいちおう公立高校だ。

 その一般入試は近隣の私立高校より後、二月末に予定されている。

 

 つまり期限まではあと一か月を切っている。

 

 運命の日は本格的に、刻一刻と近付きつつあった。

 

「大丈夫かな……いけるかな……試験……」

「……そんなに心配……?」

「心配だよ、もちろん。……俺は優希之さんみたいに素で頭良くないの」

「いや、私も勉強してるからで……生まれつきじゃないし……」

「またそんなこと言って。この前の期首テスト、忘れてないから」

 

 そう――思い起こされるのはちょうど半月ほど前。

 中学生活最後の三学期がはじまり、しばらくして試験結果が帰ってきたときの話だ。

 

 肇はここで学年首位の座を奪還。

 

 見事五教科の総合計、および各教科の点数でも一位(トップ)に君臨。

 最早これ以上なんてないだろう、と意気揚々塾で待つ渚へと突撃した。

 

 突撃してしまったのだ、身の程も知らずに。

 

『どう? 凄くない!?』

『……ん、すごい。おめでと、水桶くん……』

『ありがとー!!』

『っ!?』

 

 〝きゃぁああぁあぁ――――!?〟

 

 まあそのあたりのリアクションは昨年の焼き直しに過ぎないとして。

 

『それでそれで! 優希之さんは!?』

『……えっと、その……』

『なになに! 何点なの!? もしかして!?』

『――――ん……』

『え、なに? なんだって!?』

『――ま、満点……です……』

 

 満点。

 

 つまりは五教科合計五百点。

 

 一問のミスもなし。

 部分点すらなし。

 

 オールクリア、パーフェクト、素晴らしい、よく出来ました、花丸上出来。

 

 本当の本当に、比喩でもなんでもなく、これ以上ない点数を叩き出したのだ。

 

 そりゃあ勝てない。

 勝てるハズがない。

 

 肇は悲しさのあまり枕を濡らした。

 

 なんという才能の差、これが人間のやる事かと。

 

「――あ、あれは偶々……だから。稀に、あるんだよ……」

「……へぇー、ふーん」

「な、なに……?」

「稀にあるんだ、満点。すごいなー、尊敬しちゃうなー」

「いや……もう、だから拗ねないでって……」

「ふーん」

 

 未だにちょっと……というかは個人の裁量だが……根に持っている肇である。

 

 渾身のテスト結果を容赦ない実力で叩き潰されたのはとんでもない衝撃だった。

 そしてやはり五点の差は大きかったということだ。

 

 そもそもいくら勉強が出来ると言っても限度があるだろう。

 基本五教科で成績が良いというのはせいぜい九十点後半が良いところ。

 

 オール百はない、百は。

 

 なんだ五教科満点って。

 

「それだから優希之さんは受験に緊張も心配もしてないんだ」

「まあ、半分ぐらいそうだけど……」

「半分……?」

「…………ごめん、七割ぐらい……」

「ほら。ほらやっぱり。――まあ良いけど。当然だろうし……」

 

 はあ、と肩を落としながら肇はため息なんてつく。

 

 やれるだけのコトはやった。

 自分なりに必死こいて勉強して、実際学力もそれなりに上がった。

 

 三年になったばかりの頃は上位止まりだった成績もいまやトップだ。

 

 間違いなく躍進している。

 努力は実を結ばなかったワケではない。

 むしろ試験のとおりこれ以上ない形で結果に表れていた。

 

 それでも不安なものは不安なのだ。

 

 なにせ一度目はノー勉で通った比較的緩い市立校。

 

 今回のような挑戦は初めてなのもあって、柄にもなく焦燥感に襲われている。

 悪い表現をするのなら怯えている、と言っても良い。

 

「……大丈夫だよ。水桶くんなら」

「分かんないよ、そんなの」

「元気出して。……えっと、ほら……あ、飴、あげるから……っ」

「……甘い物でつられるほど子供じゃないよ、俺は」

「い、いらない……?」

「もらうけど」

 

