最後までお見逃しのないように…
「兄さん、これ以上こんな事はやめて下さいっ!」
その言葉が自分の確信をよりハッキリしたものに変えてくれた。いや、本当の事を言えば昨日の時点でなんとなく察していたのかも知れない。だが考えないようにしていた。そんな事はあり得ない、と意識の片隅に追いやって結局自分の過去から逃避していただけなのだろう。生硬い表情で銃口を幹斗――己の兄に向ける柚月の姿を見て、哲也はボンヤリとそんな事を思った。
最後に会ったのは――確か彼女が11歳の時か?ちょうど村を出るバス停の前でボンヤリと佇んでいた時にたまたま通りすがった彼女と言葉を交わして折良く現れたバスに飛び乗ったのがあそこでの最後の記憶だ。目の前で毅然と幹斗を見据える少女の姿を捕らえながら、気付けなかったのもむりないか、と何処か場違いな感慨を抱いた。
「こんな事か…無理もないか…。だがそれならお前はどうなんだ、裏切り者のお前は?」
「それは違います!お願いだから話を聞いて!」
「なにが違うって?親父達を殺した奴らに取り入ってなにやってんだ、えぇっ!」
どこか嘲弄的な口調で幹斗が叫んだ。聞いただけだと何処か愉快そうな声色だが、その内奥には心を凍えさせるような憎悪と殺気が含まれていおり、裏切り者、という言葉も含めて凡そ肉親に向けるべきものではないように思えた。そのあまりの冷たさに哲也は背筋がゾッと強張るのを感じた。そもそも親父達って…。山城博士たちの事か?彼らが「
どういう事だろうか、あかつき村の件がただの事故等ではないという事か…
柚月もその感情を鋭敏に感じ取ったのか僅かに怯んだように見えた。だが決して臆する事無く顔を上げると「兄さんがバカな事するからです…!」と負けじと言い放った。
「新宿でも、六本木でも…今ここでも…!兄さんのエゴで罪のない人の命を奪って…それで誰が満足するんですか!?」
だがその声はどこか湿り気を纏って、悲痛な色を帯びていた。昔から人一倍感受性が強い柚月らしいその声音に何故か胸が締め付けられるような気がしたが、それも「エゴ?罪のないだと!?」という幹斗の怒声が被せられるまでだった。
「奴らに罪がない!?ふざけるな、あっさりと俺達の故郷を見捨てて過去に追いやったのは誰だと思ってる!」
さっきまでとは違い、そこには明確に激しい怒りの感情が籠っていた。柚月の腕がビクリと震える。幹斗は口元をグニャリと歪めるとゆっくりと彼女の方ににじり寄ってくる。
「いつだってそうだ!喉元過ぎれば熱さを忘れるで、センセーショナルな事があればほんの一時だけ騒ぎ立てて後は忘れるだけ。自分達に都合が悪くなりゃ、あっさり趣旨替えして知らん顔を決め込むばかり。そうやって意志も理性もなく、状況に流されるだけの奴らに本当に罪がない、と言えるのか!
