『…で…?
昼下がり。とは言っても太陽の位置は依然として霧に阻まれて時計だけしかそれを示すモノはない。晴れているのか曇っているのか、はたまた雨が降っているのかすら分からない中であたし達は固唾を呑んで玄関先に打ち捨てられた“ソレ”を眺めていた。
今残っているのは首を撥ねられた大の字に寝転がった人型の遺体。だがその首の断面からは赤いというよりはタールみたいな粘度の黒い血が流れ出ており、その皮膚は土気色に染まって各部から青紫色の斑紋が浮かんでいるのだ。何より――今は完全に融解してしまったが先程までこの男性の頭部は8本の触手を備えた異形へと変わり果て、まるでエイリアンが獲物に襲い掛かるようにあたし達に襲い掛かってきたのだ。
変異する前は間違いなく少し前に校舎を出ていった観光客の青年だと分かったが、まるでその皮を破って中からナニカが生えてきたようにそれは出てきたのだ。誰もが目の前の光景を信じる事は出来ずに沈黙していたが、やがて駐在さんがそんな風に口火を切った。
誰に向けられた言葉であった訳ではない。だが慧おじさんはそれが直接怪物に引導を渡した自分に向けられたものだと判断したようでゆっくりと首を振りながら『分からん』そう言った。
『だけど…人…
どこか寂寥と悔恨と…恐怖の混じった声で慧おじさんは震える自分の右手を見つめていた。いつもは誰よりも大きく、頼もしいその背中が酷く小さくなった気がして、あたしは胸が痛んだ。
例の怪物――《ヴェルノム》のもたらした被害は凄まじかった。死者は4人、骨折や裂傷などの重傷が3人と人的な被害が大きい事に加え、いきなり人智を超えた異形の怪物が襲い掛かってくるという状況がより一層皆を恐怖させた。死んだ4人については2人は遺体さえない上に、2人は損壊が凄まじい、だがこんな状況では死体を清める事もせめて弔ってやる事も出来ずに誰も使っていない空き教室の一角に包んで置かざるを得ないという無情さもそれに拍車を掛けた。
かような状況を考えれば率先して皆を救い、怪物を見事仕留めた慧おじさんを称える声は大きかったが、おじさんにはそれが重荷なようだ。憔悴した横顔からもそれは明らかだった。
事実はどうあれ、元は人だった(可能性のある)モノの命を奪った事。あまつさえそれが少し前に自分が引き止められずに行かせてしまった人間の末路であるとするなら猶更だった。直接的にも間接的にもあの青年の命を奪ったのは自分だ、おじさんはそういう自責の念に駆られていたんだ。
『よすんだ成澤さん、そんな言い方…貴方が悪い訳じゃない』
駐在さんがおじさんにそう言い聞かせる。彼は彼でおじさんとは違った悔恨の色が濃く浮かんでいた。
『本来なら私がやるべきだった…。だが私は抑え込むのに精一杯で…見てるばっかりだったよ…。村民を守る事が私の仕事の筈なのになぁ…』
少なくともおじさんが村民になった時から居たという老齢の駐在さん。それなりに長い警察人生を送ってきたがこんな事態には直面した事はないという。こんな時だからこそ皆を支えなくてはならないのに、状況を掴む事も出来ずにみすみす犠牲を出してしまった事に内心忸怩たる思いがあるのだろう。
『そうだよ…おじさんのお陰であたしもユヅキちゃんも助かったんだよ…?』
あたしは少し肩にかすり傷を負ったけど大したケガじゃない。おじさんがあそこで体を張って庇ってくれなかったらもっとひどい事になっていたかも知れない。なんだか分からないけど、あのバケモノは噛みついた口から人間を黒い灰のようなモノに分解させてしまう恐ろしい“毒”を持っているのだ。一歩遅ければあたしやユヅキちゃんもそうなっていたかも知れない、と思えばこそおじさんには苦しんで欲しくなかった。
『ありがとうな…。そう言ってくれると少し気が楽になったわ…』
おじさんは弱弱しく微笑むと優しくあたしの頭をそっと叩いた。大きな掌はいつもと変わらない筈なのにその温度はいつもより大分冷たい気がして。いつもなら遠慮も会釈もなく、髪を撫で掻きまわしたりするのにそれもなく軽く触れるように叩いただけ。でも酷く優しい声もその仕草も間違いなく、何も変わらないおじさんのモノだったからこそ…あたしの胸は余計罪悪に疼く。
