仮面ライダー:RE   作:大荒鷲

49 / 54
例によって長いのでまた分割します。
多少分割した方が心臓に良いかも……。


CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ⑮

 そこから暫くの事は覚えてない。正確には怪物と化した僕が荒れ狂っているような、そんな悪夢に魘されていた気もするがハッキリとは覚えてない。悪夢なのか、それとも怪物に初めて変身した時の事を鮮明に思い出したのか……。

 だが混濁した意識が現実に引き戻された途端、懐かしい感触が全身を包んでいるのが分かった。ふんわりとした清潔なシーツの肌触り、暖かく穏やかでほのかな柑橘の香りを纏った空気――僕はこれをよく知っている……。

 

『キョウカ……!』

 

 考えるより先にその名が口をついて出て、それに触発されるように僕は起き上がった。数日間山の中か白亜の世界にいた視野にやけに眩しい光が飛び込んでくる。

 

『――ここって……?』

 

 やがて眼が慣れてくると共にここがどこだか分かり、僕は呆気に取られて周囲を見渡した。小奇麗に整えられたリビング。そこに据えられたソファに僕は寝かされていた。キョウカの家だ……とすぐに分かり、僕は大いに困惑した。

 

 なんでこんな所にいるんだ…?最初に考えたのはまだ夢の中にいる説。あまりに村に帰りたいと思った挙句に最も気に留めていた彼女の家の光景が頭の中に浮かんでいる…まぁ要するに明晰夢的なヤツ。次にひょっとしたら今まで見ていた悪夢のような光景こそが全て夢幻で本当の僕は彼女の家でついうたた寝なんぞしてしまったのではないか、というある意味恥ずか死しそうだが何よりも幸福な説。

 なんて薄甘い幻想に浸っている内に右手首の辺りに鈍い痛みが走り、僕は思わず呻いた。思わずあっちこっちを確かめてみるがこの数日であちこちに負った傷の痕跡は確かに残っており(それにしたってだいぶ減ってはいるが)、否が応でもこれまでの光景が嘘ではない事の何よりの証左となっていた。僕は顔を顰めた。

 

 だが痛いという事は少なくともこの光景は嘘ではない、という事もまた事実だ。どんなに呻こうが疼こうが目の前の世界が元ののっぺりした濃霧に変わる事もなく、体に掛けられた毛布も丁寧に施された治療の跡も全部そのまんま。見慣れた九條家のリビング。なんかこのままダイニングに続く扉が開いてキョウカが『あ、やっと起きた。なに寝てんのよ?』とか言って出てきそう……。

 そんな事思ってたら本当にダイニングに続くドアが開け放たれた。

 

『あら。目を覚ましたのね。どう、具合は?』

 

 出てきたのはよく知っている彼女ではなかった。ただ目元や口元の線に彼女の面影が確かにある一人の老女。とは言っても色艶の良い髪や品の良い身なり、なにより孫によく似てコロコロと可愛らしく変わる表情もあってあまり年齢は感じさせない。元々脚が悪いせいか少し猫背気味で縮こまって歩く癖があるがそれさえもあまり病的な感じはしない雰囲気。

 この藤屋敷の主であり、キョウカの保護者でもある人。キョウカのお祖母さんだった。

 

『どうしたの、そんな鳩が豆鉄砲喰らったような顔して?貴方自分が誰だか分かる?私の事見えてるかしら?孫娘(あの子)の名前は言える?』

 

 なんでか楽しそうに笑いながらお祖母さんが僕の前で手を振る。あ、うん間違いなく現実だ…それで漸く目の前の風景に合点が行ったが口をついて出たのは『どうして…?』という間抜けなリアクションだけだった。

 

『あらやだ、私ったら…。起き抜けにあれこれ訊くもんじゃあないわねぇ』

 

 事態をいまいち呑み込みがたく呆然としている僕の様子からなにを納得したのか、お祖母さんは『ごめんなさいな』とか言いながらぺろりと舌を出している。一体何が、と僕が一言発しようとするよりも先に彼女は『先生、起きましたよぉ!』とダイニングの方に何か叫んだ。

