依然空は悲鳴を上げるように戦慄いていた。どうやらその音は“研究所”の方かららしい、と気が付いたのは役場の方から避難を告げる無線が鳴り出したからだ。
〈――こちらはあかつき村防災無線です。山火事が発生する恐れがあります。住民の皆さんは速やかにあかつき村小学校まで避難して下さい――〉
さっきから村の古いスピーカーはそればかり鳴らしている。無機質な防災無線の声と割れ気味の音も手伝ってやけにその声は不気味に響いた。何が起きたの一体…。あたしはユヅキちゃんの手を引きながら顔見知りのおばちゃん達と一緒に小学校を目指していた。
明らかに普通じゃない、何か途轍もない事が起きてる。“研究所”の方に視線を転じると最早その特徴的な建物の影は形も見えずに代わりに古木のようなどす黒い噴煙が立ち上っていた。おまけにそれは遥か上空でキノコのような形を形成し始めていて、不気味という言葉では括れない程の畏怖を麓の民達に叩きつけた。
村の小学校――正確には中学校も一緒の校舎にあるのだが――は数年前に新築したばかりでいざという時の災害の拠点や公民館としての機能も持たせてあるから地元の人全員を収容するだけの余裕は十分にある。だから落ち着いて避難して、と呼び掛ける役場の人達と避難民の波を見ながらその中に知らない顔ぶれも結構ある事に気が付いた。明らかに事態に戸惑っており、避難の足取りが覚束ない。恰好からしてキャンプや登山に来ていた観光客だろう。村民に交じって進むその顔には明らかに「なんでこんな事になるんだ」とハッキリ書いてあった。
でも不安なのはお互い様、正直あたしはお祖母ちゃんが心配だ。元々腰が良くない上に1週間前に転んで足を捻挫している、とても一人でここまで来れる訳がない。今村の若い人が迎えに行ってくれた筈だがそれにしたって車がまともに使えない状況下で無事に辿り着けるだろうか…。
『――おい、アレなんだ…!?』
漸く小学校の校庭に入ったと思ったその直後誰かがそう叫んだのが聞こえた。ここからでもよく見える“研究所”の方を指して言っているようだ。あたしはその指先に釣られるように未だ火の手を上げる山を見上げた。依然村の上空に顕現したキノコ雲は燻っていて滞留している。正直見るだけでも恐怖が押し寄せてくるが、そこから更に生じた光景にあたしも含め、その場にいた全員が目を見開いた。
『――なにアレ……?』
震える声であたしはそう呟いた。さっきまで“研究所”のあった辺りからまるで窯の蓋が空いたかのようにソレは溢れ出てきた。禍々しい黒煙とは対照的な、どこまでも混ざり気のないかのような真っ白い、それ故に寒々しく美しい――“霧”。突如現出したそれはまるで水が高い所から低い所に流れていくかのようにゆっくりとこちらに押し寄せてきた。
全員が固唾を呑んで見守っていた。何か想像だにしない事態が起きた――そんな現実を忘れてしまいそうになる程幻想的な光景。しかしそれは突如『ダメェェェッッッ!!!』という絶叫によって掻き消された。
声はあたしのすぐ近くから聞こえた。ユヅキちゃんだった。あたしの手を硬く握ったまま、大きな瞳に激しい恐怖の色を浮かべていた。こんなに取り乱す彼女を見るのは初めてであたしは背筋がゾクリとなった。
『アレはダメ…!アレに触れたらみんな…みんな…逃げてぇぇぇぇぇぇぇっっ…!!』
そう言ってユヅキちゃんは頭を抱えて絶叫した。その声に皆正気を取り戻したらしい、途端に迫ってくる白い“霧”が上空のキノコ雲以上に禍々しいモノであるように思えて、一斉に走り出した。理屈じゃない、アレに触れたらマズイし……あの中には
既に人が殺到する通用口の方を見ながら咄嗟に体育館の方を目指した。慧おじさんがそこから叫んでいるのが見えたというせいもある。少なくとも校庭から人影が消えたのを確認して、全ての扉が閉め切られてから数分後、真っ白い“霧”が押し寄せて校舎を、そして周辺の家々を呑み込んだ。後に残されたのはどこまでも真っ白い景色ばかりでその景色の異様さにあたしは震えるユヅキちゃんを抱きしめながらも無様に自分こそ竦み切っている事を実感した。
幸い校舎と体育館は渡り廊下で繋がっているから行き来には問題ない。扉という扉、窓という窓を閉め切ってしまえばあの“霧”も流石に入ってこれないようだという事にひとまず安堵はしたものの、それで事態が好転した訳では全くない。あたし達は完全に校舎内に閉じ込められてしまった。
『――とにかく、だ。何が起きたのかは分からないがここで待ってれば必ず助けは来る。不安もあるだろうが…それまではここで待とう…なぁ?』
慧おじさんが努めて明るくそう言ったがそれでここに集った百十数名の不安が払拭される事もなく。実際各所には重い沈黙が垂れ込めており、そんな先行きの見えない不安を象徴するかのように“霧”は依然としてそこに滞留していた。
実際不安の種は尽きなかった。あの“霧”が出てからというもの何故か携帯の電波が全く入らなくなった。どんなに上の階に行ってみてもディスプレイに表示されるのは「圏外」の二文字のみでアンテナ一つ立つ気配がない。外界からの情報を得る手段もなければ当然村内との連絡も付かない訳で家族や友人の安否確認すら出来ない状況は否が応でも皆を苛立たせた。
皆の前では敢えて泰然と振る舞っているおじさんだって優実おばさんがここにいない事が本当は不安で仕方なかった筈なのだ。あたしもミキトやお祖母ちゃんの無事が気になる。この得体の知れない“霧”の向こうで皆果たして無事でいるだろうか…?
