その日、結月ゆかりは悩んでいた。
大学の準備に走り続けていたら、いつの間にか二週間が過ぎ去り、大学が始まるまでそう時間もないことに。
この周囲の案内は最初の三日程度で教材購入などと一緒に済んでおり、行動する分には問題はない。
ぶっきらぼうに思えても、細かなところで気を回す性格に好感を持てる。持てるのだが……。
「同じ屋根の下に女の子が居るのに、デートにも誘われないってなんでしょうね……」
嘆きの恨み言が部屋の中に霧散していく。
彼はそれなりに忙しいようで、朝食を共にしてからしばらくしないうちにすぐ外に出かけていく。一応、大学生なのだから浮ついた話なのではないかと勘繰ってしまったことがある。
『彼女居たら結月を家に入れないでしょ』
彼は一度掴んだ友人関係を相手が拒まない限り手放さない。誘いを断ることはあっても、謝罪した上で埋め合わせまできちんとする。生まれてくる時代を間違えたのではないか、と思えるほど誠実で生真面目。
かと思えば友人だと認めてない人間からの誘いは理由まで添えて平気で断る。
男ならともかく、女と二人きりは面倒と久遠の談。
その言葉を聞いた結月が彼は異性に対して愛を注がないものだと勘違いしてひと悶着起こしてしまったのは少し前の話。
「でもなぁ……」
彼も自分もインドア派であり、必要がなければ外に出ない。事実、二人の過ごした時間のほとんどがどちらかの家。
年頃の男女が部屋に二人っきり、にも関わらずあまりになにも起こらないことから二人の様子を時折見ていた両家の親が心配したくらいだ。
気を遣って家に誰も居ない状況にしても手を出さないのは、異常なまでに健全すぎる。
『熟年夫婦みたいな雰囲気を出すには早くない……?』
そう言われたことがあり、結月も同意見だ。
創作物は創作物だが、男女が一つ屋根の下に二人っきりになったら
とはいえ。そのこと自体に不満を抱くことはなく、逆に手を出されていたのなら彼から心が離れていたのは間違いないのが女心の面倒なところ。
乙女心に矛盾は付き物なのだ。些末事を気にしては始まらない。
「女として見られてないわけではない……らしいですし……」
以前、小説の感想を言い合っているときにさりげなく聞いたことがあった。自分のことを異性として見ているかどうか。
退廃的な作品にはどうしても
年頃の男子が異性からこんなことを聞かれようものなら勘違いしそうなものだが、ただただ不思議そうな顔を浮かべて
『いや、可愛い女の子が隣に居て、何も思ってないわけなくない?』
瞳を真っすぐ見て、こともなげに言って彼は読書に戻った。
その言葉が、他の人間から告げられたのであれば寒気と諦観が同時に襲ってきたかもしれない。でも、実際に感じたのは温かさ。自分はどうでもいいと思っている人間からしか好感を得られないと思い込んでいたから、彼が発した何気ないひとことに救われた。
自分が人間不信にならなかったのも、彼のおかげ。
彼に言ったらそんなわけはない、と否定するだろうから胸に秘めた想いを大事にしまう。
「なにか出掛ける口実ってありましたかね……」
彼は誘えば来てくれる。ただ、それと自分が用事もなく誘えるかどうかはわけが違う。外に魅力を感じるアウトドアな趣味を持っていれば車を出してドライブにでも行けるのかもしれないが、残念ながらそんな趣味はない。
そんなことを彼が出て行ってから、ずっと考えている。
「もうなんでもいいから外の空気吸いたいって誘おうかな……」
迷ってるよりはいいかもしれない。外に出れば思いつくだろうし……と、諦めているとスマートフォンから音が鳴る。
手元に寄せて、メッセージアプリを開いてみると、久遠の名前。
「久遠さんが自分からメッセージを送ってくるなんて珍しい……」
久遠という人は、基本的に必要性があると思ったことに対してしか自分から行動することをしない……のもそうだが、レスポンスが極端に少ない。
と、結月は思ってるのだが、実際のところは結月の話しかける機会が多いだけである。
|
「この時間に研究室が終わるなんて珍しい……」
