乙女ゲーに転生したら本編前の主人公と仲良くなった。 作:4kibou
いつか、泥のように濁った瞳を見た。
遥かに遠い
いまは関わる術も無い隔絶した空想の夢。
すべてを手に入れて、そのすべてを悉く失った誰かがいた。
隣に在るもの。
守るべきもの。
守らなくてはいけなかったもの。
本当に大切なモノは無くしてから気付くという。
言わずもがな。
まさしくその通り。
胸に抱えた悲しみは当然の量だった。
落ち込んで俯いていた時期がないワケではない。
ヒトはそれを悲劇という。
耐えがたい艱難辛苦の連続だ。
暗く淀んだ道程だと。
――そんな声を、馬鹿らしいと一笑に付す誰かがいる。
真面目な男はこう答えた。
〝人生とは常、学ぶものだ〟
傷は消えない。
痛みは癒えない。
無くしたものは戻らない。
精神も肉体もぼろぼろだった。
無事なところなんてないぐらい、どこもかしこも傷だらけ。
間違っても綺麗だなんて言えない有様。
されど、掴んだ欠片を手に前へ進めるのが人生だ。
誰かは笑って歩いていく。
こぼれ落ちてしまった大切なもの。
もう二度と手に入らない大事なもの。
それはとても悲しいことだけれど、胸の記憶にはそれまでに得たものがたくさん詰まっている。
ならばどうというコトはない。
原動力は十分足りている。
悲しくて泣いたけれど、もう涙がでないぐらい泣ききった。
それでいい。
――――簡単な話。
顔をあげればきっと世界は事も無しに見事で。
生きていくだけで、
◇◆◇
その日の夜、渚は妙にそわそわして寝付けなかった。
人生におけるひとつの重要な節目を目前としたときのコト。
いつも通り布団に入った彼女だったが、一時間、二時間……と経ってもなかなかどうして眠気がやって来ない。
むしろ時間が経てば経つほどに目が冴えていく。
挙げ句、ベッドの上でぼうっと暗い天井を眺めながら考え事までする始末。
これはイカン、と渚は一度起き上がるコトにした。
寝間着のまま部屋を出て階段を降りる。
(…………あれ?)
と、見れば一階のリビングからは淡く光が漏れていた。
時刻は零時を回ってしばらく。
普段なら両親も寝静まった深夜帯。
電気でも消し忘れたのだろうか、と彼女はそっと中を覗いて。
「――お父さん?」
「んー? ……お、なーちゃん」
ひらひらと手を振りながら真っ赤な顔で父親が笑う。
手には珍しく銀の
テーブルに用意されたおつまみも生ハムとチーズだ。
一体どういう心境の変化だろう、なんて内心疑問に思いながら渚は居間へ足を踏み入れる。
「まだ飲んでたの……」
「なーちゃんこそまだ起きてたの? ダメだよー、しっかり寝ないと」
「分かってるよ。……なんか落ち着かなくて。水飲みに来たの」
「お水かー。なーちゃんは健康志向さんだねぇ」
「お父さんは酔っ払いすぎだね……どう見ても……」
ひっく、なんてよくある反応を返す父親。
見ればテーブルにはすでに一本空になったボトルが転がっていた。
いま飲んでいるのは二本目というコトになるのだろう。
繰り返すが時刻は日付を跨いでちょっと過ぎた頃。
平時にしろそうでないにしろ、この時間まで起きて飲んでいるというのは娘として少し心配にもなってくる。
「……二日酔いとかやめてよ」
「大丈夫大丈夫。このあとコップ五杯分ぐらい水飲むからネ」
「いや途中途中で飲みなよ……もう……」
「あっはっは。パパはお酒は嗜みたいタイプなのだー」
(すでに会話がなんか怪しい)
ひっそりと息をつきながら冷蔵庫をあける。
常備されている市販の飲料水を取り出して、適当に用意したコップに注ぐ。
せっかくなのでついでにふたり分。
ひとつは自分で持って。
もうひとつは父親用にテーブルへ置いて。
「ん、ありがとー」
「……お父さんもはやく寝てよ。明日だって――」
「分かってる分かってるー」
「……ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だって。なーちゃんは心配性だなぁー」
「…………、」
気持ちいつもよりふにゃふにゃになっている大黒柱を見て心配するなというほうが無理な話なのだが、肝心要の本人はそこまで頭も回っていないようだった。