『悪ィ…。どーも湿っぽくていけねぇや、ちょっくらシャワーでも浴びて来るわ…』
でもそれも一瞬。気を取り直したように大きく破顔したおじさんは背伸びをしながら立ち上がると体育館を後にしていった。肩を怒らせて大股で歩くその後ろ姿は如何にもいつもの姿だったけど、今はそれが無理してそう振る舞っているように見えて、なんだか却って痛々しく思えた。あたしも駐在さんに一礼すると、体育館を後にした。
今振り返るとこの時おじさんの精神はだいぶ限界に近かったのだと思う。経験のない異常事態に晒されながらも皆を宥めて纏めて、最悪の事態だけは阻止しなければ、という責任感とそれでいながら自分の奥さん――優実おばさんの行方は依然と不明という無情な現実。本当は今すぐにでも全てを投げ出して優実さんの無事を確かめたかったと思うのにそれは許されない。責任と一人の人間の間でおじさんはずっと悩んでいたんだ。
それはあたしだって同じ。優実おばさんの事は心配だ。役場の方に避難しているのだろうか、それとも――間に合わずこの深い“霧”の中で家にただ一人取り残されてやしないだろうか…?お祖母ちゃんの事だって気掛かりだし、ミキトとも連絡が付かない。あたしという個人を取り巻く世界の多くがまるで実体のよく分からない、暴力的な力によって引き裂かれてしまったような気がして――それは両親を亡くした時とまるっきり同じなのだという事に気が付いて戦慄する。
酷く寒い。唇が渇いて戦慄く。相も変わらず何も映さない空を見上げてあたしは身も世もなく絶叫した。
『テツヤぁ――――!』
ここじゃない遠くの街にいる君だけは…少なくとも無事であって欲しい…!そっちは色々大変な事も多い世界だけど…少なくとも青い空の下にいて欲しい。そう切に願う気持ちに嘘はない筈なのに…。
ここにいて欲しいと思った。そうしたら君は根拠なんかなくても『なんとかなるさ』って言って笑いかけてくれるだろうか。それとも同じようにこの痛みと恐怖を分かち合ってくれるだろうか。いや、別になんでも良い。どんな時でも一緒にいてくれる事、それが
『傍にいてよバカ……』
その声は誰に届く事もなく、夢幻のような白亜の中に吸い込まれていた。
・・・・・・・・・
体育館を後にしたあたしが向かったのは保健室。さっきの怪物との戦いでケガをした人達はひとまずここで治療を受けている…とは言っても元が学校の保健室だし、十分な備えはない。せいぜい包帯とか傷薬、避難時用の緊急キットもあるにはあるけど、あくまで軽傷の対処や搬送までの応急措置で精一杯な中でミサキ先生はよく頑張ってくれていると思う。
『あら、キョウカちゃん。肩の具合どう?』
保健室のドアを開けると机に座っていたミサキ先生がくるりと振り返る。あたしの顔を認めると途端に相好を崩して、柔らかい笑顔を浮かべてくれた。少し腫れた目元にも気付いているのかも知れないけどそこは敢えて触れてこない。
ミサキ先生はここの校医さん。もう既に60歳近い御年の筈だけど常に上品な笑顔を浮かべ、それでいながらキビキビとよく動くその姿は凡そ年齢を感じさせない。そうでなければヤンチャ盛りの子どもの相手など勤まらないのだろうけど。あたし達にとってはある意味どの先生よりも見慣れた顔だ。
『お陰様で…。それであの…』
『ユヅキちゃんね。少し前に起きたわ』
ミサキ先生は部屋の片隅のベッドに顔を向けた。あたしは軽く一礼するとそこに向かってベッドのカーテンを開ける。まだ少しぼんやりした顔のユヅキちゃんが半身を起こして手に持ったココアを冷ましていた。『もう大丈夫?』あたしがそう問い掛け、ユヅキちゃんは無言で頷いた。
『元気そうでなによりだわ。キョウカちゃんも飲む?』
満足そうに先生は微笑んであたしにもココアの入ったマグをくれる。ありがたく受け取って熱い液体を口に含んだ。少しの苦みと優しい甘さが凍えた全身に広がっていく気がして、あたしは小さく息を吐いた。
『ごめんなさい、こんな時に…』