 

 いまいち事態が呑み込めないまま相も変わらず呆然自失な僕。やがてお祖母さんの声に引かれるようにもう一人の人影がリビングに入ってきた。

 ヨレヨレだけど清潔感のある白衣にだいぶ寂しい印象の頭髪。窮屈そうにかけた眼鏡の下に柔和な笑みを浮かべているお祖母さんと同じような年代の老紳士。先生、という事前の言葉でなんとなく可能性としては考えていたけどここで出くわすとは思わなかった顔に僕は素直に驚いた。

 

『――御崎先生?』

『やあ、ミキト君。気分はどうかな?』

 

 その笑い方がなんとなく奥さんのミサキ先生とそっくりだな、と思った。本質的には血の繋がりのない赤の他人同士であったとしても長年一緒に暮らしているとそういう風になっていくんだろうか、と僕は呑気な事を思った。そんなこちらの間を御崎先生はどうやら別の方向に受け取ったらしい、『やあ驚かせてごめんごめん』と年甲斐のない口調で頭を掻いた。どっかの探偵みたいな仕草。

 

『九條さんの往診に来ていた所だったんだよ、それからあの爆発騒ぎだろう?動くに動けずこうして立ち往生しているしかなかったんだよ……』

 

 患者の前だからだろうか、努めて明るく振る舞っているがどこか空元気のような色合いが滲むのを僕は見逃さなかった。けど正直無理もない、と思う。恐らくこの村の誰もが人生で経験した事のないような災厄に見舞われているのだ。志村さんだって経験した事のない事態だと言っていて――

 そこまで考えて僕は思わず、アッと大声を上げそうになった。

 

『――そうだ…!志村さんは……』

 

 元を正せば山中で容体が急変した彼を背負って僕は山を駆け下りてきたのだ。そしてその最中で道を踏み外して――そこから先の記憶はどうにも曖昧だ。僕が頭を抑えているとお祖母さんが得心が言ったように『あぁ、マタギの志村さんの事ね』と手を打った。

 

『彼なら無事よ、ケガが酷かったみたいだから先生が処置してくれたわ。今は少し寝てるみたいだけど』

『君達は九條さんの庭先に降って来たんだよ、文字通りね?恐らく裏の山から滑落したんだろう。なにか凄い大きな音がしたもんだから意を決して出てみれば……。いやぁ驚いた驚いた…』

 

 そうか、無茶苦茶に山を走り回っているうちにキョウカの家の裏にまで来ていたらしい、慌ててたとは言え随分ガムシャラに走ったもんだ、と変な感心を覚えた。

 

『とはいえ二人とも案外軽傷で済んで良かったよ。運が良いようだね、無駄にするんじゃあないぞ?』

 

 先生はどこかおどけたような口調でそういうと身を翻して出ていった。後に残されたのは僕とお祖母さんの二人。少しらしくない振舞の先生の様子を見ながら可笑しそうに含み笑いを溢した彼女だったがふと僕と目が合うとその瞳は微かに憂いを湛えた色に染まった。『やっぱり心配よね……』やがてポツリとそう呟く、僕に言ったようにも自分に言い聞かせたようにも聞こえる声音。

 

『……心配って、何が…?』

『あまりに多すぎるんじゃない?そんな顔してるわ…』

 

 敢えていう必要もなく。全く持っての図星だったので僕としてもそれ以上言葉を重ねる事は出来ずに目を伏せるしかなかった。

 

『私も見たわ、あの爆発……。とても恐ろしい光景だった…挙句にこの霧でしょう?なんだかとてもこの世の出来事じゃないみたい…』

 