そんな状態で一晩を過ごした。だが夜が明けて依然学校をすっぽりと包んだ“霧”が消えてないと分かれば一晩は耐え抜いた人々の不安も高まりだした。ここにいても埒が明かない、車か何かで外に助けを呼びに行くべきだ、という声が出始めた。家族の安否が心配だ、迎えに行きたいという声がそれに続いた。
それは危険だ、血気に逸るその声をおじさんはそう言って宥めた。
『この濃霧の中迂闊に動いても二重遭難になる恐れがある。山登りでも霧の時は迂闊に動かん方が良いというだろう?苦しいかもしれんが今は耐えるんだ…』
そう言っていたがこの場の多くの人がそれだけではない、そう感じていた。この“霧”は何かおかしい、その「何が」というのは具体的にはハッキリと分からないのだが何か…名状し難い感情が掻き立てられるのだ。恐怖に怯えていたユヅキちゃんの表情が呼び起こされる。
だがそんな実態のない不安も二日も経てば目前の閉塞感に圧し潰されそうになる。二晩経っても全く進展しない事態に遂に一部の人々の間で不満が爆発した。
『いつになったら助けとやらは来るんだよ!』
『もう俺達は限界だ、止められても外に行くぜ、こんなトコもう知るかよ!』
朝起きて玄関前を見ると大学生風の二人組――見ない顔だからたぶん観光客だ――が慧おじさんに詰め寄っているのが見えた。そんな二人を彼は何とか翻意させようと説得していたようだが完全に興奮しきっているらしい二人には届かない。このまま静観してたら大変な事になる、と咄嗟に思ったあたしは三人の間に入ろうとしたが、それよりも早くあたしの足元を小さい影が駆け抜けていった。
『行ったらダメ…、です…!今行ったらアレが入ってくる……!』
ユヅキちゃんだった。興奮のあまりおじさんの胸倉を掴んでいた男の腰辺りにしがみつき、必死にそう叫んでいた。男はいきなり現れた少女に戸惑いを隠せなかったもののやがて開き直ったように『邪魔だ!』と叫んで脚を振り回した。振り飛ばされるようにバランスを崩し、小さい体が床に叩きつけられる。
流石にカッとなった。非常時に冷静でいられなくなる心境は理解出来るがそれは皆同じ。連絡の取れない家族の安否を気にして、それでも必死に耐えているというのに勝手に喚き散らして、ましてや小学生の女の子に手を上げるなんて…!あたしはユヅキちゃんの方に駆け寄るとその体を助け起こし、同時に大学生風の二人を睨みつけた。『二人に謝って!』そう叫んだ。
『二人とも縁も所縁もないアンタ達の事心配してここまで言ってるんだよ!なのに何よ自分の事ばっかり……。大人の癖に恥ずかしくないのっ!?』
今思うとあたしも言い過ぎた、と思う。たかだか高校生の小娘に真っ向から非難されて流石に彼らも一瞬たじろいだもののもう引っ込みがつかなくなったのか、振り払うように『う……、うるせぇっ!』と口角泡を飛ばした。
『心配してくれなんて頼んだ覚ねぇんだよっ…!俺らはこんな村でくたばるつもりなんかねぇ…ウチに帰りたいんだっ…!』
最後の一言だけやけに切なそうな表情でそういうと二人はおじさんを突き飛ばして扉を開けるとそのまま“霧”の向こうに走り去っていった。『待て、君達!』おじさんの叫び声に一瞬翻意したようにこちらを振り向いた二人は、しかしすぐに踵を返すと塗りこめられた白亜の向こうに消えていき、すぐに見えなくなった。
『行っちまったか…』
止めきれなかった事を悔いるようにおじさんが呟いた。あたしは直前の苛立ちもあったし、酷く気に病んでるように見えるおじさんを励まそうと思って、『知らないよ、あんな人達』そう憤然と吐き捨てていた。
『みんな必死に耐えてるのに…!あんな人達どうにでもなっちゃえば良いんだ…』
あたしだってお祖母ちゃんがいない。ミキトとも連絡が取れないし、いたら絶対に無駄な元気をくれそうなテツヤに至ってはそもそも村の外だ。こんな時に一番傍にいて欲しい人達がいてくれない事実に思った以上にあたしの心はささくれ立っているようだ。普段は言わないような事を平気で毒づいてしまえるくらいには。
『どうにでもなれば良い、なんてそんな事は言っちゃあダメだぞ、キョウカちゃん?』
そんなあたしの苛立ちなんて分かっているのだろう、それでもおじさんは肩を叩きながら敢えてそう言った。