…そりゃあ一人一人は善人で勤勉で目の前の事を一生懸命やってるだけの“普通の人”達なんだろうさ…だから虫唾が走るんだよっ!俺からすりゃあ奴らなんてあの時吹き飛ばした半グレ共と一緒だ、悪を為す自覚もなく、その癖時間が経てば全部忘れましたってほざくならもう一度一生消えない傷にして思い出させてやる!」
狂気――。その二文字が哲也の背筋を粟立たせた。だがそんな簡単な一言で済ますにはあまりにもその炎は高熱を纏っていた。かつての自分が思い浮かぶ。そうだ、あの時の俺はそんなやり場のない怒りをどこかの誰かにぶつけていたんだと…。
「そんな奴らを操ってるメディアや起業家に政治家、挙句そんな奴らの金儲けの道具でしかないあのナントカいうバカ騒ぎ!何が復興だ、何が平和だ!そんな美辞麗句で全てを忘却に追いやろうってんなら俺が全てを思い出させてやる…!」
立木の言葉が蘇る。『奴の行動はなんら高尚なモンじゃあない…もっとプリミティブな感情、即ち怒り、復讐だよ』。確かにこれは復讐だ。テロリズムによって国の態勢を変えようとか曲がりなりの道義も持ち合わせてはいない。酷く個人的な感情を剝き出しにしてこの国の全てに
柚月の手が届く位置にまで距離を詰めた幹斗は彼女の腕を掴むとその銃口を自分の胸に押し付けさせた。ビクリ、と少女の細い肩が震える。「俺を殺せよ」耳元に顔を寄せ、低くそう囁いた。
「俺を止めたいなら躊躇うな、甘い考えなんざ捨てろ。俺に追い付くにはそれしかない」
撃て撃て撃て…!呪詛のように言葉を吐き掛け、銃口を額に移動させた。底なしの昏い相貌は俺を止めてくれと懇願しているようにもどうせ撃てやしないと嘲笑っているようにも見えた。気圧されたように柚月はたじろぎ、頭をゆっくりと振る。まるで幼子がイヤイヤとするように。やがて興味を失くしたように幹斗はその小さな体を突き飛ばした。抑えを失った華奢な体躯はたたらを踏んで床に尻餅をついた。
「…兄さんは…怪物です…」
座り込んだままペタリと両手を下ろし、顔を俯けて柚月は呟いた。その声が湿っているように聞こえたのは気のせいではないだろう。
怪物。その言葉に幹斗の肩が僅かに震えた。どうやら喉をならして笑いを堪えているらしい。やがてその含み笑いを堪えきれなくなったのか決壊したように幹斗は笑い出した。嘲弄、憤怒、悲哀――様々な感情を詰め込んだような狂気の哄笑がロビー一帯に木霊した。
「そうだよ…俺は――
幹斗の体から蒸気のようなエネルギーが噴き出し、再びその体を異形のバッタ男へと変えていく。その姿に柚月がハッと目を瞠る。変異した腕でそのシャツの襟元を掴んで引き寄せた。
「『まだ殺さない。お前が築き上げた砂の城が崩れ去るのを見ながら首を洗って待ってろ』……ってお前の新しい保護者に伝えろよ」
言うだけ言って手を離すと柚月は膝から崩れ落ちたまま、もう顔を上げる事もしなかった。それを顧みる事もなく幹斗は踵を返し、彼女から立ち去る。少女の頬に雫が伝わるのが見えた。か細い嗚咽の声が耳朶を打つ。
瞬間、哲也の頭の中に一つの光景が頭の中にフラッシュバックした。昏いままだった幼い少女の瞳に溢れた大粒の涙、それを敢えて拭ったりせずに受け止めるだけ受け止めて、それからおずおずと手を伸ばした少年の手、初めてあの子の目に光が宿ったあの時、二人が――幹斗と柚月が初めて
そこから次に湧き上がって来たのは峻烈な怒りの感情だった。膝をつき、顔を俯けたままの少女と彼女を一顧だにせず背を向ける異形。その光景に先程幹斗がぶちまけたものと同質の原始的で根源的な破壊の情動が頭に湧きあがったのを自覚した哲也はその激情を糧にして萎えた脚を立ち上がらせた。
