2025年、5月10日。
その日、アタシの運命が変わった。
きっかけはなんということは無い。いつものように、学校の図書室で自習をした帰り。
すっかり日が落ちて暗くなった学校を後にしようとしたその時だった。
アタシは、ゾッとするほどに恐ろしい世界に迷い込んだ。
いや、それはずっとアタシのすぐ側にあって。何らかの拍子で簡単に足を踏み入れることが出来てしまう。
それがたまたまその日、そのタイミングであったというだけなのかもしれない。
アタシはつくづく運が無くて、才能も無くて、これまで上を見上げることしかできなかったから。
きっとこれも誰かのための機会であって、アタシの為の機会では無いのだろうけれど。
それでも、アタシはやっと運命が回り出したのだと思った。
これからがアタシの手番だと、そう確信していた。
□
正直言って、分からない。
それは自分自身のことであり、アタシにとっては一種のアイデンティティのようなものとなっているその性質、要するに自身の性格についてであり。
はてさて、どうして自分がこんなにも負けず嫌いなのか。
アタシには全く分からない。
だけれども、一つだけ確かなことは────。
『冥定院玲、アンタは必ずアタシの足下に這い蹲るのよ』
『大きく出ましたね、瀬能機空祢。貴女が、わたしに勝てる道理など無いのに』
可愛くないヤツ。こんな時に思い出される記憶ですらこんなにもムカつくとは。
でも、冥定院玲という女はそれで良い。
アタシなんかよりよっぽど才能があって、努力の量以外じゃ今のところ勝てる要素が無い圧倒的な存在。学校ではいつもアタシのひとつ上。勉学においても運動においても、アタシはこの女にひとつとして勝てた試しがない。僅差ではあっても、全てにおいて僅差で負けているならそれは絶望的に差となる。凡人であれば、アタシでなければ折れてしまうような差だ。
それで良い。だからこそ良い。
『言ってなさい。アタシは必ず勝つ女、アンタなんて通過点にもならないから!』
『ふふ、期待してますよ』
一つだけ確かなこと。それは。
アタシの上に居続けるコイツだけは、絶対に超えなきゃいけないってことだ。
だと言うのに。
ああ、アタシが愚鈍過ぎたからいけないのか。
時間は当然過ぎ行くもので、彼女との間にある溝を埋めるためにアタシに与えられた時間はあまりにも短かったということなのだろうか。
ああ、だとすれば何とも忌々しい。
自分にできることが分かっているから。彼女を超えるために必要な努力が膨大で、どれだけの時間が掛かるのかもある程度理解していたから。
もし仮にそうだとすれば、アタシは単なる道化ではないか。
本当にムカつく。
絶望しかけたアタシに、諦めかけたアタシに、今にも
「マスター、トドメは?」
「……刺さなくて良いです。きっと死にますから」
「了解」
アタシの生涯のライバル候補と、この世ならざる圧倒的な雰囲気を纏った黒い鎧姿の男が、学校の廊下で血の海に沈むアタシを見下ろす。
玲は、どこか淀んだ雰囲気を纏ったその男に一言告げると、踵を返して去って行く。
失血のせいか、もうほとんど意識も保てていなかったアタシは、霞む視界の中で精一杯にその後ろ姿を睨み付けるしかなくて。
「……すまないな。ここで死なせることも、マスターの慈悲だと思ってやってくれ」
玲を
……ふざけんな。
そう吐き捨ててやりたい。そんな目で見るな。アタシはアンタに哀れまれるような女じゃない。
「……っ、ま、ちなさいよ……!」
「喋らない方が良いですよ。どの道、貴女はもう助からない。残った数分、数秒を縮めるだけです」
背中越しにかけられるあまりにも拍子抜けするそのセリフに、一瞬思考が停止して。
アタシはすぐさま身を焦がすような怒りを覚えた。
「玲ィ……っ! アタシを見なさいよ……ッ!!」
「……貴女には魔術師としての才能があった。令呪を得るには十分な素質も。だから、貴女とこのような舞台で戦いたくはなかった」
「っ、何勝手なこと……ごふっ……げほっ、けほっ」