 ぽん、と渚の手から包装された飴玉(キャンディー)を受け取る。

 

 とくにコレといった変わり種でもない。

 よくスーパーのお菓子売り場なんかに売っている市販のものだ。

 

 折角なので、早速口に含んでみる。

 

「……美味しい」

「そ、そう……よかった……」

 

 ……疲れたときには甘い物。

 

 成る程たしかにそうだ、と肇は胸中で納得するよう頷いた。

 

 ――にしても、

 

(普通だ……優希之さんの反応的に、なにかあるかと思ったけど)

 

 先ほどの返答にしろ、その前の勧めてくる態度にしろ、少し落ち着かない様子だった渚である。

 正直いたずらの類いかとも思ったのだがそうではないらしい。

 

 貰ったキャンディーは不味くもない普通の味。

 普通に甘く普通に美味しいマスカット味だった。

 

 ならば一体、なにが彼女に些細な異変を与えたというのか。

 

 コロコロと飴玉を口の中で転がしながら、ふと渚のほうへ視線を向ける。

 

「……っ」

「…………?」

 

 机に向かってカリカリと教材にペンを走らせる少女。

 

 その姿は一見して普段とそう変わりない。

 ハイペースを保つ淀みない筆記音も、綺麗な居住まいもまったくいつも通り。

 

 おかしなところがあるとすれば――そう、ちょっと耳が赤いぐらいだ。

 

 というか、顔までなにやら赤くはないかと肇は気付いて。

 

「……大丈夫、優希之さん? もしかして熱でもあるの?」

「へっ!? え、あ、いや! ち、ちがっ」

「真っ赤だよ……様子も変だし。――ちょっとごめんね」

「ひぅっ!!」

 

 言うが早いか、彼は席を立ってそのまま彼女のほうへ。

 お互いの前髪を手で退かして、ピタリと額をくっつける。

 

 その際にこぼれた可愛らしい悲鳴は一旦スルーするとして。

 

 古典的な方法はそれでもわずかな熱を伝えるほどだ。

 気持ち、彼女の体温は高いように思えた。

 

 いいや、それどころかもっと、密着しているだけ無際限に上がっていくように――

 

(――?? え、冗談みたいに熱くないこれ。本当に大丈夫……?)

 

「っ……ひっ、は――はっ、ぁ……ぅ……ゃぁっ……」

 

(俺のが低すぎる……? どっちかっていうと平熱は高いほうなんだけど)

 

「ぅ、ぅうっ……、ぁぅ……ひ……っ」

 

 

 冷静に分析する肇だが、やられた当人である渚はそれどころじゃない。

 

 

(あ、あっ! あっあっ、あぁあぁ――――! あぁあああ――――ッ!!)

 

 

 遊園地の絶叫系アトラクションの乗客もかくやという大絶叫。

 

 ともすれば大叫喚の住人じみた喚き声。

 もっといえば大咆哮。

 

 少女は胸の内で張り裂けそうな想いに声を張り上げている。

 

 偏に肇との距離が近すぎるが故だ。

 

 如何せん何度かあった事案とはいえ目と鼻の先。

 ほんの少しでもどちらかが動けば唇まであたる至近距離。

 

 近い、とにかく近い。

 

 渚はもう身体の芯から震えそうだった。

 

 脳内ではどこかビーバーっぽいなにかが凄まじい声量(アァアアァ――ッ!!)で鳴いている。

 

「み、みみ、みな、水桶、くんっ!」

「……優希之さん、熱――――」

「だっ、大丈夫! 大丈夫、だから! これは、そのっ、えっと……!」

 

 ぐっ、と彼女は全身に力を込めるようにして。

 

「――み、水桶くんのせいだからっ!」

「えっ」

「た、体調悪いとかじゃ、ない……!」

「そ、そうなんだ……」

 

