「柚月…!」
奇妙な空間に佇む奇妙な東屋…のような棟。その前に佇む華奢な人影は山城柚月に相違なかった。そう言えば先程楠とか名乗ったあのおっさんはこの先で我が主が待っている、と言っていた。という事はつまり――!
「え、なに、ここの主ってお前の事?この屋敷もこの変な機械も全部お前の持ち物とか…?」
それこそ予想外というもので哲也は素っ頓狂な声を上げていた。だとしたらどこにそんな財力があったんだ、というか7年間の間にどんな環境の変化があったんだよ、とか問い質しかけた所で――。
「いや、そんな訳ないでしょ…」傍らの梗華が呆れたように嘆息した。
「違います。バカですか貴方は」柚月が思いっきり冷たい声色でボソリと言い放った。
「バカと言うな、バカと!」
哲也の抗議を柚月は華麗に無視すると「こちらですよ」と言って踵を返した。どうやら付いて来いと言っているらしい。
おい、待てよと声を掛けようとした所、梗華は躊躇いもなく脚を踏み出した。慣れた動きだ、さっきから思っていたが何度か来た事があるらしい。そうなると「我が主」とやらの事もどうやら知悉済みのようだ。なんだか一人だけ置いてけぼりを食らったような気分でそれはそれで釈然としない思いを感じながら哲也は渋々後に続いた。
柚月に続く形で通された部屋は巨大な一間だった。そしてそれにつけても奇妙にも程がある間取りだ。青めの灯りに照らされたやや薄暗い室内で最初に目についたのは哲也達の真正面、向かいの壁一面に埋め込まれた巨大な有機ELディスプレイ、そして部屋の中央に安置された不可思議な輝きを放つ装置だった。というよりその輝きが部屋全体を照らしているのか…という事にそこで気が付いた。
「アイツは…」
思わず部屋全体を見渡して哲也は軽くそう声を上げた。視線を右側に走らせるとそこにはマネキンのように安置された機械的な鋼の鎧が置かれていたのだ。各部が破損した状態でケースに収納され、左右から伸びるマジックハンドが火花を散らせている辺り如何にも修理中といった感じで、やはりSF映画のような光景だ。詰まる所凡そ現実的ではない。
「なぁ…あの人が言ってた“主”ってのは一体なんなんだ…?」
隣に立っている梗華の耳元にそう囁いた。この屋敷にしても設備にしても何から何まで大袈裟すぎる、こんな所に居を構える奴なんてそれこそ余程の大物か酔狂者くらいだろう。神秘的というよりいっそのこと不気味でさえある。
梗華は答えあぐねるのか困ったように眉間にしわを作った。
「なんて言ったらいいのかなぁ…私もハッキリとは分かってないんだけど…」
曰く自分もつい先日ここに来たばかりでまだ1回しか会っていないという。そんな人を信用して良いのかよ、と哲也が尋ねると一瞬悩まし気な顔をしたがやがて意を決したように口を開いた。
「強いて言うなら…柚月ちゃん達のお祖父さんだよ…」
なんだって…!?その言葉の意味を咄嗟に理解できても呑み込むのにしばしの時間を要した。その言葉を胸中で反芻し、どういう事だよ、と尋ね直そうとした所、「驚きのようだ」と静かな、だが威厳のある声が耳朶を打ち、哲也は思わず体を硬直させて声のした方に向き直った。
中央の装置が放つ不可思議な光に照らされるように声の主は姿を現した。声の印象や直前の梗華の発言から予想はしていたが、果たしてそこに立っていたのは藍色の着物に黄土色の羽織を守った老年の男性であった。右手に杖を突いているが背はまっすぐに伸びており、足取りにも覚束ない所はない。雪のように白く染まった髪と髭からは相応の年齢を感じさせたが、頑健そのものに見える肉体もあって総じて年齢不詳という印象を抱かせた。
恐らくこの老人が異質な屋敷の主なのだろう、そして――。
「初めましてだ、成澤哲也君。柚月から話は聞いているよ」
その気安い呼び方からやはりこの老人が柚月の祖父なのだろうな、と確信を抱いた。という事は幹斗にとっては…と一瞬考えが及びかけたがすぐにそのそれを打ち消した。アイツと柚月は親が違う筈だから関係はないか…。いやしかしそれは
ふと視線を感じ、柚月の方を見た。彼女の老人を見る目つきが存外剣呑な色を帯びている事に気付き、凡そ身内に注ぐものではないな、と感じた哲也は内心ゾクリとした。すると柚月も哲也の視線に気付いたかやや気まずそうに顔を逸らした。
