「あれ、お姉ちゃん帰ってたんだー。遅かったね」
不意に声をかけられて、微睡みの沼から意識を引き戻される。目を開けて、声の主の方へ顔を向けるとそこには妹の結衣がいた。
ブラックパールも顔負けなほどにしっとり艶やかな黒髪ロングヘアーを揺らし、ぱっちりとした瞳がこちらに向けられている。この形で中学2年生だと言うのだから恐ろしい。
後はこれに重篤なシスコンが無ければ良かったのだが。
「うん。ちょっと友達と話してて遅くなった」
私はソファから体を起こし、寝起き特有の気怠さを感じながらも妹の言葉に応える。すると、結衣は私の方へと歩み寄ってきて、ギュッと私の腰に腕を巻きつけてきた。
ふわっとシャンプーの良い匂いが立ち込める。
いつもより早い時間ではあるが、どうやら風呂に入っていたらしい。
「お姉ちゃんは、他の女の子と話したらだめなんだからね?」
上目遣いでそのように言ってくる。一体どうしてこのように成長してしまったのか。悔やまられるべくは前世の記憶が戻ってきたことによって昔の記憶を上手く思い出せなくなってしまったことだ。
私は結衣の無茶な要求をやんわりと否定しつつ、彼女を引き剥がした。
「ほら、ご飯食べるんでしょ。適当なの作るから早く準備しなさい」
「むぅ……」
納得していない様子だが、渋々といった感じでリビングから出て行く。
全く、困ったものだ。創作上ならまだしも現実上の妹には流石に恋愛感情なんて抱けるわけがない。前世が男であったが無理なものは無理だ。妹には早く私以外の人間に興味をもってもらいたいものである。
私はそんなことを考えながら、そのまま台所へと向かった。
夕飯の準備は、基本的に私がすることになっている。
というのも、藤咲家の両親は仕事の関係で海外に出張しているためだ。*1
というわけで必然的に家事全般は私がやる羽目になるわけだ。といっても、そこまで大層なことをしているわけではない。
料理だって、レシピ通りに作れば誰にでも作れるし、掃除洗濯だってやり方さえ知っていれば小学生でもできる。一人暮らしの会社員ならばできて当然の話だ。
ちなみに結衣に任せてしまうと『かつて食材であったもの』を生み出したり、掃除機をかけたら家具ごと破壊したりする前科があるため、我が家では基本的に母と結衣以外が家事を行っている。母も似たようなものなので遺伝かもしれないと父が言っていたことを覚えている。
「「いただきます」」
夕食の時間になり、私と結衣は手を合わせて食事前の挨拶をする。今日のメニューは白米と味噌汁、焼き魚にほうれん草のおひたしという純和風だ。そのような献立を記憶が戻る前の私が立てていた。優秀だ。記憶が戻ってきたという混乱に負けず、献立が頭に残っててよかったと思う。
私は早速、箸を手に取り焼き魚の身を解して口に運ぶ。口の中に程よい塩味と脂身の甘みが広がり、ほろりと崩れる身とともに思わず頬が緩んだ。やはり美味しいものは正義である。
「結衣、どう? おいしい?」
「ん、まあ。……おいしい」
私の問いかけに対して、結衣は先程雑に扱われたことを根に持っているらしく不機嫌そうな表情を浮かべて応える。私はそれを聞いて苦笑するしかなかった。
「そっか。なら良かった」
「……お姉ちゃんが作る料理が美味しくないわけないじゃん」
謎に拗ねてしまったらしい。私は、小さくため息をつく。こんな調子で姉離れ出来るものかと先が思いやられる。昨晩もベタベタとしていたし、挙句の果てには希海に対してヤキモチすら焼いていた。
私は拗ね倒す結衣のことを放置したまま、食事を済ませて食器類を流し台に置いておいた。
今日は疲れたので、結衣を見習って早めに入浴することにした。脱衣所で服を脱ぎ去り、浴室に入ってシャワーの蛇口を捻る。
適温になったところで私は全身に浴びるように水を浴びた。
お湯が身体を伝う感覚が心地良くて、つい声が出そうになる。ふぅ……。気持ちいい……。
それから鏡に映り込む自分の姿をまじまじと見つめた。
透き通るような白い肌。細い手足。そして胸元に存在する自己主張の控えめな双丘。顔も整っており誰がどう見ても美少女だと言える。自分で言うのもなんだが。
然し、目の前に見えるのは女の子の裸体だと言うのに全く興奮しないし、できない。寧ろ見慣れている感覚であるからこそ、その事実を認識すればするほどに虚しさが込み上げてくる。
私は、記憶が戻ってから何度目かも分からないため息をついた。
どうして私は原作でも登場しないような名も無い女子高校生として転生してしまったのか。もっと他に転生対象となるようなキャラがいただろうに。
そして、風呂を堪能した私は部屋着に着替え二階にある自分の部屋へと戻った。
私は改めて自分の姿を鏡に映す。
そこには、赤みがかった栗色の髪をセミロングに伸ばした美少女がこちらを見つめ返している。本当にこれでスッピンなのか? 本当にこれでモブキャラクターか?
