今回は新たに主要な登場人物が出ます。
但し時系列は再び半年ほど遡ります。
「手を止めるな、クズ共が!納期に間に合わなくなるだろ!」
現場に吹き渡るのはひたすらに照り付ける陽光であったり、重機の往来によって無意味に舞い上がる土埃だったり、現場監督の時代錯誤な怒声であったりする。いつもの光景であってもげんなりする事には変わりがない。叫ぶのもイラつくのも勝手だが頭ごなしに怒鳴って俺らの集中力を削ぐな、と内心で愚痴りながら、土枝健輔はブロックや土を積載した一輪車を押していく。
「ムナジマ組」なんて今時ヤの付く人と勘違いされそうな会社名だがその名の通りガテン系というか何というか…「上からの指示には絶対服従」な体育会系の悪しき側面だけを絞り出して濃縮したような社風そのもので、そんな会社の現場において現場監督サマに日雇いの非正規雇用でしかない健輔が文句を言うなど許される筈もなかった。
それでもこの現場監督と来たら、監督とは名ばっかりでする事と言えば視察に来た重役に媚びへつらうようか意味のない罵詈雑言や根性論を非正規達――現場の大半を占める――に投げかけるばかりで健輔は彼の事を内心で「
「昼飯なんぞマトモに食ってる場合だと思うな!この区画は今週中に終わらせるんだよ!」
炎天下の最中なお
もう9月だというのに茹だるほど暑い。近年の東京の気温は異常なレベルで上昇しており、健輔達外作業の従事者達にはひたすらにしんどいだけだ。ホワイトな会社なら現場作業員に配慮して作業を軽減するなりするだろうが、労働基準法どころか作業員の人権すら辞書にないムナジマ組には期待しても無駄だ。
顔が火照る。僅かに息も荒いし、めまいもする。これは少しマズイかもな、と思った直後僅かに体が傾くのを感じた。倒れる――と確信したが、突如横合いからスッと手が差し伸べられ、よろめきかけた健輔の体を受け止めた。同時に
「先輩、大丈夫ですか?」
土埃まみれの現場に似つかわしくない澄んだ声が耳朶を打ち、健輔は危うく飛びそうになっていた意識を取りもどした。ふと右側を見ると同じくムナジマ組の作業服とヘルメットを被り、頭にタオルを巻いた青年の顔が見えた。
この現場で自分を「先輩」と呼ぶのは一人しかいない。土汚れで真っ黒に染まってても分かる端正な顔立ちは山下幹夫のものだ。確かつい1ヵ月前に入ったばかりの新入りで、自分とさして変わらない年、だからと言って殆ど話した事もなく、職場でさりとて目立つタイプでもない。痩躯の割には意外なほどしっかりした力で健輔を支えると体調を確認するように体を叩く。不意に山下は自分の大腿部のポケットから何かを取り出すと、それを健輔に右手に握らせた。手を開くと白い色の飴玉が三つ、掌に収まっていた。
「塩飴です、気休めにはなると思いますよ」
表情一つ変えずに山下は早口にそれだけ告げた。言葉こそそっけないが人を気遣ってくれている事は流石に理解出来た。サンキュと言葉を返そうとした直後、「そこぉッ、ナニやってんだ!」と完全に存在を失念してた現場監督の怒声が飛んできた。つくづくうるせえ野郎だな、と思わず舌打ちしながら健輔は奴の顔も見ずに作業に戻る。
「
苛立ち紛れにありったけの呪詛を込めてそう呟いた。聞こえたらしい山下が「ハートマン軍曹?」と言いながら監督の方に目を向けるのが見えた。手押し車を動かしながらアイツに妨害されたせいもあるが、礼も言わずに立ち去るとは随分感じ悪い態度になっちまったかも知れないなと思う。仕方なかったとは言え、こんな所にずっといたら心まで薄汚れていくのではないか…?暗澹とした想いを抱えながら、せめての意味も込めて先程貰った塩飴を頬張る。染み出した水分と塩気がスポンジのようにしみ込んで、乾いた口腔を潤していくのを感じたら不思議と苛立ちが引いていったようだった。
結局その後、30分ほど水分補給の時間を取ってから、午後の作業が始まった――因みにハートマン軍曹は冷房の効いた正社員用の現場事務所で遅めの昼食を取っている。本来なら朝8時から始まる作業を30分も前倒しで始めた癖に休みまで返上させて働けとは…!明らかに現場の士気は下がってるし、憤懣だって溜まっている気がする。あの監督はそれにすら気付かないのか、それとも反抗するような馘を斬れば良いと思っているのか…恐らくは後者だ。
