まず初めに“無”が在った。
無が在った、というのもおかしな表現だがとにかく全ての始まりは混沌でも秩序でもなく、知覚し得るもののない虚無であったのだ。
そこに最初に生まれたのが“光”だった。虚無の中に生まれたソレは最初は小さな種に過ぎなかったが次の瞬間には急速に膨張し、無数の水素やヘリウムと言ったガスをバラ蒔いて炸裂した。放出されたガスはやがて一点に収束し、星を形成してはまた超新星となり、幾星霜もの刻を経て銀河が生まれた。
その時――光と同時に“闇”が生まれた。闇は光と共に存在し、しかし決して交わる事はなく世界は陰と陽に分かたれた。そしてそれぞれの中心――特異点から《ソレら》は生まれ、あらゆる時代に存在し、全てを目撃してきた。
やがてまた途方もない刻が過ぎ、宇宙の片隅に小さな惑星が形成された。それ自体はこの宇宙でありふれた光景に過ぎなかったがやがてその星に海が生まれ、更に底深くの熱水噴出孔から生命の源が生まれた。最初はただの単細胞生物やバクテリアに過ぎなかったそれらはだがしかし日光と二酸化炭素を取り込んで、地上に酸素を齎した。やがて酸素は遥か上空から降り注ぐ紫外線を遮り、彼ら生物にとって有利な環境に変質させ、この碧い星は彼らの楽園となった。かつては一つのモノだった生物達は次第に生き残りをかけてその形質を複雑化させていき、競合と淘汰を繰り返し続けた。やがて海から陸へ生存範囲を広げていく者達が現れた。
そうして乾燥に弱い皮膚を陸地に降り注ぐ太陽光から守るために硬質な皮膚を獲得した。やがて陸上を効率的に動くために四肢が形成され、彼らは新たな新天地で生きていくための術を身に着けた。やがてその中でもとりわけ巨大で強靭な肉体を手に入れた者達が出現し、彼らは1億8千万年もの間、この世界の王者であり続けた。
やがて彼らの足元をはいずり回っていただけの小さな生き物達が巨大なる者達亡き跡の世界で、空白となった王者の座を掛けて争い始めた。或る者は竜たちがそうであったように巨大な肉体を獲得した。また或る者は新天地を求めて海へと還っていった。また或る者は木々の生い茂るジャングルの中を住処とした。
そしてその中にあって唐突にジャングルから去り行く者達が現れた。彼らは優れた身体能力や外敵を倒すための鋭い牙や爪、または膂力を備えてはいなかった。その代わり後足のみで器用に歩行する術と器用に使う事が出来る手、そして他の生物を凌駕する脳幹を持っていた。
彼らはその優れた知性と自由に使える手を以て道具を作り出し、弱点を補いながら徐々に徐々にその生息域を広げていった。いつしか彼らはこの星のあまねく全地に広がっていき、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物全ての支配者を気取って、君臨するようになった。
だが全ての生き物がそうであるようにどんな力のある者であってもいずれは衰え、死を迎える。それと同じように地上を席巻した竜たちの時代も天から降り注いだ一つの小惑星によってあっさり終わりを迎えた。この星は幾度もなくそう言った絶滅という名の整理を繰り返してきた。時には星全体が氷に閉ざされ、ある時は海洋から酸素が消失した――。その度にこの星に反映した生物達はその大半が姿を消していったが、決して全滅ではない。どんな過酷な環境にあっても必ず生き残る者が現れ、彼らもまた死と隣合わせになりながらも、生存の道を探った。やがて数少ない生き残りの中から生存に有利な形質を持っていた者が次に地上を支配する――。破壊と再生。淘汰と繁栄。絶滅と進化。この星の生きとし生ける者達はそれを繰り返してきた。
