そこから先の事はよく覚えていない…と言うより虫食いだらけの酷く不鮮明な映像が脳内に再生されるだけで、繋がりが曖昧なのだ。インフルエンザに罹った最初の夜みたいな感覚って言ったら分かるか?寝ていても全然楽にならない頭痛と関節痛、指ひとつ動かす気になれない嘔気と倦怠感。漸くうまどろみの中に堕ちたと思えば熱性せん妄とタミフルの副作用が引き起こす悪夢に叩き起こされるってアレ。あれから7年近く経つのに今でもそんなぶつ切りの記憶しか思い起こせない。
ハッキリしているのは確かにこの身が異形の姿へと変異したという事。その瞬間得も言われぬ高揚感が湧き上がってきて、猛烈に目の前の敵を排除したくなったという事。鋭く尖った爪や各部に生えたスパイクを振るって迫ってくる敵を刺し、貫き、切り裂いて……命を奪ったという事。黒く、粘度の高い血がやけに熱かったという事。気が付いたら敵は全滅しててアテもなく山中……というか“霧”の中を延々と彷徨い歩いていた事。特にこの辺はかなり曖昧だ。
おっと話が逸れた、時系列を戻そう。
・・・・・・・・・
最後に像を結んだのは白亜に染まった視界の中に佇む異形の獣達とそれに同じく異形の腕を振りかざして飛び交っていった自分。やがて視界――というか頭の中の映像は周囲の白に怪物の赤黒い体液とブヨブヨした青や淡黄の内蔵とが散らされ、酷くサイケデリックな色に染まっていき、やがて自分も含めて何者も映す事はなかった。
そこから時を経て――体感としてはほぼ一瞬――最初に像を結んだのは傷んで黒ずんだ木目の天井。裸電球に照らされて明暗のコントラストがハッキリ分かれた様はさながら逢魔が時に差し掛かった風景に見えた。手を僅かに動かすとささくれ立った筵(むしろ)の感触とその下にある板張りの硬さが伝わってきて、僕は僅かに息を漏らした。
『気ィ着いたかミキ坊?』
不意にそんな言葉が傍らから投げ掛けられ、僕は重い頭を振り返った。知ってる声だな、と思ったのと怪訝そうな瞳でこちらを覗き込むその顔を認識したのはほぼ同時だった。
『……し、むらさん…?』
声がなんとか出たと思ったら喉が灼けるように痛い。思わず呻くと『無理すんな』とそう言われて口になにかを突っ込まれた。微かな苦みとそれ以上に芳醇な甘み…チョコレートだと気が付いた時にはそれは舌の上でじんわりと溶けて、弛緩した四肢や強張った体全体に広がっていく気がした。幾分か気が落ち着いた気がして僕は志村さんの方を見た。
すぐに思い出せるのは山中で彼と歩いていた時に突如狙撃された、という事。もう一人いた久世さんが撃たれて、戸惑っている僕を志村さんが檄を飛ばして逃がしてくれた。彼はそのまま殿になってその場に残った筈だった…。無事だったのか、あの後何があったのか、敵の正体はなんだったのか、他の村の皆は無事なのか…とにかくいくつもの疑問が頭を過り、口をついて出そうになるが次から次へと別の疑問が浮かび上がり、結局何の言葉を紡いだら良いのかも分からなくなってしまう。
『だから落ち着けっての…。お前は二晩寝てたんだ、夜中に急に物音がしたモンだから外を窺ってみりゃお前さんがいたもんだから驚いたよ…しかもそんなボロボロになりおって……。ナニがあったんだ……?』
志村さんの言葉を受けて僕は思わず自分の手を見やったり、体をさぐったりしてみた。確かに腕の至る所に小さなひっかき傷のような切創が見られ、着ていた登山着も各部が擦り切れてボロボロになっていた。山中を彷徨ったからってこんなになるだろうか…と首を傾げながら僕はいつもなら傍らにいるであろう相棒の様子を確認しようとして――。
――ガロ……?