 あれからあの娘とも連絡つかないし……、そう呟いた時それまでどこか気丈に振る舞っていた能面が微かに、だがしっかりと剥がれた。キョウカの事だというのはすぐに分かった。息子夫婦をテロ事件で亡くしたお祖母さんにとってキョウカは唯一の忘れ形見だ、心配で堪らない筈なのにこの人は僕の中にある恐怖や不安を――それがなんであるのかは知らないにせよ――察して心配してくれている。その事に僕の胸がズキリと傷んだ。

 この人に話す訳にはいかないな、とその時僕はどうしようもなくそう思ってしまった。父さんの事も、あの襲撃者達の事も、僕自身の事も……。村に帰るという目的からは大きく脇道に逸れてしまったが医者である御崎先生と合流出来たのは大きな収穫だった。このまま志村さんの事を暫く先生に診て貰って……それからどうなるんだろう?思えばそこより先はどうするかをまるで考えていない事に僕は気が付いた。

 

 山を降りる決断をした時も志村さんを背負って遮二無二走り回った時も、思えば僕が思っていた事と言えばただただ一刻も早く村に、皆の所に帰りたい、それだけの事だった。村に帰ればなんとかなる、という保証がある訳でもないのに…下手すれば僕の事を皆に知られてしまうリスクだって否応なしに高まるだけだというのに……。甚だ不合理だ、全く僕らしくない…そんな風に考えた所で結局頭に浮かんだのはやけに眠いという感想と数日ぶりにクッションに体を横たえる事が出来る、というただその一点。なんだかそれ以上は今考えるべき事柄ではないようにさえ何故か思えてしまい、僕はひとまず目を閉じて休む事にした。

 とにかくこれで助かったんだ――この時までは無邪気にそう思ってた。村に、家に帰れれば全てが終わるんだって。なんの根拠もないのにさ。

 

 

 

 微睡んで大体1時間経つか経たないかくらい。不意に近くで低い唸り声が聞こえた。それはどこか山中で聞いたあの異形の獣共のそれを想起させて――僕はそれがなんなのかを確認する事もなく、まるで本能みたいに立ち上がった。体が熱く拍動し、爪や犬歯の辺りが疼く。

 で、結果として。起き上がって周囲を見渡してみても依然としてそこはキョウカの実家の一室。当然そこにあの怪物などいる筈もなく、代わりにこちらを見上げながら牙を剝いているやたらと小さい影が一匹いるだけだった。

 

『モコ…?』

 

 僕の口から間の抜けた声が漏れる。それをどう受け取ったのかポメラニアンのモコが小さいが高い声で吠えた。そう言えばあの日、キョウカと初めて会った日も主人にいきなり近寄ってきた僕らを警戒して吠え付いてきたモノだった。小さいが勇敢なモコに対してウチのバカ犬(ガロ)と来たらそれに気圧されたかのように後ろに隠れようとしてたっけか……。しかしながらその事を思い出そうとすると僕の胸に言いようのない喪失と後悔の念が浮かぶ。

 で、その小さな犬が今こうして僕の枕元に立って唸っている。そう言えばコイツも結構な年になる筈で近頃は元気がなくなってる、とキョウカが言っていたっけな。ついガロにいつもそうやっているようにその小さな頭にそっと手を伸ばそうとした。

 

 しかしながら何故かモコはその手の動きを警戒するように後じさって、僕から距離を取るとまた犬歯を剥き出しにして唸った。まるで初めて会った相手にするような警戒の態度に僕は困惑した。ガロと長年暮らしてきただけあって僕は犬の感情についてはそれなりに分かる自信がある、これは明らかな拒絶の意志だ。どうしたんだよ、と僕が話しかけようとするとモコはまるで堰を切ったように激しく吠えだした。怒っているのか、とも思ったが違う。耳を伏せているのは怯えているからだ。

 

『こら、なにやってるの』

 

 すると流石に声が響いてきたからか、お祖母さんが慌てたように部屋に入ってきた。慣れた手つきでモコを抱き上げると部屋から連れ出していく。当のモコはと言えばお祖母さんに抱かれて漸く安心できたのかどこかホッとしたように黙って連れていかれたが、僕と目が合うとまた怯えたような色を浮かべた。暫くするとお祖母さんが戻ってきた。

