夜の帳が下りてしまった海岸線を2人で歩く。
外灯が少ないこの道は月明りが道筋を照らしていた。
「寒くないか?」
「はい...トレーナーさんの手が温かいので」
貝殻繋ぎで密着している身体は温かく、その温もりが全身に広がるようだった。
アルダンはご機嫌な様子でニコニコしている。
静かな夜の道には穏やかな波の音と2人の足音しか聞こえない。
秋深いこの頃は空気が澄んで夜空が綺麗だ。
それに都心部から離れたこの地の空は人工的な光が届かず、澄んだ空はそれを反射せずに月明りにだけその道を通るのを許す。
「月が綺麗だな...」
銀色の十三夜月が淡く光り、ぼんやりと歩道を照らしてくれているので歩くのには困らない。
「ふふふっ...トレーナーさんと見ているから綺麗なのでしょうね」
特に意図して言ったわけではなかったが、アルダンのその返す言葉で夏目漱石の翻訳の逸話を思い出した。
....であれば、返す言葉は決まっている。
「ずっと綺麗だったけれど、今はアルダンと見ているから特に綺麗なんだな」
「まあ。ふふ...お上手ですね。私はずっとあなたのモノですよ」
そして...と囁き顔を俺の耳元に近づけた。甘い香りがふわりと香る。
「あなたは私のモノ...です♡」
ちらりと見え隠れするアルダンの強い独占欲だが、それも含めて彼女の魅力に見えてしまう。
どうやら俺も専属トレーナーから生涯の伴侶へと変遷していった諸先輩方と同じところに立っているようだ。
彼女は顔を離し、絡み合う手に少し力を入れた。まるで...もう離さないという意思表示かのように。
しかし...その美しい相貌を見ると、柔らかそうな頬は朱色に染まっていた。どうやらアルダンもに恥ずかしかったらしい。
そのあまりにも愛らしい姿に思わず頬が緩みそうになった。
このお姫様は.......どこまでも俺を魅了してくる。
「顔、真っ赤だぞ」
「うぅ...トレーナーさんこそ、お顔が赤くなっていますよ?」
純情と魔性が同居するいたずら好きなお嬢様、メジロアルダン。
その魅力は銀色の光が照らす夜道でも際限なく溢れ出していた。
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ふと、ポツンと海に向かって設置してあるベンチを発見した。
ホテルからほどほどの距離まで来たのでここを折り返しの地点としよう。
「少し休憩しようか」
「はい」
俺たちは少し古びた木製のベンチに腰掛ける。
触れてみて気づいたが、見た目こそ年季が入っているけれどきちんと防腐処理と補強してある。表面も処理が丁寧で座り心地が良い。
俺はハンカチを広げてアルダンの座る場所に敷いた。
「さあどうぞ」
アルダンの白く柔らかい手を取ってエスコ―トの真似事をしてみる。
「まあ....ありがとうございます♪」
見様見真似ではあるが、アルダンは満足してくれた様子なので少し安心した。
俺も隣に腰掛け、アルダンが寒くないように腰に手をまわして抱き寄せた。
「ひゃっ....もう、トレーナーさん?...時折、天然で女の子がドキドキする行動をされていますよ...?」
頬を染めたアルダンが上目遣いで俺を見つめている。
「さっきのハンカチのこと?」
それなら自分でも少しキザだな、とは思ったけど。
「それだけではないのですが....自覚が無いなら結構です。...私だけにそのお姿を見せて下さるだけであれば安心できるのですけど...」
頬を膨らませたアルダン。
どうやら、他の子にも同じような振る舞いをしていると思われているらしい。
「心配しなくても俺がキザな振る舞いを見せても、きっと受け入れてくれるのはアルダンだけだよ」
他の女性にも振る舞っていれば、それは質の悪いナンパ師だ。
「ふふっ....ご自覚が無いのでしたらもう結構です」
ツンツンと頬を突かれてしまった。
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「.....」
「.....」
俺たちは特に会話もなく、静かに海を眺めていた。
別に喧嘩しているということも、会話がなくて気まずいということでもない。
ただただ...2人の呼吸が重なり合い、ほのかに聞こえる穏やかな波の音だけが聞こえているこの空間が....とても心地良い。
「...くしゅん」
少し寒いか。アルダンが風邪をひいてはいけない。俺のコートをアルダンのダッフルコートの上から着せた。
「そんな、トレーナーさんが風邪をひいてしまいます...」
「俺は大丈夫だよ。でも、そろそろ戻ろうか」
「はい...ありがとうございます」
そして、再び訪れる心地良い静寂。今度は冷たい空気で少しだけ身体が冷えていく。
その時、体が暖かい感触に包まれた。
「もう...体が冷えていますよ?」
そう言いながら俺を抱きしめてくれている。
「ありがとう...おかげで暖かいよ」
「いえいえ♪」
...ふと、これまでの事を思い出した。
最初に病院で見かけたその時から、俺はメジロアルダンというウマ娘のことが頭から離れなかった。
今思えば、ダート1200mを走り切った姿を見たときから魅了されていたのかもしれない。
空色の髪をなびかせて走る優雅な姿
何度も倒れて周りから距離を置かれても立ち上がる姿
それでも走ることが大好きで諦めない姿
お淑やかなのに好奇心旺盛で無邪気な姿
真っすぐに見つめてくる菫色の瞳
アルダンが見せる全ての一瞬、アルダンが見せる全ての姿。その全てに...どこまでも恋してしまっていたのだろう。
「トレーナーさん」
アルダンの柔らかい声が耳に届く。
「うん?」
「私は...トレーナーさんと出会えて本当に良かったです。ダート1200mの選抜レースの後に、他の方と契約した未来もあったかもしれません。しかし、私が大きなチームに誘われて、皆様と同じようにトレーニングしても...恐らく引退の時期が早まるか、あるいは...」
その先は想像もしたくなかった。
「そうなる前に、私は...引退してメジロにご縁のある方に嫁入りしてメジロの血を継ぐという未来になっていたでしょう。事実、何人も申し出があった、と両親から聞いております」
アルダンは名家のお嬢様だ。そのような話があっても不思議では無い。
しかし、自分以外の誰かの所にアルダンが嫁いでいく姿を考えるだけで...心が激しく乱された。
「ふふっ...そんなに強く抱きしめなくても私はどこにも行きませんよ」
無意識のうちにアルダンを強く抱き寄せていた。
「そのときはお婆様が丁重にお断りをしてくださいました。デビュー前の私の可愛い孫娘達を嫁にくれとは何事ですか、と」
あの愛情深いメジロ家現当主のお婆様ならそう言うだろうな。
「そして...あなたが心から慕う方を連れておいでなさい、と」
アルダンが俺を見据える。
「トレーナーさん....そのときは、一緒に来てくださいますか...?」
その覚悟はいつでも決まっている。
「もちろんだ。ご両親や当主様に認めてもらう為ならなんでもするさ」
菫色の瞳が濡れてゆく。
「ありがとう...ございます。...大好きです...トレーナーさん...っ」
「俺も...大好きだ。愛してる」
俺はその美しい瞳から目を離せなかった。
そして吸い寄せられるようにその近づいていき
十三夜月の下で、その影は初めて1つに繋がったのだった。