健輔達が従事しているのは公園の再開発事業だ。公園と言っても広大な森林を有し、野球場とかもあった立派な公園だったようだ。もともと3年くらい前からこの公園の南面の森を伐採し、より立派な公園に改修する計画が出たらしい。防火林の役目もあった木々を伐採する事には地元から反対の声が上がり、最終的には地域住民の9割から反対の意見が寄せられたらしいのだが、どういう訳か工事は強行された。
何故そうまでして公園の改修を進めたのかと言うと、どうやら2年後に控えた世界的なイベントに便乗してスポーツ意欲の増進のため、という名目――要は今は「その名」を出せばなんでも金と事業を動かせるから――らしい。計画ではそのイベントに集まる人のための練習場やキャンプ場も兼ねるらしい。
反対運動を取り仕切る住民達は「たかだか数週間の祭りのために市民の憩いの場を潰す気か!」と叫んでいたが、健輔にとって社会とは、大人とはそういう理不尽なものだった。この公園がどうなろうが別に地元民でも何でもない自分には関係ないし、もっと言うなら例のお祭りだって開催されようがされまいがどうでも良いのだ。その日を暮らしていけるだけの金が最終的に手元に残りさえすれば良い。
ところが流れが変わったのは1ヵ月前の事だった。基本的に住宅地のど真ん中にあるこの現場は夜間と土日祝日は休みなのだが、殆ど人のいない夜間の作業現場に突如打ち上げ花火が咲くように――健輔達は公園近くに作られた作業員宿舎の中でそれを見ていた――
直後改修の対象となっている公園の四方を囲むようにある5つの公園から一斉に轟音と共に火の手が上がった。後で知った事だが爆弾は焼夷弾と言う炎を起こす事に特化した爆弾だったようで、いずれも住宅地付近にあった事もあって迫りくる火の手に町はパニックに陥った。最終的に東京中の消防隊員達の尽力のおかげで火は消し止められたが、いくつかの住宅に延焼した他、公園内の多数の木々が焼け落ちた。
明らかに《スカルマン》の犯行だった。アイツは事件を起こす前か後に警告か犯行のサインであるかのようにホログラフィによるドクロを出していくのだ。
警察が作業現場に立ち入り、調べてみるとちょうど陸上トラックを作ってる辺りにホログラム投影装置が埋まっているのが発見できたという。おまけに故意なのか装置の故障なのか爆発しなかった多数の小型爆弾も一緒に、というオマケ付きでだ。
当然現場作業は一時中断する事となった。上やお役人としては一刻も早く再開したかったのだろうが、当然地域住民がそれを許す筈もなかった。曰くこの工事は国や区が自分たちの都合で勝手に始めた事である、つまり初めから工事をしていなければスカルマンに狙われる事もなかった筈だ、と。勿論この住民の意見が全て通った訳ではないが、最終的には中止を求める意見に対して、周囲にまだ不発弾等がないか徹底的に捜索し、安全が確保されるまでは工事を中断する事、警備を強化する事を条件にして――それにしたってそう言う口約束をして取り繕った感があるが――ようやく改修工事は再開された。
結果ただでさえ遅れ気味だった工程のしわ寄せやら警備で無駄に掛かる費用やらへの八つ当たりで親会社は更なる無茶苦茶を現場に強いてきた。人手は断固として増やさないが工期はより短く、人件費はより少なく、と言った具合で最近では昼飯の時間すら碌に取らせようとしない。高校生の時だったらここが平成の日本と言う国なのだとは思わなかっただろう、世の中の事なんて何にも知らなかったが、思えばあの頃が一番楽しかった…再び暑さでどうにかなってしまいそうな頭が――飴はとっくに切らした――ついさほど遠くない昔に意識が持っていかれそうになる。
全く世の中はクソだ、と健輔は思う。
《スカルマン》も地域住民の苦情も二年後のイベントも全てどうでも良い、いっその事まとめてどうにかなってしまえ、と頭の中でブツブツ呟いていた所で唐突に「おい、ゲンさんッ!」と叫び声が聞こえ、急に現実に引き戻された。
見ると100mほど離れた場所で一人の人夫が倒れ、周りに他の作業員達も集まっているのが見えた。倒れた男をちょうど抱えるように様子を見ているのは…山下のようだ。