 

『ごめんね、このところご機嫌ナナメなのよ』

 

 曰くあの爆発があって以来、どこか何かに怯えているようなのだ。時折外に向かって吠えたり、部屋の奥に縮こまったまま出てこない事もザラにあるのだそうだ。急にこんな事になって、挙句に主人に会えない事も相俟ってストレスが溜まっているのではないか、という事だが……。

 

『さっきも志村さんが寝てる部屋の前で凄い吠えてね…。ここまでしたのは初めてだったわ…かなり参ってるのね……』

 

 それじゃあもう少し休みなさい、そう言って彼女は部屋を出ていった。彼女が気にしているのは愛犬が人に吠え付いた事なようでそれ以上の事ではないようだ。僕はといえば誰もいなくなった部屋で呆然としていた。果たして本当にそれだけの事だったのだろうか……?

 

 動物は人には感じ取れないものが見える、という話は昔からある。地震が起きる前にリュウグウノツカイが釣れたとか急にダイオウイカが現れただとか。鳥が一斉に移動を始めただとか犬や猫が直前に何かに怯えるような態度を取っていたとか。科学的な根拠がある訳でもないのにそんな事例は枚挙にいとまがないし、そんな事を大真面目に研究している学者もいる。

 ここ数日山中で動物――獣はおろか鳥一羽ですら――の気配を全く感じなかったのはあの異常な“霧”に対して何かただならぬモノを感じて一斉に逃げ出しのではないだろうか。後から分かった事だけどこれはどうやら事実だったらしい。爆発のあまりの映像に目を奪われて誰も気にしてなかったけど、その少し前に矢頭山から大量の鳥が飛び立っていく光景が実際にあったんだとか。

 

 話が逸れた。基本的に僕に懐いていた筈のモコがあんなに僕を拒絶したのは何故か。モコも他の動物たちと同じように何か、人には見えない、感じ取れないものを僕に感じ取ったのだろうか。そう例えば――僕の体に生じたあの異形の力……。その気配を感じ取ったモコにとって僕は山城幹斗ではなく、突如現れた得体の知れない存在なのかも知れない。そう思うと胃の腑の辺りがドンと重くなるようなイヤな感触が僕を苛んだ。

 

 村に帰る、というのはこういう事だ。否が応でも自分の身に起きた異変を誰かに晒すリスクを取れるかそうでないか……それを避けては通れない。少し考えれば分かる筈ではないか……分かっていて考えないフリをしていたのか、それとも…どこかで期待していたのか――この村ならそんな僕にでも居場所があるかも知れない――と。

 そんな保証はどこにもない。いくらおおらかな風土があっても明らかに人間でない異形の姿に変異した者なぞ受け入れられる確率は絶無に近い。皆が知っているのは人間としての山城幹斗なのだ、得体の知れないバケモノなどではない。

 

 いやそもそも僕は本当に山城幹斗なのか?

 本当の僕はあの日、“研究所”でとっくに死んでいて今ここにいるのは異形のバケモノが遺体に憑りついて動き回っているだけなのではないか……?テセウスの船という言葉もあるように、僕が僕である事の証左なんてどこにあるというのか……。

 

 そう思い至ると途端にここに来たのは間違いだったのではないか、とさえ思えてきた。僕のような異形の存在がここは踏み込んで良い世界ではない……と。

 

 だが村に帰らなければ志村さんが……と脳内に気弱な部分が必死で弁明するが冷静な思惟はそれこそが最大の過ちだったと告げていた。山の中で感じ取り、今の今まで必死に目を背けてきた悍ましい可能性が急速に鎌首を擡げてくる。気弱な方の思惟はそれを必死に否定する、そんな――あまりに非現実的な事ある筈ない…!と。

 

 だがこの数日で何が現実的で何が非現実的か、なんてとっくに考えるだけ無駄な概念に成り下がっていた筈だ。突如消え去ってしまったプロメアセンター。そこから流出した訳の分からない“霧”にその中に潜む異形の獣共、そしてなによりもその異形の一部に文字通り変異した自分。だったら――それが僕だけである保証なんてどこにもない……!