その言葉がどれほどの艱難と辛苦を以て刻まれ、どれほどの痛みと怒りが籠められているのかいるのかは、遠ざかっていた自分が知れる事ではないし、その言葉に一度は心が傾きかけた事も認めよう。だがそれと同じ所にある内なる声が全力で叫んでいた、お前は一体何をやっているんだ、と。
凡そ理性的ではない、だが獣のそれとは確かに違う人としての激情が己を駆り立てるのを実感しながら、哲也は目前のバッタ男に向かって拳を繰り出していた。一瞬虚を突かれたように固まったその異形の顔面に全体重を乗せた一撃を叩き込む。
「…ぐっ…」
バッタ男が呻き声をあげ、その異形の巨体が揺らめいた。見た目通りの硬質な皮膚は思った通り、冷たくざらついていてこっちの手の方にも鉄を殴ったような鈍い痛みが走り、実際さっきの一撃で付け根の辺りの皮が剥けたのが感触として分かった。血の滲んだ手の甲を再度握りしめ、立て続けに二発目を放ったが、流石にそれを許してくれるほど甘い相手でもなく、異形の手がその一撃を受け止めた。鋭い爪が皮膚に食い込む痛みに顔を顰めると眼前の異形の、その口元がニヤリと笑ったように見えた。
「――ったく…やっぱお前はそう来るのか?」
まるでそうするのが必定で、そのために敢えて最初の一発を甘んじて受けたとでも言わんばかりのその態度にまた頭が沸き立つ気がして、哲也は痛みも怖気も明後日の方向に放り投げて「…ってめぇ!それでも兄かよ…!」と絶叫していた。
「なにがあったのかなんて知らねぇが…妹を泣かせるような下衆野郎に堕ちやがって…!そうまでしてお前は一体何がしたいんだっ!」
無理矢理右手を引き剥がして蹴りを放つ、がそれよりもバッタ男もとい幹斗の反応速度の方が早く、あっさり躱された脚は無様に宙を掠め、あわやこっちがバランスを崩しそうになった。なんとか踏ん張ってみせ態勢を立て直そうとした矢先、首筋に衝撃が走り、哲也の体は今度こそ瓦礫の散乱する床に倒れ込んだ。
呼吸が止まりそうな程の鋭い痛み、それが幹斗から貰った手刀の一撃によるものと分かったのはこちらを見下ろすように佇むバッタ男の姿を認めた時だ。バッタ男はこちらを一度一瞥してからもうここに用はないとばかりに踵を返す。その肩にまるで米俵でも持つように担がれているのは同じように、自分とぐったりと四肢を投げ出した人の影…?汗と涙で滲み、今にも朦朧とかき消えそうな視界でもそれが先程まで一緒にいた土枝健輔のものだという事は分かった。
「…ま――っ!つっぉ…!ど…す…」
待て!ツッチーをどうする気だ…!そう叫ぼうとしてもまともに動きもしない体はそんな意味のない言葉を吐くばかり。そんな無様を嗤うでも憐れむでもなく、幹斗は信じがたい程の跳躍力で去って行った。
「今日は引いてやるよ、また遊ぼうぜ…?哲也…柚月…」
最後にそう言い捨てていった気がした。そのまま鉛のようになった意識がゆっくりと音と光を失い、沈んでいく。
「テツヤ…!」
不意に視界の片隅に少女が駆け寄ってくるのが見えた。拭いきれない涙の粒子が澱んだ視界に舞い、ふわりとした甘い香りが鼻孔を突き抜けていく。殆ど断線しかけた意識の中でそれだけを感じながら哲也は「柚月…梗華…」と視界の先の少女とここにはいないもう一人の少女の事を想い、呟いた。
幹斗が、柚月が生きていた。なら君もどこかで生きているのか…?
俺達はまた会えるだろうか。あの空の下でまた笑って一緒に歩けるんだろうか…?