当たり前のようにいた存在がどこにもいない事に気が付いて。
単に逸れた、とかそんな呑気な次元の話じゃなくて。
まるでそこを起点にするかのように次々と記憶が湧き上がってきて――!
血だまりに沈む父さんの骸。“研究所”の深奥にあった謎の輝き。白く濃い闇で覆われた世界。その奥から現れた異形のモノ達。僕を庇って散っていった小さな体。そして――同種の異形へと身を堕とした自分の事………!
次の瞬間、猛烈な恐怖――気を抜けばまた“アレ”が僕の体を覆い尽くして呑み込んでしまうようなあの感覚に全身を苛まれそうになった。すんでの所で踏み止まる所が出来たのは咄嗟に指の爪を掌に食い込ませて、その痛みで無理矢理遊離しそうになる心を引き戻せたからだ。皮膚に残る痛み、僅かに流れた血の感触が正気を僕の保たせてくれた。
あの時ガロが咄嗟に僕の手に噛みついたのと同じ事だ。もういない相棒のためにも…キョウカやユヅキのためにもこんな所で錯乱している場合じゃないんだ……!
『おい、どうした…?大丈夫なのか……!』
珍しく取り乱したような口調で志村さんが話しかけてきた。僕は咄嗟に彼の方を振り返った。『村はどうなりました…!?』
『村……?』
怪訝そうな顔でそう問い返す志村さんに畳みかけるように僕は怒鳴った。
『そうです……!アイツ等…僕達を撃ってきた奴ら、村がどうこうとか言ってた…!気が付いたら“研究所”も無くなってるし、なにがあったか見てませんか…!?』
本当の事を言えば敵は明らかに統率された集団だった事、そいつらに父さんが殺された事、そして謎の怪物に襲われ、僕自身も異形の姿に変わってしまった事…その他諸々全てを洗いざらいぶちまけてしまいたかったが、僕自身ですら呑み込めてないそんな話をしても彼を混乱させるだけだし、今必要なのは今ここはどこであれから村はどうなったのか、という事だけだった。
僕のあまりの剣幕に彼も一瞬気圧されたようだったが、やがて言いづらそうに眼を逸らした。言い淀むように『何も分からん…』とそう小さく声を溢した。
物静かな方だがどっちかというと泰然自若を自然体とし、多少の事には動じる風さえないマタギの顔役には珍しい反応だった。それだけで僕も、ああ彼も何が起きたかまでは把握できていないのだと遅ればせながら気が付いた。
志村さんの方をよく見ると肩口や腕の辺りを包帯で巻き、そこが僅かに赤い血で滲んでいる。何かしらの理由で負った手傷を十全に治療出来ていないのだろうし、そうなるとこの粗末な小屋は恐らく彼らマタギが緊急時に使用する避難小屋のひとつだろう、と思い至った。依然村の状況は全く分からない、という事実に途端に落胆が襲い掛かってきたが、逆にこんな傷を負って下界の状況すら分からない、というのに志村さんは僕を介抱してくれて気遣ってくれてる、という事だ。そう考えると不思議と葛藤も焦燥も少しは収まる様な気がして僕は少し息を吐いた
覚悟を決めて僕は彼と別れてからの全てを伝えた。今は少しでも情報を共有しておきたかったし、ここから生き延びるためには運命共同体なのだ、そんな彼に隠し事をするのはあまりに不誠実だと思った。
『70余年生きてきたが…にわかには信じられん話だなぁ……』
『ですよね……』
『……でもまぁ…信じるしかねぇんだろうなぁ実際…』
一方僕も志村さんの口から現時点で分かってる限りの情報を貰った。“研究所”が突如大爆発を起こした事、それから暫く経って謎の“霧”のような物体がそこから大量に放出された事、それを本能的にヤバいと直感してここまで逃げてきたのは良いが、それは一向に晴れる気配がなく、今もこうして留まっている事……。詳しくは見ていないがここら一帯の地形を加味すると村も既にあの“霧”に呑まれてしまったのではないか、というのが志村さんの見解だった。確かにあかつき村は四方を山に囲まれた、ちょうど窪地に辺りに立地している。あの“霧”がただの大気が水滴化したものではなく、ある種の流動性を持ったエネルギー体とするならば今頃村全域がアレに覆われていても不思議ではない。