『良いのよ。二人ならいつでも大歓迎なんだから――って、あら医者がこんな事言うもんじゃないわね』
そう言って頭を下げたユヅキちゃん。ミサキ先生はコロコロと笑うとその小さな頭をそっと撫でた。そうされると滅多に表情を変えないユヅキちゃんがどこか照れたようにはにかんだ。なんだか心もじんわり温かくなった気がして、あたしはユヅキちゃんと共に保健室を出た。
『キョウカちゃん』
ドアをくぐった所でそう呼び止められた。振り返ると全てを見透かすような、でも柔らかい色を纏った先生の瞳がこちらに注がれている。
『無理はしたらダメ。吐き出したくなったらいつでもいらっしゃい?私はここで待ってるから…』
その言葉を聞いたら堪えていた何かが決壊してしまいそうな気がして、あたしは思わず顔を俯けた。その言葉は何よりも嬉しかったけど、今はその時じゃないんだ。『失礼します』あたしはそう一礼して今度こそ保健室を後にした。
――皆強いな。ユヅキちゃんの手を引きながらあたしは独り言ちた。
ミサキ先生の旦那さん――夫婦で医院を営んでる――もまたここにはいない。あのサイレンがなった日、村はずれの家に往診に行っていて以来連絡がつかないのだって。なのにミサキ先生も苦渋の表情一つ見せないで気丈に振る舞ってる。今みたいにあたし達がふらっと訪ねてきてもなに一つ嫌な顔せずにいつもと変わらない笑顔をくれる。分かっててもそれについ甘えて、縋ってしまうあたしはやっぱり子どもだ。
少しだけミキトの気持ちが分かった気がした。追い掛けたい、追いつきたい背中があるというのはなんて息苦しくて、切ないのだろう。改めて己の裡を覗いてみれば足りないものばっかりで本当にうんざりする。
だからこそ――あたしは胸の前で拳を握った。この痛みを、苦しさを、そして誇らしさを忘れないようにしよう。きっとそれがこの先進むべき路に迷った時に確かな在り処になる筈だから。
あたしは掌を硬く握る。中にある小さな温度も何かを察してくれたようにそっと同じように握り返してきた。白昼霧の中で互いの熱だけを確かな拠り所にしてあたし達は歩き出した。
しかし体育館の方に近づくと次第に何か喧騒のようなものが聞こえてきた。凡そ穏やかなとは言い難く、いっそ剣呑ですらあるヒリついた空気にあたしはぎくりと肩を強張らせて、ユヅキちゃんの手を離した。
『ここで待ってて?』
なんだか知らないが和やかな空気とは言い難い。ただでさえ怪物の一件でショックを受けているユヅキちゃんに触れさせるわけにはいかない、そう思った。離れてしまった掌から熱が奪われていくような気がして、心許なさを覚えながらも体育館の中に向かった。
『だ か ら !話の分からねえ奴だな、あんさんも見ただろあのバケモノを!しかもこちとら死人まで出したんだぞ!』
『成澤さんがやってくれんかったらワシら今頃全滅だ!だのになんだべその言い草は…!!』
『黙れ!私は常識の話をしているんだっ!』
脚を踏み入れた瞬間、剣呑という表現すら生温い事に気が付いた、いっそ殺気立ってるとさえいって良い、迂闊に手を伸ばせば引火しそうな暴力的な空気が体育館中を覆っていた。
中は大きく二つに二分されていた。村の老人達が前に出て対する方に敵意に近い感情を剥き出しにし、もう一方も負けじと顔を真っ赤にして吠えている。その先頭にいるのは観光客グループの中心になっていた男だ。察するに昨日からやたらとこちらに噛みついてくる彼が今度もまた村民に文句をつけ始めたらしい。
いい加減にしてよ…あたしはそう吐き捨てると対立する二つの輪の中心に押し入った。ちょうど板挟みになっている駐在さんの隣に立つ。『やめてください!』男に向かってそう問い掛けた。
また君か…と男もうんざりだと言わんばかりに溜息を吐く。それはこっちの台詞だと言い返してやりたいのをグッと堪えて、あたしはなるべく冷静さを保って言う。
『今度はなんなんですか…?皆疲れてるんです、これ以上騒ぎを起こさないで下さい…!』
『随分な言い草だな相変わらず…。その台詞、聞き分けのない後ろの田舎者共に言ってくれないかね?』