二人の関係性が分からなくなり、哲也が戸惑っているとそんな内心を察したのか老人が片手を差し出してきた。
「
一応、という言葉に腑に落ちない物を感じながらも哲也はその手を握り返した。やはり触れたその手の握力は強く、老いを感じさせなかった。
「アンタ…いや貴方は何者なんですか…」
その哲也のというに琥月という男は意味ありげに口元を緩めた。笑っているようにも悲しんでいるようにも戸惑っているようにも見える何とも言えない表情だった。だが年を感じさせない色艶の良い肌とは対照的にそこに刻まれた皺には苦悩の跡が浮かんでいるようにも見えたのだ。思わず仙人みたいな人だな、と思った。
「私達の村を滅ぼした人です」
直後氷のような冷たい声が耳を聾した。は…?と声のした方を見ると柚月がなんの感情も湧かないガラス玉のような瞳を老人に注いでいるのが分かった。その声に梗華は苦しそうな口元を結び、俯くように顔を伏せた。その言葉を受け止めた老人――琥月が瞳に寂寥のような色が浮かべ、「否定はしない」そう呟いた。
「結果的にだが…あかつき村事件を引き起こしたは私だ…。そうして《スカルマン》という怪物を生んでしまったのもな…」
何を言ってるんだ…。そう続けようした喉から出たのは、しかし掠れた呼吸音ばかりで声になる前に搔き消された。代わりに急速にせり上がってきたあの村の、あの日の記憶が哲也の意識を塗り潰していった。
・・・・・・・・・
その日村を飛び出した事に何か特別な意味があった訳ではない。いや、それは相応の年月を経た今から俯瞰してそう言えるというだけの事であってあの時の俺にはたぶん酷く切実な事だったんだ。
この狭い村で終わるだけの男にはなりたくない、もっと広い世界を見てみたい、俺が一番輝ける場所はどこなのか確かめたい――。言い訳は色々あったけど詰まる所叔父さんの言葉を借りるならば「何者かになりたい」、それだけの想いを
高校生の子どもにとって外の世界を繋ぐ唯一の手段が道の駅に停まっているバスだ。中でも長期休みの時期に臨時で運行している東京行の高速バスの便がその日あったのは実に僥倖で俺は最早これが運命なんだと思うより他なかった。何も考えず熱に浮かされるようにチケットを購入したのは本当にバスが出る5分前というタイミングだった。
慌ててターミナルに向かおうとしたその時、不意に視界の端が見慣れた人影を捉えた。思わず、と言った風にそちらに視線を向けるとちょうど道の駅から出てきたらしい少女が――ユヅキがこちらをじぃっと凝視しているのが分かり、俺は思わず息を呑んだ。たまたまここに来て、そしてたまたま目が合っただけ、狭い村の中だとよくある事だ、と分かってる筈なのに何故か後ろめたいような心地がした。ユヅキはそんな俺に歩み寄ってきた。
『どこに行くんですか?』
近くに停まっている東京行のバスと俺の方を交互に見ながら彼女はそう言った。その目も口調も11歳とは思えない程不思議と大人びている。俺は気圧されたような気分になりながら顔を逸らして『別に…。どこでも良いだろ…』そうぶっきらぼうに呟くしかなかった。
ユヅキはどこか疑わし気な目で依然俺の方を見ていた。どうもこの子は苦手だな、と思う。ミキトとは兄妹でも二人は血は繋がってない、というのになんか幼い頃のアイツによく似ている。むしろ下手すれば同性同い年の気安さや挑発すればすぐノってきてくれる扱いやすさがない分、ミキト以上に扱いに苦慮しているかも知れない。流石に付き合いも長くなった今では単に人付き合いが不器用なだけだという事も分かるがふと何かの拍子にそう感じる事がある。
何より彼女の瞳だ。年の割に大人びているとかそういう事ではなく、時折なんだかこちらの考えを見透かすような…そういう不思議な色を帯びる瞬間がふとあるのだ。なんだかこちらの酷く矮小で浅ましい内心まで読み取られそうな気がしてしまう。