“霧”の正体がなんなのか――そもそも何故発生したのか――現状皆目見当もつかず、そうでなくとも視界の碌に効かない状況下で山道を行く事は出来ない、という事情も重なればここに留まるしかないのも道理だが、僕も志村さんもこの“霧”が持っているイヤな気配をどこか感じ取っており、果たして村が、そこに住む人達が無事であるのか…そう思うと不安が全身を覆い尽くすような感覚に襲われたが、僕らは敢えて悲観的な考えを捨てた。
実際僕はかなりの長い時間あの“霧”の漂う山中を歩いていた筈なのに特に何かが起きた様子はない、志村さんもここ数日何度か小屋の周辺を探れる範囲で探って見たそうだが、特段不調や異変は感じ取っていないようだ。得体の知れないものに対する恐怖はあれど、多分これはそれほど過敏に恐れる必要はないのかも知れない。それでも胸中に残る一抹の残滓を敢えて僕らは考えないようにした。
やはり志村さんも勿論僕も“霧”以上に気になったのは僕の体に起きた異変の事。それとこの“霧”の中に蔓延っているであろう怪物達の事だった。
『実はなこの2日程何回かおかしな気配を感じたんだよ…。仕事柄山ン中をウロウロしてる獣なら…匂い…足音…吐息…その他諸々で大体なんだか見当は付く…。だが…ソイツらは明らかに普通じゃなかった……少なくとも俺の知ってるモンではねぇ…』
志村さんはそう語って静かに肩を震わせた。
実は爆発があったあの日の晩、志村さんも須田という山岳ガイドと合流したのだが、彼が突如ゾンビのように変調し、襲い掛かってきたのだという。おまけにその遺体は灰のように崩れ落ちてしまい、なんの痕跡も残らなかった…終いには夢でも見ていたんじゃなかろうか……と思ったそうだ。だからこそ僕が怪物に変異したらしい…という突拍子もない話を信じる事が出来たのだそうだ。
この山の中にはこの世ならざる異形が彷徨し、そしてその中には人が変異した者もいるのかも知れない……少なくともそれだけは確かなようだ。慣れ親しんだ世界が急に異界の中に取り込まれてしまったかのような気がして僕は肌を粟立たせた。
『やっぱり…皆の事が心配ですね…』
『んだな…。夜が明けたらイチかバチか山を下りてみよう。コンパスは使えるし、南の方にいきゃあ木材搬出用の林道に出れる…。そっからなら村まで最短だ』
やはり志村さんも気が焦っていたのだろう。山に生きる者としての禁を敢えて破ろうと思ったのはそういう心理があったのかも知れない……。とにかくそれならば早く休もうと結論付けて僕らは床に就いた。まだ微かに残る頭痛を引きずりながら横になったが、僕はと言えばこんな時ガロがいてくれれば…という後悔にかられ続け、なかなか寝付けなかった。志村さんもどうやらあまり変わらないようでいつまで経っても寝息が聞こえてくることはなかった。
翌朝。正確な時間は分からなかったが少なくとも空に光が差してきた頃合。
僕と志村さんはマタギ小屋を出立した。二晩寝てた、というから少なくとも事件発生から3日。いい加減志村さんの持っていた食料が底をつき始め、口に入れられるものと言えば小屋の裏を流れる沢の水か手近な場所に生えている未熟な山菜くらい。流石にこれ以上は留まってる方が危険だ、とは言い訳したけどあまり理由にはなってないだろう。
山で霧に巻かれた状況を「ガスが出てきた」と表現するのだが、この状態では著しい視界不良により方向感覚を喪失するホワイトアウトや水滴の付着による低体温症の原因になり兼ねないため基本的に山でガスが発生したら一時的に退避するのが正しい対処法であり、特に人生の大半を山で生きてきた志村さんからすればそんなの基本のキ以下の事なのだろうが……。それでも僕らが下山を決断したのはそれだけ焦っていたからだろう。