『人が人にしちゃあなんない事はいくつもあるけど…。その一つは自分から手を離す事だ。そうなったらもう二度と大事な人の手を掴めねぇ…。例え振り払われても、な…?』
そういうとおじさんは精悍に笑ってみせた。そんな事言われても正直納得出来なかったけど、少なくともおじさんも諦める気は皆無らしい、すぐに近くにいた学校の先生に『なるべく長いロープはあるかい?』そう問いただしていた。
何する気ですか?先生が尋ねるとおじさんはさも当然のようにさっきの二人を連れ戻してくる、今ならまだ間に合うからな、そう言いだした。騒ぎを聞きつけたのはユリ子さんや駐在さんをはじめ、数人の村人が飛んでくる。
『無茶ですよ!それこそミイラ取りがミイラってモンでしょ!』
『だから命綱つけて行くんだよ。少しならなんかあったら鈴を鳴らして合図する、そしたら手繰って導いてくんな!』
どうやら本気らしい、おじさんは胸に用務員室から持ってきたらしい鏡みたいな大型のランプを下げて、頭には二本の棒型懐中電灯を取りつけて捜索態勢に入っていた。ちょっと待った、その出で立ちじゃあ救いじゃなくて、地獄からの使者かなんかと勘違いされる事請け合いだからやめなさいよ…。
『落ち着きな、アンタが出てっちゃなんにもならんだろうっ!?』
そんなおじさんの暴走っぷりに業を煮やしたのか、直売所のリーダー格、婦人会のまとめ役であるユリ子さんが頭をひっ叩いて冷静になりな、と喝を入れた。流石こういう時におばちゃんは強い…。
『裏にアタシの車が停めてある。アタシがそれ使って拾いにいって来るさね。なぁに…カーナビ見てりゃ道は分かるし、いくらトロトロ走っても人の足より遅いなんてことあんめぇ?』
柔らかいが有無を言わさない口調でユリ子さんはそういう。だがよ、とおじさんは猶も食い下がろうとしたが睨まれて少したじろいた。こうなったら引き下がらない事は皆知っている、おじさんも諦めたのか『分かった…気を付けろよ』そう言った。
だが――
『ダメ!』ユヅキちゃんが叫んだ。
ユリ子さんは一瞬虚を突かれたように彼女の方を見たが、どこかすまなさそうに力なく頷いた。
『ありがとうね心配してくれて…。でもね…大人にゃあやんなきゃなんない時があるんさ…』
それだけ言うと目元と口をしっかり覆って車まで走っていった。やがてエンジンの胎動が静寂の外に響いたかと思うと、真っ白な視界に僅かな朱が刺した。それも次第にうっすらと“霧”の向こうに消えていったのだった。
行かせて良かったんだろうか…?その光景をどこか不安げに見つめながら誰もがそう思った、勿論あたしもだ。今の今になって誰も外に出て助けを呼ぼうとしないのには単純に視界が効かない状況下で下手に動けば危ない、という以上にナニか本能的にこの“霧”を惧れたからというのもあった。それはユヅキちゃんの尋常じゃない怯えっぷりからも明らかだ。
村の皆は知っている。こういう時のユヅキちゃんは何か
不思議な子。それが恐らくユヅキちゃんに皆が抱いている印象だろう。ある日山城博士が養女として引き取った、ミキトとは血の繋がりのない妹。それしか分からない。本当の親が誰なのか、何故博士に引き取られる事になったのか、誰も深くは聞かないからだ。
でも色々あって今はこうして彼女は皆の輪の中にいる。彼女の直感や予感のようなものを決して無下にはしない。
だから無事に帰ってきて。見送る事しかない罪悪感を誤魔化すためなのかせめてあたしは心の中でそう呟いた。
3日目。皆は張り詰めていた。部屋の空気も心なしか冷え切ってジッとしていると鳥肌が立ちそうになる。あたしは毛布を肩に掛け直してみるがそんな事で震える体を抑える事は出来ない。それは仕方ない、震えるのは寒いからじゃなくて、怖いからだ。
昨日とうとうユリ子さんは帰ってこなかった。自動で作動する設定になっている12時と5時のチャイムが鳴っても彼女が戻ってくる気配は杳としてなく、流石に村の人達も焦りを見せ始めた。とは言え通信が遮断されている以上連絡を取る手段があろう筈もなく、何も為せない無力感が学校全体を覆い始め、それは行き場のない苛立ちとして各所で放出された。
『そもそも原因はあの訳のわからねぇ研究所のせいだろっ!村の事はてめぇらで責任取れよな!』