盛者必衰。それがこの世界の法則だった。事実『人間』と名付けらえたこの生き物達も時に自らの生存のため、時に我欲のために他の種を滅ぼし、遂には互いの生存を賭けて同族同士で争い合い、自らさえも滅ぼし得る“力”を生み出してしまった。何かの繁栄の影には絶対に何かの滅亡があったのだ。
《ソレら》はこの宇宙そのものだったのだ。だからこそ、その開闢から今に至るまで全てを記憶していた。そんな歴史を見続ける上で進化とそれに伴って勃発する争いこそが世界の理と理解するのは必定であった。
だからこそ《ソレら》は初めてこの地に降り立った時、それを使命とする事に何も躊躇いはしなかった――否、躊躇いなどという人間的な感傷は元より持ち合わせていない、という方が正確か――。幾度となく《ソレら》は望んだ者にそのための“力”を与え、進化という新たな路を促した。結果として適合しなかった者は死という末路が与えられたが、それは結果論に過ぎない。
そうして今度は人間の少年が《ソレら》の力に触れた。彼が適合し得るかどうか…それらは《ソレら》にも与り知らぬ事だ。
“さて君は我々の祝福を受けるに足るか…”《ソレら》に言語を発する事が可能であったり、もしくは知性体と対話する意図があるのであればそのような問い掛けを発する事もあったかも知れないが…生憎と《ソレら》と目の前の少年とでは間にある隔たりはかなり大きいものだった。
無情に放たれた光が少年を、包んだ。
・・・・・・・・・
まず初めに知覚したのは目も眩むような閃光。それがクリスタルから発せられたものだと理解するよりも前に、赤色に染まった世界の果てに一筋の流星のような、一際強い輝きが視界を掠めた。エメラルド色の燃えるような彗星――?そう感想を抱いたのも束の間、「僕」は意識ごとそれに呑まれていた。
その瞬間、流れ込んでくる情報の奔流。嵐のような、濁流のような、もしくは照り付ける陽光のような、とにかく暴力的なエネルギーの渦中。その瞬間踏みしめていた床の感触も寒々とした部屋の空気も鳴りやまない喧騒も全て置き去りにして、「僕」は時間も空間も現実も喪失したような空間に放り出された――ような気がした。いや、それはひょっとしたらあの不思議なクリスタルが見せた幻だったのかも知れないが、とにかく「僕」にはそう感じられた。
幻想的な光景にちょうど僕は直前まで起きていた事象を都合よく忘れた。自分の知識でも到底追い付かない光景に魅了されたと言っても良いかも知れない。
まるで「僕」という個が溶けてなくなり、その細胞のひとつひとつがコアセルベートの状態に還っていくような…そんな感触。碌に光も差さず、焼け付く様な熱水が噴き出す中を「僕」はただ揺蕩っていた。やがてその世界をもっと自由に見てみたい…という衝動が頭を擡げ、「僕」は気が付いたら世界を自在に動くためのヒレを得ていた。そうして辿り着いた新天地には光が溢れ、生命が満ち満ちていた。あの薄い膜の向こうには何があるんだろうか…と、永い時を経て新たな好奇心が芽生えた。気が付くとそのヒレはその先の世界に立つための肢に変わっていく…――。
――昔読んだ本に「胎児の夢」という話が出てきた…。洋室の中にいる赤ん坊は胚から胎児に至るまでに単細胞生物から人間に至るまでの進化の道筋を経験する、だが生れ落ちたのと同時にその記憶は失われてしまう…という話――。ちょうど「僕」はあれを経験しているのだ、と悟った。白昼夢かこれは?
