ウルトラマリンに溺れたい   作:鳥籠のカナリア

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新月久遠の一日

 新月久遠の朝は──早くない。

 

 元来面倒くさがりな彼は、出来る限りギリギリまで寝ていたい、という大学生特有の無気力を隠す気もなく、二度寝をかまそうとする。

 

 講義を詰めていた二年次は終わり、比較的自由のある三年次。一限がないため、寝ていられるのなら寝ていたい。

 

 そう考えて目を閉じて──今は結月が一緒に住んでることを思い出し、しかめっ面を浮かべて起き上がる。

 

「眠いな……」

 

 一人暮らしだったころは、最悪朝食を抜いても構内の売店で適当なものを買って口に突っ込めば問題なかったが、結月が一緒に住んでいる今はそんなことは出来ない。

 

 新月家ではどんなに不仲になっても、喧嘩していても一緒に住んでいる以上飯だけは全員で食べるというルールがある。個食が問題視される現代社会においてはいいことだが、両親が喧嘩していたときの食卓の空気は最悪だった。

 

 軽い伸びと深呼吸を繰り返し、低血圧特有のフラフラ感がなくなるのを確認して洗面所で顔を洗う。歯ブラシを口に突っ込んで自室に戻ると、おもむろにスマホを枕元から取って音楽を再生する。

 

 起床したてで歯磨きをして、危うく倒れそうになることが多発してからは音楽をかけるようにしているが、これが意外と脳が働き始める。

 

 洗面台に戻り、片付けをてっばやく終わらせる。ここまで来るとある程度目が覚めるので、寝ぐせを直すために軽くシャワーを浴びて、手早く整髪料で髪を整えながら朝食なににしようか考える。

 

 一通りの準備を終えてリビングに足を向けると、結月は既に起きていた。女性は準備に時間がかかると聞くのに、同棲を始めて約一か月、一度も彼女の寝癖を見たことがない。

 

 大したものだ、と密かに感心しながらせっかくの家なのだからもう少し楽にしたらいいのに、と思うし、実際に彼女に言ったことがあるのだが、当の本人が聞き入れることはなかった。

 

 なんでだろう、と朴念仁を発揮する彼に、結月が苦笑していたのは言うまでもない。 

 

 女心分からないカスがよ。

 

「おはよう結月」

「おはようございます、久遠さん」

 

 軽く挨拶をしてキッチンで軽い料理をする。

 

「結月、お腹は?」

「いつも通りって感じですね」

「分かった」

 

 ならいつも通りの朝食でいいか、と冷蔵庫から適当なものをチョイスして料理を終わらせる。ご機嫌な朝食、とまでは言わないが、主食に副菜まであれば、朝食としては上々だろう。

 

「毎日思うんですけど、これまでも料理してたんですか?」

「まぁな」

 

 実際のところは夕食はともかく朝食まで作っているわけはなく、結月が来るまでやっていなかったのだが……。わざわざ言って申し訳なさを感じさせる必要もないだろうと肯定の言葉を返す。

 

 パリッと音がなるのに、焦げ目が一切付いていないウィンナーに手を付けて、今日の予定を考える。三年次にゼミがあるところは少ないが、久遠の大学はある。二年近くあるということは、それなりのものをお出ししないと単位がもらえないということ。

 

 企業と提携しているとはいえ、少し気合いを入れすぎなのではないかと吐きそうになる溜息をウィンナーと一緒に飲み込む。

 

 研究が進んでいくと、少しずつ追いつめられるのは容易に想像出来る。その時に八つ当たりしないようにだけしないとな、と静かに決意する。

 

「二年くらい、なんですよね」

「……ああ」

 

 なにが、とは聞かない。久遠は大学三年。つまり、地元を離れて二年の月日が経過している。その間に何度か実家に顔を出し、結月にも会っているとはいえ、やはり以前のような距離感ではない。

 

 四六時中一緒に居た人が長い間離れていたのだ。お互い、思うところはある。

 

 結月も、もちろん久遠も。渦巻いた感情をおくびにも出さず、静かな声で

 

「まぁ、これからは一緒に居るんだ。二年前とは比べ物にならないほどな」

 

 そう言って、食事を終えて食器を片付けに台所に行く。

 

 だから、久遠は気が付かない。結月が(ほう)けたような、嬉しいような表情を浮かべていたことに。視線に気が付いてくれないことへの少しの寂しさも込められていたことにも、当然気が付かない。

 