幾千もの顔が、景色が走馬灯のように浮かんでは消えていく。縋りついてきた少女の重みと体温を受け止めながら、哲也の意識は深く沈みこんでいった。
・・・・・・・・・
病院を狙った《スカルマン》による未曽有のテロ。この日の出来事は後にそう報じられた。
増援に駆け付けた警察隊が目にしたのは徹底的に破壊し尽くされた病院のロビーとそこに横たわる夥しい数の死体の山。特に先行した特殊部隊は隊員27名の内、25名が結果的に殉職となり、日本警察としては歴史に残る大敗北という批判を甘んじて受けるより他なかった。特に民間人の犠牲者数は確認できた限りで16名、遺体が見つからず行方不明扱いとなった21名の計37名と新宿事変に次ぐ記録となった事もあり、暫くの間マスコミ各社を大きく賑わせた。
特に一部の生存者の間で「謎の怪物を見た」「黒禍熱で人が死んだ」という情報が放出され、それはSNS等のツールを経由してたちまち世界中に広がっていった。ネット上にはそれを裏付ける動画も多数投稿され、その映像の真偽について激しい意見の応酬が繰り広げられる事になったのと同時に本当にこれは《スカルマン》による犯行なのか、奴はただの人間ではないのではないか、もし件の情報が本当なら7年前の黒禍熱、ひいては「あかつき村事件」を巡る一連の政府の対応は本当に適切であったのか、など千々に枝分かれしていき、メディアも政府も国民も混沌の渦に呑み込まれていく事になった。暫くは怪しい風説に注意しろ、というお達しが各地に回ったがまるでそんな抵抗を嘲うかのように様々な情報が各メディアに広まった。
全ての混乱の序章となった「新宿事変」、《スカルマン》のその存在を世間にしろしめす事となった「六本木事件」、そして今回の件を経て、一連の事件は新たなフェーズを迎える事となるのだが、それを世論が認識するのはもう少し後の事になる。
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地上がやけに騒がしい。遥か下に臨む首都高環状線や日比谷通りをサイレンを鳴らした交機のパトカーがひっきりなしに駆けずり回り、道端には物々しい装いで警察官達が佇み、道行く衆人の動向を絶えず探っている。今頃各所には検問が設置され、遥かお江戸の世のようになっているだろう。特に日本警察の総本山は今頃天地をひっくり返したような大騒ぎになっている筈だ。
今テレビを付ければどこもかしこも同じ話題で持ち切りになっている筈と思うが、確かめてみる気にはならなかった。凡そ自分のした事の成果など確認したくもないし、嫌な事を思い出すだけだ、今はひとまず休みたい。ただその思いだけを抱いて山城幹斗はリビングに設置されたソファに腰を沈めた。
体重を掛けただけで腰のあたりまで沈み込んでいきそうになるマットレスの感触は、しかし自分にとってはさほど心地いい感触とは言えなかった。むしろ無心で体を預ければこの体ごと意識まで底深い深淵に沈んでいく気がしてならず、畢竟死に損ないの骸骨男には何もかもが場違いでしかないという感慨に至るだけの事だ。
なにもソファに限った話でなく、今ここに与えられたこの部屋そのものがそうだ。電気を消しているため夜の帳に沈んでいる室内の総面積は280㎡、40階からの大パノラマが自慢だというこのスイートルームの全てが。所謂全館空調で細部まで快適さを追求したのだとか、輸入物の低反発マットレスだとか、室内を彩る極一級の調度品だとか御託は結構だが、ハッキリ言って趣味には合わない。“スポンサー”の厚意は素直に受けるべきという大人の世界の礼儀とは理解しながらもどこか空疎な空間は幹斗を辟易させた。
傍から見れば塵一つ落ちてない清掃の行き届いた部屋で一人、埃と血と礫に塗れた身を投げ出している男の図というのは余程場違いだろう。千鳥辺りならそう苦言を呈しそうだし、“彼女”なら――呆れながら風呂に入りなさい、と尻を蹴っ飛ばすだろうか…。いやとっくに愛想も何もつかされているであろう我が身がそんな想像をしても意味のない事か、と幹斗は自虐的に笑った。
たぶん今日の一件でますます愛想尽かされただろうな。あの子だけでなくたぶんアイツにも…。そんな事態を招いた己の不実にふと怪物、という言葉が頭を過った。