どうやら大事らしいと判断した健輔も流石に手を止めて人だかりに走って行った。輪に近寄るとやはり山下が倒れた人夫――確かゲンさんと呼ばれてる50歳くらいの男だ――を抱えてしきりに呼びかけをしていた。周囲の男たちは「何があった?」「ゲンさん、大丈夫か?」とかおずおず声を掛けながらもその様子を遠巻きに眺めてるだけだ。
「源田さん聞こえますか?俺の声、聞こえてますか?」
しきりにゲンさんの体を揺すったり、額に掌を当てたり、二本の指を目の前で動かしたりしていた。ゲンさんはそれに対して僅かに反応を示すも、答えたり動いたりするのも億劫そうだ。山下はまた塩飴を取り出してゲンさんの口に含ませたが殆ど口も動かせないらしい。これでは却って喉に詰まらせるだけだと判断したのか、山下は飴を口から抜き、周りを見渡した。ふと健輔と目が合う。恐々と見守るばかりで近づけもしない健輔に山下は躊躇いなく叫んだ。
「先輩、恐らく熱中症です。至急何か水分を取ってきて下さい、監督に――」
「誰が手を止めて良いと言ったぁッ!さっさと持ち場に戻れクズ共!」
山下が皆まで言い終わる前につんざくような怒声が響き渡り、健輔は思わず身を硬くした。声のした方向を見ると案の定肩を怒らせた
状況の説明をしろ、という事だろうかと思ったが口を開くより先に頬に突如衝撃が走った。視界がグラリと歪んだのを知覚した時には健輔の体は硬い土の上に投げ出されていた。頬が熱い、脳がグラグラと揺れる。思わず溢れた涙で滲んだ視界の先には現場監督が仁王立ちになってこちらを見下ろしていた。殴られた、と自覚した矢先に再びハートマン軍曹は周囲の男達を散らすように怒鳴り声を上げた。
「工期も切羽詰まってるってのに休憩とは良い御身分だなぁ?テメエらにいくら無駄な金と時間使ってると思ってるんだ、さっさと仕事しやがれ!」
一思いに怒鳴り散らした原版監督は犬を追い払うように手を振りながら人夫達を掻き分け、ゲンさんと山下に近づいていく。恐らくゲンさんを無理矢理立たせて仕事に向かわせる気だろう。逆らえば馘だと脅しながら。どこまでそんな権限があるのか不明だが、少なくとも行き場のない日雇い達には死刑宣告に等しい。特にゲンさんのような年寄りには。
あまりの理不尽に言い返したかったが、暴力に晒された体は自分のモノではないようにいう事を聞かない。やっぱり俺はずっとこうなのか…と最早常態化した諦めの境地が広がっていき、気力の萎えるまま健輔は俯いた。チクショウ、結局自分の人生なんてこんなモンだ、殴られて謝って結局こうして地を舐めてるだけ。それがこのまま一生…!
「お言葉ですけど」
太陽光で乾ききった現場に凛とした声が響いた。顔を上げると依然ゲンさんを抱えたままの山下がまっすぐに監督に向き合っているのが見えた。その目は些かも怯んでいない、
「これは熱中症です、既にⅡ度に達してますが、まだ意識はあります。すぐに涼しい場所に移動させて水分を取れば――」
「屁理屈を言うな屁理屈を!何が熱中症だ、根性が足らねえからこんな事になるんださっさと立ちやがれ!」
またも言い切る前に怒鳴り声がその先を掻き消す。最早会話そのものを拒否している。しかし山下も怯まなかった。ゲンさんを一度そっと横たえるとスッと立ち上がり、
「熱中症を甘く見てはダメです、このまま悪化すれば命の危険だってあります。監督だってそれは本意ではない筈でしょう?」
感情的ではない、あくまで冷静に理性に訴え掛ける言葉だと分かった。「それは…」と現場監督は明らかに言葉に詰まり、気圧されている。だがそれも数刻の間、怒鳴っても無駄だと察したのか、本能的に目の前の青年に惧れを抱いている事を見透かされたくないのか、監督は「五月蠅い!」と叫んで、眼前の山下の体を突き飛ばす。山下は後ろによろけ、尻餅をついた。
山下の目線や頭の位置が下になった事で再び優位を確信したのかすかさず怒声を上げようとしたハートマン軍曹だったが、それ以上彼の言葉が発せられる事はなかった。地面に座り込んでいる山下は決して怯んでなどいなかった。それどころか口元に笑みすら浮かんでいる。
「な、何が可笑しい?そ、そんな奴どうなった所で変わりはいくらでも――」
「そうですか、分かりました。なら事は急を要するので救急に通報させて頂きます。恐らく労働基準監督署の方にも話が行くと思いますのでその時はよろしくお願いします。」