加えて明日は色々と彼女らにとって大変な日。
ともすれば一生に一度あるかないかという大切な機会だ。
忙しないのも疲れ果てるのも目に見えている。
本来ならふたりとも揃ってぐっすり眠っていなければいけない。
が、現状はこのとおり明日が今日に変わってもまだ床についてはいなかった。
「……ワインなんか開けちゃって。いつもビールなのに、今日に限ってまた……」
「久々に飲みたくなってね、うん。色々とパパも思うところがあるワケだ」
「ふーん……」
「ま、こういう時でもないと飲めないし!」
ぐい、と父親がグラスの中身をひと息にあおる。
赤い顔はそうやってハイペースでアルコールを摂取した証拠だろう。
いくらつまみながらとはいえ二本近い量は普通に考えても多い。
端的にいって完全に出来上がっていた。
べろんべろんとまではいかないが、もう千鳥足ができるぐらいには酔っ払っている。
無論、ソファーに座っているので実際のふらつき加減はどうか分からなかったが。
「時間が経つのは早いね。なーちゃんがもう大人だ」
「……急にどうしたの」
「いやいや。だってこの前までこんなに小っちゃかったのに」
そういう父親は自分の足のくるぶしあたりに手を添えてニコニコ笑っている。
地上約五センチあるかないかといったところだ。
「その私たぶん人間じゃないと思う」
「そっかそっか。じゃあこんぐらい?」
今度は使っていたフォークをピンと立てて渚に示す。
変わらずそれもおそらく人間で適用できる大きさではなかった。
「もういいよ……それで、どうしたの」
「うんにゃ。ちょろっと昔のコトを思いだしてねー」
「……昔のコト?」
「そう。なーちゃんを初めて抱いたときかなー」
トポトポと空になったグラスに再度ワインが注がれていく。
渚はそれをなんとはなしに見詰めながらコップを傾けた。
とくに気にするコトもないはずの夜の一幕。
日常に紛れこんだ至って普通のズレたひととき。
それがどこか、なにかに重なったような気がした。
「正直、駄目だこれってパパ思ったんだよ」
「……どういうこと?」
「なーちゃんの目がね。なんていうか、昔によく似た子を見たコトがあって。その人のことを考えると、無事に育てられるとは思わなかった」
「私の目……?」
「命の価値観が濁りきった、泥みたいに淀んだ目」
「――――――――」
その言葉がなにを示しているか分からない渚ではなかった。
なにより時期が時期である。
彼女がこの世に産まれ落ちた瞬間。
たとえ赤子であったとしても、その瞳に宿した意思がどんな色だったのかなんて安易に想像がつく。
きっとずっと、引き摺っていたままの酷い色彩だ。
「俺の勘はよく当たるんだ。確信に近くさえあった。きっとどうやったって無理だって、諦めかけたんだよ」
「…………そう、だったんだ」
「うん。でも、すぐに違うなってパパ考えちゃってさ」
「…………、」
「だからってなにもしないまま放っておいて良いワケがないよなー、ってなーちゃんのこと嫌というほど甘やかすコトに決めたんだ」
「……結局この歳までずっと
「良いじゃない、かわいいでしょ? なーちゃん」
「やめてって……何回言っても聞かなかったね……」
からからと笑う父親は楽しげにお酒を飲み干していく。
どこか心の奥底で隠していたコト。
誰にも見せないでいた思い出の残滓。
それがこぼれたのは間違いなく酔って箍が緩くなったからだろう。
故にこそいまこの瞬間。
この状態だからこそ露呈した事実だった。
「……そのよく似た子にはね、俺はなーんもしてあげられなかった。なに言っても無駄だし、なにしても駄目だし。こりゃもうお手上げーってなって、見捨てちゃったんだよ」
「……ふーん……」
「結局、その子がやらかしちゃってさ。そのときに気付いたっていうか、めちゃくちゃ後悔しちゃったのよ、パパ。あぁ、もっとなんかやりようあったろうに、なにしてたんだよーって。……そりゃそうだよね、先には立ってくれないワケでさー……」
「………………、」
語る口調は軽やかに。
父親の醸し出す雰囲気からか、そもお酒が入っているからか。
