今回は予定通り2話投稿します。
流石に健輔に続いてゴロウさんについてまで立木に奢らせる気はない――その義理もない――ためか、哲也の持ちでそこは捻出される事になった。健輔としては申し訳なさ過ぎて、せめて半分くらいは出したいと思わないでもなかったが、そこまでの持ち分がある自信がなかった。
しかし意外な事にゴロウさんが頼んだのはお高そうなメニューではなく、この食堂にあってはむしろ平均的な値段の豚丼だった。甘じょっぱいタレが特徴の十勝風の味付けの奴。なんでも出身がそっちの方だとかでずっと食べたかったらしい。案外みみっちい。
「さぁて、飯が来て気が変わっちまう前に話しておくか…おいジジイしっかり思い出せよ?」
食ったら食い逃げしちまいそうだからな、とか言ってガハハと笑うゴロウさんの背後でゲンさんがやれやれと息を吐いた。確かにガラも態度も悪い男だがこういう所では案外気が良いと言うか…義理堅いのかよく分からない人だと思う。
「1ヵ月くらい前だな、ちょうど“ハートマン軍曹”が絡んでたからよく覚えてんだ」
何故か得意げな口調で語りだすが、いきなり身内にしか通じない綽名を出しても通じる筈がなく、哲也が即刻「“ハートマン軍曹”って誰だ」とツッコミを入れた。
「うちの“元”現場監督。とりあえず今はそれで呑み込んどいて」
説明しても無駄にややこしくなるだけなので、それだけ言ってゴロウさんに続きを促す。やや気勢を削がれたような形だが、そんな事は欠片も気にせず、ゴロウさんは話し出した。
曰くまだ“ハートマン軍曹”が生きていた頃の事だそうだ。給料日だった事もあって、手近な居酒屋に呑みに行った帰りの道中、このまま部屋に戻るかもう一軒行くか、なんて話をゲンさんとしていた所だった。
とりあえず歩きながら考えようと思って、呑み屋街をブラブラうろついていると不意に短い悲鳴のような声が聞こえた――気がした。喧騒に紛れて一瞬空耳かと思ったが、辺りを見渡してみると付近のラブホテルの手前、一人の中年男が女と思しき華奢な腕を掴み、女はその腕を振りほどこうともがいている、そんな光景が目に飛び込んできた。
別にそんなもの、ここでは珍しくもない光景だ。女は恐らく客引きか、もしくは今流行りのナニ活って奴だろう。で助平オヤジと諍いを起こして今格闘中という訳だ。明らかに女の方が男から逃れようと体を捩っており、そんな女を無理矢理力任せに男が引き込もうとしている、典型的な図だ。
普段ならとっくにスルーしている所だが、この日ゴロウさんはそうしなかった。別に正義感で女を助けに駆け付けようとかそんな風に思った訳じゃない。たまたま相手の男に見覚えがあったからだ。
“ハートマン軍曹”だった。ケンボーが陰でそう呼んでいるモンだから、いつの間にかそれが定着してしまった典型的な「嫌な本社の現場監督」。確か最近きな臭い動きをしてると噂になっていたが、まさかこんな所で出くわすとは思わなかった。
そこで瞬時に頭を働かせて思ったことはこれはもしかしたら、アイツの弱みを握れたのではないか、という事だ。確か奴には妻子があった筈で、それがこんな所でエンコ―等しているとなれば夫婦間の揉め事は免れない、本社だって良い顔しないだろう。下手すりゃ今後アイツにたかりまくって骨の髄までしゃぶってやれるのでは、と邪な思いを抱いた。
そうと決まれば、と思った所で、そう言えば携帯なんぞ持ってない、という事にようやく気付いたのだそうだ。カメラがなければ証拠が納められない、証拠がなければ知らぬ存ぜぬで躱されるに決まっているので、要は端からこの企みは成立しない訳だ、その事実にゴロウさんは思わず歯噛みした。
こうなったら偶然を装って、イチかバチか“ハートマン軍曹”に突撃を掛けて、その上で1回分だけでも脅迫の種にしちまうか、そう判断して奴に近づこうとした矢先だった。女は急に“ハートマン軍曹”の腕を引って体勢を崩させると即足払いを掛けて、地面に引き倒し、そのまま脱兎の如く遁走したのだった。
女も急に走り出したからか、周りがよく見えなかったらしい。こちらに寄ってきたゴロウさんと正面から衝突する羽目になった。突然の衝撃にゴロウさんもバランスを崩し、アスファルトに尻餅をつく無様を晒す形なった。