「な…なに?」
今度は山下が
「待て待て、一体どこに掛けるつもりだ?」
明らかに狼狽しだしたハートマン軍曹に肩を掴まれながらも彼は平然と「市民の義務を果たすだけです」とにべもない。その態度に再び怒りを刺激されたのか監督は「調子に乗るなよ!」と叫び、山下の胸倉を掴んだ。
「救急車でも何でも呼べるもんなら呼んでみろ!どうせそいつは治療費なんて払う金もないし、会社は労災なんて絶対認めんぞ!」
「だから労基に連絡すると言ってるんです、たぶんその方が早い」
今度こそ現場監督は絶句した。威圧と暴力だけで現場を支配してきた男にはここまで整然と言い返された経験などないのだろう。二の句も告げずに御池の鯉よろしく口をパクパクさせている監督に耳打ちするように山下が囁いた。
「分かりました。通報はしない代わりにゲンさんが休みを取るのを承諾して下さい、それと…30分に1回シフトくらいの割合で誰かがついててあげた方が良いですね?」
まるでこちらが「妥協
「お心遣い感謝します」
その言葉に満足した山下は華麗にヘルメットまで取ってお辞儀した。健輔に染み付いた卑屈な姿勢ではない、掴むものを勝ち取った勝利のお辞儀だと思った。それを見たハートマン軍曹は何も言えずにただ背を丸くしながらせめて「勝手にしろ」と捨て台詞を吐いて去って行ったのだった。
数分前には予想もしなかった出来事に完全にポカンとしている健輔だったが、山下に「先輩」と声を掛けられて正体を取り戻す。
「ゲンさんを運ぶの手伝って下さい、出来れば事務所に運んだ方が良い、ホントは一刻を争うんです」
その声色は勝利を誇っている風では全然なく、むしろ下らないやり取りに時間を使ってしまった事を後悔している風だった。なんとかゲンさんを事務所に連れていき、服を脱がした上で備え付けてあったタオル等で体を冷やしているうちに幸いにもゲンさんも次第に自分で水分を摂取したり出来るようになっていった。「お前さんは命の恩人じゃなぁ」と笑うゲンさんに山下は澄ました顔で
「それだけ言えればもう大丈夫ですね」
と微妙にそっけない態度で仕事に戻っていった。彼にゲンさんの面倒を頼まれた健輔は自分も打たれた頬を冷やしながら、ふとアイツは何でこんな所にいるんだろうと思った。
・・・・・・・・・
「いやぁ、それにしてもケッサクだったなぁ、あのタコ監督のあの顔!」
「俺らも次からやるべ、文句があるなら労基に駆け込むぞ、ってさ」
「やめとけヌケサク、お前じゃ迫力がねえ。『だから何だ!』で凄まれておしめぇさ」
「全くだ、山下くんだから出来たことさ、若ぇのにてェしたモンだよありゃあ」
いかにも安さと酔っぱらい達にとって居心地の良さがウリと言った風情の大衆酒場内は見知った人夫達の他にも仕事帰りと思わしきサラリーマンや地元の商工会と思しき男達の声でも賑わっていた。一番奥の上がり席を占拠しているのは健輔も含め6名の仕事仲間達、上座に座っている、正しくは座らされている山下を囲むように周囲の男達がめいめい勝手に騒いでいる。目立つ席で何処となく戸惑っている風の山下に「なんか悪いな」と目線を送りながら、ビールを舐める。そう言えばこうして酒を出す店に入るのも久し振りだな、と思った。基本金に余裕のない身としては滅多に外呑みはしない。せいぜい山下を除くここの5人の部屋で飲むだけだ。
今日、外に繰り出して飲んでるのはその「滅多」があったからだ。山下に屁理屈を悉く言い返され、顔面蒼白になっていた
「それにしてもお前さん、ケータイ持ってたんじゃな。ここじゃあ珍しい…」
ふとゲンさんが山下に向かってそんな事を尋ねていた。確かにこういう飯場では余計な金がないと言って持っているのはそこまで多くはない筈だ。かく言う健輔も持ってない、と言うより捨てたのだ。電話代が勿体ない事もあるが、何より持ってるとなんとなく過去に執着してしまいそうで嫌だったというのがある。
「ああ、コレですか?」
山下が懐から先程見た古い型の携帯を取り出す。見せるように皆の前で開いてみせたが、画面は暗いまま、何も変化がない。
「コレ、実は使えないんです。なのであの時のはハッタリです」
