にゃんこのぬいぐるみを目の前に見据えて、私はゆっくりと口を開いた。
「お前は誰だ?」
その問いに、にゃんこは沈黙をもって答えとした。
「もう一度聞くぞ。お前は何者だ? 何故ここにいる?」
僅かな静寂を経て再び問いかける。しかし、にゃんこは口を開くことはなかった。
いや、本当にどうしてコレを買ってしまったのか。
もうダメかもしれない。
この記憶が戻ってからの短い期間で私の精神が限界を迎えつつある。こんなことではいけないと思いつつも、物言わぬにゃんこと対峙するだけで既に疲労困ぱいの状態なのだ。
セレヘブ主人公君大爆走から始まり、東條タリアキャラ変事変、犯人不明の魔巣窟での謎転移事件、恐怖の東條タリアとの再対談に終わる出来事たちは、どれもこれもが私の心を疲弊させてくれた。その中でも私を震撼させたのがこのにゃんこのぬいぐるみを買ってしまったことだ。何を隠そう前世の私は猫派ではなく犬派なのである。
だが、今世の私は希海の影響を多分に受けてしまったせいで犬派ではなく猫派になってしまった。由々しき事態である。
確かに目玉焼きには塩コショウではなく醤油をかけてしまうし、好きなコーヒーはブラックよりもミルク入り砂糖マシマシのコーヒー牛乳*1が大好きだ。全て前世で好きだったものが今世で否定されようとしている。
しかし、にゃんこの前では弱音を吐いてはいけない。……という謎のスローガンを掲げて、何とか自力で頑張ろうとはしている。
何度「おい」と呼びかけても返事をする素振りのないにゃんこを見て、やっぱり自分は疲れ果てているのだと自覚する。にゃんともすんとも鳴かないぬいぐるみ相手にコミュニケーションを図るというのは中々に難儀なことなのだ。
そんな時だった。
にゃーにゃーと声が聞こえてきた。鳴き声ではない。それは言葉であり、人間の言語だった。入口に向かってクッションを投げると、それをキャッチする音が聞こえた。
「……あれ、お好みでは無い?」
「結衣、早く寝なさい」
「わかってるよー!」
私が投げたクッションを持って妹が騒がしく逃げていく音が聞こえた。全く、もう中学二年生だというのに落ち着きが無いものだ。
ため息混じりに漏れた独り言は誰に聞かれることも無く夜の闇に溶けて消えていく。明日提出予定の宿題があることを思い出した私は再び机に向かう。腰に置くためのクッションを投げてしまったので座り心地が悪くなってしまった気がする。
なんだかんだ言って集中力も途切れてしまったこともあり、気分転換にとテレビをつける。
『──今日午後8時頃にまた新たな被害者が発見されました』
どうやらニュース番組をやっていたらしい。
キャスターのお姉さんが悲痛そうな面持ちをして画面の中でニュースを読み上げているのが分かった。
『今回はまた酷く、無残なものとなっていました』
流石にモザイク処理で何が何だか分からないような処理がされているものの、死体の画像は酷いものであった。
本当に。嫌な事件が起こるのは前世でも今世でも変わらないらしい。
地方で起こった出来事だとはいえ自分たちに直接関わりないと思うとホッとする。
世の中は玉石混合であったり清濁併せ呑むだったりと色々言われたりするが結局は綺麗ごとだけでは回らないことは間違いない。
「私ももう少し目の前のことに向き合ってみなきゃダメかなぁ……」
有言実行などとは行かないだろうがひとまず声に出すことによって自分の気持ちを再確認してみたり。
まあ、まずは食生活の好みとか、バランスを取らないといけないのだが。
納豆卵かけご飯は至高ではあると思うと同時に混ぜて食べるものでは無いという根強い意見がぶつかり合うのってかなりストレスじゃないだろうか。
でも、
犬も、猫も。
「お買い上げありがとうございました〜」
時刻は放課となり午後の4時が過ぎ去ろうとしている昼下りの商店街近辺。
私は店員に見送りの言葉を送られながら、因縁の雑貨店『猫の額』を後にする。
手元には昨日も貰ったものと同じようなレジ袋をぶら下げているのだが、その中身は先日のものとは全くの別物である。先日のレジ袋の中に入っていたのは猫のぬいぐるみで、今日私が買ったのはなんと、イッヌのぬいぐるみである。そう、前世の私が好きな犬だ。
