仮面ライダー:RE   作:大荒鷲

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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐③

「特別対策捜査本部?…ですか…?」

 

 悪夢のような出来事に東京中の警察関係者が振り回され、そのまま狂乱の渦に晒されて二日ばかり。仮眠室でひとまずの休憩を取っていた所に叩き起こされるかの如く、呼び出されて告げられた言葉がそれだった。とはいえ何を今更、というのが成澤拓務の率直な感想で、その気配を敏感に察したのか「そんな顔すんなよ…」と捜査一課長は渋い顔をこちらに向けた。

 六本木の事件を以て正式に合同捜査本部まで立ち上げたのは良いが、その後事件は関東を中心にした各県に広がり、早くも広域指定事件となった《スカルマン》絡みの犯罪。既存の捜査本部のあり方では対応できないとして以前から立ち上げが検討されていたらしいとは聞くが。

 

「なにせ事件が広域に渡ったモンでな…。ウチ(本庁)のみならず神奈川、千葉、埼玉…とりあえず関東全域。そこまで行くと立ちはだかるはセクトの壁…、挙句に()()もきな臭い動きをしてるとなりゃあ、な。船頭多くして船山に登るで漸く話が付いたって訳だ…。昨日の今日ってところがもう呆れてモノも言えんが…」

 

 そうした上のしがらみの多さというか不甲斐なさというか…そうした世の汚濁もこうして苦笑一つで捌けてしまうのがこの人の良い所だとは思うのだが、拓務としては溜息の一つでもついてやりたい気分だった。

 

 1年前の新宿事変からこっち、警察の対応はずっと後手後手だった。いや最前線に位置する身からすればそれは違うと言いたくもなるが、それは内からの目であって少なくとも外からはそのような目で見られている事は確かだ。神出鬼没を地で行く髑髏男に気付けば関東中の警察官が振り回され、未だに尻尾どころかあの悪趣味なレザースーツの切れ端さえ掴めない。終いには彼は現代の義賊であり、世直しなのだという怪しげな情報がネット上に飛び交い、それに追従したフォロワーが出てくれば警察はそれだけで手一杯になる。連日のバッシングと模倣犯の浅はかな犯行に自棄になった捜査員から「なんでこんな連中のために働かなきゃならねえんだ!」と不満が飛び出ても拓務もすぐにはそれを否定できなかった。

 失望が生じたのは組織に対してもそうだ。事件が広域に広がっていくたびに捜査の手は遅くなっていき、捜査情報は錯綜する。こんな時こそ全てが一丸となって事に当たるべきだろうにセクト主義という因習が情報を出し渋らせ、各部署の足並みを乱れさせる。それらは些細な瑕疵でも関東全域に広がっていけば最早無視できないレベルになる。だからと言ってこの初動の遅さは如何ともしがたい。ここまで行くと何か上の方に探られたら痛い胎でもあるのではないか、と思ったがそれを口に出す程迂闊ではないつもりだった。

 

「まあそんな所だ。ウチからはお前さんと数名出す事になった。なんか凄いらしいぞ?科捜研や大学、霞が関からの出向も含めて相当な顔ぶれだって話だ、思う所あるだろうが名誉の抜擢だと思って頼むわ…」

 

 それこそ烏合の衆になり兼ねない危険を孕んでいると思うのだが…と世の不実を実感した後、身支度やら職務の引継ぎ等慌ただしい手続きを経て、拓務は同じく特対にお呼びがかかった同僚数名と共に隣の警察庁、正しくはそこの職員が入居する警察庁総合庁舎に向かった。空中廊下でこちらの本庁と連結しており、距離にして200メートルもないというのにまるで魔窟に向かう御一行の如き隊列の一部となりながら、酷く他人行儀な気がする建物に脚を踏み入れた。

 

 警視庁と警察庁。

 言葉にすると一文字違いだが、警視庁はあくまで東京都を管轄とする行政機関、対して警察庁は都道府県警を管理統括する省庁であり、要は上位に位置する組織だ。ドラマなんかではよく現場の刑事達とそこに口を挟んでくるキャリア組、という構図でその対立が描かれる事がよくあるが、別にあそこまで仲が悪いわけではない。個々人の折り合いを除けば、それこそドラマの如く日常茶飯事でいがみ合ってる訳ではないのだが…。

 ではこの気の重さは何かというと偏に捜査員全体に蔓延している一連の事件に対するきな臭さ、それを知りながら存ぜぬと振る舞っているように見える上――省庁どころかもっと上の奴らだ――への不信感そのものだ。最初の頃こそ《スカルマン》を名乗るこの稀代のテロリストをとっ捕まえて、司法に突き出してやると息巻いていた男達だったが、この1年悉く成果が出ない焦りに加えて、捜査を進めても正体不明の怪物の仕業だの白零會だのと真偽不明の情報が飛び出し、かと思えばセクト主義や「組織の圧力」という名の壁に阻まれてそれ以上の接近を禁じられる。事件の陰で蠢いていると思しき()()の存在もきな臭さを助長させた。

 

 ハム――公安警察はパブリックセーフティー、即ち公共の護持を主目的とする警察機関だ。その実態は「思想」に関する犯罪を扱い、組織としては「諜報」の趣が強く、その前身は現代においては悪名高い特高警察にまで遡るとされる。

