鈍色の空から降り注ぐ雨粒が弾丸のように窓を叩く。
夜の街灯。道を照らしてくれる街灯が雨の日は異様なほどに頼りない。
それを横目で眺めながら、これまで生きてきて良かったと思えることを考える。
『現状に満足していない人ほど、思い出は美しく蘇る』
そんな、なにかの本で読んだような言葉が脳裏を過る。
あの本では、思い出を再演出来るような時間を、懐かしい人と過ごす時間を大切に思うと書いてあった。だから素敵なものに捉えているというのも。
では、自分はどうだろうか。結月は少し考える。
懐かしい人と過ごす時間はない。年単位離れた人間で大切に思う人間などいないから。
少なくとも、失ってはいない。そして、進んでもいない。
本当に?
(……本当に、そうでしょうか)
最近、その考えが正しいものなのかどうか、悩むようになってしまった。結月が彼の家に引っ越してきてから、ではない。この悩みは何年も引きずっている。
「中途半端、ですよねぇ……」
わざわざ口に出して、自分を
そもそも、先に言った通り過去に想いを馳せるのは今の自分の状況に満足していないから。
進む選択肢を持ちつつ、進みたくないという二律背反の感情。自分の内に渦巻くこの感情に、名前はついていても、明確に言葉にするのは躊躇われる。
それに振り回されている様子を見て、大人たちはきっと『若い』というのだろう。ならば、若いというのなら。自分の感情が結実させる方法を彼らは知っているのだろうか。
「はぁ……」
八つ当たりだ、と自分の考えに対して溜息が出る。他人は基本、信用ならない。悪意を向けてくる相手は言わずもがな、好意を向けてくる相手に対しても細心の注意を払って見定めなければならない。どのような好意かどうかを。
その点では間違いなく、目の前に居る金髪の彼女は信頼できる。
「どしたのゆかりん。せっかく女子二人、楽しく恋バナしよう! っていうのに」
なはは、と笑っている彼女に視点を合わせる。
彼女と結月を比べる際に行き着く結論は、『正反対』だ。
日本人とは思えない派手な金髪に、人を惹き付ける魅力的な緑の瞳。そして、グラマラスな身体には結月にはないものが在る。彼女は自分の身体を見せつけるような服装を好んで着るが、曰く
『バンドするから動きやすい服がいいんだよねー』
とのこと。
いやそれが見せつけてんでしょうが。
人間、自分にないものを見ると無性に羨ましくなってしまう。隣の芝生は青く見える、というやつである。
特に、それが母性の象徴、然るに──女性らしさの象徴と言っても過言ではないものであったのなら、当然そうなる。
自分の身体と、相手の身体。あるものと、ないものを比べて少し気が沈む。
男は胸が好きというのは、部分的には当たっているのだが、全部が全部そうでないことを、今の結月が知ることはない。
「いえ……雨がすごいなぁって」
「ん-、そうだねぇ。せっかく一歩進めたお祝いをしようっていうのに」
台無しだよー、と自分のことのように嘆く彼女に結月は静かに笑う。
彼女はいつもそうだ。周囲を太陽のように照らし、陰気になりがちな自分にも笑いかけてくれる。結月が胸を張って親友だと言える数少ない人間。
「それで、どうなの?」
「どう、とは?」
世間ではストローが紙製に変わっただとかそういうニュースもあるが、この喫茶店ではそういう心配はない。
プラスチック製のストローから頼んだアイスティーを吸いながら、先を促す。
「せっかく同棲出来ることになったんだから、進展の一つくらいないのかなー、って」
「っ……けほっけほっ!」
明らかに食道ではない方に流れてむせ返る。気道に入った分をなんとか咳で追い出して、恨めし気に彼女を睨んでも、ニンマリと笑顔を浮かべるだけ。
彼女と話すといつもそうだ。手玉に取られる、というか。
相談に乗ってくれている彼女には感謝しているが、時折見せる笑顔を小突きたくなる。
それでも、面白がっているのか疑えないのだから、信頼はやはりしているのだが。
溜息を吐いていると、横から皿が差し込まれる。並々と盛られたクッキーは、注文していないものだ。
「ありがとう、
二人の女子会は弦巻の実家、喫茶店マキで行われる。実家ということで、友人の父親の前で恋バナをすることになるが、流石はダンディーおじさま。静かにカップやグラスを磨いているだけで基本話しかけてくることはない。
ちなみに、喫茶店の名前は娘の名前をそのまま付けたのだとか。
「今日はお客さんも来ないだろうからね。ゆっくりしていくといい」
「ありがとうございます、マスター」
軽く会釈をして、クッキーに手をつける。
口の中でサクサクと音が鳴り、甘い香りが広がる甘味に頬をほころばせながら、横目でそのまま立っている弦巻父に首を傾げる。いつもならすぐカウンターに戻るのに。
「僕もちょっと混ざろうかな」
