Episode1『少年、
―――厄介事に急かされることもなく、欠伸が出るくらいに何も起こらない、そんな退屈で平凡な日常を送りたい。
誰もが日常に変革を求める中で彼は人一倍その変革を望まなかった。
普通で十分、人生に波乱万丈のドラマなんてものは必要ない。必要以上に目立つこともなく、それとなく生きていければそれでいい。
それが
そんな平和主義を掲げる少年の朝は今日もソファの上から始まる。
太陽が地平線から顔を出して間もない朝、けたたましい目覚ましの音で恭介は目を覚ました。
ゆっくりと起き上った恭介は、目の前にある硝子張りのテーブルの上に置かれた目覚ましをうるさそうに止め、欠伸を噛み殺しながらこれまたゆっくりと背筋を伸ばしていく。パキパキッ、という小気味のいい音が背中から鳴り響き、凝り固まった体が少しずつ
ドアを開けて最初に目につくのは、そこそこ広い部屋の中心に向かい合うように並べられた四つの業務用デスクだ。しかし使用されているモノは一つもなく、デスクの上はまっさらなまま。人数分用意されている椅子がどことなく寂しく見える。
他にも申し訳程度に置かれた観葉植物や業務用のベーシックな棚、分厚い専門誌やファイル類が敷き詰められた本棚が置かれているものの、どれもインテリア性に欠けるものばかりだ。
恭介はそんな殺風景な部屋を通り抜けて洗面台へと向かった。
顔を二、三度洗い正面に付けられた鏡を見る。そこには少年とも少女とも言える中性的な顔があった。
男にしては少々長い前髪、その下には柔らかくも僅かながらに鋭さを持った瞳、スッと通った鼻筋と小ぶりな唇。メイクをせずとも女性だと紹介されれば信じてしまいそうな整った顔立ちである。
恭介はそんな自身の顔を見て表情を微妙に歪めた。
皆はこの顔を羨ましいなどと言うが、恭介は女性にみえてしまうこの顔が大嫌いだ。事あるごとに女性に間違えられ、モデルの勧誘どころかナンパすらされたこともある。男なのに男として認識されづらいこの顔が恭介はどうしようもなく嫌いだった。
(…………ホント、なんでこんな不便な顔で生まれたんだろうな)
軽く自己嫌悪に陥りかけた恭介は、強制的に鏡から視線を外して洗面台を後にする。
その後、先ほどの部屋で壁にかけておいた制服に着替え終わると、時間を持て余した恭介は並べられた未使用のデスクのさらに奥――――窓側に設置された同じタイプのデスクに座った。
公務員が使用するような飾り気のないノーマルなデスクの上には、最近新調したノートパソコンと乱雑に置かれたファイル類があるだけで他には何もない。
たった一人しか居ない部屋はとても静かだ。
両親は恭介が僅か五歳の時に事故で他界し、女手一つで育ててくれた姉も五年前から海外出張でここを空けて随分と顔も合わせていない。とはいえ月一のテレビ電話でなら顔を合わしているが。
両親がこの世から去って約十二年、
「っと、もうこんな時間か。そろそろ出ないと遅刻しちまうな」
気が付けば時計の秒針が八時半を指しているところだった。
立ち上がった恭介は冷蔵庫から簡易型のウォーターゼリーを一つ取り出し、棚に置いた鞄を持って玄関へと向かう。
と、玄関の扉を閉める前に恭介は部屋に向き直ると。
「いってきます」
いつものように声をかけて学校に向かうのだった。
◇◆◇
私立
都心から少し外れた
都心から電車で五分、さらに駅から徒歩五分と利便性が高く、西洋風の外観が特徴的な校舎に大型の図書館や学食やカフェテリアなどが一体化した複合施設が敷地内に点在することから、受験生の間では非常に人気の高い学校だ。
また、由緒正しいというだけあってこの学校の歴史はそれなりに長く、紅ノ宮町に住む住民の多くがこの漆原学園の卒業生だと聞く。