常識的に考えれば幻に過ぎない、となんとなく頭の片隅では理解している。しかしながらまるで自らその記憶に懐かしささえ、覚えていた。今でこそ万物の霊長面してのさばっているけど、終いには我らは神に象られ、最も愛された云々とか宣っているけど、元を正せばその起源は樹上で生活する猿の亜種でしかなく、もっと辿っていけば水の中を漂うだけの単細胞生物に過ぎない。いや今だってその本質は小さな細胞の集合体でしかなく、二重螺旋に記憶された情報さえなければそんなモノはあっさりと変質してしまう。
永き時を経て、やがて景色は僕が知り得る筈のない記憶…小さな水槽のような“海”から初めて外の世界に出たあの日に辿り着く。その日初めて僕の目は光を捉え、耳は音を感じ取り、肺は空気を取り込んだ。それはまるで燃え盛る火中にいきなり手を突っ込むような強烈な感覚で、安住の地からこの酷く不安定な世界に放り出された喪失感に「僕」は泣いた。
失楽園って知っているだろう。神の言いつけに背き、知恵の身を食してしまったアダムとエヴァはエデンの園を追われ、苦しみが拡がる世界に旅立っていかなければならなくなった、って旧約聖書にある話。アレは真実だ、「僕」は“人間になる”代償を払ってこの世界に生まれてきたんだと。
そんな「僕」の体を――まだ自分では動く術もないこの酷く矮小で不自由なそれを――抱きとめ、救い上げてくれる人がいた。「僕」と繋がっていてくれた人――「僕」はそれを理解した。まだそれを呼び示す言語能力は持ち合わせていない、だがその人が注いでくれる感情が…「僕」というこの容れ物に名前を与えてくれた。不定形なこの世界にあって、生きていくのに必要な力をくれた。
ずっと忘れていた温もり。遠い日のことと封じ込めていた記憶。「愛」という無垢なる感情。
この日――「僕」は初めて僕になった。
だがこの先にもまだ道があるのだという事を光は示していた。この姿もまだ完全という訳ではない、停滞するという事は緩慢な滅びと同義であるのだと――《ソレら》は語った……ような気がした。「僕」は好奇心の赴くままに、ならこの先には何があるんだ、とそう問い掛けた。
エメラルド色の流星はそれに応えるように再び光を発した。それと同時に「僕」は誘われるまま、新しい世界を見た。
アース1971043
その“世界”の発端はひとつの異なる星系からやってきた《外来種》の存在であった。彼は決まった名も姿も持たぬ生命体であったが故に、この星の多様な生命とその中にあってひたすらその節理から外れ、互いに争い合うひとつの生命体とそれが生み出す科学という技術に興味を持った。彼はこの生命体を陰から煽りながら、世界規模の大戦を引き起こしながら静かに自分の組織を造り上げた。自ら選んだ配下には自分のような強靭な肉体を与えるべく、この星の様々な生命の力や技術を駆使して素晴らしい肉体を与えてやった。全てはこの世界全てを手中に収めるため――この酷く面白い世界とその中で足掻く、矮小な生命たちをもっと観察したいがためであった。
アース1988109
ある“世界”は太古の世界より《彼ら》の支配下にあった。後から湧いて出てきた人間とかいう脆弱な生命を唾棄した《彼ら》は造り上げた文明を悉く打ち滅ぼし、自分達の世界を取り戻そうと考えた。しかし人間という生命体はやたらとしぶとく、諦めが悪かったため、《彼ら》は逆に人間を利用しようと考え始めた。自ら認めた者には《彼ら》の技術に由来する優れた肉体を与える事を条件に自らの懐に引き込んだ。《彼ら》の王もまた果てしない闘争の果てに人間から生まれたのであったからだ。
アース2001128
その“世界”を生み出したのは人がいう所の《神》であった。《神》は天を創り、海を創り、陸を創り、そこに自らの
アース2003816