『だから何が起きたかなんて知らんと言っとるじゃろう!ワシらに八つ当たりするのも大概にせぇ!』
今も誰かと誰かが怒鳴り合っている。周りを憚らないその怒声にユヅキちゃんが怯えたように身を竦ませてあたしにしがみつく。あたしもそんな少女の頭を撫でながら窓の外を見た。依然として日の光は差さず、どこまでも白い“闇”が広がっているのだった。
いつしか学校に避難した凡そ200余名の間には派閥が形成されていた。最も分かりやすいのは20人程からなる観光客達。元々この地域の人達ではないからどうしたって村民達からなるコミュニティには属せない。必定として彼らは彼らで独自のグループを作り、時にこんな事態を引き起こしたとして村の人達を非難した。それに対して慧おじさんが懸命に彼らを諭していたがただでさえ学校に箱詰めにされた上に身に覚えのない誹謗まで食らってはたまらない、と一部の村人は彼らに反発した。二日目の夜辺りから気が付くと各所で言い合いが発生しているようだ、幸いまだ言い争い程度で済んでいるが下手すれば掴み合いや取っ組み合いに発展しかねない一触即発の空気が漂っていた。
剣呑な空気を察知しているからかユヅキちゃんも落ち着きがない。人見知りな上に元々争い事やそれが生まれそうな空気が嫌いなのだ。ただでさえ父親と兄の安否が分からない中で知らない人に大勢囲まれている状況下では落ち着かないのも当然だろう。あたしはなるべく彼女と一緒にいるようにしていた。
しかし明らかな異常を告げる出来事はその日の夜に起きた。
その日の夜は酷く冷え込んだ。競技用のマットを布団にし、避難所の物資として用意されていたブランケットを纏っていて凌げるようなモノではなく、あたしは寒さで不意に目を覚ました。付けっ放しにしている腕時計を見ると時刻は夜中の2時を少し回った所。眠いという感覚さえ起きずにあたしは毛布を被ったまま起き上がった。気配を察知したらしくユヅキちゃんも目を開けた…というかずっとそうしていたらしい、『眠れないの?』と訊くとコクリと喉を僅かに動かした。
『なんかイヤな感じ…です。外も皆もずっとそう…』
『そうだね…仕方ないよこんな事態だし…』
外を見る。すっかりと夜の帳に包まれているが月の光一つ差し込まない真なる闇は間違いなくあの“霧”の影響だろう。夜になっても消えないそれはまるで世界全体を覆い尽くすようで昼間とは別の意味で怖かった。
皆がピリピリしているのはイヤだけどその気持ちも分かってしまう。あれからもう3日、いや日付を考えると4日か…。一向に改善しない状況にもう実はこの“霧”はとっくに世界中を覆い尽くし、人の文明を全て呑み込んでしまったのではないか、という気さえしてくる。つまりとっくに世界は滅亡していてあたし達だけがこの世界にただ一人取り残さてているのではないか、という…。そんな不安を敏感に感じ取ったのか握ったユヅキちゃんの手にギュッと力が籠められる。思わずその痛みで正気に返ったあたしは彼女の方を振り返った。お互い気が滅入るばかっりで良い事がない。あたしは少しだけ口元を緩めてユヅキちゃんに言った。
『ねぇ、図書室にでも行こっか?』
学校と体育館を繋ぐ渡り廊下は二階、そこから本校舎の方に行って一階に下りれば図書室がある。元々小さい学校だから蔵書もそんなに多いわけじゃないけどテレビも何も映らず、携帯さえ見れない今の状況では間違いなく最大の娯楽だ。あたしはユヅキちゃんの手を引いて本校舎の廊下を歩いた。本当はなるべく一箇所にいるように言われてて、特に日が沈んでからは勝手にどこかに行かないようにと言われているのだが、皆寝静まってるし問題ないだろう。
図書館に至る廊下を行くと途中灯りが漏れている事に気が付いて脚を止めた。多目的室とかいう名目でおいてある和室だ。どうやら村の大人達の寄り合いが開かれているらしい、僅かに開いた隙間から声が漏れている。あまりいい話じゃなさそうだ、と判断したあたし達はなるべく早く立ち去ろうと決めて抜き足差し足で教室の前を横切っていった。そんな僅かなスリルに久々にささやかな高揚を味わった。ユヅキちゃんも同じ気分なのか目が合うと少しだけ笑顔を見せてくれた。