ぬいぐるみ自体は前世の趣味では無いが欲しいと感じてしまうのを受け入れてしまうのが楽だろうと腹を括っている。形からして女子高校生になってしまったのだから、ある程度はそういう好みの変化も受け入れなければならない。まあ、なんだかんだ結局は私自身の問題なので受け入れる以外にはどうしようもなかったとも言えるか。
まあ、犬を買うだけあって前世のことを完全に諦めているという訳では無い。目玉焼きには胡椒も醤油のどちらも受け入れられるようにしてみるし、納豆混ぜ卵かけご飯もごく稀に食べるようにする。ただそれだけのことだ。
しかし、ブラックコーヒーだけは苦くて飲むことが出来なかったので諦めた。世の中、そういうものであると受け入れることも肝要なのだと思う。前世で散々学んだのだ。精神的に成長できたかどうかは別にするが。
いつかまた飲める日が来るだろうか……。
そもそも、何故このようにしてぬいぐるみを購入しているのかといえば、それは勿論、癒されたいからだ。疲れ切った精神と肉体を回復させるために私はこうして不定期に癒しグッズを購入することに決めた。まあまあな値段ではあったが精神の平衡を保つための必要経費だ。
それにしても、こうなると他のキャラクター達のグッズも欲しくなってきてしまったな……。この分だといずれコンプリートしてしまいかねない気がする。
それはそれとして、今の状況について改めて整理すると非常に危うい状況に立たされている。
何がと言えば希海とセレヘブ主人公との関係構築が一向に進んでいないというところだ。正直な所、ここまで関係が停滞するのは予想外だったと言えるくらいには順調とは言い難かった。……このままだと希海の死亡フラグが成立しかねない。
できる限り早く天城総司のマルグラース云々で希海をグラトニアルから救わなければならないというのに……。
しかし、焦っては事を仕損じるとはよく言われている。慎重に動かなければ希海の命に関わるような重大な選択を迫られる可能性も少なくは無いことを思えば、今はとにかく情報を集めて対策を立てるべき時だと考えるべきなのだろう。
幸いにも時間はあるわけだし、ここはじっくり構えておくことが大切だ。
ただでさえ当の主人公*2である天城総司は色々と厄介事を抱えていて忙しそうにしている。キャラ変した東條タリアやら姿を見せない
さて、そんなことを考えながらガラリと扉を開く。
「のんちゃん、お見舞いに来たよ」
病室に入り、声をかけると、ベッドに横たわったままボーッと天井を見上げていた希海がビクリとした様子を見せ、満面の笑顔を浮かべるとこっちに向き直った。
「か、香苗ちゃぁん! 来てくれたんだねぇ!」
私がベッドの側まで寄るとまるで飛びかかるかのように抱き着いて来て私の胸元に頬擦りしてくる希海。そのあまりの勢いに思わずよろめいてしまう。
希海の有り余る元気さを考えれば個室に入院してくれて本当に良かったと思える。個室でなければ看護師に怒鳴り込まれていたに違いない。それでももう少し静かにしなければ本当に乗り込まれかねない。
「ちょ、ちょっと、傷が開くよ? 落ち着いて。のんちゃん、ステイ」
「えへ、驚かせちゃった? ごめんねぇ。はい、落ち着いたー」
どうにか体勢を立て直してからそう言うとあっさり離れてくれる。この変わり身の早さが恐ろしい。
希海は私にギュっと抱き着いた時にさりげなく握った手はそのまま離さなかったらしく、未だに指を絡めたままの状態に私はドギマギしながらなんとか平静を保ったフリをして尋ねる。いやもう正直言って照れくさくて恥ずかしくて死にそうなんだが……。
「け、ケガは、……平気?」
その問いに対して、ニッコリと微笑んで見せる希海。
「うん、平気だよ。深く抉れたのにかすり傷だって言われたんだもん。それに聖装の加護って言うものは傷の治りを早めるんだって。だから初日の入院以外は経過観察みたいなものだし」
不思議だねぇ、といつもの飄々とした様子を崩さない様子からは想像できないが、抉れるほどの傷だったとは……。そこまでだと聞いていたならもっと早くお見舞いに来たというのに。
確かにパッと見だと包帯とかも巻かれていなくて、元気そうには見えるけど、それでもやっぱりまだ本調子ではないようで、顔色が若干悪いように見える。それに少し痩せてしまったような気がする。
そんな希海の姿を見ているとかつての光景がフラッシュバックしてしまい、ゾワリとする。背筋が凍りつくような、そんなベタな表現のできるものだ。
これはいつの光景なんだ……?
