周囲の人間が彼に対する評価を下す際によく言われることは、『良いやつ』である。
彼は自分のことを良い人間、と思ったことは一度としてなかった。
信頼してくれている人間の言葉を無下にするわけではないが、周囲の人間が寄せてくる信頼に対する十分な対価を、用意出来ているとは到底思えない。
その上でぶっきらぼうになりがちな言葉遣いは、相手に対して不信感を募らせると考えているからだ。
それを知り合いに言えば、決まって
「だからいいやつなんじゃないか」
そんな、彼にとっては不服極まりない言葉とともに話が区切られるのが、ある種のお決まりになりつつあった。
さて、彼の概要はこれまで。これからは彼を評価している周囲の話になる。
彼には一人の友人が居る。彼女の名前は結月ゆかり。
色白は七難隠す、とはよくいったものだが、彼女はそれを差し引いてもモデルクラスに美人だった。
容貌は優しい微笑をよく浮かべていることもあり、幸が薄い印象を受けるものの、時たま発揮する無遠慮にも自分の意思を貫き通す強さにやられる同級生が居るとかいないとか。
そんな彼女は前述のようなこともあって反感を受けやすく、事あるごとに悪意に晒されそうになる。幼いときはよかった。
転機は中学生のころ。集団心理が働きやすくなり、大人に近付いていく時期でもあるこの時期は、社会規範も近いものになっていく。特に、性差がハッキリしてくる、というのが大きい。
端的に言えば『出る杭は打たれる』というやつである。
元から容貌が整っていた結月は周囲から告白されることが多かった。本人は内心迷惑にしていたとしても、周囲からは嫉妬の視線がどうしても集まってしまう。
異性からは袖にされた恨みが、同性からは自分の想い人の心を奪った女に対する憎しみが。
端的に言えば教室には彼女の居場所がなかった。そんな彼女が逃げ込んだのは、図書室。屋上に行かなかったのは、ルールを破ってはいけないという彼女の育ちの良さから来るものだったが、それが彼女にとって僥倖だった。
「……ここに誰かが来るのは珍しいな」
本から目を離し、読書用のメガネに結月の姿を反射させる。
結月の顔を認めても、一切の反応を示さないのは久しぶりのことで、それだけで不思議と居心地が良かった。
「いらっしゃい。ただの図書委員だが、君のことを歓迎しよう」
その邂逅から五年以上が経つ。進学や居住地が変わるといったイベントがありつつも、不思議と彼らの仲は続いている。それどころか──
「わぁ……ここが久遠さんの家ですか……」
「まさか一緒の部屋に棲むことになるとはな」
進学先が久遠の棲んでいる場所と同じだからと、同じ家に住むことになると誰が思うのか。もし思うとしたら、そいつは恋愛小説に憧れすぎだろうと嘆息してしまう。
仮にも男女だ。お互いにその気がなくとも、一つ屋根の下で寝泊まりするというのは、一定の意味を持つ。
彼にその気はないが、うら若き乙女が襲われでもしたらどうするのかと結月の親に直談判しに行っても
『大丈夫でしょ、久遠くんだし』
なんて言われてしまうと、説得するのも諦めてしまう。
結月家にお邪魔したときのことを思い出していると、とたた……と静かな足音が奥の方に流れていく。
少し浮かれているのだろう、乱雑に脱いだ結月の靴を揃えて、自分も家に上がる。
自分の部屋に結月が居ることに、言いようがないちょっとした違和感はあるものの、少しすれば慣れるだろうと借りてきた猫のように固まる結月に声をかける。
「結月、大丈夫か?」
「……私、今日からここに住むんですよね」
「まぁ、そうだな」
問題としては、本人に対しては事後承諾になってしまった。そこはもう少し、本人の意見を確認した方がいいのではないだろうか。
そう思うのだが、幸いにも拒絶されているような雰囲気は感じ取れないため、安堵の溜息を吐く。
久遠がそうして思考している間に、結月はそっと、頬を朱に染めていた。
彼女にとって、異性は面倒の種である。
そんな相手と一つ屋根の下に暮らす羽目になっているというのに、不思議と彼女の表情に後ろめたさは感じられない。
それどころか──
「本がいっぱい……」
壁際にある二つの本棚は、その両方がほとんど埋まっている。
