乙女ゲーに転生したら本編前の主人公と仲良くなった。 作:4kibou
その年の夏は、開放的な空気に満ち満ちていた。
七月某日。
とある地方都市の一角にて。
少女はすこし大きめの荷物と共に約三ヶ月ぶりの帰省と相成っていた。
眼前にそびえるのは見慣れた家の扉。
右に左に並ぶのも見慣れた道路と町並み。
そして肺に取り込むモノすらどこか懐かしさを覚える匂い。
しみじみと郷愁の念を充足させて、ひとつ「よし」と意気込んでみたりする。
彼女の名前は水桶了華。
今年で十五歳になる中学三年生。
普段は全寮制のお嬢様学校である南女子に通う、水桶家自慢の真面目な長女である。
(――――ついに)
そんな彼女はいま、実家の門を目の前にして感慨深い思いに浸っていた。
(ついにこの時がやってきました……!)
ぐわしっ! とガッツポーズなんてする優等生。
通りすがる隣人が「了華ちゃんまた今回もやってるわ」なんて目で見ているが彼女のあずかり知るところではない。
(遠慮なく兄さんと触れあえる日常が、ついにっ!)
きらきらと目を輝かせる了華だが、これでもいちおう春休みはちゃんと帰っているのだ。
しかしながら問題はそこではない。
彼女が気にしているのは離れていた時間ではなく一緒に居る機会のコト。
思えばそれは一年ほど前から。
〝将来のために少しでも良いところに進学したい――〟
そうやって
今までのルーチンワークがなんだったのかというぐらい真剣に学問に励んだ。
部活もせずに家でゆっくりしたりトレーニングしたりしていた時間を塾に費やし、それまで宿題程度だったのを予習復習へ手を伸ばし、あまつさえ土日祝日を返上してまで自習するような毎日。
平時は寮生活で遠く離れている了華でもそのやる気……というか謎の熱意……みたいなものは薄々と感じ取れた。
ゆるふわぽわぽわーっとした兄がちょっとではあるが一生懸命やれている。
それは少女としても喜ばしいコトに違いない。
事実、彼女はできるだけ兄の邪魔をしないように気遣い、長期休暇の帰省時も勉強のほうを優先させ、どうしても我慢できなくなったときだけちょこっと押しかける……なんてぐらいに接触を絶っていた。
だがそれも四月までの話。
猛勉強の成果か、彼は無事
いまとなってはなんの問題もなく実家から元気に登校していると聞く。
当初は不安だったハイレベルな授業にもどうにかついていけているらしい。
――――ならば。
ならば、そう。
一体ここに来てなんの憂いがあるというのか。
(夏休みはずっと塾! 冬休みもずっと勉強! 春休みは入学のゴタゴタで時間が足りず! ゴールデンウィークは私が帰れず! ついにやってきた夏休みの時間!!)
もはや彼女を縛る鎖はどこにもない。
ばきばきばーにんぐはーと! と胸中で派手にチェーンをブレイキングした了華は意気揚々と久方ぶりの実家へと足を踏み入れた。
「ただいま戻りましたっ」
合鍵は両親から持たされているので遠慮無く鍵をあけて玄関の扉を開く。
学生諸君にとっては夏休みとはいえ平日の昼間だからだろう。
返ってくる声は居間のほうからひとつだけだった。
もちろん、了華には聞き覚えがある――いや、むしろありすぎる――男性の声。
にへら、と口の端がどうしても緩む。
弾む気持ちはおさえられない。
去年は受験のシーズンだから、大切な時期だからと勢いを強めていた理性はすでに淡く儚くぱっと光って過去へ消え去った。
だが問題ない。
今年の夏は嫌というほど、飽きるほど、死ぬほど、溺れるほど兄に構ってもらえる。
それだけで少女の未来は薔薇色だった。
ああ、なんて明るい人生。
希望に満ちた将来。
幸せに包まれた時間の幕開け。
――はじまりの鐘の音は居間へ繋がるドアノブを捻る音と共に。
がちゃん、と下ろされた引き金は穏やかな響きを伴って閃いた。
視界が染まる。
真っ白に。
いずれ向かえるべき光に埋まるように。
そうして彼女は、満面の笑みで片手をあげて――――
「お久しぶりですっ! 兄さ――――」
「ん、おかえり了華。久しぶりだね」
「あっ、お邪魔してます」
「――――――――――ほぉーりぃしぃぃいぃいいぃいいいッッッと!!!!!!」
「えっ!?」
「了華?」
爆発するように叫びながら崩れ落ちた。
こう、膝からガクンと。
「どうして……! なぜ貴女が居るんです……!?」
「え、あれ……肇、言ってないの……?」
「――
「あ、ごめん。渚のコト伝えるの忘れてた」
「――
ワナワナと震える了華はテンションの乱高下のためか息が乱れていた。
居間には彼女の予想通り兄――水桶肇が待っていた。
ぽやぽやふわふわ。
天然純朴、鈍感唐変木。
人並み外れたセンスと意識と、上手い具合の常識加減で構成された、少女が世界でいちばん慕うお兄ちゃんである。
それは良い。
むしろ最高だ。
家に帰って最愛の兄がリビングで待っていてくれるコトのどれだけ幸福なコトか。
了華はもうこの現実を噛み締めても噛み締めても足りないぐらいに、ともすれば味のないガムを延々と噛み続けるぐらいに噛み締めている。
問題はそんな彼の隣にちょこんと居座ってやがる女のほうだった。
(――――優希之渚……!)