女はぶつかった衝撃でよろめきながらも、器用に脚を組み替えてなんとか体勢を維持したようで、地面に腰を打ったゴロウさんはその時女の顔をハッキリ見たと言う。
女、というより殆ど少女と言って差支えのない、幼さを残した顔立ちだった。だが不思議と人を惹きつけるような年齢不相応の美貌を纏ったその造作は、こりゃ確かに“ハートマン軍曹”でなくともナンパしたくなるわ、と頷けるものがあった。思わず「気を付けろ!」とか「どこ見てやがる!」とか、お決まりの文句を叫ぶのも忘れて、ゴロウさんはその相貌に見入っていたらしい。
睨み合いはほんの数秒、やがて少女はゴロウさんに一瞥だけくれると瞬時に身を翻して雑踏の中に消えていった。この人混みの中でよくもまあ、と呆れるほどの速さだったらしい。
気が付いたら“ハートマン軍曹”の姿も見えなくなっていた。こちらに気付いたのかは定かではない。この件に触れるべきか否か、そんな事を考えてるうちに件の事故が起こり、それっきり彼は帰らぬ人となったそうだ。
「まあ、そんなこんなだよ、この絵はその時見た娘っ子だ、間違いねぇ」
立木が人数分持ってきた水を一気に飲み干して、一息ついたゴロウさんがそんな風に言う。隣でゲンさんが「そういやそんな事もあったなぁ…」と遠い目をしており、対して哲也や真琴達は呆れ果てたような、そんな生温い視線を向けていた。
「…それホントにこの娘で合ってます?」
微妙に疑わし気な表情で哲也が問い掛ける。健輔も同様だった。あの日、目撃した切羽詰まったような少女の表情がどうしても、呑み街で“ハートマン軍曹”と言い争ってたというイメージと結びつかない。
「間違いねぇよ、こんな別嬪さん一度見たら忘れねぇって」
絵を眺めながらゲシシと品のない笑い方をする。どことなく下卑た視線に閉口する思いを味わっているとようやく席にさっき注文した豚丼が運ばれてきた。店員は如何にも風体のゴロウさんとゲンさんを不審そうにジロリと一瞥したが、それ以上は言う事もなく去って行った。
「まぁとりあえずこんな程度の話さ、豚丼の代金くらいの価値はあるだろ」
言うが早いか、早速箸を割るとゴロウさんはそのまま豚丼をかっ込み始めた。そんな様子を見ながら立木はお茶を飲み干すと徐に立ち上がった。「そろそろ行くわ」そう言ってよれよれのコートを引っ掛ける。
「なんだもう行くんスか?」
「テメーらといつまでも話し込んでる程ヒマじゃねえんだよ」
からかうようににやけ顔を浮かべている哲也の額を軽く小突いた。
「すみません、ご協力ありがとうございました」
「よせやい、俺は何もしてねぇ」
真琴にそう言われた時はどことなく照れくさそうな笑みを浮かべながらも、口調とは裏腹に礼儀正しく頭を下げると、最後に健輔の肩を軽く叩いた。心持ち強めの力に驚いた健輔が振り返るとこちらに顔を半分だけ向けた立木が酷く優し気な笑みを浮かべているのが見えた。
「じゃあな」
素っ気なくそれだけ告げると、立木はゆっくりと立ち去って行った。なんだかその背中が学生の時の記憶よりずっと痩せて小さく見えるのは気のせいかだろうか。どことなく不安な思いを感じながらも健輔は正面に座る哲也と真琴に視線を戻す。
そろそろいい加減この女の子の話と《スカルマン》、なんの関係があるのか話してくれてもいいだろう。と思ったが横でガツガツと丼を頬張っている部外者がいるのでは話しにくい事この上ないだろう。
どう話を切り出したもんか、と思っていると不意にゴロウさんが変な声を上げながら、胸の辺りを叩き始めた。なんだ?と思う間もなく空いてる方の手が健輔の目の前に置いてあるコップを引ったくったと思ったら、一気に煽った。コップの中身が空になったと思ったら、当のゴロウさんはスッキリと晴れやかな表情で無駄にデカい息を吐いた。
…どうやらかっ込みすぎで喉に詰まらせたらしい。お前は子どもか、と呆れたようなゲンさんの指摘も意に介した風でもなく、満足そうに腹をさするとゴロウさんは「じゃ、俺らももう行くわ」と言って立ち上がった。
結局何しに来たんだよ、とか思っているとゲンさんが同じような事を言ってゴロウさんの頭をはたいた。しかしこの人相の悪い男をはたいたり出来る辺り結構な度胸だよな、と感心するが、気にした風でもない二人は退院したら普通に仕事だからな、とだけ告げて去って行った。