結月は久遠と出会ったあの日から、本を嗜むようになった。それによって、ファンの間では読書中の彼女に話しかけてはいけないという暗黙の了解がいつの間にか作られていったのだが、当人は知る由もない。
「本に関しては好きにしてくれて構わない」
「いいんですか!?」
「ああ、読み終わったものばかりだから俺のことは気にするな」
久遠の声も耳に入らないで、食い入るように本棚をジッと見ている。
彼女の様子が数年前、始めて図書室に来た彼女が重なって懐かしさがこみ上げてくる。
「飯でも作ってこよう」
きっと、一冊手に取ってからはずっとその作品を読み続けるのだろうから、軽めのものを用意。
食べながらというのは品がないのでサンドイッチなどの軽食系ではないが。
三十分後、完成した料理を皿に乗せて部屋に戻ると、既に彼女は床に座って本の虫になっていた。
またか、と思いながらも自分と似てきたことに苦笑した。昼飯が冷めてしまってはもったいないと軽く肩に触れる。
「結月、先にお昼にしよう」
「あっ、すみません。ありがとうございます」
本を閉じようとして、久遠がカバーを本の間に挟むのが嫌いだということに気付く。
「ほら、しおり」
「ありがとうございます」
読んでいたページにしおりを挟んで床に置く。本は出来るだけ汚したくない。鞄の中に入れる際も、ポケット部分に入れてよれたりしないように気を付けているくらいなのだ。汚したら一日は引きずる。
神経質かもしれないが、結月にとって本は人からもらった数少ない趣味のひとつになる。誰かと一緒の趣味は、誰かと繋がっていることを実感できるもの。
ともすれば、大切にするのも当然である。
「いただきます」
「……いただきます」
食べるときは黙々と。結月はそのあたりを気にしないが、久遠の実家が厳格な家で、食事時の会話がご法度になっていたこともあり、彼はほとんど口を開かない。
「前から思ってたんですけど」
「なに?」
「先輩ってたくさん食べますよね」
言いながら、自分の二倍近く盛られたパスタと彼の身体を見比べる。
虚弱、というほどでもないが、服の上から見る限りは一般的な成人男性より細いように思える……いわゆるモデル体型、というやつである。
「もう少し量欲しかったか?」
「あ、いえ。そういうことではないんです」
自分の身体について言及されていることに気が付くこともなく、首を傾げる彼の辞書にデリカシーという言葉は存在しない。
もう少し女性に対する扱いを学んだ方がいいんじゃないだろうか、と結月は毎回のように思うのだが、そうなると彼の周囲にたくさんの女の子が居ることになってしまう。顔自体は悪くないのだ、困ったことに。
想像しただけでなんだかモヤっとしてしまうので、言わないようにしている。
なにがモヤっとするのか分からないが。
「その……細いなぁ、と」
そっと彼の腕に手のひらを合わせて感触を確かめる。筋肉質とは言えないしなやかな細さを持っていても、自分の腕の感触とは違うのだけはよく分かる。
なんとなく男の子なんだなぁ、程度にしか結月は思ってない残念な空間が出来上がる。
正確には手を出してくる男性と思われていない。
「余分な肉は付かないけどな」
事実、脂肪は付かない。ただ、それは肉体へ還元が十分されていないということで……男としては由々しき事態である。
端的に言えば筋肉が付かない。プロテインと有酸素運動をしっかりとった上で筋トレすれば話は別かもしれない──が、それを試すのもインドア派な自分には合わないので、現状に甘え続けているのだが。
「太らないってだけで羨ましいんですよ」
そっと溜息を落ちて、羨望の眼差しが彼に向けられる。女子にとって、食べても太らないというのは素晴らしい能力に思える。
だって──
「デザートたくさん食べられるじゃないですか!」
甘いものは別腹、という意見がある。どれだけ腹が膨れたと言っても、甘いものだけは食べられるという。
とはいえ。摂取したカロリーが0になるわけはないので、次の日体重計に乗って悲鳴をあげることになるのだ。あの瞬間ほど理不尽を呪ったことはない。
もっとも、食べたのは自分自身なので当然の帰結だが。
「だから太らないように量を調整してるんだろうがよ」