ぎりり、と黒板を引っ掻くような擬音の似合う視線で了華が渚を睨む。
彼女の聞いたところによれば、兄が偶然選んだ塾の自習室で
そしてこれまた
そんな少女がなんの因果か。
高校の一年の夏休みに、
何食わぬ顔で、
同級生の家にあがりこみ、
あまつさえ二人っきりでいたという。
……びびび、と震えた彼女の
了華は眼前の光景にこれ以上ない危険信号を感じ取った。
ひしひしと伝わるアブナイ気配、イケナイ太陽に視線の鋭さが二割増しになる。
この女はまずい。
なにがまずいかなんて言うまでも無い。
こいつは。
このメスは。
(私の兄を奪い取っていく女の匂い――――!)
「あ、言い忘れてたけど俺と渚付き合いだしたんだー」
「う、うん……っ」
「――――――がぁああぁああッッッッッッでぇむ!!!!」
神は死んだ。
了華は両拳を握り締めて思いっきり床を殴りつけた。
どんっ、みしみしぃ。
居間のフローリングが切実な悲鳴をあげている。
きっと母親が在宅中であれば間違いなく怒られる威力だろう。
「そんな……っ、だって兄さん、高校で彼女つくる気とかないって……!」
「えー、言ってたっけ?」
「言ってましたっ! 今年の三月二十一日午前十時五十四分二十一秒から四十三秒にかけて言い切ってましたっ!!」
「なんでそこまで細かく覚えてるの……」
「とにかく言いましたっ!!」
問い詰められると痛いところを強引に躱しつつ了華は主張する。
なお肇がちょっと引いているあたり完璧に躱しきれているとは言えなかった。
それでもドン引きとはいかないのは偏に彼の肉親への情に違いない。
前世で姉妹関係が盛大にバグりちらかしているため、今生でも距離感は盛大にバグりちらかしているのだ。
……尤も彼女のような妹が生まれてしまったのはそのせいなのだが。
事の発端。
原初の理由。
主犯格たる渚はもちろんそれに気付かないまま苦笑いで了華を眺めている。
目の前の光景をつくりだした原因はぜんぶ貴女ですよ、とはおそらく誰かから言われるまで気付くコトもないかもしれない。
いや、現状それを言う誰かさえこの世には居ないのだが。
「――まぁでも仕方ないよ。なっちゃったもんはなっちゃったんだし」
「仕方なくありませんっ! 兄さんは……兄さんは私の兄さんなんですぅー!」
「あはは……肇、やっぱりすごい好かれてるんだねー……」
「うん、ありがたいコトに」
「そうです私は兄さんのコトが世界でいちばん好きですけど!? 貴女はどうなんです!?」
「生まれ変わっても大好きだよ」
「うわ、照れる……」
「クソァ!!」
「了華、了華。すごいコト言ってる、口調がお嬢様学校のそれじゃないよ」
「ええい! なんなんですか!? お付き合いがなんだというんです!? 私は認めませんからね! 貴女のコトなんかッ……絶対の絶対に認めないんだから――――!」
◇◆◇
――それから約二時間後。
「了華ちゃん、クッキー食べる、クッキー? これ美味しいよー」
「食べますぅ……」
この通り。
水桶了華は渚の膝の上でふにゃふにゃに溶かされかけていた。
「…………はっ!」
「? どうかした?」
「いえ! 違います! こうじゃない! こうじゃないでしょう! しっかりしなさい水桶了華っ! 渚さんは敵……! 渚さんは敵……!!」
「そんな悲しいコト言わないでー、お紅茶飲もっ。ほら、ミルクと砂糖入ってるから甘くて美味しいよー」
「――ずず……はふ……、」
〝――――いや待てだからちがうッ!!!!〟
がるるるる、と了華のなかで起き上がる防衛本能モンスター。
思わず紅茶の温かさと甘味にほだされかけたが彼女だってもう立派な中学三年生。
流石にお菓子と飲み物で懐柔されるような年齢ではない。
了華は渚の膝の上、むぎゅむぎゅと半ば抱き枕にされながら冷静に思考する。
驚くべきはひとつしか変わらぬ女子の包容力――ではなく、彼女の心にピンポイントでクリーンヒット、ぶっ刺さってくるような構いようだ。
これでもかというほどのスキンシップ。
身を任せたときのすさまじい安心感。
肌の温度が心地良くさえ思えるとてつもない環境。
間違いない。
それは彼女が受けてきたモノのさらに上を行く極限の頂。
いつかの時代に於いては、ひとりの心傷付いた少年すら前を向かせた対・下の兄弟姉妹特攻兵器。
でれでれどろどろの姉ばか甘やかし攻撃だ。
「いけません! いけませんこんなの! 兄さんは私が守るんですっ!」
「了華ちゃんは私のこと嫌なの?」
「イ――――ヤというワケではないコトもなきにしもあらずにもあらずでもないですけどっ!」
「じゃあ良いじゃないっ」
「そうですね! …………そうですねじゃないでしょうッ!?」
うがぁあぁあああ! と吼える少女の心境は如何ほどか。
わずか三十分足らずで陥落した妹防護壁は虚しくもされるがままだった。
けれど致し方なし。
なにせ渚は肇の技術の基になった原形だ。
薄めないカルピス原液そのままみたいなものである。
ずっと薄めたカルピスを極甘と思っていた人間にそれを出せばどうなるか。
簡単なコト。
相性の悪さからキャパが瞬で融けるコトなど目に見えていた。
「すっかり仲良しだね、ふたりとも」
「ふふっ、なんだか
「気が早いよ、渚」
「早いに越したコトはないでしょー? 了華ちゃんは私がお姉ちゃんになるの、いや?」
「イヤじゃな――――くもなくもないですが!?」
「ほらねー」
「もう、了華ったら……」
「あぁあぁあああぁあ!? 私っ、私はなにを!? 口が勝手に……!!」
溺愛妹、すでに後戻りできないほど本能をおさえきれていなかった。