アルダンとの距離感
学舎までの並木道が銀杏の鮮やかな黄色に染まる頃。
俺はデスクの書類の山という現実から目を逸らし、秋に色付くトレセン学園を眺めていた。
「もう3年か...」
担当ウマ娘と駆け抜けたトゥインクルシリーズ、そしてURAファイナルズ。
一段落ついた今、少しだけ気が抜けてしまった。
コンコンコン...控えめなノックが聞こえた。
「うん?どうぞ」
控えめなノック。オートロックを解除して入室を促すと、一人の美しいウマ娘が入ってきた。
「こんにちは。トレーナーさん♪」
ふわりとした美しい空色の髪。菫色の優しげな瞳。その美しい瞳は全ての荒んだ心をを癒してくれるような気がした。
彼女の名前はメジロアルダン。俺の大切な担当ウマ娘だ。
「こんにちは、アルダン。今日のトレーニングは休みだよ。というか鍵持ってただろ?」
「ええ。ふふっ...トレーナさんにお会いしたかったのですよ。それに、ノックされた方がドキドキしませんか?」
「...言われてみればそうかもな...」
花が咲いたように微笑んで、胸元に手をあわせて楽しげに目を細めるアルダン。ソファに腰掛ける所作の一つ一つに至るまで全てが優雅で美しい。
...ん?少し顔が赤いような気がするな。
心配ではあるが...その豊かな胸元に思わず視線が吸い寄せられてしまう...
「...お茶淹れるよ。」
出来るだけ意識せずに答えようとする。
「ふふっ...トレーナーさんならもっと見てもいいんですよ?」
...どうやら俺の視線はバレていたらしい。
トレーナー室のキッチンで煎茶を淹れ、自分用とアルダン用のマグカップをローテーブルに向かい合って並べた。
そしてアルダンの向かい側のソファに腰かけ、急須を取ろうとするのだが...
「私にお任せください。トレーナーさんは左利きでしょう?」
「ありがとう、アルダン。いつも悪いね」
俺は左利きなのだ。この急須というやつにはどうも慣れない。
いえいえ、とアルダンは緑茶を嗜むには何の情緒も無いマグカップに煎茶を注いでくれた。
しかし、それがまるで映画のワンシーンのように絵になるのはアルダンの品性と美貌によるものだろうか。
俺は...どうしようもないくらいアルダンに夢中だ。
俺と彼女はあくまでもトレーナーと担当ウマ娘。いわば教師と生徒に近い関係なのだ。
まあ...実際はそれ以上の関係のペアも多いから今更ではあるのかもしれないが。
例えば...ファインモーションのトレーナーはアイルランドに行ったっきり音沙汰が無かったり、エイシンフラッシュのトレーナーは担当と一緒にドイツに旅立って行った。本人は旅行と両親への挨拶だと言っていたのだが、どうにも片道切符のような気がしている。
他のトレーナー寮からも...夜な夜な艶やかな声が聞こえるという噂もある。...大丈夫かトレセン学園。
「ところで...トレーナーさん」
「ん?」
アルダンからの呼びかけで思考から戻ってきた。湯気立つ二つのマグカップが横に並んでいる。
...横に?
「どうして向かい側に座るのですか?」
すこし頬を膨らませているアルダン。かわいい。...ではなくて。
「...対面のほうが話しやすくないか?」
「...遠いです」
アルダンはむくれたまま俺の右隣にくっついてきた。
ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。以前聞いてみたが、香水の類は使ったことは無いそうだ。
「ふふ...」
ぴったりとくっついているアルダン。彼女の少し高い体温が心地良い。...どうやら機嫌は良くなったらしい。
「トレーナーさん。今日は素敵なことがあったんです」
「素敵な事?」
「ええ。...今日もトレーナーさんにお会い出来ました」
ただの惚気に聞こえるかもしれない。
「そう...だな」
...しかし、身体が弱い彼女。その言葉意味は...一つ一つの重さが違う。
まあ...この3年間でアルダンの体調は飛躍的に良くなったので、以前ほど悲しげな表情は見せなくなった。
「...俺もアルダンと会えて嬉しいよ」
「ふふ...」
少し頬を染めたアルダンが微笑む。
俺たちもトレーナーと担当ウマ娘の関係から一歩進んでいるのかもしれない...進みたいのかもしれない。
ふと、穏やかに微笑んでいたアルダンの表情が真剣なモノに変わった。
「トレーナーさん、パーソナルスペースというものをご存知でしょうか?」
「他人に許容できる個体距離のことだったか」
「はい。他人に近づかれると不快になる距離のことです。50cmから1.5m程度が仲良しさんの距離だそうです」
突然どうしたのだろうか。その理屈でいうと0cmの俺たちはどうなるのだろうか。
「私との距離は...不快ですか...?」
不安げに揺れる菫色の瞳。...それは聞くまでもないことだろう。
「そんなことない。まあ...肌寒かったから丁度快適だよ」
照れ隠しに変な理由付けをしてしまう。...本当はドキドキしている。彼女の柔らい身体が触れる度にドキドキしてしまう。
...20代半ばにもなって10代の少女に対してこんなにもときめいていることが恥ずかしい...