わりと重い内容だろうに、それは笑い話のごとくふわりと流された。
ずいぶん前まで彼女の抱えていたような陰鬱さなどまったくない。
ただそんなコトがあって、懐かしく今に思い出しただけ。
辛く苦しい過去ではなく。
悲しいだけの思い出じゃなく。
あのときああいう失敗もあったけど、なんて若気の至りを恥じるように。
「だからパパはさ、こう考えたのよ。きっと愛情が足りないからだって。いっぱいたくさん真っ直ぐ愛したらいけるんじゃないかって。そうしてなーちゃんが育ったのです」
「……そっか。それで……どうなの、結果は」
「言うまでもないでしょ? 大成功だよ、大成功。もう感動、最高! なーちゃんの輝かしい未来に乾杯! って感じ! ……もう一本開けようかなー」
「いや流石にこれ以上は駄目だから。お水飲んで、水」
「あ、あと一本だけ……!」
「駄目」
がっくりと肩を落とす父親。
それに渚は呆れ交じりの息を吐きながら、飲み終わったグラスを自分のコップと一緒にキッチンへ持って行く。
「やっぱり人生は常、学ぶものだよ。コレ重要。パパの座右の銘だから」
「へぇー……」
「あ、聞き流してるな。わりと真面目なこと言ってるのに」
「そういうことならお父さんも早く寝て。明日、しっかりしなきゃでしょ」
「そうだねぇ……」
彼はくすりと、ちいさく笑って。
「――――いやほんと、その通りだ」
わずかながら。
少し低めの音を出した。
いつもの緩い態度とは違う硬い声。
一瞬別人かと思うほどの響きは、されどふにゃりと笑う様相にかき消されていく。
酔っ払った父親は変わらず赤くなったままヘロヘロだ。
「お父さん?」
「……実はね、けっこう楽しみだったんだよ。自分の子供の結婚式。ぶっちゃけ長年の夢だったとも言える」
「…………そっか」
「ま、だから色々考えちゃってさ。お酒飲んでたのよ、パパは。それもなーちゃんに怒られちゃったからここらで終わりかなー?」
「……そうだよ、終わり終わり。さっさと休んで」
「あははっ、厳しい娘に育っちゃってもー」
軽くふらつきながら父親がソファから立ち上がる。
足取りは揺れているものの酷くはない。
おそらく寝室へ戻るぐらいならどこかにぶつかるコトもなくいけるだろう。
渚はそんな父の背中をそっとリビングから見守って、
「あ、言い忘れてた」
ふと、父親が振り返る。
へらへらとしたいつもの表情はどこか引き締まったものに変わっていた。
姿形はまったく違う。
顔も髪色もまったく似ていない。
けれど何故か。
どうしてか。
その景色に重なる影を、渚はたしかにその目で捉えた。
「――おめでとう。幸せになりなさい、
それは胸に染み渡るように。
微かな予感は鈴の音を鳴らすように。
誰でもない彼女へと突き刺さるひとつの言葉だった。
渚はわずかに目を開く。
けれどそんな反応も一瞬。
しばらくして、彼女はどこか懐かしむように。
「……うん」
こくりと頷きながら、声を返した。
「今までありがとう。
「――ん、今度は間違えないようにね。
……彼女が母に似たというのなら、きっと彼は父に似たのだろう。
なにをするでもなく前向きに生きて笑っていく。
傍から見れば物静かであっても胸のうちには暖かさが渦巻いている。
俯いてもいずれ必ず顔を上げる強さの象徴。
それがどこかの誰かにとっての、記憶に残る偉大な背中だった。
◇◆◇
(――にしてもまあ、因果だなあ……)
くすくすと彼は笑う。
いやはやなんともまあ、業が深いというかなんというか。
(相も変わらずあの子も達者だ。前みたいに手を回すのは……しんどいなぁ。サラリーマンには人脈が足りてない。なにより、
出会ったときはともかく、あの絵を見て気付かないワケもなかったと。
(となると、うん。旦那様にはいつどうやって、驚かせてみせようか)
くすくす、からからと。
彼は笑いながら部屋に向かう。
そんな悪戯心もまた一興。
考えてるだけで尽きない幸せの在処だ。
想像してみれば余計に。
よもやまさかの事態を前に、いつぞやの天才児はなんて反応をしてくれるものかと――
これを匂わせてもなくておまけ話まで大事に隠してたのに感想欄でピンポぶち抜かれたのなんなん??