とにかくこれ以上グズグズしているとバスに遅れる事必至な事もあって、俺は早々に踵を返して乗り場まで向かおうとした。ところがそんな時に限って浮かんでくるのが初めてこの村にやってきた時の彼女の感情をどこかに取り残して来てしまったような寂しそうな瞳であり――それに背を向けて黙って行ってしまう事はこの娘にもアイツにも、なんだか途轍もなく不誠実な事であるように思えた。
俺は振り返ってユヅキの方に駆け寄るとその小さな背に視線を合わせた。
『すぐに帰ってくるよ。だからそれまで兄貴にもキョウカにも言うなよ…?』
その名を言うと胸に甘い痛みと締め付けるような苦い痛みが同時に押し寄せるような気がしたが、それを敢えて無視して俺は苦笑しながらそう言った。上手い具合に「いつもの自分」を取り繕ったつもりだったし、向こうもそれに納得したのかは正直よく分からないが、彼女はその言葉を受けてコクリと頷いた。俺は『頼むぜ?』ともう一つ念押しすると今度こそ発車しかけのバスに向かって走っていった。発車の十数秒前に飛び乗ってきた高校生を訝し気にジロリと睨みつけた運転手の視線には気付かないふりをして俺は指定席に就いた。やがてバスが走り出して、道の駅が見えなくなるまでユヅキはそこにいたようだった。
すぐに帰ってくる。少なくともこの時点ではその台詞に嘘偽りはなかったが結果的にこれが俺にとって16年間育った村での最後の記憶になった。
東京までザッと4時間。15時のバスが最終便なのも分かる話でいくつもの山を越えて首都高に乗り、漸く終点に辿り着いた時はまだ高かった日もすっかり沈んでいた。とは言えバスタ新宿周辺は村とは大違いの不夜城っぷりで、まずはその人混みの多さに気圧されたものだった。東京に来たのはそれこそ中学の修学旅行以来だったから、せいぜい2年ぶりの筈だが、あの時はこんな風に夜に出歩いたりはしなかったから実感しづらかった。あの時はキョウカがあまり乗り気じゃなくて――たぶん両親の事を思い出すからだろう――ミキトもいつも通りさも泰然自若としてたから俺一人だけはしゃいでるのがなんだか取り残されたような気分だったけど、二日目に行った日本最大の遊園地に行った時は流石にそんな事も忘れて思いっきり楽しんだ。嫌がるミキトに俺とキョウカが無理矢理ネズミの耳を被せて撮った3ショットを彼女が『貴重な写真だよね』とか言ってケラケラ笑っていたのがなんだか印象に残った。
そこまで考えてまた二人の事に囚われそうになった俺は慌ててかぶりを振ってそれを振り払うと今度こそバスタ新宿を後にした。
ネオン看板やビルの窓から漏れる灯り、そして行き交う車のライトが目に痛く、さながら「ブレードランナー」に出てくる街みたいだなと呆然としていたが、あまりぼんやりしていると露骨に田舎者臭いため(事実だが)、とにかく当てもなく今夜泊る所を探さねば、と漸く思い至った。こういう所がつくづく粗忽者たる所以だよ、とブツブツ愚痴を内心に吐きながら俺は歩き出した。ミキトだったら事前にあれこれ調べたりしてもっと上手くやれたりするんだろうか、とちょっとでも考えてしまうのがもうイヤだった。
そんなこんなで人の荒波に揉まれまくり、漸く古めのネットカフェの一室を借りれたのがそれから30分後の事。都条例による未成年の夜間外出やらそもそも身分証がなければ入れないのでは、と言った今更の懸念を他所にあっさりと泊まれた事に驚きながらも幸運にひとまずは感謝する事にした。
適当に道中のコンビニで買ったカップラーメンを食べつつ、残りの残額を確かめると早くも溜息が漏れた。お年玉やらなにやらで貰った金の総額が3万と4873円。既にバス代6000円とここの滞在費が5200円、カップ麺代で220円消費してるから残り23000円とそこら。この分じゃあっという間に底をついちまうな…という結論に至った。かと言って家出人の高校生にそうそうバイト先が見つかる筈もなく、試しにネットで検索して当たってみると住所やら身分証やらは絶対不可欠みたいで早くも世の中の難しさを実感した。