ふと気にし始めた時にはそのイメージは霧散してしまったかのように思い出すことも出来ない。まるで、思い出させたくないかのように。
そこまで考えてブンブンと首を振って嫌な考えを吹き飛ばす。病院食とは食べていてもどんどん痩せるものだ。希海もきっとそうに違いない。
しばらく考えが変な方向に行っている間に私の手を握っている彼女の力がどんどん強くなっていることに気付いて、私は慌てて思考を元に戻す。そう、折角お見舞いに来ているのだし、今はこの希海の心配をしないといけない。
「ほらー、久々なんだからもっと近くに座ってよ〜」
私が個室の備品である椅子を持ってきて腰掛けていると、希海が非難の視線とともに自分から行うには誠に憚られるような要望を叩きつけてくる。ガチ恋距離を超えても本当によろしいのだろうか……。
「ひさ、久々って、まだ3日くらいでしょ?」
「ほらー、いいからー」
「……う、はいはい」
私は自分の手を絡み取る指を丁寧にひとつずつ外していき、持ってきた椅子を元あった場所に戻すと、渋々といった形でベッドに腰かけた。中身に男が含まれているという事を鑑みれば大変宜しくない状況かと思うが、そこは元社会人たるもの、理性でねじ伏せねばなるまいという話だ。
無理は道理でこじ開けるもの。ここに居るのは健全なる女子高校生二人だけなのだ。
私が近くに来たことで満足気にする希海はニコニコと笑みを浮かべながらこちらを見ている。……可愛い。やはり、推しは尊いものだ。
「そういえばね、昨日は委員長が来てくれたんだ〜。退院するまでにまた来てくれるって」
「あぁ、そうだったんだ」
委員長……、風森さんが。
そう言えば風森さんは希海のことを話していたっけ。
まあ命の恩人であるので見舞いに来るのは当然と言えば当然だろう。つい先日も助けて貰ったんだから素直にお礼を言えとアドバイスをしたのだった。それが実を結んでくれたようで良かった。
「あ、そう言えばあの時は助けてくれてありがとうってお礼もしてもらっちゃった! 普段はすごく肩肘張ったような子だから素直なのは意外だよね」
希海は風森さんとそんなやり取りをしていたらしい。普段とのギャップに驚かれるくらいに風森さんの態度は柔らかなものなのだろうか。
私としては彼女は結構ツンケンしてる印象が強い。まあそっちのキャラの方が原作でのデフォルト状態とも言えるのかもしれないけれど。
相槌をうちながら話を聞く。
希海は風森さんと話をした時のことを楽しそうに語り、風森さんのことを話す時に声を弾ませていた。それを見て、なんとなくモヤッとしてしまう。
上手く言い表せないがきっと親友に対して抱く感情じゃないとは思う。でも、どうにも落ち着かない。そんなことはないはずなのだが、風森さんに対して希海を取られてしまうんじゃないかという不安感、なのだろうか。それとも離れてしまうことへの危惧?