無表情に山下が種明かししたのに一拍置いて座の男達が大爆笑した。「意外と策士だねぇ」とか笑いながらさも愉快そうに酒を煽る。つまりあの
「あんましつこく勧めるな、今そう言うのは…何だっけか…アルハラとかになるんだぞ」
「この職場でそんなの関係あるかい…まあ、ほだならケンボーが吞め」
ケンボー、というあだ名に話が自分に振られたのが分かった。こういう時最年少の健輔はやたらと「若いんだから」という名目で他人の酒の後始末を任される事が多い。「それもアルハラっすよ」とか突っ込み返しながら、お相伴には預かる事にした。幸いにしてアルコールには強い方だったし、こうして皆で飲むのがなにより好きだったのがある。例え今だけの関係なのだとしても、例え世の中はクソだと思ってもこの瞬間だけは心から楽しいと思えるのだ。それは高校の時にひたすら当時の仲間たちとバカをやりまくった時の高揚感に似てる…。
健輔は台東区の日本堤に生まれた。所謂山谷の一角、古くから安宿や簡易宿泊所が並び、そこを拠点に生活する今の健輔みたいな日雇いの労働者達が暮らす町。物心ついた時から父親は既になく、水商売の母と二人暮らしという生活だった。決して楽とは言えない生活の中で時には露骨に生まれを見下してくるような奴らもいたが、もともと体力には自信があった事もあって嗤う奴は真っ向から叩き潰してやった。母は夜には殆ど家を空けている事は多くそれは寂しくもあったけど、それでも学校で遠足があればちゃんと弁当を用意してくれて、仕事が休みの日には自転車で浅草寺に連れていってくれた。母が死に物狂いで自分を育ててくれている事は分かってたから不満はなかった。だから俺ももっと強くなって母さんを守るんだ、幼い頃の健輔はそう思った。
風向きが変わったのは中学生に上がってからの頃だ。母の帰りが妙に遅くなったりと微かにその兆候はあったが、ある日見知らぬ男が母と一緒に家に上がり込んで――「新しいお父さんよ」母は男をそう紹介した――再婚する事とその男が養父になる事を聞かされた。
それ自体は別に良い。狭いアパートも饐えた空気の漂う地元も引き払って引き払って隅田川を跨いだ新しい住居に越した事も別に構わない。ただこの養父はとにかく健輔とは合わなかった。養父は、事実だから否定しようがないが、健輔を育ちが悪いと決めつけ、徹底的に健輔を真人間に「更生」しようとした。
地元の友達と会ったり、連絡をしようとするのを禁じ、新しく入った中学校でも友人作りに干渉した。曰く「あんな奴らと付き合うな」と。養父は本当は私立の学校に通わせたかったらしいが、中学からでは間に合わないと断念したらしい。その分高校からなら編入出来ると信じ、テレビも漫画も禁じた上で勉強に専念させられた。多感な時期故当然不満もあったが、もし養父に嫌われたら母に迷惑を掛ける事になると思うと反抗する気にはなれなかった。母も「お義父さんはあなたのために言ってるのよ」と支えてくれた――少なくともその頃はそう思っていた。
そんな緊張感しかないような生活が破綻したのは、中学の終わり、私立高校の受験に失敗した事だ。地元の公立高校には何とか受かったが、養父にはそれが酷く不満であったらしい。養父は健輔をいつものように「育ちの悪い野良犬」と詰った挙句、母に「お前の育て方が悪かったからだ」と罵り、頬を打った。
その光景を見た途端に張りつめていた糸が切れ、気付くと健輔は養父に掴みかかっていた。キッチリしたワイシャツの襟元を掴み上げ、躊躇なく鼻面に拳を叩き込もうとした刹那、「やめなさい!」と金切り声が聞こえてきた。見ると母がまるで異常なモノでも見るような目で健輔を睨みつけていたのだった。母も一緒になって「どうしてお義父さんの期待に応えられないのこの恩知らず!?」とヒステリックに叫ぶのを聞いた時に健輔の中で何かの糸が切れた。
結局母は自分よりもこの男を選んだだけだ、地元の友達から引き離され、新しい友達すら作れず孤独を感じていた時もしたくもない辛い受験に耐えていた時も養父に罵られた時も決して庇ってなどくれず、「あなたのためを思って」と言って、この自分を躾の必要な犬としか見ない男を優先したのだ。俺はずっと母さんを守るって思ってたのに、この女は自分を人身御供にして己の幸せを掴んだだけだったんだ…!