空が白んじてきた頃合に外を覗いた僕らは未だに晴れもしない景色に落胆した。相にも変わらず“霧”は微動だにすらせずにただただそこに在った。やはり光明を待つのは得策ではない、と結論付けた僕らは最大限山道を行ける装いを整え、小屋を発った。特に僕が着ていた上着は各所がボロボロになっていたので小屋内に置かれていたブルゾンを拝借する事にした。些か心許ないがないよりマシだ、ロープを肩に担いだ志村さんに促されて僕は雑囊に小屋内にあった小道具を詰め込んで立ち上がった。
絶対に俺から離れるなよ、と志村さんはそう僕にそう釘を刺した。こういう著しい視界不良化では方向感覚・平衡感覚を喪失する他、距離感がおかしくなり気が付いたら仲間を見失う、という事態が頻出する。そのために僕らは2メートルほどのロープの端部にそれぞれの体を固定した。動きづらいが致し方ない、こうなりゃ互いに一蓮托生になるしかないのだから。
先頭をいく志村さんは猟銃を背負って周囲を警戒しながらルートを決定する。マッピングは互いに定期的に行い、ルートが逸れていないか常に確認を行い、後方に控える僕はラッカースプレーを一定間隔で地面に吹き付けて、いざとなったらそれを辿って小屋にまで戻れる手段を用意しておく。些か慎重に過ぎるくらいの準備を整えて僕らは登山道を進んだ。流石に登山道の工程は志村さんは心得ているようでゆっくりと歩を進めながらもその足取りに迷いはない。僕としては手元の地図とコンパスを頼りにしながら現在地を確認しつつ、道程をマーキングするので精一杯だった。
とはいえ流石に移動は亀の歩みだ。碌に先も見えないのだから慎重になるのも当然の話とは言え、いつもならこの1時間足らずで下山できる山道がどこまでも広がり続ける“霧”の存在もあってまるで全く知らない別の世界になってしまったようだ。いや、もしかしたら既にこの村はあの爆発と共に異界に呑み込まれてしまっており、僕らはとっくにこの世の者ではなくなっているのではないか……等という笑えない妄想が頭に浮かんだ。
だが一方でこうして改めて歩いてみると確かにこの“霧”はただの濃霧ではなさそうだ、という事に気付いてくる。霧とは畢竟大気中の水滴なので皮膚や衣服に触れれば当然濡れる筈なのだが、それなりの長時間歩いている筈なのに、衣服や皮膚は乾いている。ためしに手近な植物にも触れてみたが露を被っている様子さえない、となればこれはただの霧ではない事は明白だった。かと言って空気自体は無臭であり、(よせば良いのに)大きく息を吸い込んでも息苦しささえ感じない、となればなんらかの有毒ガス、という事もなさそうだ。
小屋から離れ、歩を進めれば進める程今の世界の異常性を痛感する事になり、僕は密かに肌を粟立たせた。
『どうもおかしい…』
違和感を感じているのは先を行く志村さんも同様のらしい。しきりに周囲を見渡しながら顔を顰めていた。肩が強張り、左手の所作がややぎこちないのはそこに負った傷が痛むからだろうか。
『おかしい、って何がですか?』
『静かすぎる。あの日から思っとったが……鳥どころか虫一匹だって鳴きやせん…』
確かにそれは僕も思ってた事だ。山の中というのは都会人が思う以上に生命の気配に満ちているモノだが今のこの場所は静かすぎる。まるで自分達以外の全てが消え去ってしまったかのように。
だが今は3月だし、今年は平均よりやや低めの気温なのだ。まだ野鳥もそこまで活発には動いてないかもだし、虫も案外同様なのではないか。もしくはこの異常事態に何か予感を感じ取って大半が隠れて、身を潜めているのかも知れない。些か強引な理屈かも知れないが今はそう思う事にしたらどうか、と僕が言う。志村さんも『そんなモンかねぇ……』とひとまずは引き下がったがどこか納得はしてないようだった。でもまぁそれは僕も同じだ。今のこの世界はなんだかおかしい、そういう直感が囁いていた。
「見捨てられた町」って絵を知ってるか?