時刻は昼を回る少し前。家を出たのが9時前だから通学を含めて3時間くらいで終わったことになる。いつ行くのも帰るのも自由だが、進捗が良ければの話。
だいたい夕方以降にならないと帰ってこないのに珍しい、と思ったのも仕方ない。
思ってたより帰宅時間が遅くて毎日寂しい思いをしていることを当人はまったく気が付いていないのだが。
|
|
「……まさか、デートのお誘いってわけでもないでしょうし」
もしそうだったら自分にとって都合がよすぎる。少女漫画の乙女がする妄想もいいところだ。そんなわけあるわけないじゃん、と彼女は自身に言い聞かせて、ベットでゴロゴロと寝転がるのを何往復か。
これで誘われでもしたら準備が大変なことになるのも厭わず──単に頭に入っていないだけとも言う──枕に顔を埋める。
|
|
|
「……え?」
ベットに寝転がったことで崩れてしまった髪を鏡で見て、漏れ出た声は絶望を表すには十分だった。
多少崩れてしまっていたが、毎朝頑張って久遠より早く起き、容姿を整えるクセを付けていたことに今日ほど感謝したことはない。
別の家に住んでいた以前なら一時間ほど準備に見積もっておけば遅く起きても外見を整えられたが、そうでない今は慣れない早起きをして整える。
乙女が異性の前に出るときにおしゃれは必須事項なのだ。
「えっとえっと……」
クローゼットからいつも着ているお気に入りを引っ張り出す。黒を基調に、差し色に紫。フード部分が兎をイメージした生地になっているパーカー。
髪が跳ねていないか、服にヨレやシワが付いていないか何度も何度も確認し、ソワソワとその場を何度も往復している。準備が終わったとはいえ、見た目は受け取る相手によって決まる。どのように思われるか気にならないわけはない。
気にならないのは、社交性がないか、その相手がよほどどうでもいい場合。
そうしている間に扉の開く音がして、玄関前に急いで向かう。
「ただいま」
「おかえりなさい」
もう何度も見ているはずなのに、顔を見るたびに温かな気持ちになる。優しい声が、脳を溶かす。そんな内面に全く気付かせないように、ニコリと優しい笑顔が浮かぶ。
「準備は……終わってそうだな」
上から下までじっくり眺めて、お出かけ用の装いになっていることに気が付いてくれる。細かな変化、というのは気が付くのが難しい。
この辺りが気付けないと恋人として長続きしないんだという話もあるくらい、相手のことをよく見る目がないと心を掴めない。
もっとも、恋人ですらないのだが。
「はい、少し前に」
「そうか。待たせた」
少しでも待たせたのなら、軽く謝る。気を遣ってそんなに待っていないように、思っているよりも待たせてしまった可能性が高い。
「それじゃあ行くか」
「……はいっ!」
意図せず勢いのある返事が出て恥ずかしくなる。嬉しいのは事実でも、その感情が表に出てしまうのは出来るだけ避けたい。これじゃあまるで、好きな人にデートに誘われて浮かれている女の子のようだから。傍から見てそう思われるのは避けたいから。
努めてただの笑顔に戻す。
「……今日もかわいいな」
「……っ」
ズルい、と思う。
出来るだけ平静を保とうとしているのに、この人のせいで何度崩されたことか。呆れるくらいに、優しいのだから恨もうにも恨めない。
当の本人は俯いたのがおしゃれに気が付いてくれなくて不満げに見えたから、というのが報われない点だ。朴念仁と言われるのも仕方がない。
「それで、どこに行くんですか?」
気を取り直して、どこに買いに行きたいのか聞く。コーディネートは考え始めるとキリがない。ワンセット、どれだけ早く決まっても1時間。ショッピングモールなどの大型店舗にもなれば選択肢が広がり時間も伸びていく。
昼頃から動こうとすると、時間が足りない可能性がある。
「二駅先にモールがあったはずだから、そこで買おうかと思ってる」
「あー、あそこですか」
引っ越しをする前に、周辺のアクセスを確認するのは当然の話。事前に久遠が住んでいたが、男性向け商品ならともかく、女性向けを購入しようとなると、彼が知っているかは怪しい。