その“世界”には人間が死を超越した事で生まれた《異形の花々》達が存在していた。彼らは時に人間に迫害され、時に人間を狩りながら自分達だけの楽園を創り出す事を夢見ていた。そしてそれは叶い、やがて人間の方こそを圧倒的なマイノリティに追い込み、その存在を滅亡寸前にまで追い込む事に成功した。だが彼らもまた急激な肉体進化故に寿命が追い付いておらず、緩やかに滅びに向かっていく種族であるという業を背負っていた。果たしてこの小さな星はエデンに至る事が出来るのか、彼らと人は共に生きていく路を取る事は出来るのか……それは誰にも分からない。
アース2010096
ある“世界”のいつかの時代、どこかの国に一人の《王》がいた。その《王》は錬金術の技術に傾倒し、錬金術師達がもたらした薬品を外交の材料にし、巧みに外交戦略を仕掛ける事で、辺境の小国に過ぎなかった自国に富と力を齎した。そんな中一人の錬金術師が偶然にも生命の力を凝縮した高エネルギー体と人工生命体を創り出した事が大きな転機となった。《王》は“欲望”によって制御されるその力を大いに活かして、大国に攻め入り、ゆくゆくは神すらも超える力を手に入れようとしたのだ。結局その《王》すらも自身の膨れ上がる欲望を制御する事は叶わず、破滅を迎える事になる。だが残された力が新たな戦いを生む事になるのは…もう少し後の時代の話だ。
アース2013106
ある“世界”は密かに滅亡の危機を迎えていた。突如出現した空間の裂け目から未知の植物が浸食を始めたからだ。その植物は他の生態系を駆逐するのみならず、人を未知の怪物に変異させ、更にその生息域を広げていく性質を持っていた。極秘裏にこの事を知ったとある企業はこの事態に対処し始めたが、時すでに遅く最低でも70分の1の人命しか救えない事は明白だった。次世代に進むための淘汰……彼らはその選択をせざるを得なかった。だがこの植物が蔓延る森の奥には世界を思うがままに作り替える《知恵の実》が眠っている事を知っているのは極一部の人間だけだった。彼らが自らの望む世界を創りだすべく熾烈な争いに身を投じる運命にある事を…一人の少女と“蛇”を措いては誰も知らなかった。
アース2016041
ある“世界”において一つの生態系が生まれた。とある製薬会社が生み出した人工細胞が急速に成長したモノが彼らであったのだが、彼らは新しい生命体であると同時に本能レベルでの食人衝動を備えていた。それは長らくこの星の支配者を気取ってきた人間達にとっては到底許容出来るものではなく、こうして彼らと人間の熾烈な生存競争が始まった。だが忘れてはならない、彼らを生み出したのもまた人間の飽くなき欲望であり、人が自らの都合のために他の生物の命を奪っている事もまた同義でしかない、という事を。この戦いには元より正義など存在しなかった。
他にも幾多もの“世界”があった。そのいずれにも破壊があり、悪意があり、敵意があった。いずれの世界においても人類は欲望に任せて過ちを犯し、そこにつけいる形で敵意は入り込み、それらを何倍にも何十倍にも肥大化させた。
やがて訪れる果て。荒涼とした大地を無数の“力”同士がぶつかり合う。異形の者達が天地を埋め尽くし、力なき者達を虐げる。その争いの中心に居座る《破壊者》と《魔王》の力が激突し、その余波が周囲に更なる破壊と惨劇を齎す。
『ここは…どこなんだ…?』
目の前の悪夢に僕は絶句して呟いた。少なくとも自分のいた“世界”ではない……とは思うのだが。……というかそうであって欲しい。
――ここは未来であり、過去。そして現在だ。或いは終焉、或いは始まり――。
不意に。声が響いた。男とも女とも、若者とも老人とも人とも魔とも取れないが、どれとも取れるような……。不自然な程明瞭に響くその声を、これまた何故か不自然な程に、「僕」は《ソレら》のモノだと察した。《ソレら》というモノがなんなのか……それすら分からないのに、だ。