男は不快そうに眉を顰めて、あたしの後ろ、即ち村の人達の事を言うように顎をしゃくった。『誰が田舎者だ、ヤシャモンが!』抗議の声が上がった。その言葉が多分に侮蔑のニュアンスを含む事も分かっているのだろう、何の事ですか?とあたしが訴えると男は鼻で嗤うように口元を歪めた。
『知れた事、私はただそのヒトゴロシ連中と寝食を共にする気はない、ここに寄り付かないでくれとそう言ってるだけだよ!なぁ簡単な事だろう?』
まるで自分の吐いた言葉に陶酔するように男はその5文字をやけに強調した。ヒトゴロシ…ひとごろし…人殺し…?一瞬男が何を言っているのか分からず、あたしは呆然と男の視線を追った。そしてその先に――慧おじさんを含めた、何人かの村の人達がいる事に気が付き、漸く男が何を言っているのか理解した。
『そうだとも、彼らは助けを求める若者を“ヨソモノ”だから、という理由で集団リンチに掛けた挙句に首を撥ねて殺害したんだ!そんな奴らを庇うのか君はっ!どんな倫理観をしているのかね!?』
男が声高に叫び、それに続くように後ろに控えた観光客のグループが『その通り!』と一斉に唱和する。あたしはと言えば彼らが何を言っているのかさっぱり理解出来ずに、ふと気が遠くなるような気さえした。ふらつく頭を抑えながら振り返ると村民達も一様に怒り以上に不可解だ、という表情を浮かべて男を見ていた。その沈黙を自分達が反論出来ずにいるのだとでも思いこんだのだろうか、男は更に得意げになって口角泡を飛ばした。
『本来なら縛り上げた上で監禁しておくべき所を非常事態である事を鑑みて、
明らかに嘲るような口調。要するに先程あたし達を襲い、村の人達を殺したあの怪物を仕留めた事をこの男は、慧おじさん達がよってたかって観光客の一人を殺害したのだ、とそういう筋書きに書き換えたのだという事は分かった。なんてバカな人なの、という呆れが去ってしまえば先刻以上の猛烈な怒りに駆られてあたしは思わず『バカな事言わないで!!』そう叫んでいた。
『アンタだって見たでしょ、あの蛸みたいなバケモノが皆を襲うのを!村の人達は皆を守るためにアイツと闘って大勢ケガしたのよ、なのにヒトゴロシって何よ!!仮にもアンタ達を守ってくれたおじさん達になんでそんな言い方するのっ……!?』
バケモノはバケモノ。おじさん達は皆を守るために率先してケガしたし、死者も出た。結果的には勝ったけどそれでも失われた命は返ってこないし、おじさんは人の命を奪ったかも知れない、という罪悪感に苦しんでいた。なのにこの人達は――皆が必死に戦ってた時に安全な所に引っ込んでいただけで、何もしてない。だのに安全になれば事実を捻じ曲げて戦った人達を人殺し呼ばわりか。厚顔無恥も極まれりな恥知らずっぷりにあたしは吐き気さえ覚えた。
だが男は前と違って怯んだりしなかった。それどころかその目と口元をハッキリと侮蔑と嘲笑の形に歪めて、あたし達の抗議を吐き捨てた。
『それがおめでたいと言うんだよ、お前らは…!少しは
常識…?何を言ってるんだ、とあたしは絶句した。男が自分の後ろを見やると眼鏡を掛けた神経質そうな風貌の男――多分大学生くらいか――が前に出てきてた。『少し考えれば分かる事ですよ』、そう言いながら眼鏡をくいっと押し上げる。
『第一に、本来人間の体があれだけの変形を遂げる事などあり得ない。受精卵の時期に起こるならまだしも、後発的な突然変異なのだとしたら、その遺伝子は既存の遺伝子とは適合出来ない――即ち癌みたいなバグ細胞の増殖でも起きない限り、あんな変異は起きないという事。
第二に、癌細胞は無限に増殖する代わりにマトモに生命活動を行う機能なんか殆ど備わっちゃいない。即ち現実にアレが起こるとしたら、増殖性を保ったまま、生命活動を維持できる特殊な癌細胞が全身に発生した事になる。
第三に、仮に遺伝子に何らかの干渉が行われ、変異を促す事が可能だったとする。だがそれでもあのような人とはかけ離れた姿に変わるまでに一体どれほどの期間を必要とする?どう見積っても3日くらいじゃ全然足りないね。どういう事かと言うと、あんな事が起こるのは天文学的な確率であり得ない、という事なのさ』