 

 理由なんて知らない。だが僕が異形の姿に変わってしまったように人がこんな風に灰状に分解されてしまう事もそれと根は同じなのではないだろうか。志村さんの証言だと突然ゾンビ化した人間がこんな風に息絶えると同時に消えてしまったという。その人は捜索隊の一人として山中にいた。そして“霧”に巻かれて志村さんの所まで逃げてきた。志村さんはその人に噛まれ、結果として奇妙な症状に魘されている。

 

 

 行きつく答えはひとつだ。

 

 

 人が変異する。ゾンビになったり怪物になったり様々だけど大筋は同じこと。

 灰化するのは死による生命活動の消失の時点。変異に肉体が耐えられず、エラーを起こしても同様の結果に至る。

 それを引き起こすのは…ゾンビ化した人間や村を取り巻く謎の“霧”。

 

 つまり……。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だとすると……。

 

 顔を上げた次の瞬間。奥の部屋から劈くような悲鳴が上がった。男の声。それは果たして志村さんか…それとも御崎先生か……。

 

 しまった……!僕は自分の迂闊さを呪いながらも突かれたようにソファから跳び起き、声の聞こえた方に走り出す。たぶん二階の使ってない洋間だ。

 

 頼む、何事も無くあってくれ、全て僕の取り越し苦労で済んでくれ……祈るように、縋るように胸中に絶叫しながら階段を駆け上がり、扉を開けた。

 

『――ッッッ!!』

 

 その途端に酸鼻を極める臭気が掠める。果たしてそこに広がっていたのはまるで赤インキでもぶちまけたかのように吹き上がった血で染まった瀟洒な洋間の光景。その中心に佇むモノこそがこの光景を作り出した元凶だ。

 

『――志村さん……』

 

 立ち上がった志村さんが右腕で御崎先生の喉笛を締め上げていた。先生はぐったりと脱力したまま、虚ろな表情で声ひとつあげない――否、したくとも出来ないだろう、()()()()()()()()()()()()

 

 引き攣ったような声が漏れる。それに反応したかのように志村さんがこちらを振り返った。飽きた玩具をそうするように御崎先生の体を放り捨てた。

 彼は体中の毛穴という毛穴から墨適のように黒く変色した血を滴らせ、虚ろに口蓋を開いていた。半ば飛び出して白濁した瞳は何も捉えていないようでもあり、最早彼の表情に明確な意志は感じられなかった。それを見れば否が応でも痛感させられる……コレはもう志村さんじゃない…と。

 

 ロイコクロリディウムって知ってるか?吸虫属に分類される寄生虫の一種で、コイツはかたつむりをゾンビ化させて、敢えて目立つところに誘導させた上で最終宿主である鳥に食われて寄生先を確保する。エメラルドゴキブリバチは名前の通り特殊な毒を用いてゴキブリから自意識を奪い、その体を幼虫の苗床として子孫を増やす。ホラー映画のド定番、ゾンビは決して誇張でも空想の産物でもなく、なんらかの形で自然界に存在しているのだ。だからこれもそれと同じ、この異常な環境が生んだ新たな生命体だ。

 

 即ち――それは僕も同じ……。それが僕らという存在(ヴェルノム)

 

 まるで肉が腐り落ちるように志村さんの下顎が半分に割れ、赤黒く染まった口の奥から生えてきた牙が妖しく閃いた。志村さんだったモノ――《ヴェルノム》の瞳は次なる獲物を見定めた興奮に濁っていた。

 

 

 