ベルギーの画家フェルナン・クノップフが幼少期に自分が住んでた町ブルージュを題材に描いた絵で、彼の代表作だ。レンガ壁の伝統的な建物が並ぶ水曜広場を描いた風景画、の筈なのだが霧に包まれたようなのっぺりした空と画面右手側から迫る水面、そして頑なに閉ざされた窓という構図も相俟ってどこか外界との接触が閉ざされてしまったかのような虚無的で無機質な光景が広がっているんだ。今の光景がまさしくそれだと僕は思う。クノップフは徐々に近代化が進み、古都の面影を失っていくブルージュを嘆いてこの絵を描いたと言われてるけど、過去に捕らわれたまま時間の止まったその町はやはりどうあっても死の世界だ。
今僕らがいるこの世界も同じ。遠目から見れば高峰に雲海の如く霧が掛かる光景はさぞかし幽玄だろうが風のそよぎも生命の息吹も太陽の光も感じられないこの風景は……。正しく見捨てられた世界だ。
そんな益体もないない事を思いながら歩き続けて…一体どれほどの時間が経っただろうか。手元の時計を見てみるとまだ4時を少し回った所だった。つまり凡そ9時ごろから出発したとすると7時間近く歩き続けていたわけか…と僕は多少面食らった。それほどの時間が経っていた実感がわかなかったからだ。太陽の強さも高さも向きも分からないこの濃霧の中では方向感覚や平衡感覚どころか時間の感覚すらあやふやになるらしい。その上でマップと現在地を照らし合わせて見るとざっと工程の8分の1くらいを消化できたらしい、という事が分かる。
『もうすぐなんだけどな……』
僕は歯噛みした。もう少しだけ歩けば村に帰りつけるかも知れない、そう思うと時間がどうであろうとこのまま進み続けたいと思うのだが志村さんに止められた。今は辛うじて光源があるから良い、だが日が沈んだら本当に何も見えないぞ。そう言われると黙るしかなく、仕方がないので僕らは野営の準備を始める事にした。
テントなんて大層なものは持ってないので少し山道から外れた所にある岩の影に収まってブランケットにくるまってるだけの簡素なキャンプ。出発地点よりかはだいぶ標高が下がっている筈なので流石に小屋付近と比べると僅かに気温は高いのだがそれでも肌寒さは如何ともしがたいし、なにより屋根がない、というのはとにかく心許なくてしょうがない。僕は漫然とパチパチ爆ぜながら揺らめく焚火を眺めていた。
辺りは完全な闇だった。空を見上げてみても本来ならそこに在る筈の星空すらどこにもない。果たしてこの“霧”の世界はどこまで続いているんだろう、と僕は思った。
山を降りれば。村に辿り着ければ。僕らはそこに根拠もなく希望を見出しているけれども果たしてその先に広がっているのは青い空が広がっている世界なんだろうか。あれから4日近くが経っている、もしかしたらこの“霧”は際限なく広がり続けてもう世界中を呑み込んでしまっているんではないだろうか……。体が震えたのはきっと寒さのせいではない。
そんな僕の弱気を感じ取ったのだろうか。傍らで鍋を弄っていた志村さんが呟いた。
『悲観的になるな。呑まれるぞ』
何に?と問いかけても彼は何も答えず黙々と調理を続ける。諦めて周囲を見渡した僕は感覚的に彼の言わんとする事が分かった気がした。先行きの見えない不安は時に疑心や恐怖に変わる、一度そうしたネガティブに囚われてしまえばそれは底なし沼のように心を引きずり込もうとする。よくは覚えてないけどあの時僕の中に生まれた激しい力も怒りや憎しみといった負の感情をきっかけにして発動した。正直未だによく分からない力だが大事なのはそれを乗りこなす術を見つけ出す事だ……とは思うのだが…。