「む..」
少し不満げなアルダン。どうやら回答に納得いかなかったらしい
いやな予感がする...
「えいっ」
「えっ?」
かわいらしい掛け声とともに、腰に抱き着くアルダン。
「アルダンっ!?」
「私とくっつくのは寒いからですか?」
「離れなさい...」
「いやです。本当のこと言うまで離しません」
出たな頑固アルダンモード...というかパーソナルスペース関係ないような..
「アルダン...わかったよ。アルダンとは0cmでも全然不快じゃないよ」
「...抱きしめてほしいえす」
腰にへばりついてぐりぐりと額を擦り付けるアルダン。そんな彼女を右手に抱きながら頭を撫でる。
さらさらとした髪と熱くて柔らかな耳が心地良い
熱くて?
「アルダン、おでこ触るぞ」
「だめえす」
脇腹に頭をこすりつけてくぐもった返事をする駄々っ子アルダン。
「やっぱり...熱があるな」
最近は体調を崩すことがめっきり少なくなっていたので油断した。本人も久しぶりのことだったのだろう。
「ほら、こっちにおいで」
このトレーナー室には仮眠室があって、そこにベッドスペースがある。本来の用途はその名の通り仮眠用なのだが、俺は主にアルダンの休憩用に使用している。
「ふあ...トレーナーさん...?」
甘えん坊モードのアルダンを横抱きにしてベッドへ連れていく。
あの脚力からは考えられないほど軽くて柔らかい身体だ。
「アルダン、苦しくないか?」
「大丈夫です...ありがとうございます。」
「こっちこそ気づいてあげれなくてごめんな。」
思えば今日は様子が少しおかしかった。意外とはっきりとものを言うアルダンではあるが、自分から積極的に甘えてくるタイプではない。
「いえ..私も油断していました..朝から違和感はあったのですが、放課後にトレーナーさんに会えることを考えると..我慢できませんでした」
「アルダン..」
「いけませんね..私のわがままで、またトレーナーさんにご迷惑を...」
「迷惑じゃない。ワガママでもない。俺もアルダンに会いたかったんだ。でも...無理はダメだ」
「はい...」
耳がペタンと倒れ、しゅんとなってしまった。...たまらずに彼女の頭を撫でた。
「トレーナーさん...?」
そんな彼女に...
愛しい愛しい...メジロアルダンに...
アルダン......俺は.....こんなにも...
「こんなにも...君に惹かれてしまうなんて...」
「えっ」
「うん?あっ..」
まずい...口に出ていた。
「私は...」
アルダンが俺の左手を包み、胸に抱く。
「私はトレーナーさんともう少し近づきたいです」
それはいけない...
「私だけ見てほしいです」
「アルダン。この話はまた今度しよう」
今は正常な判断ができないだろう。お互いに。
「トレーナーさん...」
アルダンが今にも泣きそうな表情をしている。
これで良いのだろうか...?
俺は...なにを躊躇しているのだろうか...?
「アルダン...今度ちゃんと答えるから」
「いま...今聞きたいです」
彼女は譲らない。
「...わかった」
もうこれ以上抑えが効かない。
これ以上悲しげに潤んだ菫色の宝石を見ていられない。
....これ以上、アルダンへの気持ちを抑えられない。
俺は残りの右手でアルダンの手を包み、菫色の瞳を見据えた。
「...アルダンのことが好きだ。俺も...アルダンを独り占めしたい」
「っ...!」
感涙で濡れていく菫色の瞳。
「ありがとう...ございます」
涙を流しながら笑顔になるアルダン。
あぁ...そうだ。この顔が見たかったんだ...
この笑顔を独り占めしたかったんだ...
今まで何を躊躇っていたのだろうか...馬鹿馬鹿しい。
「もう...逃がしませんからね」
「えっ」
ギラリと光る菫色の瞳。
.......少し取り返しのつかない選択をしてしまったのかもしれない。