隣の方から席を持ってきて、どっしり座る。女子会なのに40過ぎのおじさまが同席するのか、とか色々と言いたいが、場所を貸してもらっている手前、ヘタなことは言えない。
あと普通に泣かれる。
「40過ぎのオジサンが女子会に一緒に話すのー?」
「うん、マキ。もうちょっと言葉選んでね……」
娘からの手痛い一撃を受けて机に突っ伏してしまった父親の姿ほど憐れなものはない。女子会には男子不可侵というのは有名な話。踏み込んだ男が悪い。
もうちょっと思春期の娘との距離の取り方を考えるべきなんじゃないだろうか、と結月は思ってしまった。
「久遠くんと同棲しているだろう?」
「っ……けほっけほっ!」
この親子は揃って人の気道をいたぶる趣味でもあるのだろうか。
それにしても、なんで知っているんだろう。
「いやー、娘の同級生が同棲なんてワクワクじゃないか!」
「パパ……」
大学生で同棲するというのは、珍しい話ではない。ただ、それは自分が大学生のとき。大学への進学率なんてたかが知れている。
その上、自分が大人になってしまえば同棲の話なんてめっきり聞くことはなくなる。子の世代の同棲なんて、大人にとって
「口を出す気はないよ?」
「いや、目の前に居られるだけで問題なんだけどね」
娘に呆れた視線を送られて、居心地が悪いのか少し視線を伏せる。それでも席から動かないから、よほど気になるのだろう。
それはそれとして話しにくいのは事実だから離れてほしい気持ちはあるのだが。
「こほん。まったくの無関係というわけでもないから許してほしい」
「いや、確かに
「そういうことじゃないんだよね」
先ほどとは異なり、含蓄のある大人という雰囲気でコーヒーを飲む。意味深に閉じられた瞼は、少し迷っているようにも思えた。
言うべきことなのか、言わないべきなのか判断を下しきれず、近いことを言ってしまったときの弦巻父のクセ。
結月は気付かず、弦巻だけが気が付く。
想い人のこと以外、結月は鈍感なのだ。これまでの人生でならざるえなかった、というのが正確なところではあるが。
「まぁ……マキさんのお父さんならいいですけど」
空気を察して渋々、といった感じではあるが優しい笑顔を浮かべる結月に、弦巻父は以外な視線を浮かべる。
「聞かないんだね?」
「面白がっているわけではなさそうなので」
これが高校などの上っ面で友人をやってる人間だったらやんわりと断るが、信用出来る人間だったら話が別。恥ずかしさと信用を天秤にかければ信用の方に傾く。
話さないことは相手を信用していないことと同義なのだ。
「とはいえ、話せることなんてそうないんですけどね」
「えっ、同棲、始めたんじゃないの?」
「そのはずなんですけどねー……」
諦めたように溜息を吐いてから、今日この日まで全く進展がないことを二人に告げる。
それを聞いた瞬間、弦巻はわなわなと震えだし、弦巻父は苦笑いする。親子なのにここまで反応に差が出るのか、と関心していると、机が揺れる。
「もーっ! せっかく美少女が同棲してるのに手も出さないってなにさー!」
髪が揺らめかせながら、怒号を飛ばす弦巻に笑う。
怒髪天を衝く、とはよく言ったものだが本当に髪が逆立つのは初めて見た。少し感動した。
「まぁまぁ……それで手を出すなら彼じゃないでしょ」
呆れながらも、的を射るようなことを言うのは年の功か。
両者に共通している点は『まさか進展がないとは思わなかった』という驚きと呆れ。
むしろ、そういう視点があるのか心配になってくる。
「で……でも、ちゃんと見てくれてるって言ってたんですよ……?」
「例の『可愛い子が隣に~』ってやつ?」
「はい」
夢を見るように目を瞑る結月に、眩しいものを見たように微笑む。ここまで健気だと応援したくなるものだ。
恋する女の子は無敵、という言葉が昔からあるが、それは正確ではない。恋愛作品において軽視されがちだが、支えてくれる人が居てこそ、無敵になれる。
困ったことに、目の前の女の子の拠り所は想い人の言葉であることは、友人甲斐が少しないな、と思ってしまうのは、普段あまり頼られないからだろうか。その答えは弦巻だけが知っている。
「ふ~ん?」
「マキさん?」
ニンマリと笑う彼女に、結月は困惑する。そんなことがないのは分かっていても、その笑顔がなにかを企んでいるように見えて、不安になる。
実際のところは、先ほど浮かんだ感情を隠すためなのだが。
「いや~、ゆかりんは可愛いなぁって思っただけ」
「もう、マキさん!」
「えへへ~、ごめんねゆかりん」
席を立とうとする結月を慌てて止める。拗ねると話を聞かせてくれるかもしれない。友人として、相談されるほど嬉しいことはない。
「もう……いいですよ。そこまで気にしてません」
申し訳なさそうに反省している彼女に、結月は溜息を吐く。そこまで露骨にしょんぼりされると二の句が継げない。
この友人は、そのあたりの甘え方が上手い。本人は自覚こそしていないが、なんだかんだで許し、許されてしまう、そんな空気が彼女を信頼する一番の理由。