 警視庁と警察庁の仲は悪いわけではない、と拓務は思うがこと公安警察と刑事部は折り合いが悪い、いっそ険悪と言っても良いと思う。自分達刑事はあくまで事後の対処が基本でその活動の本質は市民を犯罪者の手から守るものと自負し、誇りとしている。対して公安が守る対象としているものは何を置いてもまずは国家であるという事が大前提だ。

 確かにマクロな視点で見れば市民の生活の安寧はまず国家という基盤ありきのものであり、そこを否定するつもりはない。実際白零會の地下鉄テロ事件以降、大規模なテロ事案に見舞われず、今でも後継団体が教祖の奪還などの大それた行動に移らず、息を潜めているのは公安の活動が功を奏しているからだ。そこを否定するつもりはない。

 だがそれでも本質的な所で俺達は相容れない、それが拓務を含め刑事部に所属する者達の総意だろう。公安の主目的が政府にとって有害と判断された組織・思想・主義者の燻りだしであるとしても、言論の自由が保障されている近代国家において強権的な介入は許されない。そのためには盗聴やピッキング、作業玉と呼ばれるスパイの運営など非合法な活動も辞さず、最終的な組織の摘発のためなら些事と判断した事案は敢えて泳がせ、しかもその活動は徹底的に部外秘と来ている。目の前で起きる犯罪は絶対に見逃さない事を金科玉条とする刑事部からすればその態度は酷く冷徹なものに映るのだ。

 

 《スカルマン》の事件においてもハムの動きは早い段階からあったと見ているし、それ自体は至極当然だろうと思う。相手は主義主張は不明でも明らかに市民生活を脅かすテロリストなのだ。だがテロリストである以上その行動が個人によって実行されているなどというバカな話はなく、その背後には必ずあれだけの装備や行動を支える組織が存在している筈なのだ。天下の公安警察がそれらの動向を把握できなかった、等という事があるだろうか。

 

 先輩の刑事に言わせれば公安の影が見え隠れする事そのものが問題なのだという。もし奴らの秘密主義がなければその存在を事前に掴むことが出来たかも知れないし、今だって背後の組織の存在を掴むために敢えてあの酔狂な髑髏男を泳がせている可能性だってある。時々見え隠れする奇怪な目撃証言などは刑事部の捜査を撹乱するためのダミーなのではないか…と。些か考えすぎな気がしないでもないが、この1年できな臭い空気を死ぬほど五臓六腑に沁み込ませた身からすれば素直に否定できない。

 

 この特対とやらだって刑事部の情報を効率よく収集するための根っこに過ぎないのではないか…?一行の気が重い理由はそれが理由だ。

 

 せめてそれを相手には絶対悟られまいと気を引き締めて向かった先で拓務達は「S事案特別対策本部」の張り紙が張られた大会議室に招かれた。案の定というか閑散とした室内にまだ封を開けられて久しいと思しきパソコンやファイル類が簡素なロングデスクの上に無造作に乗せられた様は比喩でなく、寒々としていた。

 なんとか取り繕った能面を引き攣らせている面々に「やぁ、早かったね?」とともすれば呑気とも取れる声が浴びせられ、顔を上げればこの場で今最も遭遇したくない筆頭を目の当たりにすれば誇張でなく、げんなりと溜息の一つでも吐きたくなる心境に駆られたのは拓務だけではないらしい。

 

 文官と思しき女性の隣、まだ椅子も置かれてないデスクの上に悠然と腰かけ、手を振っている五十絡みの男は照原警視正。警察庁の警備局においても花形である警備企画課の長であり、一介の兵隊からすれば文字通りの雲上人が気安げに微笑んでいる光景に思考が硬直したと言えば嘘はないが、問題はそこだけではない。各都道府県の警備部を統括する警備局においての長とは文字通り公安部の運用であり、そこの筆頭は即ちその頭目に等しい。それがここでこうして泰然と待ち構えているという事はやはり公安の小間使いをやれ、と宣告されたのと同義であり、早速暗澹たる気分が一同に広がっていくのが感じられた。

 

「まぁまぁそう硬くならないで。生憎諸手を挙げてとは行かないけど、我々は君達の参加を心から歓迎しよう、ようこそ特対へ!」

 

 両手を大仰に広げて、胸を張ってみせる照原。幹部とは思えないその軽いノリにますます室内の空気が冷え切っていくのを自覚したのか、「あちゃ滑ったか…」等と頭をかいて改めて拓務達の方に向き直る。

 

「改めて。正式な挨拶は後になるが警備局の照原清一郎警視正です。とは言っても直接私が指揮を執る訳ではありませんが…。事件の早期解決のため、諸君らの奮闘に期待します」

 

 人好きのする笑みを引っ込め、即座にキャリアらしい怜悧な能面を引き出した照原の敬礼に拓務達は内心背筋が冷えるような想いを抱きながら即座に答礼していた。その様子に満足げな笑みを浮かべた照原は傍らに控えていた女性に意味ありげな顔を浮かべた。その態度に拓務はおや、と不審気な感触を抱いた。てっきり内閣府辺りの職員と言った雰囲気で控えめに傍に立っていた彼女の存在感が不意に重みを増したように感じたからだ。この閑散とした小会議室の得体の知れない空気、この場を支配するのは照原ではなく、自分だとばかりに拓務達捜査員に向き直った女性は顔に掛けたサングラスを外した。