良かった、どうやら普通に仕事は続けられそうだ、という事にとひとまず安堵する。本当ならすぐにでも退院しても良いくらいだと思っているが、そうもいかないらしい。警察に疑われているのでは、と思っていた時は正直癪だったが、入院したおかげでこうして哲也や立木にも再会出来たし、真琴のように無闇に自分を疑ったり、蔑んだりしない人がいる事も知れた。色々散々だったが、そこだけはまあ良しとしよう。
「さて私たちもいい加減行こうかしら?」
時刻は3時を17分程回った所。まばらになって来た周囲を見渡し、真琴がそう言った。
その後どういう話し合いが行われたのか定かではないが、真琴は一件別の所に寄ってから会社に戻る事にして、哲也はそのまま戻って良い、という許可が下ったらしい。次の場所まではバスで言った方が早いらしく、真琴は暫く院内の待合所で待機していた。
健輔としては別に病室に戻っても良かったのだが、なんとなく消毒の匂いの漂う部屋に戻る気が起こらず、しばし二人と一緒にいる事にした。それに真琴達に話したい事もあったし。
哲也はトイレに行くと言って今はいない。狭い待合所は他に人もなく、どことなく所在なさげな空気を感じていると、それを感じ取ったのか真琴が徐に「ねぇ?」と口を開いた。
「君さ、成澤と同じ高校なんだよね?」
「?はいそうですけど…」
何を今更、と自分は余程怪訝な表情を浮かべていたのだろう、真琴はどこか躊躇うように、心苦しそうに顔を歪めると「なら何か心当たりない?」と問うてきた。
「アイツは確かに色々バカで、向こう見ずで…とにかく半人前で…!でも本当に脇目も振らずに走れるくらい、まっすぐな奴なのよ…!それが今回の件、アイツはいつになく思い詰めてる…でも止まれない…正直良くない傾向だと思う…」
哲也は職場でもそんな感じなのか、健輔が最初に抱いたのはそんな印象で、同時に変わらないんだな、と改めて思った。
てっちゃん――成澤哲也とは昔からそういう所があった。良くも悪くも単純漢で情に感化されやすく、喧嘩だって仲間を守るためなら真っ先に挑みに行く。思考なんて動きながらすれば良いを地で行く猪突猛進っぷりで、確かに凡そ思慮や遠謀なんて言葉とは無縁な男だ
その癖そういう自分の性格を短所と認識してる節もあって、一度思い詰めると途端にそれを周りに打ち明ける事も出来なくなる臆病さも持ち合わせる。下手すれば自分の扱いが雑なのだとさえ思えてしまう。どうやらそういう所も変わってはいないらしい。
特に哲也が大きく取り乱したり、不安定になったりする。そういう時は大抵決まってある傾向がある事も健輔は当然知っていた。
「今回の件、成澤を思い詰めさせる要因があるのは分かってる…。それに何か心当たりはある?」
真剣な表情で真琴はそう尋ねた。やはりそう来たか。予想していた事とは言え、健輔はそれに対して何と反応したら良いのかまでは分からなかった。肺が詰まったような息苦しさを覚えながら、健輔は真琴の視線から顔を外した。
そこ――あかつき村の件は恐らく、いや確実に哲也にとって最も繊細な場所だ。当時――まだ世の事も大人の社会の事も何も知らない、無神経なガキだったあの頃の俺達ならいざ知らず、今だったら絶対おいそれとは触れられないような――。
そう、今だったらあの時の大人達、近寄る事も離れる事も出来ず、中途半端に腫れ物に触れるような曖昧な対応しか出来ず、密かにアイツを傷つけていた大人達の気持ちが理解出来てしまうのだ。その事が――健輔には酷く哀しい事のように思えた。
沈黙。どちらとも何も答えるでもなく、問いただす事も出来ず、重たい空気だけが待合所を支配した。やがて真琴が「…そう」と小さく溜息を吐いた。
「じゃあ…それはひょっとすると…7年前の故郷の件に関係あると思う?」
7年前。そして故郷という言葉。直接の言及こそ避けてはいるが、それが意味する所は一つしかなく、健輔は今度こそ心臓を鷲掴みにされたような衝撃に喉を詰まらせた。二の句を告げずに水槽の金魚よろしく口をパクパクさせるしか出来ない沈黙を肯定と受け取ったらしい、真琴は「やっぱりか」と言いたげな表情で顔を曇らせた。どこか物憂げなその表情に健輔は思わず「知ってたんですか…?」と間抜けな問いを掛けていた。
「一応ね…あまり真っ当な手段じゃないけど…」