スリルと言えば図書室の鍵が開いてなければとんだ骨折り損のくたびれ儲けになるのだけど、幸いな事に鍵は開いていた。引き戸を少し開けて部屋内に体を滑り込ませると素早くあたしは閲覧室の明かりをつけた。暗い所で読む気にはならないし、ここなら扉から明かりが漏れないからね、ユヅキちゃんにとっては勝手知ったるなのか特に暗闇に惑う事なくお目当ての本があるらしい書棚に向かっていく。そんな様子を微笑ましく思いながらあたしも適当に書棚を見繕う。最終的に英語版の『ドラえもん』を数冊抜き出した。
閲覧室に戻るとユヅキちゃんも既に本を広げて読んでいた。ロアルド・ダールの単行本。時折一文を読んでは小さく含み笑いをしている。ここに連れてきて良かったかも知れないな、そう思ってあたしも『ドラえもん』を読み始めた。暫くは穏やかな時間が流れた。「あの窓にさようなら」を読み終えて少し気分がしんみりしてきたな、と思うと適度に眠気も感じ始めた。ユヅキちゃんの方を見ると彼女も少しばかり目を擦っている。何はともあれ良い気分転換にはなったみたいだし、そろそろ戻ろっか?そう告げようとした時、不意に閲覧室の窓に何かゴトリと硬いモノがぶつかる音が聞こえた。
『なに…!?』
不意打ちに心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、窓の方に目をやる。しかして依然として外に広がっているのは茫洋とした何もない漆黒。しわぶき一つ立たない静寂に僅かに息を呑みながら気のせいかと部屋を後にしようとしたその時、今度は空耳でも何でもなく
窓に張り付くそれは間違いなく人の掌だった。それが二つとも広げた形のまま窓ガラスを執拗にガンガンと叩きつけている。この非常時なら“霧”の中を彷徨っていた人が漸くここを見つけて開けてくれと言わんばかりに迫っているようにも見える。だがその手の動きはまるで獣のような執拗さで人であって人でないもののようだった。あたしはユヅキちゃんを庇いながら後ずさりした。
やがて手はそれだけでは飽き足らなくなったのかヌラリと出現させた頭を窓ガラスに打ち付け始めた。そんなことするのがマトモな人間の筈がない、あたしは背筋が凍りつくような恐怖を感じた。ユヅキちゃんがあたしの二の腕にギュッとしがみつく。
頭は唸っていた。開けてくれ、とか入れてくれ、とかそんな人間らしい台詞じゃあない。犬が威嚇する時のような、飢えた獣が喉を鳴らすようなそんな尋常ではない――。よく見ると叩く手は血に塗れており、それが窓にも手形としてべったりとついている。
やがて額をぶつけ、頭頂部しか見せていなかったその顔がゆっくりと顔を上げた。広い窓にその姿形をハッキリ映し出す。
『――っっ…!』
あたしは息を呑んだ。その顔は知っていた、昨日慧おじさんと言い争いの末に飛び出していった大学生風の男の片割れだった。
だがその姿はまるで昨日とは別人だった。髪は全て真っ白になり、虚ろに開いた口元からは犬のように涎を垂れ流している。何より――虚ろに落ち窪んだその瞳から大量の血の涙を流していたのだ。真っ赤に染まったその瞳を限界以上まで押し広げ、男は窓を打ち破らんとするかのように叩き続けた。
『『――いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!』』
人?助けを求めている?違うあれは亡者だ。亡者が人を欲して嗅ぎつけてきたのだ…!本能的に抱いた恐怖と厭悪に衝き動かされてあたしとユヅキちゃんは悲鳴を上げた。
その声を聞きつけてすぐに大人達が飛んできた。慧おじさんを筆頭に混乱状態になっているあたし達を宥めすかして、漸く口を聞けるようになるのに10分少々。その間にとっくに目から血を滴らせた亡者は姿を消していた。だが窓にはしっかりアイツの手形が残されており、それが確かに存在していたであろう事を示していた。
おじさんは少なくともあたし達の見た事を信じてくれた。だが中にはそれを全く信じない人達もいたのだ。その先鋒が観光客グループのリーダー格をしていた30代くらいの男性だった。彼は何をバカな、と言ってあたし達の話を一笑に付した、それどころかあたし達が助けを求めている人を怪物扱いして追い返したのだろうと決めつけた。これに慧おじさんが激昂した。