そう悟った瞬間全てがどうでも良くなった。養父の言いつけを守る事も母を庇うことも何もかもが。その結果だろう、高校に入って健輔は覿面に荒れた。とにかく養父なら絶対に関わるな、と言いそうな奴らと積極的に付き合い、彼らのノリに従って酒も煙草も覚えた。自然にグループのようなモノが出来上がり、その中で健輔は生来の喧嘩っぱやさもあって、絡んでくる奴らを積極的に殴りにも行った。家にはたまに帰る程度で友達の家に泊まるなどして寄り付かないようにし、夜はバイクを持ってる友人の後ろに乗せて貰い、夜の街を爆走する快感を味わった。世間一般に言うなら不良だったのだろう、但し誓って言うが恐喝とかは一切していない。自分達よりガラの悪いグループに出会う中で自然に出来た暗黙のルールみたいなものだった。
グループの中には健輔と同じように親との折り合いが悪かったりと似たような境遇の者が多かったようでそうした縁から自然と繋がっていったからだろうか、結束は固かった。女子も数名いたし、そんな中で初めてガールフレンドも出来た。世間様からすれば風紀を逸脱した鼻つまみ者の集まりと謗られても無理はないし、たまに顔を合わせた養父や母からも「あんな落ちこぼれとつるむのはやめろ」と何度も釘を刺された。それでも当時の健輔にとってはそこが唯一の居場所であったのだ。
そんな生活が破綻したのは17歳の頃、ギリギリで進級し高3になった春であった。グループの女子の一人が下校中に拉致される事件が起きた。健輔達は心当たりを含め、徹底的に探したがその日のうちには見つからず、二日後荒川の河川敷に打ち捨てられていたのが発見された。女子は酷い暴行を受けていて、一命こそ取り留めたが決して消えない傷を体中に刻まれ、左足に障害が残るだろうと診断された。警察はまず真っ先に自分達を疑うだけ疑って、終ぞ犯人の事は教えてくれなかったが、その後自分達で調べた結果、他の地区を根城にしている暴走族…それどころか半グレの集団だったと判明した。こちらよりも遥かに規模も大きく、場合によってはヤクの販売なんかもやるかなり危ない集団だったが仲間を傷つけられ、気が立っていた健輔は一も二もなく、そいつらに喧嘩を売りに行こうと皆に発破を掛けた。そして結局健輔の音頭に乗る形でそいつらが経営しているというクラブに殴り込みを掛けたのだ。
結論から言うと健輔達は徹底的に負けた。向こうは20人以上の頭数がいたのに対して、こっちは女子を除いてたったの8人、「気力なら勝ってる」なんて精神論が通用する相手ではなく、殺されずに済んだのは単に危険を察知した女子が馴染の生活安全課の刑事に掛け合って警察を呼んでくれたからに過ぎない。
全員それなりに大怪我を負ったが、中でも健輔は左腕と肋骨を折り、しかも折れた骨が肺を傷つけるという重症だった。半年以上の入院を余儀なくされ、漸く退院した時には養父から今度こそ三行半を突き付けられた。曰く「もうお前に金は出さん、もともと縁も所縁もない人間なのだからこれからは勝手に生きろ」と。母はそんな養父の後ろで怯えるように顔を背け、血を分けた息子の顔を見ようともしなかった。
こっちの台詞だと吐き捨てて家を飛び出したが、さりとて行く所がある訳ではない。仲間の所に行かなかったのは自分が喧嘩をしに行こうと言わなければこんな事にはならなかったのではないか、という罪悪感があったのと地元にいるとあの半グレ達が自分を見張っている気がして気が休まらなかったからだ。ハッキリ言うと健輔は恐怖によって心も折られたのだ。
更に高校を半ば中退するように飛び出し、学も資格も碌にない若造に仕事のアテなどなかった。あるのは多少腕っぷしの覚えくらいだったが、何かなる訳ではない、漫画ならボクシングジムの会長とかに拾われて、なんて事にもなったろうがそんな都合の良い話などある筈がなく、現実にはせいぜい暴力団の使い走りにでもなるしか道はないのだろう。でもそれだけは死んでも御免だ、暴力はもうウンザリだったのだ。
散々迷った末に養父から貰った手切れ代わりの僅かな金を持って大阪に向かった。なんで大阪かと言うと単に東京から離れたかったのと商売の街なら何か仕事があるかも知れないという何の根拠もない期待に縋っての事だった。
まず大阪の萩之茶屋周辺を拠点にしてそこで1年暮らした。そこからは全国津々浦々から流れてくる人の話を頼りに、日本中を回って日雇い労働に従事した。そんな生活を続ける事そろそろ5年になるだろうか…。今はこうして東京に帰ってきて、でも結局自分の立場は何も変わっていない。自分の心は結局あの日本堤のアパートとその周囲から一歩も離れていないのかも知れない――