不意に志村さんが微かに唸ったような気がした。彼の方を見ると手を止めて右手の辺りを抑えているのが見えた。
『痛むの?』
『大した事はねぇ…。それより早く寝ろ。明日には辿り着けるぞ』
明らかに無理してるような口調で志村さんはそう言った。僕はといえばそれになんと答えたら良いのかよく分からなくひとまず仰せの通りに休むしかないな、とそう思って毛布に包まるしかなかった。明日には村に着ける、そしたら志村さんを診てもらおう、それだけ考えて僕は目を閉じた。
事態が急変したのは次の日の夜明けだった。
うっすらと目を開けると実感したのは昨夜とは対照的なミルクを溶かし込んだような景色と微かに漂う朝露の匂い。肌寒さを感じつつ僕は体を起こした。寝違えたのか首や肩の周りがやたらと痛い。顔を顰めながら周囲を見渡してみた所――。
傍らで何かが唸る声が聞こえた。
それと同時に僕の感覚はあの異質な感覚――犬型の獣達が迫ってくる直前に感じたアレだ――が襲い掛かってきた。どんな感覚だと言われても名状し難い。以前のように脳髄を直接弄りまわされるような不快感はなくなったが本質的にはよく似た神経がささくれ立つような感じ。それが僕に“ナニカ”を訴えている。
僕は早鐘を打つ心臓を抑えながら声のする方に向かった。果たしてその先にいたのはブランケットを胸に引き寄せるようにして苦しそうに身を丸める志村さんの姿があった。彼の顔面は蒼白になり、獣のような荒い息を漏らす唇は紫色に変色していた。額には脂汗が浮かび、そのがっしりとした体躯は何かに憑かれたように弓なりになって震えていた。
『志村さん……!』
思わず駆け寄って額の辺りに触れた時、僕はあまりの異質な感触にギョッとした。体温が冷たいのだ、まるで死体か何かのように全く血の巡りが感じられない程その体は冷たく、硬かった。年取ると血の巡りが悪くなって冷えやすくなるものだがそれはそんな次元じゃあない…。
咄嗟に彼の各所を探って他の症状を確かめてみようとして、ある一箇所に目が留まった。数日前突如豹変した村の男に噛まれたという右手の傷の箇所。巻かれていた包帯が解けて、その傷が現在ハッキリと露出していたが、それはあまりに異質だった。
彼の手には噛み痕がしっかりと残っていたがそこを中心に皮膚が壊死したように――否、まるで炭化したかのような色に染まり、無数の
『クソッ……!どうなってんだよ…』
呼び掛けても志村さんは一向に意識を取り戻さない。傷口に細菌が入って化膿したのとも明らかに違うような奇怪な症状を目の当たりにして僕に分かった事と言えばこれは自分の手には負えない、という情けない悟りだけだった。
だがそんな自罰的な感慨を抱いても何にもならない。これはもう意地でも麓に行くしかない、と判断した僕は彼の体を担ぐと立ち上がった。僕より大きい上に老いてはいても猶現役で山中を生きる志村さんの体は流石に重くて、いつもの僕なら多分背負う事さえ叶わなかったと思うが、あの光を浴びて以降向上した僕の力なら可能だった。訳の分からないうちに身に着けた力にこの時ばかりは感謝したい気持ちになって僕らは飛び出した。
とはいえ一刻も早く村に戻らなくては…と気を急いても依然として辺り一面は深い“霧”に包まれており、碌に周囲の様子も分からないと来ている。行けるだろうか……と歯噛みしたその瞬間、狼の遠吠えのような声が森に木霊した。
アイツら――あの触手のバケモノ達――の声だ、すぐそこまで来ている……。
これ以上はもう迷ってはいられない…僕は覚悟を決めた。躊躇いがないかと言えば噓になるがこの状況下で使わなければなんのための“力”だ……!