『バカな事を言うな!この子達はそんな子じゃない、言いがかりはやめろ!』
『あたし嘘なんて言ってません。あの人明らかに普通じゃなかった…!アレは…!』
『ならなんだ?ゾンビか、キョンシーか?その方が余程現実的じゃあないだろう、とくにそっちのお嬢ちゃんはやたらと妄想癖があるようだしなあ?』
明らかにバカにし切った口調で男はユヅキちゃんの方を視線を這わせた。粘つくような害意が向けられている事を知覚したユヅキちゃんがビクリと肩を震わせる。あたしも総毛立つような嫌悪を感じて男を睨みつけた。男も自覚的にそれを受け止めてニヤリと口元を歪める。
『そうだろ?あの時だってやたら霧に怯えたフリして無理矢理ここに押し込んだんじゃないか?この村の奴らも異常な程神経質になっているようだが、どうせ全部その嬢ちゃんが勝手にビビってるだけさ、そんなモンは無視してさっさと外に助けを求めに行く方が余程懸命だ。皆もそう思うだろう?』
明らかに小ばかにしたような口調でそういう男に続いて彼の派閥がそうだそうだと一斉に唱和する。その態度にカッとなった何人かの村人が肩を怒らせて彼らに飛び掛かろうとした所を察知した慧おじさんが彼らを抑えつける。そんな様子を見てますます勝ち誇ったような表情をした男は嘲るように息を吐いた。
『なんだ、気に入らない事があればすぐ暴力か?全くこれだから田舎者は…そんなだからたかだか小学生の妄言に踊らされるんだよ!』
妄言、の辺りをやたら強調して男は言った。流石のあたしも今度こそ堪忍袋の緒が切れて男に怒鳴り返してやろうかと思ったが『妄言じゃありません…!』そうユヅキちゃんが叫ぶ方が早かった。
悔しそうに口元を結んで大きな瞳を濡らしながらユヅキちゃんは叫んだ。
『この“霧”は普通じゃないです…!普通のはこんな風に何日も出続けたりしません、そもそも電波が立たない事も“研究所”が爆発したことだって何一つ「普通」じゃないんですよ!貴方達だってそれが分かってるからすぐに出て行かないんだ!』
ユヅキちゃんがここまで正面切って反論するのは初めての事であたしは呆気に取られてそれを見ていた。男が明らかに動揺して息を呑み、周りの派閥も明らかに動揺して一様に目を伏せたり、バツが悪そうに顔を明後日の方向に向けたりした。その顔には明らかに図星の色が浮かんでいるようだ。結局のところ彼らだって明らかに異常事態が起きている事くらい分かっている、でもそれを何でもない事だと決めつけて、楽観的になりたがっている。出ていくにしてもこの辺の地理に不案内な自分達だけではどうしようもないから慎重になる村の人達を嗤ってこちら側に引き込みたい、詰まる所それが彼らの本音だ。
だがそんな内心を見透かされて不愉快にならない大人などいない筈がなく、男は顔を赤くさせたり青くさせたりして、『バカな事を言うな!』と怒鳴った。
『と、とにかくこちらはそんな御託に付き合ってる暇はないんだ。明日意地でもここを降りるぞ、そのための手段をなんとしてでも講じておけ良いなっ!?』
勝手に出ていくと言っておいて手段はこっちに丸投げとはなんて勝手な言い草だ。当然村の人達から抗議の声が上がったが男達は怒鳴り声を上げてそれらを振り払った。
『うるさい!元はと言えばお前らの村のあの変な建物が爆発してこうなったんだ、村の事なら村人が責任を取るのが筋というモノだろう!本来なら慰謝料を請求すべき所をこうして穏当な態度で済ましているんだ、むしろありがたく思え!』
言うだけ言うと男達は踵を返して図書室を後にした。後に残された村人たちは憤然としながらその背中を見送る。『
そして翌朝――コトは起こった。
何かがまた呼んでいる、その気配がしてあたしは目を覚ました。また“誰か”――否
何かに触発されるようにあたしは毛布を跳ね除けて起き上がった。部屋の空気は冷え切っている筈なのに襟元はイヤな汗でぐっしょり濡れていた。窓の外は相変わらずだが静寂に包まれていた昨日までとは明らかに違う、何だろう…と気を凝らすと体育館の玄関の方で何かが聞こえているのだと分かった。誰かがドアを叩いている、昨日みたいに、ここに入れろと…あの亡者が…!