人に話を聞かせたり、理解させたりする気など欠片もない程の早口で大学生風の男はそう一気に捲し立てた。村の人達もあたしも話の半分も理解出来なかったが、要するに「人があんなバケモノに変異することなどあり得ない」、そう言われたのだという事だけは分かった。
『んな事言っても現に起きたでねぇか…!屁理屈こくんでねぇっ!』
消防団の爺さんが大学生に向かって声を荒げた。大学生はそんな彼に路傍の石ころでも見るような目を向けると『学も教養も欠片もないんだな』と哄笑した。
『要するにキミ達はありもしない幻を見たんだ。連日の拘束生活で気が立っていたんだろうねぇ、結果彼がまるで未知の怪物のように見え、あろう事か話も聞かずに殺してしまった。それが真実だよ』
半ば強引に断言するように大学生は言った。意味が分からん、何を言っとるんだ!とこれまで中立を保っていた駐在さんがそう叫んで彼らに詰め寄った。
『君達も見た筈だ、アレは絶対に幻なんかじゃない!仮に幻だとしたら、何故皆して同じ光景を見る?山郷さんや鈴木さんは何に殺されたと言うんだ!?常識のない事言っとるのはそっちじゃあないかっ…!』
だがそんな駐在さんの抗弁すらも大学生は意にも介さず『そっちよりは余程マシだ』と意に介さない。
『常識で計り知れない事が起きた時、天文学的な確率に賭けるかはたまた、不条理でも既成の範疇で考えるか…。より適切なのは後者だと思いますけどねぇ…。古今東西、人が突然別の怪物に置き換わったなんて話は聞いた事もないが集団ヒステリーによる幻覚事件ならいくらでも類似例が転がっている。どっちを信じるかなんて火を見るより明らかだと思うが?』
ジョーシキとか屁理屈ばっかこねてないで、だったらこの“霧”もそれとやらで解明して見なさいよ!とか問い質しくなったが、どうせ彼らは聞く耳は持たないだろう。最早呆れ果てて誰も一言も発する気力がないのを良い事に男は『よせよせ』そう言って大学生を宥めた。
『コイツ等にそんな高尚な話をしても分からんだろうよ、馬の耳に念仏、豚に真珠だ。ま、要するに迷信深い田舎者は大人しくこちらに従え、そういう事だよ…』
その一言に触発されて村の人達に一斉に火が付いた。『んだとコラァッ…!』『言わせておけば勝手な事ばっか言いやがって…』次々に抗議の声が上がり、最早殺気という言葉しか形容出来ない程のきな臭い空気が漂い出した。向こうも向こうで引き下がる気はないようでチンピラみたいな挑発をしながら、こちらを煽る。
『やめねぇかっ!』
いつ両者が激突してもおかしくないような状況に陥った時、不意に剣呑な空気を切り裂くように鋭い声が響いた。振り返ると依然顔を青くした慧おじさんが立っていた。とは言っても漸く体を動かす気になった、という方が正確で先刻よりも一層小さくなってしまったような姿は却って痛々しくもあった。驚いた表情の男におじさんがゆっくり歩み寄っていく。
『話は分かった。なら俺だけ隔離しろ、ふん縛って鍵かけても構わん。だが他の奴らには関係ない、それで手ぇ打ってくれや』
館内が一斉にどよめいた。特に村の人達の動揺は大きく、あたしは思わずその背中を掴んで『ダメっ!』と絶叫していた。
『良いんだよキョウカちゃん。俺なら大丈夫だ…』
『それでもダメ…!こんな奴らの言う事なんか聞く必要ないよ』
予想外の成り行きに唖然としている男を指差してあたしは叫んだ。冗談じゃない、と全身が絶叫していた。コイツ等の支離滅裂な要求を一度でも吞んだら次は何を言われるか分かったモンじゃない、おじさんがリスクを損を背負う必要なんかどこにもないのに――そう続けようとしたあたしの言葉をおじさんは優しく制した。
良いんだよ、どの道誰かが背負わなくちゃいけない事だ。言外にそう告げたおじさんは存外サッパリした目で男の方を見る。『さぁ、どうした?俺を拘束するんだろ?』
男はしばらくなんと言ったら良いのか分からず、語彙を喪失したように口をパクパクさせていたがやがて気を取り直したように引き攣った薄い笑みを浮かべた。
『は…話が早くてまことに結構だ。おい、お前らボサっと見てないでとっととコイツを――』