「おい、どうしたケンボー?もう飲みすぎたか?」
突然肩を揺すられ、健輔はハッと我に返る。目の前にゲンさんの赤ら顔が心配するような、不思議なモノでも見るような目つきで顔を覗き込んでいた。どうやらだいぶ干渉に浸って普段なるべく思い出さないようにしている昔の事を思い出していたらしい。
「す…すみません、なんか感傷に浸ってて…」
「なぁに詩人みたいな事言ってんだ、明日も仕事だろうが、お前まで倒れたら叶わんわ」
ゲンさんはそう言って健輔の肩を叩くとガハハと笑った。それから暫くして飲み会はお開きとなった。
飯場の部屋と言うのは酷く粗末なものだ。
プレハブの小屋は狭いし夏は暑く、冬は寒いという有様で当然風呂やトイレなんてものは備え付けられていない、全部外だ。まあそれでも外のホテルなんかに泊まるより格段に安いので別に構わないのだが。俺は根無し草だ、草は寝床に快適さなんて求めない。因みに風呂は歩いて15分掛かる銭湯に行くかこれまた粗末な構造の共同風呂に行くかのどっちかだ。
共同トイレで用を足した健輔は部屋に引き返そうとした所でふと母は、そしてかつての仲間達は今どうしているのだろうと思った。
当時は母の裏切りは許せなかったが今思うと極貧の生活を経験したからこそもうあの頃には戻りたくないと思えたのだろうと今なら考えられる。自分が学のない人間だからこそ水商売しかする事がなく、だから息子にはその轍を踏んで欲しくはない、という想いが厳格な養父と共に暮らすうちにこの生活を失いたくない、という想いに変わって行ってしまったのかも知れない。
そう思うなら何故もっと孝行してやれる道を選べなかったのだろう…結局は養父の言った事が正しかったのではないか…?今の自分の状況を鑑みるとどうしてもそういう思いが頭をもたげてくる。
でも…それでも高校時代に仲間たちと出会えたことは無駄ではなかったと思いたい。結果として自分は日本中でいつも土を弄る生活を送る事にはなったが、皆と出会えてなければもっと荒れた生活を送るか、養父のような他人を野良犬と見下す酷くつまらない大人になっていたかも知れない。
この場所からなら生まれた町まで1時間足らずで行ける筈だが、でもやっぱり行く気にはならなかった。確かめるのが怖いというのが一番の理由だろう。会いに行くのも勿論なんだか今何をしているのか、その程度の事さえ怖がって考えられない自分がいる事に気付いた。
つまらない感傷はよそう、明日も働くんだし…と頭を振って健輔は部屋に戻る道を引き返したが、突然建物の陰から出てきた人影とぶつかりそうになり、慌てて後ずさるはめになった。驚いたのは向こうも同様らしい、こちらの姿を見咎めた山下は最初こそ僅かに目を見張っていたがすぐにいつもの無表情に戻るとペコリと頭を下げて健輔の脇をすり抜けていった。
山下がこの飯場に来たのは確か1ヵ月ほど前、ちょうど《スカルマン》の一件で中断されていた工事が再開された辺りだった。人出をケチっていた親会社も《スカルマン》のせいで他所の現場に逃げていった奴らの分の補填くらいは考えたらしい。新たに現場入りした数名の中に山下もいた。
入ってすぐに周囲からはとにかく変な奴――呑みに付き合ったりもしないし、一人でいる事を好み、おまけに休日は何処かに姿を消すなどと言う噂も流れていたので、そう言われていた。実際彼は決して背が低い訳ではないがさほどガッチリした体型でもなく、進んでこんな肉体労働に従事したがるタイプにも見えなかった。でもこうして呑みに行ってみると感情こそ読みづらいがさほど異質な奴と言う気もしなかった。昼間によぎった、こいつは何者なんだろうという疑問が急に顔を出してくるのを感じ、健輔は気付いたら「山下」とその背中に声を掛けていた。
山下は何も言わずに振り返った。声にこそ出さないがその瞳で「なんか用ですか?」と冷静に訴えかけているのを感じた健輔はしまった、と己の迂闊さを恥じた。ここではどうあれ過去を詮索する事はNGなのだ。なんとか咄嗟に取り繕おうとあれこれ考えを巡らせた結果、
「昼間の件、どうもありがとうな。お陰で皆助かった」