悪意。恐怖。憤怒。憎悪。絶望。闘争。殺意。破滅。絶滅。滅亡。唯一にして完全なる結論。それがこの“世界”だ…と、《ソレら》が囁いた。「僕」は目の前の光景に耳を塞いで絶叫した。
『もうやめてくれ!どうしてこんな事をするんだっ…!』
――我々の本意ではない。我々はただのきっかけに過ぎぬ――。《ソレら》が云った。
『なら何故そんなモノを齎すんだ!?こうなるって事、全部分かってたんじゃないのか?』
――破壊の後に再生は来る。淘汰の果てに進化の道は拓ける。我々はそれを委ねるために生まれた――。
寝惚けたこと言うな……!!と「僕」は叫んだ。
『何様のつもりなんだ…お前は、お前らは一体何者だ……!!』
《ソレら》はもうなにも応えなかった。徐々に目の前の世界も音も光も曖昧になっていき、「僕」の周囲から搔き消えていく。待て、と「僕」は叫んで手を伸ばした、がその指先は何も掠めることはなく虚しく空を切った。やがて立っていた足場の感触すらも曖昧になっていき、「僕」は再び虚空の中を堕ちていった。
・・・・・・・・・
2011年3月12日午後12時46分。
春先の土曜日という日和と各家庭や観光客のグループが各々昼食を取り始めようとしたちょうどその時間帯にそれは始まった。とは言え、その最初の兆候を感じ取る事が出来るものはいなかっただろう。これから如何な事態が発生するのか、正確に見極めていたのは襲撃者の長たる女――マリア・ルーデンス率いる数名の“部隊”のメンバーだけだった。
最早どうしようもない、と判断したマリアはすかさず脱出を選択した。予定されていた成果が達せられない以上、ここに踏み止まるのは危険だと判断したが故の事だった。いざという時の事態に備えてヘリは常にアイドリング状態を保たせて、いつでも離脱可能なようにしていた判断が功を奏した。数名の部下と共にヘリに乗り込んだマリアは明らかな事態に戸惑っている部下に向かって叫んだ。
『Escape, hurry up! (脱出しなさい、急いで!』
まだ地上部隊の回避が済んでない、と部下は抗議の声を上げたがマリアはそれを制した。地上部隊には緊急避難を告げる信号弾を発射して告げろ、と手短に命令するともう有無を言わせず発着を促した。流石にこれ以上の悶着は命に関わる、と判断した部下もそれ以上は言わずにヘリを発進させた。
ヘリが十分な高度に上がった所でマリアは地上に向けて信号弾を発射した。それは上空で炸裂し、傍目にはデタラメな符丁で明滅しているように見えたが知っている者には即時退避を意味し得る信号弾だった。激しい閃光と音響は目立ちすぎると言っても過言ではなく、隠密重視のこの作戦では極力使わない方針だったが、無線がまるで通じないこの状況下では致し方ない。森林が広がる眼下にこの手段がどこまで有効かも分からず、マリアとしては一人でも多くの部下が無事でいてくれることを祈るしかなかった。
同じ光景を矢頭山の中腹付近の森林管理道路を歩いていた地元の消防団やマタギの衆が見ていた。彼らは哲也捜索のために山に入ったメンバーで幹斗や志村達と一向に合流出来ない事、無線や携帯で呼びつけても一向に応答がない事を訝しみながらも依然として山林内での捜索を続けていた。
そんな折に突如ヘリから放たれた謎の発光体に一同は眉を顰めた。あの派手なヘリは恐らく山岳救助用の機体だと思うのだが、こちらとしてはあんなもの要請した覚えはないし、他の誰かが山林で行方不明という情報も聞いていない。その癖不自然に“研究所”の周囲を探り回るかのように飛行していた、あのヘリに彼らは不審な目を向けていた。