頭に思い浮かべる。数日前、初めてあの姿になった時の事を……。自分が変化する様を思い描き、それを受け入れながら体に力を籠める。すると皮膚の下からナニカが疼く様な感覚と共に心臓が激しく鼓動を鳴らし始める。そうして筋肉が一回り肥大化し、その皮膚が硬質化し始めた――と思った次の瞬間、まさに拍子抜けという言葉が当てはまるように急速に筋肉が膨張する感覚が消え失せ、変化が収まった。
なんでだ……?前みたいにあの姿に変われない事に戸惑いながら僕はもう一度体に力を籠めた。だが結果は同じだ、一時的に血が沸き、筋肉が膨張するあの感覚が来るものの数瞬後にはその感覚は綺麗サッパリ消え失せてしまうのだ。何度試みても結果は変わらない。
どうしてだろう…。正直あの前後の事はよく覚えていない、だが僕自身の明確な意志はしっかりとあったとは思う。何故だ、あの時と今とで何が違うのだ……!
『クソッ!やってられるか……』
僕は舌打ちしながら僕の中の“力”に毒づいた。もうアテにならない力なんぞ頼りにしない、自分でなんとかしてやる…!と決意した僕はいよいよ近くまで迫りつつある獣達の気配に焦りながら、なんとか志村さんを背負うと走り出した。背後から怪物達が走ってくる気配は感じていたがまだこちらを探知してはいない筈だ、という事だけを信じて走り出す。
いつもの精悍さはなくぐったりと寄りかかる志村さんの体は思いのほか重かった。おまけに不気味なくらい冷えた体にこちらの体温までも奪われてしまいそうで…。息遣いも明らかに先程より弱い上により低く、獣が唸るような声に変わりつつある。
不意に。本当に不意にだった。その荒い息を聞いてるうちに何故だか僕の中で先程はカケラも浮かび上がってこなかった、あの凶暴な衝動が浮かび上がってきた……気がした。ほんの数瞬の後にそれは綺麗サッパリ消え去ってしまい、後には心が虚脱したような変な感触だけが残った。
それはなんだか……僕が背負っているこの老体を引き倒して、狩り殺せ…と一瞬叫んだような気がしたのだ。考えるだに悍ましいその衝動が深く認識するよりも早く消え去ってくれたのは僕にとって幸いだった。だから僕は思考の片隅に気の迷いだとそれを放り捨てる事が出来た。
ふと僕の中である可能性が思い浮かんできたが、今は余計な事を考えないように努めて僕は一心不乱に脚を動かす。幸いな事に自分の知る所より遥かに向上した僕の身体はそれに応えてくれた。次第に背後の異形のモノ達の気配は遠ざかっていった。
しかしながら流石にあの姿に変異しないで常人以上の身体能力を行使するのは限界があるようだ。段々僕自身の肢ももつれ始め、息が荒くなっていく。そうでなくとも碌に視界も効かないこの世界の中で前後感覚も平衡感覚も狂いっ放しなのだ。ジグザグに曲がる山道を進む中で本当に正しい路を選べているのか分からない焦燥が更に僕の平常心を削り取っていく。
どれほど走っただろうか…遂に感覚がなくなり、ふらついた足元が何かに取られた。それが地面を突き破って伸びる木の根かなにかかと思ったのも束の間、次の瞬間足場が根こそぎ消失するような奇妙な感触と共に僕は本当に自分の体の上も下も分からなくなった。走り続けるうちに本来の登山道から外れて終いには道を踏み外したのだ、という事は分かったけれどその時にはもう僕らはどうしようもなく重力の井戸に捕まえられて、ただただ意識諸共底に向かって転げていく事しか出来なかった。
奈落に堕ちるってこういう感覚なのか……次第に全てが遠のいていく中で僕はそんな呑気な事を思った。
なんか変な所で終わったけど次回に続く&でもたぶん次回でいい加減回想は終わると思います。
本当の