 三十代前後――咄嗟にそう類推したのは尻の青い若者にはない場慣れ感がそう判断させたからだ。全体的には整った顔立ちの美人だが、どことなくバタ臭さの浮かんだ相貌が造り物めいた違和感を与える。そんな拓務の気を知ってか知らずか、ルージュを引いた唇を弓なりに曲げてみせた女は値踏みするように捜査員全体を見渡した。その眼光の色に拓務は再び背筋が凍るような錯覚を覚えた。

 笑みを浮かべた口元に反してその瞳は全く笑っていない。自らを巨大な装置の歯車に組み込む事も受け入れ、他人さえもその一部としてしか見ようとしない酷薄な人形の瞳だ。

 

「失礼。深町マリアです。特別顧問として特対に参加させて頂きます。よろしくお願いします」

 

 所属も立場も告げずに女はそう告げ、照原のものと同質の敬礼を拓務達に返した。一片の硬さもなく、肘の高さから掌の向きまで理想的な形に整えたその所作はマネキンのような現実味の無さを想起させた。

 

「此度は急にお呼び立てして申し訳ありません。この国の捜査機関は優秀だとお聞きしています、その手腕を見込んでこの三名の人物を早急に探して欲しい、と照原警視正に依頼に参った次第です」

 

 その手腕を以てしてもドクロ面のコスプレテロリスト一人捕まえられない有様だ。優秀、という一文にそこはかとない嫌味臭さを嗅ぎ取った一同が一様に顔を顰めるが、そんな事お構いなしに深町マリアは三枚の紙片を人数分ズイと突き立ててきた。

 この国の、という言葉により一層きな臭さが広がっていくのを知覚しながら、とりあえず拓務は全員を代表して紙片を受け取った。どうやら特定の人物の個人情報らしい。いくつかのパーソナルデータと共に若干不鮮明な顔写真が添えられている。人数は合計3人、まだ若く10代後半から20代で通用しそうな男が1人、女が2人という内訳だ。気になるのはその情報の所々が意図的に歯抜けにしたように虫食いになっている所だが。

 

「コイツ等は…?」

 

 それに奇妙なものを感じたのは拓務だけではない。傍らで資料を覗き込んでいた同僚が詰問気味に口を開いた。マリアは挑発的に妖艶な笑みを浮かべた。

 

「確かな筋からの情報です。今回の件の重要参考人…と受け取って下さって結構。山城幹斗、山城柚月、九條梗華。この三名の足取りを早急に知りたいのです」

 

 

・・・・・・・・・

 

 酷く体が痛いな、それに寒い。

 

 冷たく硬い感触を後頭部に受けながら健輔はそんな風に思った。酩酊とは違う感覚に揺蕩いながら記憶は子どもの頃に遡る。小学1年生の時、クラスでインフルエンザの集団感染があって自分も感染した。とにかく頭以外にも腕の関節や肩や腰がズキズキ痛んだし、タミフルが見せた悪夢のせいで眠ろうにも眠れないというひたすら辛い体験だったが、今の気分がやたらとそれに似てる。でも一方辛かったのはその一晩だけであの時は珍しく母さんが仕事にも出ずにつきっきりで看病してくれて、意外と風邪ひくのも悪いもんじゃないのかも、と思ったのもまた事実だ。

 

 今はどうだろう。やっぱ風邪は良いもんじゃないかも知れない。有給なんて上等なものは日雇いの身では到底望めないから、休めばそれだけ給料に響くだけ。する事もなく、立ち会ってくれるものもなく、飯場の煎餅布団にくるまっているのはただ虚しくて寂しいだけだ。

 

 それにしたって寝心地が悪い。いくら飯場の布団にそんなモン期待するだけ無駄と言ったってこれじゃ治る風も治りはしない。いやこんな経験は初めてだし、もしかして布団じゃなくて自分の体にいよいよガタが来たのではないか、というネガティブな想像が頭を過った。冗談じゃない、対して頭も良くなく、資格もコネもなんもないガキが今更肉体労働以外で稼げるもんか、これを乗り切らないと後はホームレス一直線だぞ、と無理矢理にでも己を奮い立たせるべく、せめて薄い掛布団を引き寄せようと――した所で虚しく手が空を切った。その瞬間明らかに布団とは異なる冷たく硬質な感触が全体に感じられ、半分眠ったままだった意識が一気に覚醒したのを感じた。

 

 そうだおかしい、俺は職場じゃなくて病院にいたんだ、そこで同級生の哲也と再会して、気が付いたらあの不気味なバケモノが――!

 

 バケモノ――!。

 

 その言葉を契機に次々と異形のモノたちが頭を過っていく。半分蜘蛛と癒着した不気味な姿、ゴロウさんの体を乗っ取るように生まれた半分棘だらけのウニみたいなバケモノ、高熱に苦しむ子どもが突如変容した巨大な蟒蛇(うわばみ)、そして――殺戮の限りを尽くすバッタのような姿をした怪人…!