こんな時漫画だったらたまたま入った喫茶店のマスターが行くとこないなら二階にでも住め、と言って快く部屋を貸してくれるとかたまたまチンピラに絡まれている老人をやっつけたらその人がボクシングジムの会長だったとかあったりするんだろうがそんな幸運が都合よく転がって来る筈もなく。現実は少年漫画やファンタジー小説みたいにはいかないのだ、とつくづく痛感する。というかそんな事にすら思い至らない辺り、俺はつくづく阿呆の粗忽者だという事だけが分かり、俺は思いっきりフラットタイプのマットレスに身を投げ出した。スプリングのいかれた安いマットレスの感覚は心地よさとは真逆の境地で、おまけに味の濃いカップ麺が齎した胃もたれ感もあって、気分は最悪だった。
村に居たら今頃は母さんの夕飯を食べて風呂に入って漫画読むかテレビ見るかしていた時間なんだろうなぁ…という感慨に耽ってるうちに俺、なんでここに来たんだろう、ここで何してるんだろう…という弱気が頭を擡げてきた。そんな時いつだって思い浮かぶのは郷里の景色ではなく、いつも一緒にいた二人の顔だ。
山城幹斗と九條梗華。
いつの間にか随分と二人と遠ざかってしまったな、と思う。物理的な距離もあるけどもっと精神的な所で。いつからだろうか、ずっと一緒だと思ってた二人の間に距離が出来てしまったのは。いやもしかしたらそんなものは自分の勝手な思い込みに過ぎないのかも知れないが、だとしたら自分が二人から遠ざかろうとしているという事になる。
中学にあがった辺りからだろうか。幼い頃からの博学才英っぷりにますます磨きが掛かり、村や県下を飛び越えて全国レベルの秀才達と成績争いをし出すようになれば、周囲の幹斗の評価は「頭は良いけど協調性皆無の変な奴」から一変した。全国学力テストで学校開闢以来の好成績を出したとかなんだとかで村長から表彰されたり、「流石は山城博士の子だ」と皆がその天才っぷりを讃えた。当人はと言えば相も変らぬマイペースっぷりでむしろ何かと耳目を集める事を心底鬱陶しがっていたが。
梗華は梗華でたまたま道の駅の産直で売り子をやってる光景がホームページの動画で公開されたら、それが凄まじい勢いで再生され――俗な言い方をするとバズった。以来学業に差し障りのない範囲で、という条件こそ付いたが地元のPR活動の急先鋒を務めている。現在も絶賛継続中。
そんな訳だから村からバスで30分掛かる県下の高校に進学した際も早くも有名人になっていた。幹斗なら望めばもっと上の高校に行けただろうし、実際先生からもそう薦められたのだが、何故かアイツは地元に拘った。理由は最後まで教えてくれなかった。そんな謎の入学経緯もあったし、
最初はむしろ自慢だった。クラスは離れてしまったが学校中の注目を集める二人が親友である事が誇りだった。しかし異なった歩幅の距離が次第に離れていくように段々と俺達の関係は嚙み合わなくなっていった。自分はと言えば多少身体能力が高い以外秀でた所もなし、それにしたって球技大会でヒーローのような大活躍を見込めるものではなく、むしろ目立ちすぎる二人の前では平々凡々も良い所。たまに話しかけられたと思ったら、山城君の知り合いなんだって?、九條さんに紹介して欲しい、彼に手紙を渡して欲しい、付き合ってる人いる?云々…要するに都合の良い伝書鳩役だ。
これではダメだと思った。膨れ上がるばかりの僻みと劣等感が自分を圧し潰して、いつか三人の関係に取り返しのつかない亀裂を生んでしまう前に二人のように何か必死で打ち込めるモノが欲しい、そう思った俺は少し二人と距離を取った。無論声を掛けられれば普通に応じるし、互いの家に行って他愛のない話をする、そういう関係は続いたが以前みたいに四六時中一緒にいるような事はしなくなった。梗華はそんな俺を怪訝そうに眺めてたが幹斗は特に何も言わなかった。察しの良い友で助かる。
遅ればせながら何かやりたい、と思った俺が叩いたのは空手部の扉だった。小学生の時に夏休みに一度だけ体験で入った事がある、という極めて安直な動機でかなり遅い入部届を出した事を早くも後悔する羽目になったが、過酷な練習を続けるうちに自分の中にも何か手応えが生まれた。一度だって何か真剣に打ち込めた試しのない身には新鮮な歓びだった。
そんなこんなで間もなく最初の1年が過ぎ去り、漸く学期末考査も終わったタイミングで奇妙な噂が耳に飛び込んできた。「梗華と幹斗が付き合っている」部活の先輩から突如そんな話をされ、俺は天地がひっくり返るような衝撃を覚えた。