「大学行ってくるわ。多分帰りはいつも通り」

「あっ、気を付けていってらっしゃい」

「ん、行ってきます」

 

 自室からスマホ、充電器、財布……などをバックに突っ込んで、家を出る。電車に乗り込むまでの道中で、イヤホンを耳に突っ込んで適当な音楽を垂れ流す。

 

 幾人か大学で見たような顔が見えても、特に知り合いでもなければ自分から声をかけに行くことはない。

 

 何事もなく大学の校舎まで辿り着き、売店でコーヒーとオレンジジュースを買ってから研究室に足を向ける。売店から研究室まではかなり遠い。時間にして約十分。軽い邸宅にでも居るのだろうかという錯覚と眩暈を覚えながら、目的の研究室にある扉を開ける。

 

「おはようございます……うっ……」

 

 朝だというのに強烈なアルコール臭が鼻孔を刺激する。朝から吞んだくれている愚か者が、研究室の床で寝ていた。

 

「またかよこの人……」

 

 短いスカートのスリットから覗くなまめかしい足に、アルコール臭のせいでエロスを感じることが出来ない。露出自体は多くないが、下半身をストッキングで覆っているからであり、服の面積が多いわけではない。

 

「先輩、京町先輩。起きてください。研究室ですよ」

 

 何度か揺すっていると、かすかに苦しそうな呻き声を漏らす。そして、ゆっくりと、まぶらが開かれる。ああ、起きたのかとなんの感慨もなくそう思っていると、向こうの表情が少しずつ、驚愕に見開かれ──

 

「んぁ……んぇぇぇっ!? ななな……なんで久遠くんが!?」

 

 慌てたように後ずさり、机の角に頭をぶつける。器用だなこの人、と思いながら現状説明を淡々と始める。一々誤解されていては話が進まない。

 

「研究室に来てみたら愚か者がアルコールの臭いを研究室に振りまいていたので起こしただけです」

「な……なにかしてない……?」

「しませんよ」

 

 世間体が怖いし、今の彼女にカケラもエロさを感じることが出来ない。美人をここまで台無しに出来るものなのかと毎度のように関心していると、突然京町が頭を抱え始める。

 

「うぅ……どうしてここで寝ちゃったのよ……朝から久遠くんが来るの、分かってたじゃない

 

 小声でなにかを言っているが、聞き逃す。どうせ大したことでもないのだろうと、聞き直すわけでもなく、立ち直るのを待つ。

 

「……そもそもなんでここに居るんですか」

 

 京町は大学院生であり、大学に居られる最後の年でもある。だから、研究のために徹夜しているのなら疑問も湧かない。ただ、わざわざ酒を持ち込んで飲んでいるのが不思議なのだ。

 

 はて、なんで居たんだっけと言わんばかりに数秒目をマバタキをして、辺りをぐるりと見渡す。まさか、忘れたということはないだろうな……思わずそう思うくらい、彼女は長い間思巡(しじゅん)した後、思い至ることがあったのかデスクの上に手を伸ばす。

 

 京町に気を取られて気が付かなかったが、ファイリングされた書類の山が彼女の手に握られていることに、嫌な予感がする。

 

「はいこれ。教授からの渡し物」

「……これが全部?」

「うん、全部」

 

 地獄か、と天井を見上げる。知ってる天井で、研究を始めてから毎日見上げている気がする。もう少し捻りというか、加減というものを教授には知ってほしい、とうんざりした気分になる。

 

「はぁ……京町先輩、この後研究室に居ます?」

「んー? んー、研究の続きしないといけないのは確かだけど……」

 

 チラッチラッと久遠の方を見る京町はニヤリと嫌な笑顔を浮かべている。思わず殴りたくなる衝動に駆られるが、相手は女性だったと思い直す。

 

 溜息を吐いて、降参の白旗を掲げる。

 

「……分からないところがあったら聞くので、教えてくれると助かります」

「あれ、全部聞くわけじゃないんだ」

 

 なにを言ってるんだこの人、と心外さを込めた目を向ける。

 

「だって、大学生なんてサボってナンボでしょ」

「だから都合いい女扱いされるんですよ、先輩」

「うっ!?」

 

 彼女のサボりたい気持ちに対する理解は関心するが、知識は自分で知ろうとしてこそ。

 

 普段は酒を飲んでばかりに思えるこの人は、特段不真面目というわけではない。むしろその逆。オンとオフを上手く切り替えているだけで優秀なのだ。

 