 どういう原理なんだろう、なんてわずかに首をかしげる天然純朴野郎(ポンコツクソボケだんし)

 

 ()()()を合わせるだなんて冗談じゃない。

 そんなのは彼女だって一番身近だった家族にだけしたぐらいだ。

 

 血も繋がっていない赤の他人とくっつけるのは以ての外。

 間違いなく距離感が近すぎる。

 

 ……そう。

 

 だから、問題は。

 

 身内同然の距離感に本来なら嫌悪が先に立つはずなのに、まったくそれが来ないことで。

 

「……でも、無理しちゃダメだよ。俺と同じで優希之さんだって月末が入試なんだし」

「そ、れは……そうだけど……」

「この時期に風邪とか引いたら勿体ないどころの話でもないしねー……うん。体調管理、大事だなぁ……」

「………………、」

 

 むしろ貴方の態度で風邪を引きそうなんですが、とは渚は言わなかった。

 

 わざわざ口に出すのなんて恥ずかしすぎて耐えられなかったし。

 どうせ伝えても理解してくれるかは別の話だし。

 

 なにより、受験が終わるまで誰ともそうなる気はない、と宣言した彼に胸の内を告げるのは違っている気がした。

 

(………………でも、それなら)

 

 もしもの話。

 

 彼が無事試験に合格して、星辰奏(しぼうこう)に受かったとしたら。

 それから先はどうなってしまうのだろう。

 

 渚には分からない。

 

 問答無用で来る者を拒む受験生の防壁はその時点で崩れ去る。

 

 目下最大の障害である理由がなくなるというコトだ。

 そうなった場合、肇に他人からの好意を断るというワケは殆どない。

 

 だから、もし。

 

 ――そのタイミングを狙って、誰かが彼に告白したなら――?

 

(――――……っ)

 

 ……胸が痛い。

 

 心臓とかそのあたりに、藻のような手触りの何かが纏わり付いている。

 厄介なのはそれが決して柔らかく優しく、穏やかでないことだった。

 

 鋸の刃みたいに内臓や血管の外側をざらざらと撫でられる錯覚。

 

 邪魔で気持ち悪くて鬱陶しいけれど、直接その手で掴んで引き摺り出すことは敵わない。

 

 ――ああ、考えただけで、気分が悪くなる――

 

「ほら、やっぱり顔色悪いよ」

「っ…………ぇ……」

「無理、してるんじゃないの。優希之さん」

「……そ、んな……ことは……っ」

「…………、」

 

 渚の言に嘘はない。

 少なくとも彼女の身体は万全だ。

 

 無理をしているのでも、体調を崩しているのでもない。

 

 酷い表情なのは体の都合ではなく心の問題。

 

 今更沈んでいた心が浮上して、生きる意思に余裕ができて、たしかな幸せを噛み締めることができた。

 だからこそ当たり前の思考を取り戻した頭が悩んでいる。

 

 他に目を向けるようになってきたからこその変化。

 

 世界(げんじつ)がどうとか。

 物語(シナリオ)があれだとか。

 人物(あいて)がいるからとか。

 

 そんな尤もらしい理屈がないでもないけど。

 

 本当の、正直に、彼女自身が心の片隅で思っているコトは。

 

「――もう今日は帰ろう」

「っ、え……?」

「それじゃ勉強にもならないって。家でゆっくりしとこう。俺、送るから」

「――で、でも……っ」

「はいはい、問答無用。いいから、ほら」

 

 ささっと自分の荷物をまとめて立ち上がる肇。

 手際の良さはきっと話を切り出す前から心の中で決めていたのだろう。

 

 ……いまの彼女にはその心配が心苦しい。

 

 そのまま渚の傍に寄って気遣うように動くものだから余計に胸が痛かった。

 

 なんともないのにそこまでさせてしまったという罪悪感と、そこまでしてくれるほど彼にとって大事な相手になっているという実感。

 