彼らはあの後、どうしただろうか。各所に警察の検問が設置されている筈だからあの場から退却するのは容易ではなかった筈だが――まぁ何とかなっているのだろうし、自分には心配する資格がない。
時々自分が自分でなくなる、と思う時がある。あの日から燻り続けた憎悪はそれに関係するモノを前にすると熾りのように激しく燃え上がり、終いには心までをも焼き尽くす程の激しい感情に支配される。そんな時内なる声が吠えろ、怒れ、戦えと己を鼓舞し、それに何もかも身を委ねる事を心地いいと感じてしまう。だがそれが過ぎ去ってしまえば後に残るのは燃えカスのような空虚な感情の残滓だけだ。そんな時程どちらが本当の山城幹斗なのだろう、いやひょっとしたら俺の心はもう《ガロ》達のように理性のない怪物と化し、そこにある仮初の知性が山城幹斗という個人を演じているのはないか、と堪らない気分になってくる。
だが…だからこそ引き返す訳にはいかない、と思う。少なくとも復讐を望み、その状況を生み出したこの国がどのような選択を選ぶのか、せめてその先を見たいと思ったのは間違いなく自分の意思だと信じたい。エゴ、怪物、その言葉を反芻しながら、戻れないならせめてその道を突き進むしかない、と己の胸に決意を刻み込んだ。
「なぁに黄昏てるんだよ、《スカルマン》?」
刹那、窓から一迅の風が吹き込むような冷たい怖気と共にその声が響いた。窓は閉めていた筈だがな、と独り言ちた幹斗は背後を振り返る事もなく、「何の用だ、《ナイトレイス》?」と声を発した。
次の瞬間、革張りのソファの背後にそれが“出現”する気配がした。全身を色彩感覚が消えたのではないかと思わせる程の白い布地で包み、同じ色のフーデッドを纏っている自分と同質の異形の者。暗い室内でそれ自体が光を発しているように薄い光を発しているその姿はまさにその名が示す通り幽霊そのものだ。
「何故勝手に騒ぎを起こした、《ラスプーチン》の計画に背くつもりか?…と、あの
少しも生真面目そうでもない口調で《ナイトレイス》はそう告げた。《ラスプーチン》…帝政ロシア崩壊の遠因と作ったともされる怪僧の名か…。相変わらずもっとマシなセンスのある奴はいないのかね、と苦笑した幹斗は背後に佇む幽霊男に向かって「勝手はお互い様だ」と返した。
「あの病院での一件、元凶はお前だろう?お前こそ何を企んでんだ?」
実際そうだ。あのタイミングで病院で人を《ヴェルノム》に出来る要因はコイツを置いて他にない。こっちこそ運悪く巻き込まれただけの被害者だ、と背後に佇む異形に抗議の意を込めた視線を送る。布地に包まれ、右目だけが不気味に光っている無貌の顔がヒュッと嗤いの形に歪んだ…気がした。
「はっはっは…!そう来たか、確かにそりゃあごもっともだ」
表情も読み取れないがその声もちっとも笑ってるように聞こえない。芝居のように大仰な仕草ともあって、コイツはとにかく感情が読みづらい。お互い腹に一物抱えている身なのは重々承知だが、出来れば顔を合わせたくない相手である事に変わりはない。
「なぁに、ちょっとした実益を兼ねた余興だよ…。目撃者の消去と“俺達”のプレゼンテーション…さ、実に合理的だろう?お前さんの本来の姿も存分に見学出来て、お陰でオーディエンスからの反応は上々だ、まぁちょっとばかし予想外の成り行きではあったが」
要するに多少のアドリブはあれどあの怪物騒ぎもそこで巻き込まれた人々の運命も全てこの男の掌の上、という訳か。こうもあからさまに宣言されると最早怒る気にもなれない。ここまで行くとそれにのこのこ首を突っ込んだ自分の行動も見越している可能性はあるが、確かめてみる気にもなれなかった。幹斗は息を吐くと《ナイトレイス》の方を睨みつけて言った。
「そうかい、じゃあそれに免じてお互い勝手はチャラにしよう。確認が済んだらとっとと帰れ」
「そうはいかない。分かってんだろ?まだ本来のターゲットの始末は済んでないんだ、ここにいるんだろ、ん?」
