「雪菜? ……あのさ、ボタンをもう一つ閉めた方がいいと……思う」
「暑いから良いんですぅ」
水泳部の後輩である雪菜は、ブラウスの胸元を摘み、ハンディファンでその内側に風を送り込む。耳にかけそびれた髪が汗で首筋に張り付いていて、いかにも暑そうだ。そして、俺の忠告を聞く素振りは全く無い。
「あのなぁ。見えてるんだけど」
意を決して、さっきの発言の理由を告げる。
「何がですか?」
「下着!!!」
言わせないでほしい。
「ああ。これ。水着なんで大丈夫ですよ。何ならここで制服、脱いじゃってもいいですか? 暑いんですよねぇ」
彼女はこっちの気も知らないで、カラッと朗らかに答えた。上目遣いの目元、まつ毛の長さやスッとした鼻筋、厚めの唇を尖らせる癖を目がなぞる。
「は? バスの中で脱ぐとか変態だろ?」
そんなキモい自分を悟られなくて、強めに言葉を返す。
「私たち以外乗ってないし、いいんじゃないですかね?」
雪菜は再びブラウスの内側に風を送った。
夏休み。部活に向かうバスの中で、彼女と偶然居合わせていた。空いている車内で俺を見つけて、子犬のように駆け寄ってきてからの、これだ。
「運転手もいるだろ。次のバス停で乗る人もいるだろうし」
「今日、新しい水着なんですよ。冬紀センパイに見せたらすぐ着るから大丈夫ですって」
雪菜はそう言って、閉まっている方のボタンに手をかけた。
「ちょっと待って、ほんと、公共交通機関の中だし、やめて」
「……二人きりだったら良いんですか?」
「え?」
それはそうだ。バスで脱ごうとするから必死になって止めているわけだし。二人きりなら、生着替えなんて大歓迎だ。でも、そんな下心丸出しなことを面と向かって言えるはずがない。
「二人きりって、どんなシチュエーションだよ。それに水着なんてフツーに部活で見えるだろ」
「一番初めにセンパイに見せたかったんです」
雪菜は頬を膨らませた。
それって、どういう意味だ? ぐるぐると思考を巡らせ答えを探す。彼女はそれを待たないで耳打ちをした。
「センパイ。私と付き合えますか?」
「は?」と、返すのが精一杯だった。
耳元から離れた雪菜は、いたずらに微笑んで続けた。
「冬紀センパイと付き合うと、タイム伸びるって都市伝説があるの、知ってました?」
そして、雪菜は何もなかったようにブラウスのボタンを一つ閉める。
マジかよ。
俺は今まで女の子と付き合ったことなど一度も無い。もちろん男ともない。なので、その都市伝説は一体どこから発生したのか、全く見当がつかない。色々と考えているうちに、バスは学校前に到着していた。
「センパイ、バスで言ったこと、みんなに内緒にしてくださいね」
雪菜はそう言い残すと、俺を置いて足早に学校へ向かった。
その都市伝説は、単に雪菜の照れ隠しだったことが解ったのは、夏の大会が終わった頃だった。