ノーメイクでここまでの完成度だとするならばギャルゲー世界の顔面偏差値エグイな……。美に傾倒していた前世の妹が知ったら現実と比べてあまりある差に卒倒してしまうんじゃなかろうか。
しかしこれが今の私の身体。28歳の冴えないサラリーマンだった頃の姿ではない。今年で中学2年生となる妹の結衣よりも少し背が高く、胸はそこそこ……、いやこれはBも無い*2。しかし、腰回りにはしっかりと肉がついているし、太っているというほどではないが全体的に女性らしい丸みを帯びている。
どこをどう見ても女の子の体であり、かつて男であったなどと誰が信じられようものか。
自己認識についてもこの姿が自分自身であるとしか考えられない。
そういえば、前世で死んだときの記憶が曖昧だ。死因はなんだったろうか。思い出そうとするのだが、記憶が霞がかったようにぼんやりとしている。
香苗のものと前世のもので記憶が混濁しているし、いずれ思い出せるかもしれない。記憶については楽観的に行こう。
私は、そんなことを考えながらベッドの上に寝転ぶ。
記憶が戻ってから一度も起動していなかったスマートフォンを手に取る。
電源を入れてみると、画面に表示されたのは見知らぬアイコンの数々。前世の世界とは別物であるので当然と言えば当然なのだが、妙な寂しさを感じてしまう。
ホーム画面には本体のメーラーに電話機能、カメラなどの基本的なアプリの他には、メモ帳とスケジュール表の二つがあった。試しにメモ帳を開いてみる。
記憶が戻ってくる前の私はあまりメモ帳を使って何かをするタイプではなかったのか、ほとんど何も記入されることなくチラホラとその場での覚え書きが残されているくらいだ*3。わかったことといえば記憶が戻る前の食への好みくらいだろうか。枝豆、焼き魚、乾き物。おっさんか?
私はスマホを弄りつつ、先程から感じている違和感について考えていた。
それは、この身体になってまだ二日目だというのに、まるで何年も前からずっと女であったという錯覚に陥っていることだ。
あやふやには香苗であった記憶が残っているにしても、その記憶は前世の記憶に上書きされるように薄れてしまっている。だと言うのに、私は前世の会社員だった男よりも自分は藤咲香苗であるという意識が強い。
果たして私は藤咲香苗その人だと言えるのだろうか?