二駅先のショッピングモールであれば、女性向けの洋服も多い……と、いうよりも女性向けのブランドが多く入っている。男性向けがないというわけではないが、比重に偏りがあるはず。
(近所だし、何度か行ったことあるんでしょうか)
気にしても仕方のないことなのは分かっている。
でも、誰かと一緒に行ったことのある可能性がある、それだけで胸中は大きく乱されるのだからおかしな話だ。
「少し肌寒いですね……」
春先とはいえ、外は流石に冷える。桜並木が発する優しい香りに、少しむせそうになりながら新しいタイルが張り詰められた通りを鳴らす。
反対側から何度もカップルが歩いて、通り過ぎる。桜の香りに一瞬、香水の匂いがついて思わず顔をしかめて、隣に人が居ることを思い出して表情を戻す。
もうしばらく歩いていくと──ついた。
それは、一般的には大きいだけの、なんてことのないショッピングモール。下から上まで。全てのフロアが吹き抜けに、先ほどの通りから察することが出来るように、自然をデザインの主軸に置いているのだろう。
商業施設であるにも関わらず、どこか温かな印象を受ける。まるで物語に出てくるような場所のようで、しばらくの間、立ち尽くしてしまう。
「すっごい……」
「ショッピングモールってこういうのばっかなのかね」
どこか他人事のように、ともすれば来たことがないような言い回しをする彼に、少しの違和感。
「あれ? 来たことなかったんですか?」
てっきり何度も来ているお気に入りの店で服を選ぼうとしていると思っていたのに。
「全く。誰とも来たことないし、一人でも来たことはないぞ」
あっけらかんと首を振る彼に疑問を持ちながら、歩を進める彼の後ろにぴたりと張り付く。
エスカレーター付近にある看板に軽く目を通して、知っているブランドがいくつかあることに度肝を抜かれる。
「結月の好きなブランドって……これとこれだったろう?」
看板に何度か指を指した先はいずれもゆかりが以前に買ったことのある服やコスメのブランドだった。
「覚えてたんですか……?」
てっきり自分の好みには無頓着だと思われていた結月は少し驚く。
そもそも彼が誰かの好みなどに頓着していた記憶がないのだ。自分のことにも気を向けられていないと思っていた。
「いや、誕生日に贈ったことあるだろうが」
驚いたのが表情に出てしまったのか、少し顔を
言われてみれば、とここ数年に誕生日プレゼントとして贈られたものを思い返してみる。流石にコスメなどを贈られたことはないが、服は彼から贈られたものを好んで着ている。
そもそも、今着ているこの兎のパーカーだって彼から贈られたから気に入っているのだが。
「あれ?」
自惚れでなければ、意外と自分はしっかり意識されて──大事にされているのかもしれない。少し自分に自信が持てたような気がする。
「さて、探しに行くか。モノはついで。結月も気になるものがあったら足を止めてみろ」
「え? 長くなりますよ?」
女性の買い物は長い。それは、ありとあらゆる創作物がそうであるように、一定の事実であることは、彼も知っているはずなのに。なぜわざわざ時間を取られようとするのか。
「俺の用事だけに付き合わせるなんて言ってないだろう」
「それはそうなんですけどね……」
本来の目的になかった自分の買い物に付き合わせるのは忍びない。気にならないフリでもしてお茶を濁すことにしよう。分かりました、と声に出そうとして、『そもそも』と被せられる。
「そっちが主目的だからな」
「え?」
苦笑する彼に手を引かれてエスカレーターに乗る。
「せっかくの大学生活なんだ。服のレパートリー持った方が楽しいだろ?」
高校とは違って自分の好きな服を毎日着れるんだから、と続ける彼に驚く。意外と、なんて生易しいものではない。彼はしっかりと考えてくれていたのだ。
もしかしたら、大学だって早く帰ってくるために頑張ったのかもしれない。
これじゃあ、まるで、本当に──
(デート、みたいじゃないですか……!)
ニヤけそうになるのを唇を噛んで抑えるので精一杯だった。