 それらが一斉に自分の肉を食らおうと襲い掛かってきた。泥のようになった体を無理にでも起き上がらせて健輔は逃走したが、蛇の大口から次々とはい出てきた無数の子蛇にあっという間に周りを取り囲まれ、逃げ場を失くす。恐怖に竦んだ脚を次々と蛇のバケモノが舐めるように這いあがってくる。もうどこにも逃げ場ないぞ、そう嗤うバッタ男の顔が目前に浮かび上がり、健輔はたまらず絶叫した。

 

 

 現実に引き戻された神経が最初に知覚したのは部屋中に木霊した自分の声、次に力の抜けた肉体の重みとそれを受け止める糊の効いたシーツの感触だった。じっとりと体に纏わりつく汗の臭いと冷たさに急速に魂が肉体に帰還するのを自覚した健輔は薄闇の中に浮かぶ天井を呆然と見上げた。

 知らない部屋だ。

 ある程度意識がハッキリすれば最初に浮かんできたのはそんな感想で、そんな状況に我知らず戸惑いを抱いた健輔はゆっくりと体を起こした。まるで何日も眠っていたかのように手足が怠く、頭が自分を中心にして円を描いているかのような錯覚に捕らわれたがそれも掌に擦れたシーツの手触りを実感するまでだった。

 さらりとした新品同様の質感は間違いなく、飯場にある自室のものではない。先程まで自分の首を受け止めていた枕も体を覆っていた掛布団も詳しい事は分からないが、数段上等なもののようだった。俺はなんでこんな所にいるんだ、なんだか場違いなような感慨に捕らわれた健輔は布団を跳ね除けてベッドの外に脚を踏み出していた。

 

 どうやら本格的に夜が明けだす前の刻限のようだ、と独り言ちながら部屋をザッと見渡す。簡素だがそれなりに凝った作りのベッドに床を覆う柔らかなカーペットの感触、シミひとつない壁のクロスとやはり相応の調度品だ。間違っても俺の仕事場とは無縁な世界のものには違いない。

 

 健輔は憤然と息を吐いた。いきなり起きたら自分とは縁も所縁もない世界の一部になっているとは冗談が過ぎる。まさかドッキリカメラの類ではないだろうなとバカげた想像を仕掛けた矢先、ふと壁に掛かった巨大な姿見が目に留まり、僅かな違和感に首を傾げながら鏡に近寄る。額にはこれまた精緻な彫刻が施されたその鏡ももしかしなくともかなり立派なものだと分かるが、こういう時決まってこの手の備品はマジックミラーになっていて向こうの部屋と繋がっていたりするものだ。冗談半分でもまさか本当にドッキリではないよな、とそれを覗き込もうとした直後いよいよ先程から感じていた違和感が本格的に首を擡げてきた。

 鏡に映ったそれは24年の人生でイヤという程見てきた己の姿から大きく変わっていたからだ。

 いや、この言い方は少々大袈裟か。正しくは顔は特に変わっていない。短く刈り上げた髪も細長い面も確かに自分のものだ。大きく変容していたのは即ち首から下だった。

 

 過剰な労働と不健康な食生活の影響で肋骨が浮き出る程、痩せさらばえていたその体はまるでスポーツ選手のような精悍で屈強なものに変わっていた。特に肩筋や二の腕、腹筋にかけての発達は著しく、一瞬体だけ別の人物のものに挿げ替えたのではないか、と思う程の変わりようだ。だが試しに体を動かしてみれば僅かな感触のズレこそあれど間違いなく自分の体だと分かるほど馴染むとあってはその可能性はないように思えた。

 

「なにがどうなってるんだよ…」

 

 頭が混乱する。体を取り換えられるのは確かにおかしいが、(体感だが)一晩でここまで肉体が変貌するのもおかしいの度合いにおいては然程の違いはない筈だ。それこそ映画の世界だ、例えば超人兵士になる血清を投与しただとか放射性の蜘蛛に噛まれただとか――

 

 ――蜘蛛…?噛まれた…?

 

 その言葉に反応するように急に記憶の蓋が開いた。蜘蛛と人を融合させたような姿の異形のバケモノ、そいつから逃れた先で目覚めた病院で再び現れたウニやコブラのような姿をした新たなバケモノ。確か自分はそいつに喉笛を嚙み千切られた筈ではなかったか…!

 その先の記憶は酷く不鮮明だが、あの瞬間の痛みと傍らにいた哲也の悲痛な絶叫は確かに身体に焼き付いている、夢なんかでは絶対にない…!健輔はあのバケモノに食いつかれた辺りに手を当ててみた。だがそこには傷の姿どころか感触さえなかった。薄皮が張って傷を塞いだとかそんなレベルすらない、まるでそんなモノ初めからなかったかのように綺麗サッパリと…!

 明らかに自分の体に常軌を逸した異変が起きている。いよいよ混乱状態に陥った頭ではそれだけしか分からず、健輔は矢も楯もたまらず絶叫したい衝動に駆られたが、

 

「お目覚めかい、センパイ?」

 

 刹那水を差すようにその声が思わず膝をついた体に降りかかり、浮遊しかけた意識が瞬時に引き戻された健輔はパニックの一歩手前で踏み止まる事が出来た。知っている声だな…とそう実感した時には声のした方、部屋の片隅のドアに視線が向いていた。それに違いはなく壁に寄りかかるような態勢でこちらを見つめている顔は間違いなく健輔のよく知っている人物のそれだった。

 

「――!…山下…?」

 