 咄嗟に僕の方からそいつに飛び掛かっていったのは別に勝算があったから、という訳じゃない。ただこのまま家の中で戦えば絶対にキョウカのお祖母さんが巻き込まれる事になる、そんな事させる訳にはいかない――それだけを考えて僕は目前の怪物に飛び掛かった。部屋に入ると同時に扉を素早く閉めて、鍵も掛ける。少なくともそれだけは確実に成したのを確認すると、勢いに任せて走り出した。急激な肉体変化に伴い、知能は低下しているのか……とにかく呆けている怪物に僕は渾身の力でタックルをかましてそのまま床に引き倒した。

 普段の僕のへなちょこ身体能力なんかじゃ志村さんの大柄はびくともしなかっただろうが、僕もいい加減力の加減や出し方というモノが分かってきた。ぶつかる瞬間に渾身の勢いで床を蹴飛ばして僕は全身ごと志村さんに激突させた。そのままマウントポジションを取ると僕は思いっきり拳を振り上げた。一瞬頭の片隅の冷静な所が何か警告を発したが、それも歪に変形した口元から大量の唾液と血反吐を吐きながら奇声を発する怪物の顔を見やるとあっさりと霧散した。コイツはもう人間じゃない、怪物だ、先生を傷つけた、今殺らないと皆コイツに殺られる――峻烈な思惟が絶叫するのと共に僕は拳を振り下ろした。

 

 肉を打つ鈍い音が響く。イヤな感触が拳に広がるが構わずに僕は手を緩めることなく、右の拳を振り下ろし続けた。拳が振るわれる度に怪物の体が痙攣するように弾ける。それでも抑え込む左手から伝わってくるのは途絶える気配のない生の感触。むしろ拳を振るえば振るう程、抗うように生命力を増していく気さえする。いい加減死ねよ、と絶叫しそうになった次の瞬間、下から伸びてきた手が僕の喉笛に食らいついた。そのまま締め上げられたまま、あっという間に僕の体は引き剥がされて宙を舞った。壁に叩きつけられ、渇いた息が漏れる。

 凄い力で気道を塞がれた事もあって激しく咳き込みながら、僕は顔を上げた。落ちるな、奴が来るぞ……涙で滲んだ視線を向ける、が《ヴェルノム》は僕には目も暮れずに床に投げ出されたまま、微かに動いている御崎先生を捉えていた。

 彼に意識があるのか、それは分からない。だが少なくともこの場から逃れようとするかのように小刻みに手足をバタつかせているという事はまだ生きてはいるという事だ。砕かれた顎から溢れ出る血の匂いが《ヴェルノム》の鼻孔を刺激する。それにとっては何よりも本能を刺激する芳しい香りなのかも知れない。御崎先生の方を振り返った《ヴェルノム》は道端の虫にそうするように片足を振り上げると、その右足を叩き潰した。ふくらはぎから先の肉が水風船のように破裂し、血が飛び散る。

 

 御崎先生が叫んだ、ように見えた。目を見開き、体をのけ反らせて口元から空気が漏れるような呻き声を漏らす。だが顎を砕かれているのでそれが発せられることはない。せめてもの抵抗手段を奪った事に満足したのか、《ヴェルノム》は歯牙を剥き出しにしながら彼の腹部に噛みついた。

 

 もう先生からは悲鳴も漏れなかった。代わりにゴボゴボと泡立った血液が噴き出し、顔を汚した。噴き出る血を全身に浴びながら怪物は恍惚とした表情でただただ先生の肉を貪る。やがて満足したように怪物はゆっくりと起き上がり、体を震わせた。

 次の瞬間、新たな変異が始まった。その体がガクンと痙攣したかと思うとだらりと下げていた右腕を突如突き上げる。そこにはゾンビに噛まれて負った傷がある。そこを中心に新たなる変異が始まった。皮膚が瞬時に硬質化したかと思うとまるで引き伸ばされたかのように五指が肥大し、全てが絡み合うように巻き付いていく。瞬きするほんの僅かな間にその右手は鋭い矛状に変異していた。

 