柄にもなく哲学的な事を考えすぎたのか頭が痛い。私はスマホの光を消し、目を閉じてゆっくりと意識を落としていく。
もう寝てしまってもいいだろう。
……きっと明日の私が頑張ってくれるはずだ。
そして、目を覚ませば翌日となっていた。
いつものようにベッドに潜り込んでいた妹のことにゲンナリとしつつ学校へ向かうと、教室の中が妙に騒がしいことに気がつく。
「おはよう! 香苗ちゃん」
「あ、うん。おはよ……」
私が教室に入るなり、希海がいつものように元気よく挨拶してくる。私は、そんな彼女に挨拶を返しつつ、周囲の様子を伺う。クラスメートたちは、私と希海の方をちらりと見てはヒソヒソと何かを話し合っている。
一体、何だろう。私が不思議に思っていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこにいたのはセレヘブ三大メインヒロインの一角を飾る人物の妹、
「おはよう、柴宮さん、それに藤咲さん」
「……おはよう」
「えっと、おはよう」
希海と私がそれぞれ挨拶を返すと、彼女は私の顔をジッと見つめてくる。その顔は、何処か緊張したような様子で頬が赤い。
どうしたというのだろうか。私が疑問に思っていると、不意に彼女に声をかけられた。
「今日の実戦演習のチーム、私と組んでみませんか?」
私は、風森紀々の突然の申し出に面食らう。
何故、私なんかと組みたがるのか。その理由が分からなかった。私が、困惑しながら答えあぐねていると、彼女の方から話を続ける。
しかし、実戦演習か……、つまり入学して初めて魔巣窟に出向くことになる。管理窟という人の支配下にある魔巣窟ではあるが、未知への好奇心は止められるのもでは無い。
通りで教室が騒がしい訳である。
「希海さんの
「あまり人に見せられるようなものじゃないのだけれど……、それでも良ければ。どう? 香苗ちゃん」
希海は、困った表情を浮かべながらも私に確認を取る。希海も風森紀々を拒む様子はなし、私にも彼女の申し出を断る理由はない。
私は、承諾の意を示すと、風森紀々は嬉しそうな笑みを見せた。
「ありがとうございます。それじゃあ、本日の実戦演習はよろしくお願いしますね」
それだけ言うと、風森紀々は自分の席へと戻っていく。その後ろ姿を見ながら、希海が腕を組んできた。
「のの、のんちゃん?? ど、どど、どうしたの?」
「ううん。なんでもない。香苗ちゃん成分を補給してるだけだよ」
なんでもなくないね? というかなんだその成分は。私は思わずツッコミを入れたくなるが、希海は私の身体にすり寄ってくる。ふわりとかほる良い匂いが鼻腔を刺激して頭がクラクラしてきた。これが、私特効のフェロモン……!?
これはいけない。このままでは、私のいたいけな少年のような理性が脆くも吹き飛んでしまいそうだ。
希海は、私が抵抗しないのを見るとさらにぎゅっと抱きついてきた。まるでぬいぐるみを抱きかかえる子供みたいだ。……なんだこの可愛い生き物は。私の頭の中で天使と悪魔が熾烈な戦いを繰り広げ始める。
駄目だ。ここで屈したら私は本当に希海に襲いかかってしまうかもしれない。朝のこんな人が沢山いる目の前でなんて、流石にそれはまずい。私は必死に理性を保とうとする。
しかし、そこで私の中の悪魔が囁き始めた。
この世界に天使は存在しない……。
「の、のんちゃ……」
「ちょっと。柴宮さん、藤咲さん。授業始まるわよ」
私が誘惑に負けそうになったところで救いの女神が現れた。声の主は、教室に入って来た担任の教師だ。彼女は、呆れた様子で私たちを見ている。
私は、助かったと安堵のため息を漏らすと慌てて自分の席に座った。
いやぁ、危なかった。
危うく、クラスメートたちの前で獣になって希海を貪り尽くしてしまうところだった。……調子に乗りました。多分、直ぐにヘタレます。
私は、相手の感情を配慮できるように深く反省するべきだ。友愛を情愛と勘違いしてはならぬのだ……。
希海の方を見ると、何事も無かったかのように涼しい顔をしている。
……え、なんだ。意識していたのは私だけだと申すのか?
そう考えると何だか恥ずかしくなってきた。感情のささくれに振り回されるなんてそんなバカみたいなこと……。うう……。
私はバレぬようにそっぽを向いて頬杖をつき、頬を赤く染めながら頬の火照りを冷まそうと努めるのであった。