それが今再び浮上し、これまたおかしな発光弾を発射したのだ。それはまるで花火のように森中を煌々と照らし、その意味を知らぬものであっても何かしらの信号弾の類ではないか、という事は容易に想像し得た。
勿論それは第二登山道にある避難所に退避していたマタギの志村からもハッキリと見えていた。謎の襲撃者からどうにか幹斗を逃がし、自分もなんとかそれらから逃げ果せて、このボロ小屋で小休止を取ったのが十数分前。なんとか肩の傷を塞ぎつつ、すぐに久世の遺体を回収すべきか他の衆と合流すべきかを考えたが、これ以上襲撃者に対して備えるならば速やかに仲間に合流するのが先決と結論付けた矢先の事だった。
思えばあのヘリが現れてから久世が突如として撃たれ、無線も携帯も通じないという異常事態が発生したのだ。これはまた何か良くない事が起こるのではないか…と戦慄した志村は謎の発光体に注いでいた視線を周囲に飛ばした。それが“研究所”――プロメアセンターに行きついたのとほぼ同時に…
それは始まった。
“研究所”から突如サイレンが鳴り響き出した。いや、それはまるでサイレンというより赤ん坊の泣き声を歪めて放射したような不気味な胎動のように聞こえた。マリアはその音を聞いて昔祖母から聞いた嘆きの妖精、バンシーの伝承を思い出した。ヘリに乗る部下たちにも思わず耳を塞ぐもの達も出た。それらは山間にて待機していた陸上部隊も然りで、先程の緊急避難信号と言い、これはいよいよ重大な危機が迫っている、とそう判断した彼らは速やかに撤退の道を選んだ。念のため渓流沿いに降り、そこから隣の林道に素早く抜けられるコースを選択したのだ。
山内に入っていたあかつき村の男達もただならぬ気配を感じ取っていた。あの“研究所”が出来て既にそれなりの年月が経過しているがあんな音は聞いた事がなかったからだ。それはまるで危険を知らせる警報というよりかはまるで空気そのものが悲鳴を上げているような、酷く気味の悪い音に聞こえた。それは志村も同様でただ眼下に見える“研究所”を呆然と眺めているより他になかった。
そうして誰もがプロメアセンターの様子に釘付けになる中で、次の瞬間その風変わりな建物が突如大爆発を起こした。それはまるで地獄の窯が開いたかのような、と形容出来るような異様な光景だった。発破解体のような周囲の被害を最小限に抑えるための爆破とは質が違う、まるで鉄筋コンクリートの建物を内側から喰い破るかのようにもう一つの太陽が顕現した。
実際他に形容しようがない光景だった。限界まで膨張した風船が破裂するかの如く巨大な火球が建物を吹き飛ばしたと知覚出来たのは、ほんのひと刹那に満たない時間だった。次の瞬間には摂氏数十万度という凄まじい熱線が“研究所”を焼き尽くしたかと思うと、それによって周りの空気が膨張して生じた猛烈な衝撃波がそれを一遍も残す事無く吹き飛ばした。その爆風は建物そのものに阻まれて大半のパワーは減衰させられ、2㎞離れたあかつき村道の駅に付近においては屋根瓦が僅かに吹き飛ぶ程度のダメージで済んだ、遠くても100メートル少々程度しか離れていない山中及び上空の相手には十分な威力を維持したまま襲い掛かった。
山中にいた男衆達は咄嗟に地面に伏せたり、手近な大木に掴まるなりして対応出来た者は難を逃れたが、それが遅れた者達はまるで
谷川に至る道を選択して、撤退路についていた地上部隊はまともにその爆風の洗礼を浴びる結果になり、咄嗟の防御態勢も虚しく、谷川に放り出された。特に“研究所”の最も付近にいたマリア達の乗るヘリはかなりまともにその爆風を食らい、その姿勢を大きく崩した。パイロットはなんとか体勢を立て直そうとしたが、ここまでの爆風は流石に予想の埒外だった事もあり、十全とは言い難かった。揚力の均衡を失い、引力という名の井戸に完全に捕らわれたヘリは糸が切れたかのように墜落の一途を辿った。