 山下幹夫。目の上あたりまで伸びたやや長めの髪、まだ少年の面影を残した端正な顔立ちに口元のほくろ。半年ほど前に健輔の職場に現れたどこか謎の多い同僚に相違なかった。だが今現在彼が纏っている“気”は職場にいた頃とは全く異なる物になっていた。顔形から立ち姿に至るまで全く同じ筈なのに、どこか斜に構えたような口調や挑発的な色を浮かべた目の色が健輔の知る山下幹夫という人間と奇妙に一致しない。

 そんなこちらの戸惑いを見透かしたのか、山下はさも可笑しそうに肩をくつくつと揺らした。

 

「ワリイワリイ…山下幹夫ってのは偽名さ…。本当の名は山城幹斗っていうんだ…」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()か…。妙な語感に納得させられたかと思ったら、次の瞬間、そういう事じゃない、という反感がムラリ…とこみ上げてきた。何故俺はここにいるんだ、あの怪物の事を知っているのか、そして一体俺に何が起きたんだ…!幾多もの疑問符が浮かび上がっては口をついて出そうになり、叶わず喉の奥に再び吸い込まれていった。

 

「疑問だらけ…って顔だな…。まぁ無理もないか…実際俺自身もセンパイがこんな事になるなんて当初の予定にはなかったわけで――」

 

 そんな健輔の反応をよく分かるよ、という感じの態度で受け流しながら山下幹夫改め山城幹斗は憐憫の入り混じった視線をこちらに注いだ。図らずも状況に巻き込まれたらしいこちらの身を慮っての事だと理解は出来ても、その態度は何だが偉く高慢なように感じられ、頭の芯が沸き立つのを自覚した健輔は「――なんなんだよ…!」とその声を遮った。

 こちらの苛立ち感じ取ったのか幹斗は不思議そうに言葉を引っ込め、こちらに視線を注いだ。

 

「一体なんだってんだよ…人がバケモノになったり、変な奴らが暴れ回ったり…!こないだからおかしな事ばっかりだ…!お前は何か知ってるのか、お前は一体何も――」

「《スカルマン》だよ」

 

 一息にまくしたてた所でその声と言葉が硬質な響きを以て、脳髄に響き渡った。頭全体を鋼鉄のバットでぶん殴られたに匹敵する衝撃が揺さぶり、健輔は「なんだって…?」と呻き声を漏らした。

 

「《スカルマン》だよ。それが俺の正体さ…」

 

 思う所があるのか、苦み走ったように一瞬口元を歪めたが、思いの他淡々とそう吐き捨てた。

 

「驚いたか、この国を騒がす稀代のテロリスト、死の国から蘇った骸骨男、それが俺だよ…。」

「ナニ言ってんだお前…?」

 

 健輔はすぐにその言葉を信じられずに呆然と声を漏らした。息が荒れる。喉が酷く乾く。耳奥がワンワンと鳴っている。全ては目の前に立っている、何はともあれ自分達の仲間だと思っていた男のその言葉が信じられなかったからだ。

 

 だが…思えば――いくつか思い当たるフシはあった。彼がウチの現場に入ってきたのは《スカルマン》による爆発騒ぎからすぐの事だったし、凡そ飯場に来るようなタイプには見えなかった事もそうだが、それでもウチのような現場は脛に疵持ちが多い事情もあっていちいち労務者の人となりなど調べないし、その素性をあれこれ探ろうとする者もいない。

 探ろうとする者と言えば――。

 

「じゃあ…“ハートマン軍曹”は…?」

 

 そう、“ハートマン軍曹”だ。奴は幹斗の周りをなにやらコソコソ嗅ぎまわっていた。健輔がその事について問い質すと奴は「ひょっとしたら俺はスゲェ情報を掴んだかも知れないんだ…。」そう言って下卑た嗤いを浮かべて――その次の日に死んだ。

 もし奴が掴んでいた「スゲェ情報」というのが山下幹夫が本当の名前ではなく、この国を騒がすお尋ね者の正体だと気付いたからではないのか…。現場監督という立場上、労働者の勤怠状況を管理している立場にある奴なら《スカルマン》の出没とその日の幹斗の動きを照らし合わせる事くらい出来ただろう。そして遂にその確証を掴んでしまった結果、口封じのために事故に見せかけて殺された…?もし幹斗が《スカルマン》なのだとしたら、という前提で考えれば全てに辻褄が合う――気がする。

 

「ハートマン軍曹?」

 

 虚を突かれたような表情をする幹斗だが次の瞬間にはその名に思い至ったのか、栓から空気が抜けたような乾いた笑いを溢した。「だから寄せって、リー・アーメイってガラかよ…」

 

 可笑しく思ってるわけでもなく、かと言って嘲ってる風にも見えない、あまりに無機的な笑いだった。“ハートマン軍曹”の死を伝えた時の彼の表情、事務的に受け流しながら、ほんの僅かな間確かに浮かび上がった酷薄な笑み、それと全く同じだった。

 それを見た瞬間、あの時抱いた疑念――お前がアイツを殺したのか――が確信に変わった。自分でも驚くほどの激情に衝き動かされて、健輔は泰然と壁に身を預ける幹斗に掴みかかった。簡素なシャツの胸倉を掴み、壁に叩きつけると意識した以上の力が出た気がした。シミひとつない白塗りの壁が軋み、部屋全体に衝撃が伝道する。自分の意思で体の制御が効かない――そんな感覚に戸惑いを覚えたが、それも眼前の端正な相貌がどこか面白がるように嘲りの表情を浮かべている事に気付くまでだった。「自業自得さ」幹斗が嘯いた。

 

「コソコソ人の周りを嗅ぎまわって粗探し…仕事も碌にせずにさ…大人しく黙ってれば死なずに済んだんだ」

「…やっぱり…!」

 

 “ハートマン軍曹”は幹斗が《スカルマン》である事に気付いたのだ。だから口封じのために殺された。なんだよそれ…やっぱ保身のためなんじゃないか…!