とそれだけ告げた。それを聞いた山下も一瞬何処か納得したような表情を浮かべると「別に。当然の事ですから」と素っ気なく答えると踵を返して共同トイレの方に歩いて行った。アイツが何者かなんて気にする必要はない、と健輔は改めて思う。どうあれここで働く以上はアイツは俺達の仲間だ、と今度こそ部屋に戻ろうとした所で「土枝ァッ!」という怒声が背中に突き刺さった。
思わず振り返ると顔を真っ赤にした
「今日はよくも調子に乗ってくれたなぁ、てめえら人夫如きが俺に逆らいやがって…」
背中の痛みに思わず顔を顰めた。顔に吹きかかる息が酷く酒臭い、どうやら現場事務所で残務を引き受ける事になり、家にも帰れず酒を煽っていたという所らしい。この荒れ方だとかなり上の方から叱責されたのかも知れない。それで俺達に八つ当たりってトコか…、相変わらず小さい男だ――次の瞬間今度は後頭部ごとコンテナに叩きつけられ、先程よりも遥かに強い痛みに思わず声が呻き声が漏れた。
「なんだその目は?俺の事を見下してんのか、この
野良犬、その言葉に健輔は怒りや反抗心といった強い感情が急速に萎えていき、体が芯から冷えていく感覚を味わった。その言葉は養父が自分を罵る時に好んで使った言葉だ。その一言に健輔は14歳の自分に――養父に詰られながら何も言い返せず、機械のようにごめんなさいと繰り返すだけの子どもに戻っていくような感じさえした。
頭がガクガクと揺さぶられ、後頭部に硬い感触がする。だがもう痛みは感じなかった。意識は体から切り離され、手足は立っているのが不思議なくらい弛緩していく。顔に酒と臭腺とヤニが混じった吐息が降りかかる。
「いいか、犬は犬らしく俺の言うことを聞いてりゃいいんだ、俺とお前じゃ立場ってモンが違うんだよ、ニンゲン様の真似をするなお前ら役立たずの野良犬は――」
「黙れよ」
刹那低い声がそれ以上の
投げ飛ばされた現場監督は最初こそ「誰だ俺を誰だと思って…」と威勢よく喚いていたが、顔を上げ山下の姿を目に捉えると途端に顔面を蒼白にして、立ち上がりもせず尻をついたまま後ずさり始めた。背を向けている山下の顔は見えない、しかしその姿はいつも何処か冷静で周りから一歩引いているような態度の山下とは違って見えた。一体
もともと拮抗していた訳でもない睨み合いはあっさり終わった。奇妙な悲鳴を上げながら
「大丈夫ですか先輩?」
現場監督が去って行くのを見届けてから、山下がゆっくりと健輔に寄ってきて声を掛ける。その声はまごう事なきいつもの山下幹夫のものだった。健輔は恥ずかしいやら情けないやらで答えらえないでいると山下の方から健輔を肩で支えて立ち上がらせた。今日はコイツに世話になりっぱなしだなと頭の片隅でふと考え、健輔はやっとの思いで
「悪いな…今日はお前に助けられてばっかりだ」
と絞り出した。
「余計な事は言わないで下さい。とにかく戻りましょう。明日も仕事ですし…」
山下の声はあくまで冷静で、でもひどく優しい声だと感じた。さっきのアイツの背中からはいつものコイツとは違った感覚――近いものなら殺気のような――がしたように見えたがたぶん気のせいだろう。恐らく自分も
そう言えば
「明日からあのハートマン野郎、どうなるのかな?変に目付けられなきゃ良いけど…」
「たぶん大丈夫でしょう、もともとそんな度胸のある奴じゃない、黙って仕事してれば何か言える奴じゃないですよ」
仕事中に余計にいびられるのではないかと心配する健輔とは逆に山下はあくまで冷静だ。やっぱコイツはタダモノじゃねえなと思い、何故か微妙に可笑しさがこみあげてくるような気がし、コイツの正体を詮索する気などさらさら失せていくのを感じた。
「あ、そう言えば…」
唐突に足を止め、山下が健輔の方を見る。珍しく口元に笑みが浮かんでいる。
「そのハートマン軍曹ってのはやめた方が良いですよ、迫力も威厳もサッパリでロナルド・リー・アーメイに失礼だ」
その言葉に健輔は今度こそ大爆笑した。
…またしても1万字越え…長いあまりにも長い…
亀更新な上にこんな仮面ライダー要素のカケラもない話書いて俺は一体ナニやってんだ!と思う事多々。でもここ書かないと話にならないので書かざるを得ない訳ですよ…
ファンタジーと現代ものは書かなきゃいけない事が多すぎると言うのが持論(&言い訳)
今回登場した二人の男は今後も主要な登場人物として出てきます。是非今後の動向にご注目下さい。
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では次回まで気長にお持ちください。