拘束しろ、とでも村の人達に言うつもりだったのだろう、が皆まで言うより前におじさんが男に大股ににじり寄るとその胸倉を掴み上げた。男はただでさえ青い瓜実顔を更に青ざめさせ、ヒッと情けない悲鳴を上げた。
『勘違いすんなよ、これ以上無駄な騒ぎを起こしたかないから吞んでやるんだ。その代わりお前らも二度と村の衆にケチつけるな。今侮辱した奴ら全員にも謝罪しろ、良いなっ…!』
青二才が、俺を舐めるなよ。言外にそう告げるおじさんの迫力を前に男も大学生も完全に蛇に睨まれた蛙の如し、で彼らのシンパも完全に気圧されたかのように目を白黒させていた。
その時。なんとなく館内を覆い尽くしていた殺気が減衰されたと思ったその刹那――。
『くふふふふ……バッカみたい…ははははははは……!』
男達のものでさえ生温いとさえ思える程、明確な悪意と嘲りの感情を含んだ笑い声が館内に木霊した。また村の人達の方だ、と思って振り返ると体育館の片隅で俯いて座り込んでいた一人の老婆が幽鬼のように起き上がった。
みすぼらしい。誤解を恐れずに言えばそういう表現が似合う老婆だった。身長はかなり小柄な上に曲がった腰も併せて更に小さく見える。髪の毛は黄ばんだ白髪で手入れなどしていないように不揃いに生えており、その下には深く刻まれた皺によってしわくちゃに歪んだ顔がある。こんな人村にいたっけ…?長年村に住んでいるのに、こんな人は知らない。今まで気にも留めていなかったがこの人誰…?そう思った直後『母さん、ダメだよ…!』、一人の40代くらいの中年の男がそう言って老婆を抑え込もうとした。
その人は知っている。消防団の一人の鴨井戸さんだ。確かおじさんと同じIターン組のグループの一人だった筈、そこまで親しい訳ではないけど普段は役場で観光課の仕事をしているとかで、何度か顔を合わせた事はある。母さん、と呼んでいる事から母親なのだろうか――母親なんていたんだろうか…?
『全く…おめでたいのはお互い様ねぇ…。今の状況を正しく理解していないから分からないのよ…既存の科学や常識なんて――“スペリオル”の御意思の前では何の意味も為さないと言うのに…』
愚鈍な奴らよ、そう言って鴨井戸のお婆さんはあたし達全員を睨み詰めて吐き捨てた。言われた周囲は彼女の言葉の意味が分からず、呆然としていたがあたしは――彼女の放ったある単語に心臓を掻き毟られるような衝撃を感じていた。
“スペリオル”――「Superior」。「高次の」とか「上位の」いう意味の英単語でそれ自体は本来何の変哲もない言葉の筈だが、あたしにとっては全く異なる意味を持つ。それは白零會が――
白零會の教義はとにかく凡そ常人には理解しがたい単語の数々や世界各地の宗教や伝説、果ては小説などからも着想を得たと思しきチャンポン、ごった煮の極みである事も手伝って未だに教祖・八千餐誡の思想も含め完全に理解されているとは言い難い。だが難解な用語や複雑な謳い文句を取っ払ってしまえば残るのは他の宗教と変わらない単純な思想に行きつく。要するに「もうすぐ世界が終わるから神の国に入る準備をしろ」、というドゥームズデイ・カルトの典型的なそれだ。
この主義は教団独自のモノとは言い難い。キリスト教だって生前のイエスが唱えていたのは畢竟そういう思想だし、大乗仏教の来世利益だってかいつまんで言えばそういう事だからだ。大なり小なり宗教とは死後の赦しを代償に信者を獲得するものなのだ。
白零會はそれを八千の教えを信じる者は高次元的存在“スペリオル”に至る、そこに至った者は神の国に入る事が許され、永遠の命を約束される、という思想を語ったに過ぎない。但しそこに至るためなら如何なる犠牲を払っても構わない、という点が教団を暴走させたのだ。彼らにとって八千の教義に従う事こそが“スペリオル”に至る道、そのために犠牲になった人々もまたそこに至るための救い、そうして彼らは自らの殺人を、虐殺を正当化した。
あたしの両親もその一部だ。彼らのちっぽけな来世の幸福のためにある日突然訳も分からず人生を奪われたのだ。
だからあたしはその言葉を許さない。どんな事があっても絶対に――!