 

「なんだよその目は?あの小者に散々甚振られてたじゃないか、何を怒る必要があるんだよ?あんな奴死んで当前なんだよ…」

「――本気で言ってるのか…?」

 

 同じ人間の口から出た言葉とは思えなかった。人一人の死すらいっそ淡々と受け止めて、状況の一部と受け流す硬質さに健輔は戦慄した。

 確かに“ハートマン軍曹”は良い上司ではなかった。いやいっそ唾棄する程嫌っていたし、心の中で呪い殺した事はそれこそ数えきれない程だろう。だが奴だって人間の筈だ、家に帰れば奥さんや子どもがいるかも知れない。あんな奴だってその死を悼んで、涙を流してくれる人がいるかも知れない。それが無下に失われた事実と健輔の個人的な厭悪とは別の問題の筈だ。

 

「アイツにだって…帰る場所や大切な人がいたかも知れないだろ…!それを奪う権利なんて誰にもないんだよ…!」

 

 だってそう思わなければあまりに虚しすぎる。俺達だってただの野良犬だ、いつか路傍で誰にも看取られずに死んでいくかも知れない根無し草だ。愛する者にも巡り合えずに己が生きた足跡を誰にも知られず死んでいくだけの人生だってんなら俺達だってこの世界の塵芥だ、でもその塵芥だって泣いたり、笑ったりするしプライドだってある。人の命を奪ってせせら嗤うように下衆に堕ちるつもりは毛頭ない。

 不意に幹斗の顔が哀し気な笑みを形作った。先程の酷薄な表情が全て虚飾に過ぎなかったかのように、飯場で時折人を気遣う素振りを見せた山下幹夫としての顔がそこに重なり、健輔は面食らったが次の瞬間、

 

「…お前には分からないさ」

 

 酷く素っ気ない言葉と共に後方に突き飛ばされた。同時に今度は自分が胸倉を掴んで引き寄せられた。怒気と悲憤が入り混じった整った顔が視界一杯に広がる。

 

「この世界は個人の権利や価値なんて斟酌してくれやしない。ある日突然に何もかも奪われて理不尽に虐げられるのが世界のルールだ…。そうやって奪われた命なんかいくらでもある、所詮アイツも爆発で吹っ飛んだ他の奴らもその一部さ…!」

 

 憤怒の中にどこか諦観の色を帯びたその声が耳朶を打ち、健輔は目の前の男の正体に確信を抱いた。正体は分からないが激しい憎悪を燃やして、それがルールだって嘯いて、こんなバカげたテロを引き起こした。その癖それで奪われる人の命の重みを一端に理解していながら、仮面で覆い隠して、冷めたフリをしているだけの中途半端な狡い奴だ。

 

「だからって…自分が理不尽になって良いって法はないんだ…!」

 

 義憤に駆られたわけではないし、今更正義漢ぶるつもりもさらさらない。コイツが端っから人の命を奪う事を何とも思わないテロリストであったならいくらでも諦めがつく。だが、幹斗は――目の前の男は間違いなく自分達の仲間だった。最初こそ群れからはぐれた変わり者だったが、その実、日射病で倒れた老人夫の事を思いやったり、彼のために現場監督に立ち向かうだけの気骨を見せたりもする。気紛れで不愛想で周囲と壁を造りがちなのは人と接する事に酷く不器用なだけで、そういう意味では俺達と何も変わらない人間だ。死の国から来た亡霊を気取ろうってんなら俺の手でその仮面を砕いてやる――!

 峻烈な熱情に駆られて健輔は床を蹴った。何か体の内奥から強い“力”が目覚めだし、全身に漲っていくのを感じながら眼前の幹斗に向けて拳を放った。

 

 だがその拳は彼に届く前にあっさりと受け止められた。まるでこちらの動きを全て読んだかのように的確にこちらの打撃を受け止めた幹斗の腕、それが目に入った瞬間、健輔は驚愕に目を開いた。

 眼前に掲げられたその腕は人のモノではなかった。肘から先が黄緑色に変色し、指先や前腕には短くも鋭い棘が規則的に生えている。拳先を掴むその掌に力が籠るとそれだけで拳が砕けそうな強い力が襲い掛かった。健輔は思わず呻き声を漏らしながら拳を無茶苦茶に動かして振り解こうとした所、自分でも予想以上の力が腕に掛かり、その拘束を振り切る事が出来た。ただ急に抑えを失くした体の方はバランスを崩し、再びたたらを踏んで床に転がる無様を晒す羽目になったが。

 

「――ったく…どいつもこいつも同じことを言うな…お人好し共め…」

 