二人が度々告白されても断り続けていた事は知っていた。幹斗が誰かと付き合うなんてそれこそ天地がひっくり返るレベルで想像しづらい世界の話だよな、と漠然と思っていた所にまさに青天の霹靂、寝耳に水だった。
話を持ってきた先輩は美男美女の組み合わせで悔しいけどお似合いかもなぁ、なんてちっとも悔しくなさそうに能天気に笑ったが、俺はと言えばどうしようもないくらいの不安と不快感がこみ上げてそれが心臓を締め上げてくる感覚を覚えた。そんな筈はない、と頭が全力でその可能性を拒絶した。
俺達の関係はそんな風に変わるものじゃない、アンタにはそんな事が分かる筈もない、と全力で叫び出したかったがまるで全力疾走した後のように咽頭が乾き切り、声が出なかった。俺は何も言わずにその場を後にした。
校内を全力で駆け回って二人の姿を探した。とにかく会って無性に話がしたかった。確かにこの1年、以前よりかは話す機会は減っていたけどそれでも俺達の関係は健在だってそう思っていた。一刻も二人の顔を見てそれを確かめたかった。校内中駆けずり回った挙句に二人がとっくに下校したと知るや否や脇目も振らずに学校を飛び出した。別に二人が一緒だとは限らない、帰宅部の幹斗はともかく梗華には部活があるのだし、件の噂があくまで噂でしかないのだとしても自然と視線は二人の姿を追っていた。
いつもの帰り道の筈なのに随分と長く彷徨した気がして、村に向かうバスのロータリーがある駅前に辿り着いた。果たしてそこに見慣れた背中を漸く見つけた俺は、しかし声を掛けるより前にその光景をハッキリと捉えた、捉えてしまった。
並んで歩いている二人の姿。ずっと昔から見てきた景色の筈なのにどうしたってそれが「いつも」と違う事に気付かない訳にはいかなかった。幹斗の隣を歩く梗華が彼の左手に手を伸ばしてゆっくりと重ねている。幹斗は暫し手汗を気にするように指先を揺らしていたが、やがて意を決したようにぎこちなく、その手を握り返した。その様子に満足したのか梗華が悪戯っぽく微笑んだのが見えた。その笑顔が俺の知っている梗華の笑顔とは似ているようでまるで異なるものなのだと察した時――俺は踵を返して二人とは正反対の方に走り出していた。後ろを振り返る気にはなれなかった。
その後どうなったのかいまいち覚えていない。次の記憶はどんな経緯かで帰宅した自室のベッドで呆然と訳もなく天井を眺めている事だった。
数日前にこの部屋を訪れた幹斗と他愛もない事をあれこれ話した筈なのに、それがやけに遠い昔の事のように思えた。俺は目を閉じて胸中に何度も尋ねた、何故だろう、と。
ずっと続くと思っていた関係が変わる切っ掛けはなんだったんだろう。二人はそれが変わる事が怖くはなかったんだろうか。それとも俺が勝手にそう思い込んでいただけで二人にとってはその程度のモノに過ぎなかったんだろうか。何より――
どうして俺を何も言わなかったんだろう。どうして俺を置いていったんだろう。――どうして俺じゃなかったんだろう。そこまで考えて今度こそ制御不能の痛みと熱がどうしようもなく胸を焦がすのを俺は知覚した。
そうじゃない、たぶん俺はずっと知ってた。いつからかはハッキリ分からないけど俺はそこに入れないと分かって意図的に目を背けて見ないふりをした、耳を逸らして聞こえないふりをした。子どもの頃と同じ筈なのに梗華が幹斗に話しかける声にいつの間にか俺に向けるものとは違う、艶やかな潤いのようなものが混ざり始め、それに応じる幹斗の声もずっと柔らかい。そう感じ出した。
それが本音だ。見たくなかった、聞きたくなかった、認めたくなかった。今のままじゃ何もかも幹斗に及ばない気がして、だから二人から遠ざかってまでこれまでと違う自分になりたかった。だってそうでもしないと――梗華の隣に立てるようにはなれないと思ったから。そうでなければ俺は自分の中に芽生えてしまったこの邪な感情に向き合えない。
隠して、誤魔化して、目を瞑って、耳を塞いで、その結果それが何の意味もない事だと知って漸く俺はそれを認めた。
俺はずっと彼女が好きだった。