どことなくバツが悪いような、か細い笑みをそっと浮かべて真琴はそう肯定した。
「たまたま聞いちゃったのよ、編集長と奥さんが話してる所…。当面は伝えないようにしておくって言ってたし、アイツも秘密にしたがってるんだろうな、って分かってたから。ゴメンね、じゃあ無理には聞かない事にするわ」
「…どうして…?」
存外淡々と事実を伝える真琴に対して健輔は動揺を隠せなかった。あの件に対する風評は今でこそ当時と比べればだいぶマシになって来た感があるが、7年前はもっと苛烈でかつ、極端なモノだった。好奇の視線とそれ以上の心無い言葉は容赦なく、村を擁する県や隣市の出身者にまで向けられ、終いには県の生産品を締め出そうとする動きややナンバープレート狩りが公然と行われるというさながら近世の魔女狩りの如き異常事態に見舞われた。
今こそ助け合いを。一つになろう。
口先では共助という名の美辞麗句を謳い、陰では前時代的なムラ社会さながらの陰湿なデマと同調圧力が支配する世の中で、自分達がそれに陥らなかったのは今では単なる世間に対する認識の薄さと大人達の社会への反骨精神ばかりが優っていたのだと分かる。それが分かってしまうのが一番虚しい事だという事も分かっている筈なのに…。
目の前の女性記者は事も無げにその事実を受け止め、哲也という人間のあり様を受け入れていたのだ。無意識化で世を構成する大人なんてものは皆同じようなモノだと思っていたのに。
「ウチは皆訳アリよ、誰にだって自分ではどうしようもならない事で世の中に振り回される事はあるわ、私も…まぁ色々…。正直誰にでも話せる、と言ったら嘘になるわ」
決して卑下するでもなく、決然と心臓の辺りを叩く。
「人は畏れや偏見に流されやすい生き物よ、そこは仕方ない。でもそれで苦しんでる人達も大勢いる、それに立ち向かえるのはせめて真実だけだと私は思ってる。及ばずながら、だけどそれが私がこの仕事続ける理由」
理想通りにはいかないけどね?そう言って真琴は悪戯っぽく舌を出して微笑んだ。茶化すような言い方だが、それはまさしく自分のあり様に誇りを持ち、進むべき道を見据えてる人間の言葉だった。その姿を、言葉を健輔は皮肉るでもなく、自嘲するでもなく、美しいと思えた。
「話して分かった。君が、君たちがアイツが道に外れないように支えになってくれてたのね?」
決して揶揄しているのでもなく真琴がそう言った。おかしな話だと思う。むしろ自分達は世間一般にはハグレ者の烙印を押されていて、そこに哲也を呼び込んだのだ。むしろ道を踏み外させたの間違いではないか。健輔のその疑問に気付いたのか真琴が「あ、そういう事じゃなくてね」と首を横に振った。
「置かれた状況が悪かったらアイツももっと、引き返せない道に進んでたかも知れない。成澤が本質的に優しい奴のままでいてくれたのは、君達がちゃんとアイツを気遣って、仲間でいてくれたからだわ。君は決して君が卑下するような人じゃない」
異論は認めません。最後に冗談っぽく柔らかな、しかし有無を言わさない口調でそう告げた。
「じゃ、そろそろ行くわね、成澤の事よろしく?」
二の句を告げずに呆然としていると時計をチラリと見た真琴は姿勢よく立ち上がり、最後に健輔にそれだけ告げて待合室を出ていった。その先の停留所に先程停止したバスがアイドリング音を響かせている。
颯爽と去って行くその姿に本当の大人っていうのはああいうのを指すんだろうな、と何処か他人事のように思った。彼女や己なりに信念を職務に誇りを持っている立木。哲也はああいう人達の存在あって今の場所にいるんだな、と思った。
同時に俺もまたその一部であれているんだろうか、と自問する。それは分からないが少なくとも今こうして再会した事にはきっと意味がある筈だと信じたい。
真琴が自分だけで行ったのは、旧交を温める以上に彼女では出来ないやり方で哲也を――あの向こう見ずでお節介な友人を支えて欲しいと思ったからだろうか。
自分にそれが出来るかは分からない。だが少なくとも自分はそれを望んでいる事だけはハッキリと自覚出来た。健輔はそれ以上は考えずに待合室を後にして、哲也を探しに行った。
この5年間の事、これからの事、話したい事はまだ他にもたくさんある。全てはそれからだ。
後編に続け。