しかし、歴史が長い学校故に多くの噂や怪談、不可解な謎が存在する。それこそメジャーなモノからマイナーなモノまで数えだしたらキリがないほどに。
その中でも特に有名なのが”旧校舎に時折姿を現す謎の銀髪美少女”と”学園創立以来姿を見せない覆面学園長”の二つである。この話は学園創立から存在する謎で、数十年という年月が経った今でもその謎は生き続けているのだ。
現在のように。
「おい聞いたか恭介、さっき旧校舎で久々に銀髪の美少女が現れたらしいぜ!」
「またその話かよ。お前は本当にその話題が好きだよな壮真」
「ったりめーよ!スクープだぞスクープ!新聞部の部員にして次期部長たるこの俺、
漆原学園:高等部普通科二年B組。
正午を過ぎて昼休みとなった教室では、その”旧校舎に時折姿を現す謎の美少女”の話で持ちきりとなっており、窓際に席を持つ恭介も隣で熱く語る浮嶋壮真にその話を聞かされている最中だった。
学園を誇る最高の記者――勝手に自称しているだけだが――としての血が騒いでいるようで、今日も清々しいくらいウザったく熱弁している。
「旧校舎の美少女はいいけどさ、昨日まで言ってた”覆面学園長”の調査はどうなったんだよ」
「そんなもんはいったん打ち切りだ」
「打ち切りって………。受持ちのネタは放っておいていいのか?超一流で超スペシャリストな超やり手の記者を目指してたんじゃなかったのかよ」
「バカ野郎!目の前のスクープに飛び移らなくて何が記者だっつーの!常に最前線へと身を投げ出し、最速の真実をお茶の間に提供する、それがプロってもんだろうが!!」
「プロなら普通自分が受け持ってるネタを放り投げたりしないだろ」
プロでもない中途半端な記者気取りの少年に恭介は半眼でツッコんだ。
が、ツッコミを気にした様子もない壮真は、そんな冷めた態度しかとらない恭介を見て呆れたように頭を振る。
「相変わらずノリが悪いなお前は。…………仕方ない、そんなお前に俺がありがたい記者魂を分け与えて――――っと。呼び出しが掛かっちまったか。すまない恭介、この話は今度にしよう。やれやれ、できる記者はプライベートが無くて困るぜ」
などと抜かしつつスマホで電話を取った壮真は「す、すみません部長っ!すぐに向かいますぅっ!」と間抜けに平謝りしつつ教室を去っていった。
しかし嵐が消えてもその目は残っているわけで、教室では相変わらずその話で盛り上がっている。
対照的にオカルト話への興味が微塵もない恭介は、教室内に広がる喧騒を遠ざけるように窓の外に目をやるのだった。
が、視線の先に映るのは今話題となっている旧校舎の一角だ。まるで逃がさないぞと言わんばかりに視界を遮る校舎に、気付けば恭介はたまらず溜息を漏らしていた。
旧校舎に現れる神出鬼没の謎の美少女。その噂は随分と前からこの学園に浸透していたようで、聞くところによれば学園創立のすぐ後に広まり始めた噂らしい。
当時清掃委員をやっていた一年の少年が例の美少女を見かけ、その可憐さに惹かれて後をついていったところ、一階の廊下でその少女を見失ってしまったと言う。と、ここまでなら青春真っ盛りの男子高校生によくある話として笑い飛ばされるのだが、問題はこの続きにあるのだ。
その見失った場所は廊下を真っ直ぐ進んだ後の曲がり角、窓もなければ扉もない不自然なスペースが広がった行き止まりとなっている場所だった。出入りする場所もなければ隠れるようなスペースが存在するわけでもないのに、少女は忽然と少年の前からその姿を消したのだ。
だが実際にそんな話を信用する者がいるはずもなく、当初は少年の行き過ぎた妄想だと笑い話で済んでいたが、少年を皮切りにその美少女の目撃者が年々増えていき、ついにその話を笑える者はいなくなっていた。