 かくしてまた一歩志村さんは異形の世界へと踏み込んだ。そうして新たな獲物――即ち僕の姿を見定めるように睨みつけてきた。

 

 僕は歯噛みした。みすみす先生を喰わせてしまった事、それを防げなかった自分の不甲斐なさがどうしようもなく溢れて来る。だが後ろ向きになる時間もせめて先生のために祈る暇も今は残されていなかった。階段をパタパタと上がる音が聞こえてきたから。お祖母さんが遂に異変に気が付いたのだ。お祖母さんは脚があまり良くないし、この家の階段は古い造りで結構急だ、そんなすぐに上がってくる事は出来ない――それだけを一気に計算した僕は再び《ヴェルノム》に飛び掛かった。狙うはただ一点のみ――。

 

 《ヴェルノム》は鋭い鉾状に変形した右腕を容赦なく突き出してきたが、僕はそれを紙一重の差で躱した。狙ってのことだ、腕自体が変形したそれは可動範囲に乏しいから懐にさえ飛び込んでしまえば届かない。懐に飛び込んだ僕は胸倉の辺りを掴んだ、さっきと同じ轍は踏まない。僕は志村さんを掴んだまま、窓の方に向かって自分の体ごと投げ出した。

 

 ガラスが粉砕される大きな音が響く。そのままベランダにまで飛び出た勢いで多少古くなっていた柵すらも突き破って僕らはそのまま階下に落ちていった。その真下はお祖母さんやキョウカが丹精込めて整えた庭。落下する直前にそこに思い至って、心の中でひっそりと謝ると僕は体に力を籠めて体勢を整えた。具体的には僕が馬乗りになって、志村さん――だった《ヴェルノム》を下敷きに出来る状態……今度こそ終わらせる、それだけを意識しながら僕は重力に身を任せた。

 

 時間にしてほんのひと刹那。僕らは地面に叩きつけられた。勢いで地面が抉れる。所詮芝生の上だからさして硬い訳でもないけれど、圧し掛かられる形で僕の全体重と落下エネルギーをまともに受けた《ヴェルノム》にとっては溜まったモノではなかった。潰れた蛙のような声を上げた《ヴェルノム》に構わず、僕はそいつの左手を掴んで思いっきり後ろ手に捻り上げた。グギッ、というイヤな音が響く。腕を引き抜いてやるつもりだったが流石に脱臼する程度に留まったようだ。

 怪物が威嚇するような高い声を上げて必死に手足を振り回した。まだ抵抗する気かよ、往生際が悪い……苛立った僕は踏みつける脚の力を更に強くし、今度は鉾状の右手を掴んだ。このままこっちも引き千切ってやる……!と肩に手を掛けた次の瞬間だった。

 

『――なにやってるの……!?』

 

 悲鳴のようなその声が耳朶を打った。思わず声のした方を振り返ると雨戸を開けたお祖母さんが僕たちの方を見ていた。足元ではモコが怯えたように纏わりついている。その目はまるで信じられないものを見るかのように怯えと驚愕に染まっていた。『どうして……?』虚ろな声。

 

 相も変わらず深い“霧”のせいで僕らとお祖母さんの間には意外と厚い膜がある。彼女の視点からは僕が何をしているのかはハッキリとは見えず、せいぜいが志村さん(と思しき人影)を組み敷いて両腕を捻り上げている、という風にしか捉えられないのだろう。

 だが驚いたのは僕も同じだった。思わずこの状況を説明しようとするもそもそもなんて説明したら良いか分からず、信じて貰える保証もない。何よりも彼女――キョウカの身内であるお祖母さんに今の光景を見られてしまった動揺は想像以上のモノで僕は口を虚ろに開いている事しか出来なかった。

 

 

 そして、それこそが、僕の最大の過ちだ。

 

 

『キ〝シ〝ャア〝ア〝ア〝ア〝ァア〝ア〝ァァッッッ!!』

 