実家に住んでいた時から料理の担当は久遠だった。両親が無責任に夕飯を勧め、久遠が作る。
「料理では久遠さんに勝てないんでしょうねぇ……。うちの両親も気に入ってましたし」
いつの間にか両家の親で共通認識になっており、時折自宅だけでなく、結月家でも作ることになっていたときは苦い顔をした。極めつけは『うちの嫁に来てくれ』という結月父の言葉。
そもそも性別が違うだとか、言いたいことは色々あったが、言ったら面白がられるだけだと思ったから。
『まぁ、結月さん次第じゃないですかね』
爆弾を落とすような発言をして黙々と食事に戻る久遠。それを聞いた両親は大歓喜、久遠を放って結月に問い詰める結月両親という構図が出来上がり盛り上がってしまったことがある。
あの後拗ねた結月の機嫌を直すのに苦労したとは久遠談。自業自得である。
「俺は結月の料理が好きだけど」
ぐるぐる、ぐるぐる。
久遠のフォークにパスタが巻きつき、大きくなっていく。
しかし、回っているのはパスタだけではない。相手からの反応がないことに首を傾げて結月の方を見ると、硬直してピクりとも動かない結月の姿。
謙遜のようなマネをして不快にさせてしまっただろうか、と久遠は不思議に思うが実際のところは──
(私がす……好き……!?)
耳悪すぎだろ
この二人の仲は長い。必然、お互いの間に気遣いは極めて薄くなり、発言の一つひとつに気をつけることもなくなってくる。
それに加えて、久遠はどうしようもないくらいの朴念仁。結月と二人で居るときは特に、自分の発言は額面通りの意味しか持たせない。
本を嗜んでいるクセに、聞き間違いや別の意味に捉えられる可能性があるということに気が回らない。当然といえば当然で、現実はフィクションのようにすんなりいかない。
(いやでも……久遠さんだし……)
フィクションで好きといえばLoveの意味だが、現実では多くの場合Likeの方の好きである。
(でもでも……!)
ずっと付き合いのある人間から好きと言われて平静で居られるわけがない。
対する久遠はというと
(喉詰まらせたのか?)
自分の発言に原因があるとは微塵も思っていなかった。
好きと言ったのも結月が料理したときに美味しかったのでまた食べたいな、くらいの話だ。
そもそも、同居人の料理がマズいとか耐えられない。
幼少期から料理をしてきた久遠にとって、同年代より料理が出来るのは当然のことだし、そもそも料理を誰かと比べることにそれほど意味を見出していない。前提条件の違いが生み出した悲しい怪物だった。
「ごちそうさま」
台所に食器を置いて、コーヒーの入ったマグカップを結月に差し出す。
「ありがとうございます……」
「おう」
コーヒーの入ったマグカップを手に持ち、一口啜ると混乱していた頭が冴えてくる。
(あぁ……なんて恥ずかしい勘違いを……!)
あくまで料理の話をされていたのだとようやく気が付き、溜息を吐く。
(そもそも、久遠さんが勘違いするようなことを言わなければ……!)
八つ当たり気味に、久遠に視線を向けても、不思議そうな顔をされるだけ。
何年も、こうしてずっと独り相撲している。
「変わると思ったのに」
「なにが?」
環境が変われば、関係性も変化すると思って承諾したのにいざ変わるとどうすればいいのか分からなくなる。同じ部屋に居るのなんていつものことでしかない……そのはずなのに、いつもの調子で居られない。
これだけで確実に変化はある。でも、欲しているのはそういう変化ではない。
乙女心は難しい。創作物の女子たちに腹を立てたことがあるけれど、今だけは彼女たちに同意出来る気がする。
本当に言いたいことが言えずとも、今言わなければならない言葉がある。
「久遠さん」
少し崩していた足を直して、久遠の方を真っすぐ見る。
「これから、よろしくお願いします」
そう、結月ゆかりは彼のことが──
二人は気が付かない。
信頼の形は一つではないことを。同じようで、異なる形の信頼を互いに預けていることを。
二人は気が付かない。
この共同生活が、転機となることを。
二人は気付けない。
初めて図書館で会ったあの日、結末は決まり切っていたことを二人は知る由もなかった。