謎の少女の噂はさらなる肥大化の一途を辿り次第に怪談化していくのだが、翌年に流れたある噂によってその認識は激変する。
それはある女子と男子に起こった出来事だ。
ある時、旧校舎側の清掃をしていた女子は不運にも噂の美少女を目にしてしまい、その上その少女が女子に向かって微笑むという事件が発生した。もちろん例の少女が笑うなどという噂はなく、女子は何かしらの呪いをかけられたんだと学園中で囁かれていたが、なんとその翌週にその女子が思い人と恋を成就させたという話が流れたのだ。
そして僅かその半年後、難病を患っていた三年生の男子が同じような状況下で少女に笑いかけられ、その翌月にその病が完治したという話が流れた。
このたった二つの奇跡、この二つの出来事が”不気味な美少女”から”奇跡を与える天使”とまで言われるようになったのだ。結果として”少女に微笑まれた者は願いを成就できる”という言い伝えがこの学園に浸透し、現在のこのような騒ぎを起こす発端となっている。
実に馬鹿らしい話だが事実、この少女を目撃したという者は皆、自身が持つ願いを成就させていると言う。
が、恭介にとってはどうでもいい話だった。
己の行く末をたった一度の奇跡で変えてしまうなど実に愚かなことだ、と彼は考えている。それはつまらないヤツの偏った考えに過ぎないと言う者もいたが、恭介は何一つとして気にしなかった。
そもそも彼は変革など望んではいないのだから。
(人生に変革を、か………。くだらない話だよな)
遠い目をしながら旧校舎を眺めていた恭介は、そうして時間を潰すことにも飽き始め、チャイムが鳴るまでの間昼寝でもしようかと考えて席を立ち上がり、廊下を出た瞬間だった。
「お、佐々良。グットタイミングで出てきたな」
廊下へと足を踏み入れると同時に凛とした女性の声が恭介の名を読んだ。
顔を引き攣らせた恭介が右側へブリキの玩具のように振り向くと、青いジャージ姿の体育教師、
友香に呼ばれるときは大抵ロクな目に遭わない。ならばと恭介は先手を打って逃げようと試みるが。
「なんすか先生、俺は用事があるんですけど」
「用事ぃ?お前さんが?いやいやいやありえないだろうお前さんに限っては」
一瞬で撃沈した。だがこの程度で諦めるほど潔くはない。
「いや先生、俺にだって用事くらいはあるんですよ?俺だっていつもいつも暇なわけじゃないんですよ?」
「いいや、お前さんが用事があると言って昼休みに出ていくことは絶対にないな」
「先生。俺のこと信用してないですよね?」
「先生が生徒を信用しないなんてことはあっちゃいかんだろ。こうして佐々良だってちゃんと信用してるじゃないか。お前さんに用事なんてものはない、絶対にって」
「それは違う意味での信用ですからね?悪い意味での信用ですからね?」
そうだったな、と豪快に笑う友香に恭介は肩を落とした。毎度こうして友香から逃れようとしているが、その度にこうして撃沈され続けている。
諦めた恭介は肩を竦めると友香の要件を聞くことにした。
「で、要件があって来たんでしょう?早いとこ教えてください」
「おお、そうだったな。えーとだな」
友香は声のトーンを落とすと同時に恭介に一歩近づき、周囲に聞こえないよう耳元で囁いた。
「お前さんに”出頭命令”が出された。放課後に顔を出せってな」
その言葉を聞いて恭介の顔から血の気が失せた。恭介としては一番聞きたくなかった言葉だ。
対する友香と言えば実に楽しそうに目を細めて意気揚々と恭介の肩を叩く。
「ま、頑張りたまえ少年。学園生活に”ハプニング”は付き物だろう?」
友香が通り過ぎた数秒後、恭介は膝から崩れ落ちるのだった。