「……ほんと……大丈夫、なのに……」

「そんな顔で言われても俺が大丈夫じゃないってば」

「………………、」

 

 彼は長い付き合いでも変わらず優しい。

 

 それは他人(ヒト)を選ばない仄かな純真さの表れだ。

 渚に対する尺度が彼女以外とは違っているのもなんとなく察している。

 

 けれど関係性に進展はないまま。

 

 もう一年近くなるかという付き合いなのに、彼と彼女はただの勉強仲間。

 

「行こう、優希之さん。……ゆっくりで良いからね」

 

 いまだに、呼び方だって名字のままだ。

 

「……うん……ごめん、ね……()()、くん」

 

 別に拘っているワケではない。

 そこに執着する意味なんて欠片もありはしない。

 

 けれど共に過ごしてきたこれまでの時間はありえないほど濃くて。

 困ったコトに彼女は大変難儀なものを抱えてしまったのもあって。

 

 だから色々と気になるし、狂うし、おかしくもなる。

 

(…………、)

 

 けれども、もし運命みたいなものがあるのなら。

 用意された誰かと結ばれる道筋が決まっているとしたら。

 

 ――(わたし)はいまのこの感情(こころ)も忘れて、誰かに夢中になってしまうのだろうか……?

 

(それは――……)

 

 非常に怖い喩え話。

 夢物語みたいな益体のない想像だ。

 

 気になっただけで確信はない。

 これといった予感もそう。

 

 可能性のひとつとしてふと思い浮かんだだけで、そうなる理屈は一切なかった。

 

(…………、…………私は)

 

 力無い足取りで肇の背中を追っていく。

 

 なんにせよ舞台はもう目前。

 泣いても笑ってもいずれこの身で体感するときが来る。

 

 ……だったらそのときに。

 

 それでも私が、貴方を想うような未来があれば――

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 少し早めの帰宅時間はいつもよりわずかな明るさの名残があった。

 

 とはいえ日が短い真冬の季節。

 気持ち闇が浅いだけで、あたりはすでに多くの影をつくっている。

 

 渚の調子は変わらない。

 

 負ぶっていこうか、という肇の申し出は決死の形相で首を横に振りながら断られた。

 かといって自分ひとりで歩けるという彼女を放置しておくコトもできず。

 

 結果、速度を落としてゆっくりとふたり並んで歩いている。

 

「辛かったら言ってね?」

「……別に、平気……だから、本当……」

「…………、」

「……嘘じゃないから……うん……」

 

(うーん、強情……)

 

 当然ながら肇は渚の不調の原因を知らない。

 それがまさか彼自身の手で立ち直らせたコトが原因だなんて想像もつかない。

 

 過去を引き摺ったままの彼女であれば来たるべき原作(モノ)に思うところはあれ、悩み苦しむコトなどなかっただろう。

 

 頭の中は(こころ)の隙間まですべて亡くした彼しかないからだ。

 それが何の因果か、彼と出会ってしまったせいでブレている。

 

 少女らしく、生きた人間らしく。

 

「…………、」

「――――、」

 

 物事の価値観は個人個人によってまばらだ。

 

 最低限の生き方を胸に、無感動のまま命を消費すること。

 新たに抱いた想いを胸に、傷は痛くとも前を向いたこと。

 

 どちらが正解で、どちらが彼女にとって幸せな人生だったのか。

 

 それは誰にも分からない。

 

 肇にはもちろん、選ばなかった未来との比較は渚にだってそのように。

 

「……っと、着いたよ」

「ぁ…………」

 

 ふと、気付けばいつもの分かれ道だった。

 

 渚の家はすぐそこ、肇はまだまだ進んだ先のところ。

 

 なんだかんだで不可侵になっている互いの分岐点。

 そこから彼女が彼のほうへ踏み込んだコトも、逆に彼が彼女のほうへ来たコトもない。

 