『Shockproof protection…! Prepare for shock!(耐衝撃防御…!総員衝撃に備えろ!)』
マリアがそう叫び終わるより先か後か、とにかく刹那の間に突き上げるような衝撃がヘリ内部に襲い掛かり、一同は狭い室内をバウンドした。機体がプロメアセンターから十数メートル離れた位置にある人工林の只中に落ちたいうのが認識機能の限界だった。感じた事もない激しい痛みと小爆発の熱ときな臭さに身を包まれ、マリアはあの男のすまし顔を思い浮かべ、小さく呪詛の言葉を吐いた。
漸く爆風が止んだと思い、顔を上げた志村が顔を上げた時にはもう見慣れた“研究所”は欠片も見えなかった。それがあった場所には燻るように波打つ黒煙が不気味に立ち上っていた。特徴的なドーム状の姿はその根元に呑み込まれてしまったかのように見る影もなかった。
だが本当の地獄の窯はまだ序の口に過ぎなかったのだ。暗灰色の煙のその根元から這い出て来るかのようにそれとは対照的などこまでも白い“霧”が出現し、漸く爆風の衝撃から態勢を立て直した人々を呑み込んでいった。まるでそれ自体が意志を持っているかのように駆けあがってくる、という冗談染みた光景に咄嗟に対応出来るものはマタギ衆の中にはいなかった。とにかく何が起きたのかという事の確認と無事な者、ケガをした者の確認でそれどころではなかったというのもある。ともすれば幻想的な光景が気が付けば目の前に迫ってきているという事実に息を呑んだのも束の間、次の瞬間には彼らはもうそれに呑まれてその姿を見せる事はなかった。
なんとか落下の衝撃から意識を取り戻したマリアの方は瞬時にそれがただの霧ではない事を察知した。理屈ではない、当人の経験と直感がこれはまずい、と最大限の警告を発していたのだ。瞬時に視線を走らせると、どうやらパイロットも含めて4人いた部下は一様に砕けた計器盤に顔を突っ込んだり、首があらぬ方向に曲がっていたりと動く気配はなかった。もっとよく確認すれば奇跡的に息を吹き返す可能性のあった者もいたかも知れないが、自分の生存も危うい状況下でそれを確かめている猶予はなかった。どんなに非情に思えても自分達は任務の達成如何に関わらず、情報を持って帰還する必要がある。マリアは悲鳴を上げる体を無理矢理動かすと、ヘリ内に備え付けてあったガスマスクをなんとか取り出した。まるで自分のモノでなくなってしまったかのような手でなとかそれを装着すると、いつ爆発しても不思議ではない機内から脱出した。
まさしく這う這うの体。肩や背中に打撲のような熱い痛みが残り、呼吸をする度に肺の辺りが灼けつくような感覚が走る。これは肋骨をやられたかも知れない、と思いながらマリアは咄嗟に自分の体を探って、四肢の状態などを確かめた。
あちこちを挫いたようで少し動かすだけで体が軋むように痛みを訴えたが、どうやら五体満足。ひたすら耐えまくれば動けないという事は全くない。自分はまだ動ける、という幸運にマリアはひとまず感謝すると、再度ヘリの方に引き返した。既に事切れている部下達から必要な装備や武器を貰う必要がある、まるで死肉喰らいのような浅ましさだがこの際気にしない事にする。
しかしながら辺り一面を見渡してみればまるでミルクを垂らしたかのように不可思議な白い世界が広がっている有様だった。これでは脱出はおろかこの場から動く事すら敵わない…。完全にやられたを…と今更ながらの敗北感がこみ上げてきて、マリアは屈辱に形の良い唇を歪めた。