 そんな健輔の様子を眺めながら幹斗は腕をさすっている。忌々し気に舌打ちをしながらも目はどこか楽しそうに笑っているように思えた。舐めてんのかお前は…!再度健輔が起き上がろうとしたその刹那、不意に「話は変わるがテツヤと知り合いだったんだな」という声が浴びせられた。

 

「テツヤ…?てっちゃんの事か…?」

 

 文字通り冷や水を被った心地を味わいながらもそれが成澤哲也の事を指しているのだろうという事は何となく察せられた。そう言えば《スカルマン》に向かって哲也が「幹斗」と叫んでいた――気がする、意識が朦朧としていたので確証はないが。

 哲也は《スカルマン》が山城幹斗だと知っていたのだろうか…?しかしあの隠し事をするのが苦手な男がそんな重大な秘密を黙っていられるとも思えないし、その可能性はなさそうだ。

 だがそうなると自分達と出会う以前の知り合いの可能性が浮上する。つまりそれが意味する事は――。健輔はゾクリと背筋を粟立たせた。とりあえずコイツが哲也と知り合いらしい事は分かってもますます目の前の男の得体が知れなくなった心地が押し寄せ、健輔は「お前は何者なんだよ…」と溢していた。

 

「《スカルマン》だとか山城幹斗だとか…!そういうのは分かったけど…じゃあその手は何なんだよ…?俺はゴロウさんがバケモノになる瞬間を確かに見たんだ…。お前もまさか…」

 

 あのバケモノ達と同質のナニかなのか…?喉元まで出掛かったその言葉を健輔は呑み込んだ。なんだか…バケモノ、というその言葉を幹斗に吐いてしまったら、それが酷く侮蔑的な意味を含んでしまうような気がしたからだ。

 健輔がその先を言い淀んでいる理由を察したのかそれは定かではないが、幹斗の口元が薄く笑みの形を作った。息を吐き出すように彼が口を開く。

 

「俺達は…《ヴェルノム》だ…」

 

 確かに宣言するように幹斗はそう呟いた。「《ヴェルノム》…?」聞き慣れないその言葉、妙におどろおどろしいその語感を反芻していると不意に凄まじい熱量が幹斗の体から発せられ、噴き出した蒸気がその体を包み込んでいく。あの時ゴロウさんがバケモノ――いや《ヴェルノム》か?――に変異する前に発生したあの光景によく似ている、そう思った次の瞬間には全身が生々しい黄緑色の皮膚に覆われた異形の者が立っていた。その姿は病院で機動隊を屠っていたあのバッタ男そのものだ。

 

「AS計画――だかなんだか知らないが“あかつき村事件”の副産物の一つだと…。現生人類の認識では怪物とかバケモノで間違いない。だが…俺達にとっては違う…これは進化した生命のあり様だ…!」

 

 AS計画、あかつき村、進化…?一挙に押し寄せたその言葉の意味は当然すぐに脳内で処理できるものではなかった。確かなのはやはりその姿は異形の存在にしか見えない、という事だけだった。情けないと理性が叫びながらも健輔は後ずさりした。

 

「おいおい逃げるなよ…ってまぁ無理もねえか…」

 

 おどけたようにバッタ男が肩を竦める。人語を発し、各所に人体の構成要素を残しながら、かと言って絶対に人ではない異形がそんな仕草を取るのは実にシュール極まりない光景だ。健輔は暫し呆然と目の前のバッタ男を見上げる事しか出来なかったが、それも目前のバッタ男が予想外の事を口にするまでだった。

 

「でもアンタももう同類だぜ…センパイ?こうなっちまったらもう引き返せない…」

 

 右掌をゆっくりと健輔の方にかざしながらバッタ男が呟いたその一言に健輔は心臓がドクンと不穏に揺れた。すぐにその意味が分からず、健輔は「なんだって…?」と呆然と声を漏らした。――いや分からなかった訳ではない。

 

「本位じゃないのは分かる…誰しもそうさ…。だが受け入れるしかないんだ結局は…。――ようこそ《ヴェルノム》(俺達)の世界へ…!」

 

 《ヴェルノム》…俺が怪物…?そう、言葉を理解できても脳が、心がその事実を受け入れる事を拒否しているのだ。なら…俺はもう人間じゃなくなってしまったのか…。アイツ等…あの蜘蛛やウニの怪物のように理性を失い、人を襲う存在にいつか成り果ててしまうのか…?

 

 思い当たる事がある。あの蛇のバケモノに変異した子どもは直前にあのウニ擬きの棘が刺さっていた。要するにあれが毒針でそこから毒を投与され、結果適合しなかったしなかった人間は《黒禍熱》によく似た症状で死亡し、そうでなかった人間の肉体には変化が現れ、怪物に――幹斗のいう所の進化した生命となる…そういう事か…。

 

 あの時健輔はヘビのバケモノが残骸みたいな奴に首筋に食いつかれた。そこから先の記憶は曖昧だが少なくとも今こうして生きており、気が付けば肉体に謎の変異が現れている…。つまりこれが肉体が《ヴェルノム》とやらに変異したという事の何よりの証左ではないか…。

 恐怖と混乱で戦慄く健輔の頭にバッタ男――幹斗の異形の掌が触れる。それ自体が内燃機関を宿しているような異常な熱が頭蓋を通して健輔の体内に侵入してくる。

 

「解き放て…お前の真の姿を…!」

 