 僕に抑え込まれた体勢になっていた怪物が一際興奮したように吠えた。そこで漸くお祖母さんは何か志村さんの様子がおかしい、と察知したようだ。『ミキト君、逃げてっ……!!』思わず、といった風にそう叫び、僕の方に手を伸ばす。僕はそれに気を取られ、下の怪物への注意が逸れてしまった。

 怪物が一際大きく体を震わせた。次の瞬間、怪物の背中の皮膚と衣服を突き破って、薄いが硬質な剣のような物質が、一対生えてきた。咄嗟に危機を察知した僕は思わず、半ば本能に衝き動かされるように跳び退った――その結果どうなるのか、なんて考えもせずに。ただ防衛本能に従っただけの結果。

 

『ゴガァァァアァァァァァアァァッッッ!!』

 

 それこそが怪物の狙いだった。既に僕を脅威と認識したのか奴はもうこちらから逃れる事、ただそれだけしか考えていなかったのだ。但し脅威から()()()()()()()()()、そういう動物的な本能は一切持たないのが《ヴェルノム》の怪物たる所以だ。

 

 ――故に最初の獲物を諦めれば“次”に行く……。

 

 突如背中から生えた剣状の器官が振動し始めた。耳障りな高周波が辺り一面に広がった、と思った次の瞬間、怪物はふわりと浮き上がったかと思うとまるで弾かれたかのように飛翔した――いや飛んだというよりは投射に近いのか――その光景に一瞬驚愕した僕だったがすぐに先程以上の猛烈な危機感が全身を駆け巡った。

 

 怪物の向かう先には……お祖母さんがいた。

 

 逃げてぇっ…!そう叫ぼうとしたが時既に遅かった。お祖母さんは咄嗟に窓を閉めようとしたが所詮は無駄な抵抗だった。次の瞬間には《ヴェルノム》は窓を粉砕して、室内に飛び込むとお祖母さんの痩せた体に向かって鋭く尖ったその右腕を突き立てていた。

 

 恐怖、悲嘆、混乱、全てが一体となったような絶叫が響き渡った。それに混ざるように小さな犬の鳴き声も混じっている。僕自身も何か声を上げていた気がするが……それが自分のモノである様な気がしなかった。怪物のお祖母さんの胸の辺りに突き刺さった鉾が、まるで射精するかのようにドクドクと脈打つ。《ヴェルノム》が勝ち誇ったかのように絶叫し、その体に更なる進化が始まった。

 右手を覆っていた硬質な緑色の皮膚が更に範囲を増し、体中を覆っていく。角度によって不可思議な色を発するそれはさしずめ虫の殻だ。背中から新たな一対に翅が形成され、よりその姿を虫のようにしていく。額からは突き破るようにおかしな縞模様を纏った触角が生えてきて、頭部は半ば溶解するように右側だけがその姿を変えていく。

 もう先程まで辛うじてあった志村さんの面影は完全にない。残された衣服からコイツが人間の成れの果てであろう事くらいは推察できるが所詮それだけ。血溜まりに沈んでいるお祖母さんを睥睨しながら怪物は舌なめずりでもするかのように鋏状に変形した口部をカチカチと鳴らす。

 

 お祖母さんが微かにこちらを向いた。血走った瞳に僕が映っているのか、定かではないけど、その口元が微かに動いた。それだけはハッキリと分かった。声は微か過ぎて聞こえなかったけど、口の動きで何を言ったのかは分かる。

 

 梗華……。たった一人の家族の名を呟いて…それっきりお祖母さんの瞳から光が消えた。

 

 モコがお祖母さんに縋りつきながら、哀し気に吠えた。《ヴェルノム》はそんな事など気にも留めずに目的は果たした、と言わんばかりにまたふわりと浮き上がるとそのまま“霧”の立ち込める空の向こうに消えていった。

 

 

 僕は、また、何も出来ずにただそれを眺めてるだけだった。

 

 




後半に続きます。
続きは明日の10:00。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。