幹斗の抜け駆けを謗る資格なんか俺にはない。俺自身がずっと変わらないと思ってた関係を誰よりも変えたいと思っていた側なんだから。
『梗華…』
ひたすら不愛想な天井を眺めて俺はその名を呟いた。それは虫の羽音みたいに微かに俺の耳朶に響いただけで澱んだ室内の中に消えていった。所詮俺の想いなんてそんなモンだろうと自嘲する。
あれから二人とまともに話せなかった。何もする気もなく電話もメールも全部無視してその挙句に今こうして都会の中に一人だけポツンと寝そべっている。どこにも行き場のなくなった俺の気持ちと同じく誰にも顧みられもしない。ひょっとすると俺はこうなる事を望んでいたんだろうか。幾分冷静になった頭はそう考えていた。
ここに来れば何かが変わるなんて本気で信じていた訳じゃない。そう、ただあの二人から離れたかっただけだ。それだけじゃない、三人の思い出が多すぎるあの村からも。
だから土台この小旅行になんて何の意味もないのだ。1年前から何一つとして変わらないモラトリアムと飽き性の延長戦上から未だに抜け出す術も知らず、かと言って岸を探したりせめて藻掻いたりする選択肢も持たずに、漫然と揺蕩っているだけ。風と潮に流される事しか知らないクラゲの如き我が身を自覚するだけの旅だ。
『バッカみたいだ俺…』
最早溜息を吐く気力もなく、俺はごろんと安いマットレスに体を横たえた。体が鉛の如く沈み込んでいく気がするのは相応に肉体も疲れているのか、それとも俺の精神の持ちようの問題か。どっちにしてもここにいる事に何の意味もない事を自覚しながら、その癖今更村に帰る気にもなれない我が身の愚かしさを揶揄する自意識が鬱陶しく、俺は頭を振って俺自身の声を締め出した。そうしてこの世の全てから隔絶したような気分になりながら、俺は眠りについた。
最後に思い浮かんだのは何故か幹斗の澄まし顔でも梗華の笑顔でもなく、どこか寂しそうな色をその大きな瞳に湛えたユヅキの事だった。
せめて約束は守らないとな…。でも一体それはいつになるのやら…。
眠っては起きて、また眠っては起きて。そんな覚醒と揺らぎの間を延々と彷徨いながら本格的に目が覚めてしまったのが朝6時より少し前。これ以上この黴臭い部屋に居ても気が滅入るばかりだと判断した俺はネットカフェを後にした。
とはいえ家に帰る踏ん切りも付かず、かと言って他に行く当てもないという根無し草の身に変わりがある筈もなく、どうしたモンかと考え抜いた末に浅草の方に行こうと思ったのはこれまた何か大きい意味があった訳ではなく、単に他に記憶にあった場所というのがそこだったから、というこれまたやけにボンヤリとした理由だった。親父は元々こっちの方出身で父方の祖父母が健在だった時は行く事が多かった。巨大な提灯とその先に広がる商店街の風景は村にはないものでそれはそれで楽しかった。祖父母が鬼籍に入って以降ぱったりと疎遠になっているが従兄と叔父叔母夫婦も住む土地は、このやけに他人行儀な街よりはマシだろうと思った、本当にその程度の事だった。
だからと言って新宿駅からひとまずの目標とした上野恩賜公園までの7㎞ばかりの道のりをひたすら歩き続けたのはやはり蛮勇の為せる技だろう。交通機関を使うのも勿体ないというせめてもの金勘定だけをして、碌に道も分からず僅かな道路標識だけを頼りにひたすら歩き続けて、迷走と寄り道をしまくった挙句に目的地に辿り着いたのはとっくに10時を回っていた。
靴擦れと汗に喘ぎながら上野動物園の入り口前をウロウロする。春休みと事もあってか親子連れを中心として人通りは多かった。あかつき村も休みになると登山やらスキーやらで観光客が訪れる事もあるが、ここまでの人出はない。井の中の蛙とはよく言ったモノで自分の知っている世界なんて余程ちっぽけなものだと思えてくる。関心半分呆れ半分ボンヤリと流れゆく人の波を眺めていると不意に影が差した。誰か他人が自分の横に立ったのだと知覚した俺は視線をそちらに送った。
何年も着古したようなよれよれのコートはあまりに色がくすみ過ぎて元が何色だったのかもよく分からない。合わせるかのようにコートの主も如何にも年季の入った、という言葉が良く似合う壮年の男性だった。髪にだいぶ白いものが混じっており、それなりの年齢である事が窺えたが一方で背筋は存外しゃんと伸びており、不健康そうな印象もない。何より目が違った。俺と目が合うと男は意味ありげな色をその瞳に湛えて、ニヤリと笑ってみせたのだ。