そう思った瞬間ゾワリと肌が粟立った。『ここで待ってて』あたしはユヅキちゃんにそう言い聞かせると玄関の方まで走っていった。アレを入れてはならない、ここに近づける訳にはいかない…という思いに衝き動かされるように心臓が早鐘を打つ。
玄関の方に着くとあたしより先に音を聞きつけて集まっていた慧おじさんも含め村の人達誰もが目の前の事態を前に固唾を呑んでいた。ガラス戸の向こう、そこに
『なんなんだコイツ…ホントに人間か…正気じゃあねぇど…』
『ケガしてるんだったら早く入れてやるべきじゃねぇか』
『だどもこりゃあ明らかに…』
おじさんも含めその場に集った人達全員どうすべきか分からないようだった。アレが生き残りの怪我人なら迷わず助け出すべきだろう…だがアレはどう見たってマトモじゃない。狂犬のような荒い息に薄気味悪く皮膚の表面に浮き出た血管のような紋様…目の前のソレが本当に人であるのか判断が付かないようだった。
『なにをやっとるんだお前達は!』
あたし達が玄関の前で動きあぐねていると不意に甲高い声がエントランスに響き渡った。振り返ると肩を怒らせた観光客グループのリーダー格の男が近寄ってくるのが見え、村の者は一様に顔を顰めた。男は玄関前に集まっていた村人達を押しのけながら近づくとあたしと慧おじさんを一度ずつ睨んだ。
『すぐそこに助けを求める者がいるというのに何故ドアを開けない!?それともこの村は余所者はどんなに助けを求めても知らんぷりすると、そういうスタンスなんだなっ!』
唾を飛ばす勢いで喚き散らすと彼はどけ、と言ってドアを開けようとした。『おい待て』村の人がやんわりとその肩を掴んだ。
『なんか様子がおかしいべ?ひょっとすると伝染病とかの可能性だってある、大勢が集まってる所にいきなり入れるのは危険なんじゃねぇか…』
ゾンビだなんだと言って納得しないならあくまで現実的な方向性で考えようとしてそう言ったのだろう、だがそんな彼の言葉を男は鼻で笑うと触るなとばかりにその手を振り払った。
『はっ、それなら猶更一刻も早く助けるべきじゃあないか。ここには医者もいるのにそんな事さえ思いつかないのか、どこまでおめでたいんだお前達は…どうせ…』
男はあたしに視線を這わせると下卑た笑みを浮かべた。『そこのガキに何か吹き込まれたんだろう?スケベジジイ共が…』
空気が殺気立った。全員が肩を怒らせ、拳を震わせたが男は意に介する様子もなかった。むしろ傍に立つ老人を邪魔だとばかりに突き飛ばして下がらせるとゆっくりとガラス戸の鍵を解錠した。
『さぁ、もう大丈夫だよ。入ってきなさい…?』
男が芝居がかった柔らかい声音と共にドアを開けた。
転瞬――
『ウガアァァァァァァァァァァァッッッッッッッ!!!!』
戸という境界を失った、その時を待っていたと言わんばかりにガラス戸の向こうにいた青年は男に飛び掛かった。獣のような荒い声を上げ、口元から唾液を流しながらまるで獲物を狙う野獣のように覆いかぶさって、その喉笛を食い千切ろうとした。
『うわあぁあぁあああぁぁぁぁぁぁ!何をぉ…するんだっっ…!』
予想外の事態に男は完全に事態の呑み込む事が出来ずに興奮して手足をバタつかせるだけだったが青年の力は完全に獣の如きで全く離れない。青年が口腔を大きく開くと明らかに異常に発達した犬歯がギラリと輝いた。まるで男の喉笛を噛み千切ろうとするかのように――。
だが次の瞬間、青年の顔面に何かがクリーンヒットし、その衝撃で彼は吹き飛ばされ、ガラス戸に頭を打ち付けた。ガラスが完全に砕け散り、破片が青年の頭に突き刺さってその頭部を赤黒く染めた。まるで人血に墨滴でも混ぜたかのような赤とも黒ともつかない粘度の高い血液が床に広がっていく。見ると荒い呼吸をしてモップを持った慧おじさんが立っており、彼がそれを振り抜いて男を救ったのだと分かった。