 幹斗の声が内耳に木霊した。その瞬間電撃が体を駆け抜けていくような、他に形容しがたい“力”の奔流が健輔に襲い掛かった。この感触は知っている、あの時――異形の怪物に喰いつかれた時に襲い掛かってきた感覚と全く同じものだ。

 

「う〝あ〝あ〝あ〝あ〝ぁぁぁあ〝ぁぁぁあ〝ぁぁぁ…!!」

 

 全身の神経という神経に一斉に電流が駆け巡る。心臓がメルトダウンを起こした原子炉のように熱を放ち、血液が沸騰する。そんな筈はないのにそうとしか形容出来ない程の熱量が全身を責め苛んでいく。体が千々に砕かれそうな“力”の濁流に晒されながらも、あの時と違って不思議と意識はハッキリしていた。いや、むしろ“力”が全身に浸透していく度に意識は一層鋭敏になり、急速に増減を繰り返す細胞の動きも張り巡らされていく神経の動きすらも感じ取れるようになっていく気がした。

 

 これが力に適合するという事か…!

 

 だがそんな事はなんの慰めにもならない。沸騰するような激痛に呑まれながらも健輔は己の肉体が変異していく様を克明に捉えていた。それはまさに生きながらに人ならざるモノとなっていく事を知覚しながら人のままでしかあれない心を持ち続けるという事だ。

 いっそ気が狂えたら。ゴロウさんやあの少年のように“力”そのものに完全に支配され、本能のままに動く一匹の獣になれたら。そうすればこの身を苛む激痛からも人としてのアイデンティティすら失うこの恐怖から逃れる事が出来るのに――!

 だが頭蓋の奥に誰かの声が響く、荒れ狂う嵐の中にあってただ道を示す灯りのように。

 

『やめろ!バケモノになんかなるな!お袋さんや藤田に会うんだろっ!こんな所で終わるなよ…!』

 

 哲也の声だと分かった。それが浚われそうになる意識を繋ぎとめる唯一の縁だと理性が呼びかけているのだと察した健輔は遮二無二意識をそこに集中させた。

 

 そうだ、死にたくない、死ぬわけにはいかない――!まだ俺は何にも満足しちゃいない、漸く会えた仲間がいる、会いたい人だっている、なにより目の前で悠然と佇むコイツを一発ぶん殴ってでも止めてやらないと気が済まない…!

 健輔はもう無理に抗う事はせずに猛る“力”の奔流に身を任せた。決して呑まれる訳ではない、どんな波にも必ず乗りこなす術があるように路を見つけるんだ…!気を取られれば丸ごと持っていかれそうな意識を保つように健輔は鋭い爪が生え始めた10指を己の肩の辺りに突き立てた。

 

「ぐぅぅ…あぁぁぁぁぁぁああぁぁぁ…!!」

 

 肉が抉られ、血が指に滴る。だがその痛みが意識を繋ぎとめてくれる。少し顔を上げるとその様子をバッタ男が黙って見ていた。流石にこの行動は予想外だったのか、その無貌は少しばかり動揺しているように思えた。その様子に少しばかり満足した健輔は思いっきり肩に刺さった爪を引き抜いた。途端にまるでそれがトリガーになったように乱流の彼方に微かな光を捉え、健輔は躊躇わずそこに意識を伸ばした。

 

(ごめん、てっちゃん…!)

 

 瞬間全身を駆けずり回っていた暴力的な“力”の濁流が引き、視界が鮮明になっていくのを知覚しながら、健輔は心の中で昨日再会したばかりの親友に詫びた。バケモノになんかなるな…、その約束は守れそうにない、俺はもう目の前のコイツ(山城幹斗)と同じ異形のモノに変わりつつあるようだ…。

 

 でも俺は俺だから…!心までは呑まれない、このバカとその背後にいる何かを叩きのめして、必ず皆の前に突き出してやる――!その決意と共に健輔は立ち上がった。

 

 次の瞬間、健輔の体が変異を開始した。全身の筋肉が膨張し、二回り程その体躯が肥大化する。四肢はその体に比して長大に引き延ばされ、皮膚は黒く変色する。指と指の間には水かきのような膜が形成され、短い爪が出現する。

 

 

 全身から噴出した蒸気がやんだ時、出現したその姿は体とほぼ一体化したような巨大な頭部を持ち、長く太い腕を備えた両生類の如き異様だった。特に特徴的なのは体の二倍以上の長さを持つ尻尾でそれが一層この姿を巨大に見せている。

 人型から大きく逸脱した異形にも関わらず、その瞳は確かに人らしい理性の光を宿していた。白く濁った眼をギョロつかせるだけの“フェーズ1”ではない、意識を完全に保っている“フェーズ2”、それも想像を遥かに超える大物だ。もしかしたら予想以上の成果だったかも知れないな、とバッタ男――山城幹斗はほくそ笑んだ。

 

「うおぉぉぉぉおおぉぉぉぉぉぉっっっ!!!」

 

 部屋全体が鳴動するような雄叫びを発して、健輔だったもの――そして新たな《ヴェルノム》が《バッタヴェルノム》に襲い掛かった。

 

 




つくづく会話劇と説明が多くて、ここら辺はかなり心が折れかけましたね。その代わり次週はそれなりに戦闘シーンがあると思います。

それではまた次回。
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