「……家まで送らなくて平気?」

「っ、う、うん……あり、がとう……」

「…………、」

「そ……それ、じゃ――」

 

 そっと後退りして、渚が踵を返そうとしたとき。

 

「優希之さん」

「っ!」

 

 ぱしっ、と。

 

 彼にその手を掴まれる。

 優しく、暖かく、包み込むように握られる。

 

「へ!? あ、えっ、な、なっ……!」

「俺は優希之さんの味方だから。遠慮とかいらないよ、いつでも相談乗るからね」

「っ――――……、……う、うん……っ」

「それだけ。……ずっと浮かない顔してるんだから、もう」

「……そう、だね。……ごめん」

 

 こくりと渚が俯くと、その手は彼女の頭へ移動した。

 銀糸の髪を梳いていくみたいにそっと撫でられる。

 

「……だからゆっくり休んでね。優希之さんが元気ないと、俺も寂しいし」

「…………うん」

「……それじゃあまたね。ばいばい、優希之さん」

「……うん、また……ね、水桶くん……」

 

 最後に笑いながら手を振って、肇は歩き出した。

 その背中を渚はしばらく見送る。

 

 きゅっと胸をおさえるよう指を握り込んで。

 見えない心臓の鼓動を掴まえるみたいに。

 

 嫌な想像もした。

 ありえないコトも考えている。

 数々の正しい理由と賢い理屈に彼女の選択は塗れている。

 

 ……でも、そんなのはただ本心を隠しただけの張りぼてに過ぎない。

 

 結局のところ、なにが言いたいかといえば。

 

 彼女はただ――怖いだけ。

 

 この関係が()わるのが。

 彼との時間を過ごせなくなるのが。

 いまのこの立ち位置がなんでもないモノになるのが。

 

 肇の隣に立てないかもしれないコトが。

 

 唯々怖くて、仕方ないだけ。

 

(私は――――……)

 

 度胸のなさが情けない。

 大義名分があるからと現状に甘んじている姿はなんとも惨めだ。

 

 彼との距離が心地良くて、ずっとこのまま続けばなんて一瞬でも思ってしまった自分の弱さに恥じ入る気持ち。

 

 でもそれは、結局昔となんら変わらない停滞した心向きだった。

 

「……っ」

 

 変わりたいと思うのか。

 

 分からない。

 

 変わるのは怖い。

 終わるのは怖い。

 

 本当になにをどうしたいのか、彼女には答えも見つけられていない。

 

「――――っ」

 

 風を切る。

 足を動かす。

 

 頬を伝う冷気を無視して走っていく。

 

 分からない、分からない、分からない。

 

 なにもかもが彼女にとって新鮮だった。

 慣れ親しんだ感覚など欠片も存在しない時間。

 

 古びた以前(むかし)の知識なんてぜんぜん役に立ってはくれない。

 

「――――水桶くんっ!」

 

 それでも、初めに変えてくれたのは彼だから。

 

「……優希之さん?」

 

 遠ざかっていった彼の手を掴んで、ぎゅっと握りしめる。

 

 らしくもない全力疾走は渚の体力をごっそり持っていった。

 エネルギーを一瞬で使い切ったも同じ。

 

 ぜーはーと、肩で息をしながら呼吸を整えていく。

 

「どうしたの、そんな――」

「っ、あ、の!」

「? うん」

「そのっ、えっと……だから……っ」

 

 掴んだ手を離して、唇をちいさく結ぶ渚。

 

 ――大丈夫、大丈夫、大丈夫。

 

 慌てるなくてもいい、焦る必要なんてどこにある。

 きっと、おそらく、たぶん、絶対――彼に知る由なんてない。

 

 だから大丈夫、なにも起こらない。

 起こっていいハズがない。

 

 それは今までの肇の言動から予測した、信頼できる渚の直感だった。

 

 

 