なんか昔テレビにこんな奴がいたような気がするな…と思ったのも束の間、何かマズイ、と俺はその視線を振り切り、脱兎の如く走り出した。別に男に反社会的な危ない臭いを感じ取ったという訳ではない、ただコイツに掴まったら確実に面倒な事になる、というある種の野生的な直感が働いただけの事だ。
だが所詮は都会の喧騒になれない田舎者の逃避が早々通じる訳もなく、都会に出てきた田舎のネズミが車の群れに翻弄されるのと全く同じ原理で多すぎる人の群れを掻き分ける事すら叶わず、あっさりと俺はその男に掴まった、というか犬の子みたいに首根っこをひっつかまれていた。男はどこか楽しむように耳元に囁いた。
『なんで逃げるんだ、えぇ?』
『アンタが追いかけるからだ…!』
首が苦しい、とせめてもの抵抗にジタバタ手足を振りながら俺は吠えた。周りの訝し気な視線に羞恥心と自尊心が著しく刺激され、余計に抵抗が激しくなる。そんな俺の様子に呆れたのか、男は唐突に手を放し、その結果急速に支えを失った俺は思いっきりたたらを踏んでアスファルトの上を転がる羽目になった。幸い頭こそ打たなかったが地面に付いた膝小僧と掌が痛く、呻いていると唐突に手が差し出された。どうやら眼前の男が差し伸べたらしい。
『悪かったな、立てるかい少年?』
その言葉にもどこか余裕があった。俺は転ばされた事や公衆の面前で醜態を晒す羽目になった恨みやらを込めて抗議しようとしたが、それよりも男がよれよれのコートの懐から取り出したそれを突き付ける方が早かった。
チョコレート色の革製。縦に開かれた上部分には男のものと分かる顔写真が、下側には金色の輝くエンブレムがあった。よく刑事ドラマなんかでよく見る光景だが現実で見るのは初めてだった。
『アンタ警官か…?』
目を合わせた時に感じた直感の正体はこれか、と思うのと同時に目の前の風采の上がらない男が何に似ているか思い出した。昔BSの再放送で見た古い刑事ドラマの主人公がこんな感じの奴だったと思う。
『そんな所さ、そういうお前は家出少年だな?』
なんで分かったんだよ…?その質問に男は答えず、ニヤリと笑ってみせた。これが後々まで何かと腐れ縁になる立木正尚との最初の出会いだった。
立木とか名乗ったその男に強制的に連行されたのは管轄である警察署にある6畳間だった。てっきりドラマなんかでよくあるようにパトカーに乗せられて署の取調室にでも連れ込まれるのかと思ったがそういう事は基本しないらしい。老刑事はテレビの観すぎだと言った。
気になるのはなんで自分が家出してきたと分かったのか、という事だ。よもや親に東京に行った事がバレて(ユヅキ辺りが出所になったのか?)、既に手配写真が回っているとかそんな事か…と密かに戦慄していると立木は『そういう事じゃあない』と断言した。
『俺の鼻は特別製でね、お前みたいに奴を見つける事にかけちゃあ天下一なんだよ』
『…ストーカーの素質あるぞおっさん…』
なんとなく不気味な印象が拭えず、そう告げると立木は気にした風もなく『よく言われるよ』と声を上げて笑ってみせるのだった。屈託のないその笑い声に悪い人ではないんだろうな、というのは何となく感じ取れた。住所氏名やいつこっちに来たのか、みたいな形式上の質問以外は一切してこない所や頭ごなしに『親御さんが心配してるぞ』とか『とにかく終わったらすぐ帰れ』とかそういう事を聞いてこない辺りにもそれが窺えた。
実際そう言ってみたら刑事は困ったように顔を顰めた。『まぁ本来なら聞くべきなんだろうがな』
『
そこは普通「
結局住所を聞かれた上で近所に住んでいる葉子叔母に連絡が言ったらしい。なんでかあかつき村の実家とは電波が悪いのか繋がりづらい、と制服の巡査がぼやいていたが、俺は言えばそれを特に気にも留めるでもなく、漫然と迎えにくると言っていた叔母さんを待っていた。頭の中にあったのは両親と叔父叔母夫婦にどう言い訳しよう、とかこうなった以上この一人旅もここで終わりかな、という諦念だけだった。なんとなく面白くないな、そう思った俺は6畳間を出て、その先にある待合所のような一角に向かった。あそこなら雑誌もテレビもあるし、逃げたとも思われないだろう、ただそう考えての事だった。