霧に包まれたまま身動きが取れなくなったのは地上部隊も同じだった。合計5名からなる地上部隊の隊員達は突如発生した“霧”がこちらに迫ってくるのを目撃し、咄嗟に対BC(生物・化学)防御の命令を下し、携行品の中にあったガスマスクを装備した。核爆発という程の規模ではないにせよ、正体不明の爆発にそれを髣髴とさせる暗黒のキノコ雲、それに加えて不可思議な、どう考えても自然のモノとは考えられないガス状物質が迫ってくるとあってはその対処は必然だった。数秒後には彼らのいた谷川全体も白亜の“霧”に包まれ、己の掌くらいしか視認できない程の白闇に取り残される事になった。
まずいな、と地上部隊の指揮を執っていた男はマスクの下の顔を歪めた。足元に目を落とすと自分の爪先どころか膝丈くらいしか碌に視界に映らない。なんとか足元を流れる川の水の感触くらいは伝わってくるものの、それ以外の情報は完全にこの奇怪な“霧”によってシャットアウトされてしまった。ただでさえ足元の覚束ない川の上での行軍を強いられている状況下において視界まで封じられてしまったというのは考え得る限り最悪の事態だ。
ホワイトアウトという現象がある。気象学において霧や雲、雪などによって視界が白一色覆われてしまい、方向感覚や識別能力が完全に失われてしまう現象の事だ。こうなると最悪の場合自分の所在はおろか、どこに進んでいるのかという認識すら失われてしまい、組織的な行動はほぼ不可能になる。
とにかく纏まらなければ、と判断した男は装備帯から抜き放った携帯ライトを周囲に振りながら、周囲にいる筈の部下たちに向かって叫んだ。だが分厚いガスマスクに阻まれてくぐもった声が漏れるのみ。耳に当てた筈のインカムも先程からノイズを寄越すばかりで一向に応答がない。『shit…!』男は激しく舌打ちをしながら改めて周囲を見やった――が、やはりというか相変わらずの視界は白一色で強力なライトの光すら何も映してはくれない。
と思った矢先、ライトの光が何かに当たり反射するのを男は確かに見た。ほんの一瞬の事だったが確かに何かの物体――それも生物的な有機的なフォルムを持ったもの――を照らした。仲間の一人か、と思った男はその方向に向けて声を上げたが、それは不自然な所で断ち切られる結果になった。次の瞬間には白一色の視界の中から突如飛び出してきた一匹の“獣”が彼の喉笛を食い千切っていたからだ。男に自分の身に降りかかった事態を認識する時間はなく、ただ呆然と川の上に倒れ込んでいく感触が男の最期の記憶になった。
当然男の周囲数メートル以内にいた彼の部下達もリーダーの声が不自然に途切れた事に戸惑っていた。彼らは一様にナニカ起きたのだ、という事だけを察知してすぐに手にした武器を構えたがその判断は些か遅きに失した。碌に視界も効かず、仲間の位置確認すら覚束ない今の状況では銃火器を使う事は出来ない上に“それ”はもう既に彼らの間近にまで迫っていたのだ。構えた銃口からマズルフラッシュが瞬くよりも前に彼らの体は川面から這い出てきた無数の触手によって貫かれていた。彼らは一様に防弾仕様のボディアーマーを纏っていたが装甲と装甲の継ぎ目を狙って襲い掛かってくるそれを防ぎきる事は不可能だったし、それ以前に人間の造ったモノなど“それら”の前では全くの無意味だった。彼らは突如襲い掛かってきた敵の正体はおろか己の死すらも知覚出来なかった。白一色の世界にサッと朱が差したと思った数秒後にはかつては彼らだった装備品だけが川面の取り残され、その隙間から零れ落ちた黒い灰や熔け堕ちた肉塊がやがて川に沿って流れていった。
白以外何も映らない世界に犬のような奇妙な咆哮だけが響いた。
今回はここまでです。
さて…この描写かなり迷ったんですよね、果たしてやって良いものなんかと。
ただ今後マルチバース的な設定がかなり話に絡んでくるのでその描写としてこれが一番分かりやすいと思った次第です。
次回は遂に「アイツ」が出てきます。果たして彼らの運命は…?もう少しお付き合いください。
…それにしてもこの章、長いよね…