……希海とはとても仲のいい親友だと思っている。しかし、違うのだろうか。
「香苗ちゃん」
「ふへっ!? ……ど、どうかした?」
突然名前を呼ばれ、変な声で返事を返してしまう。
希海は不思議そうな顔をしていたが、すぐに何かに気付いたように表情を明るくすると、寂しくなっていた私の手をギュっと握り直す。
「へへ、呼んだだけだよ。ぽぅっとしてる香苗ちゃんが悪いんだよ?」
希海はいたずらっぽく笑い、私の顔を見つめてくる。その視線から逃れるようにして私は目を逸らす。
心臓がバクバクと高鳴っている。
顔が熱い。耳まで熱くなっているような感覚がある。
どうしてこんなにも動揺しているのか自分でもよく分からないが、のんちゃんに見つめられ続けているのに耐えられなくなって、私は彼女のあだ名を呼ぶ。
「の、のんちゃん……」
「ん? なぁに?」
私の呼びかけに対して希海は可愛らしく小首を傾げる。
そして私が次の言葉を口に出す前に、希海の方から口を開いた。
「もしかして、香苗ちゃん。寂しいのかな? ……よしよし」
「……っ!」
私は後ろから抱き寄せられ、希海に頭を撫でられる。その行為に思わずドキリとしてしまう。
私のことを抱きしめている腕には、少しばかり力が込められているようで、身を預けるだけでもとても心地良い。ずっとこうしていたいと思ってしまうほどに。
「香苗ちゃん、あったかいね。安心する」
「そ、そう、かな……?」
「うん。すごく温かい。それに、手だって柔らかくて気持ちいいし、何より可愛い」
「……」
もう何も言わないことにしよう。今なら「あ」という一文字を発するだけでも声が止まらなくなって死んでしまうに違いない。
今更だけど、これって傍から見たら変な風に勘違いされるんじゃないだろうか。少なくとも友達同士の距離感ではないと思う。でも、嫌じゃ無い。
愚かなことに、寧ろもっとこうしていて欲しいなんて思ってしまっている自分がいる。
希海に抱きしめられているだけで、心配事を忘れてすごく幸せな気分になる。希海の温もりを感じることができる。ドキドキもするが、それ以上に安心できる。
この時間が永遠に続けばいいのに。
そんな取り留めもないことを考えていると希海が思い出したかのように呟いた。
「……あ! そういえば委員長からフルーツバスケットの差し入れもらったんだ! 食べる?」
「え、あ、う、うん……食べたい、かも」
唐突に出された話題に戸惑いながらも、反射的に答えてしまう。
同時に離れてしまった温もりと早鐘を打つ鼓動に名残惜しさを感じながら、あのままだったら取り返しのつかない沼に溺れかけていたことに恐怖する。
……本当に、希海に恋をしてしまったみたいだった。
そんな私の気持ちを希海は知っているか知っていないかは分からないが、机の上にフルーツバスケットを置き、その中から一つの果物と果物ナイフを取り出して私に見せる。
「お母さんにナイフは持ってきてもらったんだけど一人じゃ食べきれなくてさ〜。私、料理とか苦手だからもし切ってもらうなら香苗ちゃんに頼みなさいって釘も刺されちゃって……」
「わ、分かった。任せて。切るくらいなら私にも出来るから」
「ありがとう、助かるよ〜」
希海のお願いを了承すると、彼女は嬉しそうな笑みを浮かべた。私は先程までの思考を振り払うように頭をブンブンと振った後、果物ナイフを受け取る。
希海が切ってくれと言ったのは桃だった。ピンクと黄色の綺麗なグラデーションを纏った果実は触っただけでも瑞々しくてとても美味しそうだった。
希海は気が付かないうちに体を起こしており、ベッドに腰掛け足をパタパタさせながらこちらを見つめていた。
もしかすると希海自身も自制した結果フルーツバスケットのことを思い出したのかもしれない。そう考えることにする。天然で提案したのだとすれば泣きたくなりそうだ。
期待の目線が気になりつつも、とりあえず目の前の桃に集中することにして私は心に灯った火を誤魔化すしか無かった。