暫し呆然としていたおじさんがあたしの様子に気が付いたらしい。すぐに止めに入ろうとこちらに駆け寄ってくるのが見えたがもう遅い。あたしは自分でも意識しない程頭に血を上らせて、老婆に歩み寄っていた。相手が貧相でみすぼらしい、小さな老人だという事実も忘れてその薄い肩を掴んだ。
『こんな時になに言ってるのっ!その言葉…二度と使わないでっ……!』
それなりに長くこの村に住んでいるけど、こんな老婆は知らない。だが何よりもあたしにとってのもう一つの故郷で、あたしの村であの忌まわしいカルトの陰が浮かび上がってきた事が我慢ならなかった。
そんなあたしの様子を見て老婆は何かを察したようにニヤァと下卑た笑みを浮かべた。黄ばんだ乱杭歯が顔を覗かせる。
『お前は知っとるよぉ……村の人みぃんなが言ってる…。お前の二親も今頃は偉大なる“スペリオル”の御前に…』
『うるさい黙って…!!』
思わず老婆に手を上げそうになった所で肩を掴まれて老婆から引き剥がされた。『おちつけ』と耳元で囁くその声はおじさんのものだ。離して、て無茶苦茶に手足を動かすけどおじさんの力は物凄くてとても振り切れなかった。前を見るとあの老婆も鴨井戸さん初め数名に村人に掴まれて――というより取り押さえられていた。
『分からぬのか貴様らぁ…!あの御姿を怪物と罵る事なかれ…あれこそスペリオルの象徴――尊師の預言が遂に現実のモノとなる時が来たのだぁ……!』
『――誰かこのババア黙らせろ…!!』
そう言って一団に老婆は連行されて行った。あたしもおじさんも、村外の人間達もその光景を唖然と見ているだけだった。意気を削がれたように男達の一団はバツが悪そうな表情を互いに見せ合っている。
なんかイヤだな、あたしはそう思った。
村の皆も他所の人達もなんだか得体の知れない気配に呑み込まれて行ってだんだん正気を失っていくような…そんな気がした。自分にとって何よりも良く知っている場所だと思っていた村がじわじわとよそよそしくなっていくような。そんな悍ましい感覚にあたしは肌を粟立たせた。
だが次の瞬間――。
『皆逃げて…!またアレが来る……!』
入口の所に残してきたユヅキちゃんが飛び込んできて叫んだ。顔中に恐怖の色を貼り付けている、こういう時は何かを“感知”した時だ――と気付いた時。あたしも同じようにゾワリ、とした感覚が肌という肌を駆け抜けた。経験した事のない感覚に戸惑うと同時に何かこの感じ、覚えがある…と思い至る。
――そう、ちょうど少し前。あの青年が怪物に変異した時の奇妙な気配。それが次第に鮮明になっていくのだ…。
まさか――!あたしは何も映さない窓の外に目をやった。相変わらずの白景色。その静寂に不意に黒い影が映った、ように見えた。
『グギャアァァァアァァアアァァァァァッッッッ!!!!!』
空気を切り裂くように直後、咆哮と共にソレは窓を突き破って飛び込んできた。人――いや違う、正確には元“人だったモノ”…!今朝現れたあのバケモノと同質の異形。
ソレはまだ人の面影を留めていた。所々が破れ、血が滲んでいたが纏っているのは山に入る時に着るジャケットとコンパーチブルパンツ、更に上着にはあかつき村猟友会の支給品であるオレンジ色のベストを重ねている。だがその背中を突き破るように二対四本の翅が突き出し、不気味に蠕動している。変化が特に著しいのは頭部で、額からは不揃いな二つの触角を備えていた。顎は虫の口のような鋏状に変形し、カチカチと音を立てている。目は右側のみが複眼のような形状に変貌し、そこを中心に融解したように爛れている。擦り切れた袖口から覗く手は左手は異様に長大化した6本の指を備えており、円錐型に変形した右手は先端の鋭い針のような器官が凶暴な輝きを放っている。
翡翠色に変色し、硬質化した皮膚の質感も合わせればさしずめ昆虫人間――
。
――逃げて早く……!あたしがそう叫ぶより先に昆虫人間は翅を羽ばたかせて手近な村人に襲い掛かった。本日二度目の襲来に今度こそ館内はパニックに陥った。つんざくように響き渡った悲鳴が広がっていく中であたしは体育館の中央に坐し、その闖入者を見つめ、高笑いを上げる老婆の姿を見た。
・・・・・・・・・
昆虫人間――《アナバチヴェルノム》の武器は見た目通り右手に備えた“針”だ。翅をはためかせて素早く跳躍したバケモノはさしずめフェンシングのような鋭さを以てそれを一番近くにいた消防団の青年に突き立てた。突然の事態に動揺した青年は避ける事も対応する事も叶わず、怪物の右腕に刺し貫かれた。青年は鮮血を吐きながら崩れ落ち、怪物はそれ以上は興味を失くしたように青年の体から針を抜くと、すぐに次のターゲットを定めるように飛行しだした。