ただいざ行ってみると果たして待合所に置かれたテレビの様子を皆が固唾を呑んで見守っていた。画面の内容は人垣の端々から僅かに見えるだけで何かはハッキリとは分からない。ただ人々の微かな息遣いや震えるような声色からは何か深刻な事が起きた事は想像出来た。俺がその時点で抱いたのは純粋な好奇心のみであり、その先にある景色なんて想像もせずに、人の群れを掻き分けながら、画面を覗き込んだ。あかつき村、という教科書の表紙より見慣れた言葉がテロップとアナウンサーの声に乗って届いたのは次の瞬間だった。
〈こちらは現場のあかつき村上空、プロメアセンターの様子を中継でお伝えしています…。センターから朦々と煙が上がっているのが見えるでしょうか、これはまるで…〉
その先の言葉はもう耳には入ってこなかった。プロメアセンター、村では殆ど“研究所”としか呼ばれないそれの映像は、しかし自分にとって馴染みのある、ありふれた風景の映像だとは到底信じられなかっただろう。それがあまりに非現実的で自分の住んでいるのと同じ世界の光景には見えなかったからだ。
研究所、村のどこからでも見えた山の一角をくり抜いて造ったようなドーム状の構造物は既になく、そこからは朦々とどす黒い噴煙が上がっていた。その煙はまるで岩肌か年代物の大樹のようにゴツゴツして見える表面を流動的にうねらせて、遥か上空に広がっていった。研究所を擁し、ここら一帯の親山である矢頭山よりも巨大な黒雲はその頂点の辺りで徐々に水平方向に広がっていき、笠状に転じた。空撮用カメラが目一杯引き下がって漸く全貌を捉えたソレはまるで巨大なキノコのようだった。
その禍々しいフォルムに俺は心臓を鷲掴みにされたまま、引き剥がされるような恐怖を覚えた。あの形状は知っている。映画や毎年夏のドキュメントでよく見る光景。まるで人類がその手で生み出したモノの中で最も恐ろしく、愚かしい力の象徴のように見えた。
ナニか途轍もなく恐ろしい事が起きたのだ、あそこで、俺の村で…!凍り付いた時間の中でそれだけは確かに実感できた。皆は、親は、幹斗は、梗華は…どうなっただろうか…。遅れて思考がそこに行きついたのと同時にそれさえも浸食していくように研究所から溢れ出した真っ白い“霧”が俺の知っている全てを呑み込んでいった。
そこから俺の記憶はまた暫く途切れがちになる。辛うじて葉子叔母さんが迎えに来て、「きっと連絡があるわ、それまでここで待ちましょう」そう言って浅草の家にお世話になった、それだけはハッキリと覚えている。村にはあらゆる通信手段が通じず、確認に行った有志も終ぞ帰ってくる事はなかった。
今思い返すと突然降って湧いた事態に勉叔父さんも葉子叔母さんも混乱していただろうに、いきなり舞い込んできた不肖の甥を嫌な顔一つせずに迎えてくれた上に、精一杯勇気づけようとしてくれた。その事はいくら感謝してもし足りない、その筈なのにその時の俺はあまりに子どもで、それを実感出来たのはかなり後になってからだった。
叔父叔母夫婦の家にお世話になりながら俺は事の推移を見守った。村を覆い尽くす禍々しい“霧”がいつか消え去って両親や幹斗から連絡が来る、そう信じて俺は、俺達は祈り続けた。結論から言えばそれが届くことはなく、5日後漸く“霧”が晴れたあかつき村に最早人の形を成さなくなった遺灰が散らばっているだけの光景を俺は見る事になった。その後ただの高校生一人の力ではどうにもならない世界で、大人達の話し合いが為された末に村は完全に封鎖された。
今でも考える。両親は、幹斗や梗華はあの“霧”の中であの物言わぬ灰になって果てたのか、一体何が起きて、どうしてこんな結果になったのか、それとも誰かがこんな事態を引き起こしたのか、そして――
ちょっと長すぎるので今週はここまで。
次回でこの章もお終いです。漸く折り返しと言った所ですかね。
…いい加減今の編何とか書き上げたい…と思いながら書いている。それではまた次回。