人が
「あの人はどうしたら手を出すようになるんだろうね?」
「別に出されたいってわけじゃ──」
「じゃあ、出されたくないの?」
うっ、と息が詰まる音が喉から出る。男女の仲は、最後には肉体に結びついていく。どんな綺麗事を言おうと、生命である以上これが変わることはない。
女性に性欲がない、なんて幻想を抱いているのは男だけである。
「出されたい……ですけど……」
でも、とそこから声が出ない。今は手を出してもらおうと前向きになっている今はいい。もし仮に、実際に手を出されるとなったら、逃げてしまうような気がするのだ。
それはあまりに自分勝手で、おそらく二人の関係を変えてしまう。前に道が続いていくのならいい。でも多くの場合は──
「ゆかりん、私も
そんな彼女の気持ちを
「多分、そのままだと彼が気付くことはないと思うよ」
「そう、ですよね……」
希望を持たせないようにバッサリと切って捨てる。今のままではダメなのだと、彼を自分のものには出来ないのだと。気落ちし、思考の海に沈みそうになったとき。
からんころん、と優しい音色が耳に届く。
「表には看板を立ててあるはず……?」
音に釣られてそちらを見ると、見慣れた人物がそこに立っていた。
「すみません
「久遠さん!?」
久遠の姿が見えて、結月は反射的に席を立つ。
なんでここに、という言葉を出そうとしても口から出るのは声にならない空気だけ。
「うん、見てもらった通り、ここに居るよ」
「ありがとうございます。弦巻も、こんにちは」
「やっほ~久遠」
安心したように溜息を零していることに、結月は気が付かない。
それに目敏く気が付いた弦巻親子は、そんな二人に苦笑い。二人の仲がいいのは知っていたが、これではまるで──
「ゆかりんの彼氏さんみたいだね、久遠?」
「マキさん!?」
「……まぁ、同棲してるからな」
かわいらしい友人が報われるために一肌脱いでニヤニヤ笑って煽る。久遠は動揺せず、結月が動揺するという残念な結果。……表面上は。
ほんの一瞬、目を見開いて驚いたことを弦巻は見逃さない。
(意外と脈ありだったりする……?)
当の
恋は盲目。好きな人へ視線を向けるときは、どうしてもいつも通りの相手という色眼鏡で見てしまう。細かな変化に目を向けていても、自分に視線を向けられていないときだけ。
自分に視線を向けられているとき、相手からの視線を意識しすぎて目を向けている余裕なんてないのだ。
「弦巻、なにか言いたいことでも?」
「べっつに~?」
「明らかに言いたいことあるだろ、お前」
露骨に嫌な顔をして、久遠は結月の手を取る。
「ほら、今は住んでる場所が違うんだから気を付けろ」
「あ……」
言われて気が付く。喫茶店マキがある地元から、今住んでいる久遠の家まではおおよそ1時間弱。女性が一人で歩くには少し遅い時間になる。
特に、束縛されがちな高校から卒業したての身。羽目を外してどういうことが起こるかは想像に難くない。
久遠個人としては、そういう目に遭ってほしくない。だからこうして大学からも遠い場所に迎えに来ているわけで。
過保護と言われればそれまでだけれど。
「そういうことで女子会を邪魔して悪いが連れて帰らせてもらうぞ」
「ああ、うん。うちのゆかりんをよろしくね?」
「マキさん!」
「お前のじゃないだろ……」
呆れてジト目で睨んでくる久遠になはは、と笑いを返す。そんな弦巻に大きな溜息を吐いて結月の手を引く。
喫茶店から出ていく二人をぼんやりと見てもう少しこのままでもいいかな、と思う弦巻だった。
「それで、関わってるってどういうこと?」
「やっぱり気になる?」
「モチロン。気にならないわけないでしょ。あんな言い方しておいて」
「まぁ、そうだよねぇ……」
二人が出て行った喫茶店マキで、弦巻が父親に聞く。結月の手前聞かなかったが、あれほど露骨に言っていれば気にならないわけがない。
娘の成長にジーンと来るものがありつつ──目の前のことに目を向ける。
「まぁ、そのうち分かるよ」
「悪いことではない……んだよね?」
「うん、少なくともあの二人にとってはそうだと、母さんに誓うよ」
「ん、ならこれ以上言わない」
亡くなった妻に誓うことは、弦巻父──徹平にとって、キリスト教徒が神に誓うのと同義。つまり、最高の誓い。
それを弦巻も分かっていて、優しく笑う。
「ありがと、あの二人のために動いてくれて」
「──ああ」
本当に、友達想いの良い子に育ってくれたと涙が溢れそうになる。
そんな娘が友人のあの二人に少し羨ましさを覚えるのは、きっと
いくら夢想したところで、夢想は夢想。空想は空想なのだ。
「ふふ……」
「うわ……お父さん、ちょっと気持ち悪いよ?」
「酷いなぁ……」
先ほどとは違う涙が涙腺を刺激している気がするが、気にしないことにした。
バックサイドこそ日向