「――――こ、これ! 渡すの、忘れてた……っ」

「……マカロン?」

 

 

 ラッピングされた透明な袋を彼に贈る。

 

 隙を衝くようなさりげない渡し方ではなく。

 面と向かってはっきりと、逃げも隠れもしないように。

 

 公立高校の一般入試まで一か月を切った日。

 

 

 二月、日付は――――十四日。

 

 

 

「バレンタイン?」

「そ、そう……っ!」

「ふふっ……ありがとう。……これ、もしかして手作り?」

「で、です……!」

「おー、凄いね……流石は優希之さん」

 

 なにが流石なのだろうか。

 渚にはそのあたりてんでさっぱり。

 

「ん、家で食べさせてもらいます。お返しもちゃんとするからね」

「う、うん……、ま、不味くはない、と……思うから……っ」

「……にしてもそう走らなくても良かったんじゃないかと」

「こっ、これは、そのっ……つ、つい、あの、い、勢いで……!」

「そうなの? ……とにかく嬉しいよ、こういうの」

 

 くすりと微笑む肇に、じんわりと熱が広がっていく。

 

 ……本当、都合がよろしいことに。

 

 こういうときだけは胸の靄もトゲもなにも綺麗さっぱりなくなるのだから、彼はやっぱりズルい人だ。

 

 

「――クラスの女子からも何個か貰ったし」

 

 

 もやっ。

 

「……もらっ、てたんだ……」

「? うん。クッキーとか、チョコとか」

「……そう……」

「あとキャンディーとか、珍しいのだとカップケーキとか?」

 

 もやもやっ。

 

(何個か本命(ガチ)じゃないそれ……!?)

 

「みんな好きだよねー……いや、俺もありがたいから良いんだけど」

「水桶くんっ」

「? どうしたの」

「余計なコト、考えないでね……!」

「え、あ……うん……?」

「お、お願い、だから……!」

「うん、うん……なんか分かんないけど、分かった、うん」

 

 圧が凄かった。

 こう、ぐぐぐーっと近付いてくる壁を思わせるほど。

 

(もしかしてとは、思ってたけど……!)

 

 ――いやしかし、だがしかし。

 

 そう。

 

 彼ならば気付かない。

 

 というか頼むから気付かないでくれ。

 

 どうせなら共倒れの精神である。

 

 いくら塾が一緒で過ごす時間も長いとはいえ他校の生徒である渚は相対的に不利。

 同校のクラスメートなんていう特大のメリットには普通に考えて勝ちようもないのだ。

 

「――っ、そ、そういうコトだからっ」

「あ、うん。またねー、優希之さん」

 

 二度目の挨拶をして今度こそ彼と別れる。

 

 とりあえずの決着はついた。

 走り去る彼女にひらひらと手を振った肇は、ふむと考えるよう顎に手を当てて。

 

(……これを渡すか悩んでたのかな? だとしたら中身は一体……?)

 

 むむむ、と見当違いの思考回路を展開していく天然ボケ。

 渚の想像したとおりその意味まで知らなかったのは幸か不幸か。

 

 なんであれ、今はまだ変わり行く時期ではない模様。

 

 少年は純粋に頬を緩ませて、帰り道を歩いていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから家に帰って。

 ふと彼女からもらったお菓子(マカロン)を一口囓ってみれば――脳髄を痺れるような感覚が走った。

 

 いや、毒とかそういった類いのものではなく。

 

 もっと人体の奥側を叩くような微かな衝撃。

 

 これは――――

 

 

(……なんだろう。この味、どこかで食べたような気が……)

 

 

 そんな筈はないのに、謎の懐かしさに舌鼓をうつ。

 

 真相は不明。

 まったくもって分からないけれど、ひとつ彼から言える事は。

 

 その味は今まで食べたモノを軽く凌駕するほど。

 

 なによりいちばん、美味しく思えた。

 

 

 

 

 

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