『大丈夫かアンタ、ケガは?どっか噛まれてねぇか…?』
その隙に村の大人達が男に駆け寄って未だに荒く息をしている彼を起こした。とは言えかなり動転しているらしく、村人達が助け起こしても心ここにあらずと言った感じで『やめろ…やめてくれ…』と譫言のように呟いていた。
『そいつはどうだべ。生きてっか?』
『…分からん…。ひとまず動きはせんようだが…』
村人達が倒れている青年に駆け寄ってあれこれ様子を見ている。男は暫し呆然とその光景を見ていたが、やがてパニックによって乱れた瞳の焦点が合うとそこで漸く目の前で起きた事態に合点が行ったらしい。頬を引き攣らせ、床に横たわる青年と慧おじさんを交互に見ながら震える声で呟いた。
『ひっ…人殺しぃ……!』
元々甲高い声だが更なる恐慌状態に陥った事でその声は最早壊れたスピーカーのように呂律も回ってなくて裏返っていたが少なくともその言葉は明確な意志を以て放たれた事は分かった。
『今なんて言ったの!?それが助けてくれた人に言う言葉なわけ?おじさんはアンタのために――』
『――うるさい…!人殺しは人殺しだろう、でなきゃなんだと言うんだ!こんな…こんな野蛮な事を……!』
二回り以上も年下の小娘に引っ叩かれて、詰られて余計に頭にきたらしい、赤い顔を更に膨らませて男は喚き散らした。
『――そうだ…!きっとお前達が早く助けてやらないから彼だって正気を失っていたんだ…つまり全部お前達が悪い…お前達のせいだ…!』
恐怖と憎悪と混乱と興奮の混じった声で男が猶も叫んだ。コイツなに言ってるの?あたしは戦慄して、肩を震わせた。男は興奮冷めやらぬ口調で『お前らの咎は絶対下に降りたら――』そう続けようとした次の瞬間、短い悲鳴が上がった。先程青年の様子を見ていた老人の声だった。あたしはそっちの方を振り返った。
『――――っ!?』
そこで広がっていた光景にあたしは息を呑んだ。まるで糸で吊られた人形のようにヌラリと青年が起き上がった。顔の半分は血に塗れ、ぶつけた瞬間に折れたのか首はあらぬ方向に曲がっている。切れた頭頂から猶も赤黒い血を滝のように流しながら、片方の手で老人の細い体を締め上げていた。
『…なん……やめん…はなっ…か、はっっ……!』
頸動脈を締め上げられ、老人は苦しそうに泡を噴いて口を震わせている。誰もが呆然とその光景に立ち尽くしてる中でまたも真っ先に動いたのは慧おじさんだった。先程青年を殴り倒したモップを再び振り上げて青年に殴りかかろうとした。
だが次の瞬間、無表情に傾げた青年の顔面が
代わりに中から出てきたのは8本の触手。
それは耳も鼻も失くした顔の中心部に穿たれた黒い穴を中心に放射状に広がっており、それ自体が意思を持っているかのように悍ましく蠢いていた。血に染まっていた皮膚もやがて天然痘のような病的な斑紋が広がりだしており、最早その姿はどう取り繕っても到底人間とは呼べないものになっていた。
『きゃああぁぁあああぁぁぁぁぁあぁぁぁっっっ!!』
湧き上がってくる生理的嫌悪にあたしはたまらず悲鳴を上げた。そんなあたしの声など意にも介さずかつて青年で、今は完全なバケモノ――《ヴェルノム》という名前を知ったのはもう少し後になってからだ――は抑えつけた老人の顔面にその触手を一斉に纏わりつかせた。
とりあえず今回はここまでです。
なんかホラー映画っぽい、と思った方。実際いろんな内外のホラー作品の小ネタが入ってます。気が向いたらあれこれ考察してみて下さいませ。
次回は久々の怪人戦です。仮面ライダーとかの超越的なツール無しで怪人との攻防を描くのはなかなか大変でしたが、これはこれで面白かったです。
それではまた次回。