 男女問わず頼られ、跳ねのけてもいないため、都合のいい人間扱いをされているのを薄い付き合いながら気付く。

 

 人の生き方にとやかく言うつもりもないが、もう少し器用に生きられないものだろうかと嘆息する。

 

 窓を開けて、籠り切ったアルコール臭を外に逃がす。結構長い間この中に閉じ込めていたから、服にこびりついてしまったかもしれない。

 

 自分で洗えばいいか、と半ば諦めて自分の椅子に腰かける。

 

「それじゃあ資料見ます。聞いたらちゃんと答えてくださいよ」

「ええ、任せて」

 

 えっへん、と擬音が付きそうなほど胸を張って──同時に胸が揺れ、すぐに視線を落とす。女性はそういった視線に敏感だというのは有名な話。身体で人を見るのは普通に失礼だ。

 

 しばらくすればそのことをすっかり忘れ、紙をめくる音と時計の針の音が支配する。なんだか自室で本を読んでいるのと変わらないな、と思いつつ、いつも隣で本を読む彼女が居ないことに少々の寂しさを覚える。

 

 人が居るには居るが、当の本人は酒で潰れてカエルのような声を出している。

 

「うぇ……気持ち悪い……」

「俺来る度に言ってませんか」

 

 呆れた視線を向けると、バツが悪そうに顔を(しか)める。

 

「しょうがないじゃない。お酒が美味しいんだか……うぇっ……」

「どうせ言うなら最後まで言ってくださいよ……」

 

 しょうがない、と思いながら、鞄からオレンジジュースを差し出す。

 

「……くれるの?」

「隣で吐かれてると気分が悪いんですよ」

 

 憎まれ口をたたきながら、優しさが含まれていることに気が付いて京町は苦笑する。妙に壁がある癖に優しいというか……。

 

「ありがと」

 

 言っても否定されるだけだから、お礼だけ言って中身を飲み干す。

 

 余談だが、この時期に彼以外の三年が来ることはない。配属先が決まっていても、来る時間を指定されていない。それでも来るのは、教授に気に入られるくらい、生真面目だから。

 

「疲れた……」

 

 電車に揺られながら呟く。結局何度か質問して読み終える頃には日は沈み切ったあと。研究には役立てられそうだが、自分だけ明らかにハードワーク気味なことに嘆息する。期待されるのは嫌いじゃないが、それが過度だと嫌気が差す。

 

 大学教授は教師ではなく、ギーク*1なのだというのは有名な話ではあるが、大学に入ってからは認識を改めるばかりだ。もちろん、悪い方向で。

 

 老齢の人間が、年甲斐もなく(わらべ)のような瞳で語ってくると、跳ねのけにくいのも教授が話してしまう原因だろうか。

 

「はぁ……」

 

 今日という日にため込んだ疲れを吐き出すように溜息を吐く。誰かが一緒に住んでいるのだから、家で愚痴を言うわけにもいかない。独り言なら愚痴を言えるが、それはそれで心配されてしまう。

 

 自分は思った以上に結月に気を遣っているのかもしれないな、と毎日のように考えている。

 

 だってそうだろう、中学の頃からずっと関わりがあるとはいえ、相手は女性で久遠は男。自分の土壌で生活して文句を言われる立場ではないし、上がり込んできたのは向こう。家では傍若無人に振舞えばいいじゃないか。

 

「それが出来れば苦労しない」

 

 答えが出ないことにいつまでも悩んでいられるのは、若者の特権であると誰かが言った。

 

 しかし、いつまでも悩んで尻込みするのは誰にも許されていない。自分が止まりたいと考えていても、周囲の時間は進んでいく。時間は有限で、悩みは無限。懊悩するのはいいことであり、止まるのは褒められたことではない。

 

「考えたところで変わらないか」

 

 だったら激流に身を任せながら考えることにする。同棲を了承している時点で、彼女に対する感情など決まっているのだから。

 

 問題は、それがどういう形を持つか。輪郭は見えても形が見えないものだ。

 

 いつの間にか自室の扉前に足を止めている。

 

 深呼吸を一つ、自分の家だというのに妙に緊張していることに戸惑いながら、扉を開く。

 

「おかえりなさい、久遠さん」

「ああ、ただいま」

 

 結論なんて今は出せない。ただ、この同棲を楽しんでいるのだけは、胸を張って言えることだ。

 

*1
好奇心が旺盛な賢い人間

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