やはりそう来たか。コイツがここに現れた時点でこうなる気はしていた。《ラスプーチン》においても特に暗部に精通してるこの男が来るという事は即ちそういう事だからだ。幹斗はソファから腰を持ち上げると、「よせ…」と低く唸って飄々と佇んでいる《ナイトレイス》を睨みつけた。併せて両腕を異形の姿へと変化させ、その鋭い爪を突き付ける。
「おお…怖怖…」
しかして《ナイトレイス》は特に動じた気もなく、大袈裟におどけてみせた。その姿が一段と癪に障る。
「まさか、とは思うが今更人一人殺させないなんて言うなよ?もしそうなら今すぐこれまでブチ殺したウン百人に土下座しに行け。良いか、いっぱしの人間様を気取るな、その腕を見てみろ?お前さんも俺も同じ――」
バケモノなんだよ、とでも告げようとしたのだろう、たぶん。耳障りなその語句を幹斗は「分かってる」と遮った。感情を押し殺し、自分は冷静だという事を示す。
「お前も見ただろう?彼は“変異”を超え、“進化”の兆候を見せ始めた。俺達以外では貴重なサンプルだ。生かしておくのは手だろう?」
これは少なくとも嘘ではない。実際に普通ならフェーズ0、即ち灰化して死ぬか、フェーズ1で理性を失ったバケモノになるかの段階で彼は“変異”を抑え込み、元の姿を取り戻した。実の所このメカニズムはまだ完全に解明された訳ではない、そういう意味では《ラスプーチン》にとって決して不利にはならない筈だ、それだけは幹斗にも確信があった。
「面白い、そう来たか…。実に合理的、分かったよ、あの
その答えに満足したのか《ナイトレイス》は酷く可笑しそうに肩を揺すりながら、踵を返した。この成り行きも全て想定の上か?終わってみれば結局コイツの思うままに振り回された気がしてならない。そうしたやり取りも仕事の上、と心得ているのかその振る舞いはやたらと楽し気だ。いよいよこの《ナイトレイス》という同僚の気が知れなくなった幹斗はその背に向かって「おい」と言葉を投げかけた。
「お前に一つ聞きたい。ここでこうして振る舞ってるお前は本当のお前か、それともバケモノがお前を演じてるだけか?」
限りなく自分と近いコイツは己をどう顧みているのだろう。同じ《ラスプーチン》の手駒でありながら多分に独自の思惑を持っているこの男の意志はどこから来ているのか。考えても詮無い事とは思いつつも尋ねずにはおれなかった。しかし本人は「そんなの知るかよ」とにべもなく、嘲笑を返しただけだった。
「二つだけ確かな事があるぜ?一つはかつての俺は死んだって事。そしてもう一つは…そんな事考える奴はハナからマトモじゃない…て事さ」
湿った高笑いを部屋中に響き渡らせながら、《ナイトレイス》の気配が徐々に薄くなっていく。振り返ってその背中に爪を突き立ててやりたい衝動を堪えながら、幹斗は異形の拳を握りしめた。気付くと奴の気配は完全に、まるで初めからそんな者はいなかったかのように霧散していた。
握った掌から血が滴る。その血の赤さと伝わる痛みが己がまだ人間である、人間でなければならないと告げているようで幹斗は心底ウンザリした。結局俺は人間でいたいのか、いたくないのか、それすら分からず茫洋とその狭間を揺蕩うだけの己の中途半端さを自覚しただけだった。今度こそ幹斗はソファに身を投げ出し、ゆっくりと目を閉じた。
今日はもう休もう。そう思った。
明日になればやる事が増える。自分の事を隣の部屋で眠る彼に伝えなければならない。今頃柚月を通じて向こうにも自分の情報は伝わっているだろうから、その上で哲也はどうするだろうか、あの少年は今後も自分を止めようとするだろうか、それが気掛かりだった。彼らを厄介な敵と判断すれば《ナイトレイス》も黙ってはいないだろうし、《ラスプーチン》も本気で動く筈だ。いずれにせよ厄介な事態になる、そうなる前に少しでも体を休ませておくべきだ。
閉じた瞼の裏側にあかつき村の空が浮かぶ。この記憶だけが今となっては己の縁のようなものだ。皮肉気にそう思いながら幹斗の意識はあの空の下へと還っていった。
書いたら思ったより短めになりましたが、まあエピローグという事でこんなもんかと。
という訳で次回から新章になります、これまで碌に説明してこなかった言葉の詳細が一気に明らかになりますのでどうかお見逃しのないように…
それではまた次回。
…そろそろ図鑑系とか必要かな…