堰を切ったように館内に悲鳴と怒号が響き渡った。『逃げろぉ!』という誰かの声に促されるように一斉に群衆が走り出したがこの建物の中に逃げ道は本校舎の方に通じる渡り廊下しかない。当然そこにパニックと化した群衆が殺到すれば漏斗に水を流し込むようなものでそこに全員が通れるようなスペースは存在しない。先細りするだけの先頭列に恐慌状態の後続が衝突し、更なる混乱を誘発する悪循環だ。
思い切った行動に出られたのは平均年齢の若い観光客層で、体力で勝る彼らは真っ先に出入り口に飛びつくか、殺到する人垣を無理矢理蹴散らして、押しのけて我先にと本校舎の方に飛び出していった。《アナバチヴェルノム》が次に狙ったのはシェアの奪い合いに競り負けて列から弾き出された老人達や女達だった。
《アナバチヴェルノム》は床に投げ出され、まともに動けなくなっている人々の群れに突っ込んだ。針が凶暴に閃いたと思った刹那、彼らは瞬く間に5人6人と纏めて突き殺されていた。突進の威力のままに体当たりを受けて吹き飛ばされた者、鉤爪を備えた左手で切り裂かれた者、大顎で引き千切られた者――辿った経緯は様々だが、一様に最期に止めのように右手の針を突き立てられた。
入口がダメだと分かると人々は藁にもすがるように両翼の引き戸を開けて体育館の外に飛び出していった。ここ数日得体の知れない“霧”に怯えて外に出る事を忌避していた彼らだったが、こうなってはもう構ってはいられない。靴も履かずに次々と校庭に飛び出した彼らはひとまずハチのバケモノが追いかけてこない事にホッと息を吐き、安堵した。
だがそれもほんの数瞬の間だけだった。何か獣の遠吠えのような声と複数の足音が聞こえた、と思った直後新たな脅威が人々を襲った。
最初は犬かと思われた。というか四足歩行でこちらに駆け寄ってくる、大きなものでも人の膝丈くらいの大きさのそれは間違いなく犬のようだった。だがそれが視界の中にハッキリと入った時、人々はそれがそんな生易しいモノではないと気が付いた。
姿や形、大きさは間違いなく、犬のような四つ足の獣、それが三匹。だが本来なら体毛に覆われたその表皮はまるで生皮を剥かれたかのように赤黒い皮下組織が露出していた。瞳はいずれも完全に理性を失くしたかのように欄々と光っており、その様に人々はアレはいけない、そう直感し、今しがた飛び出してきた建物の中に戻ろうとした。
だが時既に遅し、既にターゲットを捉えた犬の怪物達は地面を蹴って跳躍し、人々に襲い掛かった。牙をギラリと閃かせ、口を開ける――正確には頭部全体が花弁を開くように四股に割れた形状に変形する。さながら捕食時のクリオネのような姿だが変異はそれだけに留まらない。花弁の中央に備わった空洞から這い出して来るように無数の触手――5本10本の類ではない、明らかに無数ともいえる数の――が生成され、それら全てが一気に伸長し、外の人々に襲い掛かった。
彼らは知る由もなかったがこの触手には一つ一つに《ヴェルノム》の“毒針”を備えたカプセルが内包されており、それらは目標に近づくと瞬く間に発射された。毒針に貫かれた彼らは自らに何が起きたのかを悟る時間はなかった。微細な針が体に突き刺さった事を知覚した次の瞬間には全身を焼け付くような痛みに襲われ、彼らはまともに立つ事はおろか意識を保つ事さえ出来なかった。
地面に崩れ落ちた人々の体は次々と塵芥と化して地面に崩れ落ちていく。この場から新たな《ヴェルノム》が生まれなかった事は幸運と言って良いものか…。とにかく目先の獲物を片付けた犬の怪物達――《イソギンチャクヴェルノム》達は次なる獲物を求めて走り出した。彼らにとって同類を増やす事、ただそれだけがこの世界に生まれ落ち、存在している事の唯一の意義だ。
怪人総進撃Ⅱ!
という訳でまた次々と怪人が出現します、次回はアイツも久々に帰ってきますよ。
因みに今回登場した犬の怪物ですが、一応ヴェルノムは動物がベースでも誕生します。その場合当然フェーズ1相当にしかなれませんが、人より遺伝子情報が少ないからかある程度量産できるというメリットがあるようです。
…まあ「犬の怪物」については追々別の形で登場するかも知れません。もしかしたら、でお待ちください。
それではまた次回!