「貴女とは互いに公平な土俵で戦いたかった。でも、ここに踏み込んでしまったからには、不平等な舞台で格下の対戦相手として理不尽に殺すよりも、こうして簡単に終わらせてしまうべきだと判断しました」
ああ、クソ。頭が痛い。意識が続かない。
聞こえているのに、半分も理解出来ていない。
魔術師ってなんだ。令呪? 何を言っている。アタシに分かるように言え。そう言いたいのに、そんな思考はどくどくと失われる血のようにどんどんと流れていく。
でも、これだけは言える。
それはアタシがアタシであるからこそで。
「ざっけんじゃないわよ……! アタシなら、どんだけ遅れてても、アンタに追い付ける! アンタを超えられる……ッ!」
「無理ですね。わたしは少し、強過ぎますから」
「〜〜ッ!」
何の感情もない。哀れみも、嘲笑も、同情も無い。ただ客観的に見てそうだから、アタシの努力は意味が無いのだと言われている。
アタシが一番嫌いな見られ方。何もかも知らないから、アタシに反論の余地はなくて。
何も言い返すことができなかった。
「……そろそろ限界でしょう。もう楽になってください」
「っ、ぐっ」
たしかに彼女の言う通りだ。
もう限界が来ていた。身体は動かない。頭も働かない。
あるのは底知れない怒りと、身体を巡る痛み。
これがアタシの終わりなのだろう。嫌な予感が、最悪の確信に変わる。
……なんで、そんな顔してんのよ。最低ね。
アンタにそんな顔されたら、死ぬに死にきれないじゃない。
本当に身勝手で腹が立つ。
アタシのこと一方的に殺しておいて、今更寂しそうな顔すんじゃないわよ。
本当に最悪だ。なおさら死ぬわけにはいかなくなってしまった。
……やるしかない。幸い、アタシを刺し貫いたあの男はここにはいない。ならば何とかなるはずだ。
「アタシってば、バカね。でも、アタシよりバカなアンタは救いようがないくらいバカよ」
「……この状況でも減らず口が叩けるのは、流石と言うべきでしょうか。気が変わりました。わたしがトドメを刺しましょう」
あら大変。アタシの一世一代の罵倒は、思ったよりも効果的だったらしい。
つかつかとブーツを鳴らして歩み寄ってくる彼女の気配を、おぼろげながらに感じつつ。アタシはその時を待つ。
チャンスは一回。それも全ては運頼み。
そして、彼女がアタシのすぐ側までやってきたところで────。
「マスター。分かってるんだろう? これは手負いの獣だ。トドメなら俺に」
「……そうですね。これはわたしの甘さとの決別。ここは敢えて、貴方に任せるといたしましょう」
いつものアタシなら舌打ちの一つでもしていたに違いない。
実に呆気なく、万策尽きた。アタシの抵抗はもうなにもない。
何か、恐らくはアタシを貫いた槍を再び構える音がした。
そして一瞬の静寂の後。寝転がるアタシに向けて、それが振り下ろされて。
「瀬能さん。ここでお別れです」
アタシは、己に突立って命を奪い取るであろう男の得物のことや、十六年という生涯の無為な終わりのことではなく。
ただ、ただ。
まだ死ねない。
アタシがこの女に勝って、その顔を悔しさ一色に染めるまで、アタシは終わることなどできないのだと。
それだけを、もっと言えば愚かしくもここから生き残る術だけを考えていた。
そんな、生き汚いアタシだからこそ。
「────少し待ってもらおう」
「「っ!」」
キィィンという鋼と鋼が打ち付け合う音。
玲でも、槍の男でも、ましてやアタシの物でもない第四者の声が廊下に響き渡る。
その女の声は、力強くも優しくて。絶大な安心感をアタシに与えた。
「サーヴァント……!」
「如何にも。サーヴァント、明のセイバーだ。マスターの危機に馳せ参じた」
意味は分からなかったが、それでもアタシの味方であるということはなんとなく分かった。
……でも、さすがに限界か。
仕方無い。もう全部彼女に任せよう。
アタシの信条に反するが、今のアタシには何も出来ないということくらい分かっている。そして、生き残らなければ玲に勝つことなんてできないのだ。
アタシは、それでも最後に後ろ姿くらい拝んでおかなければと痛む身体を押して顔だけ向ける。
「マスター、そのままお待ちを。すぐにこの窮地を脱してみせますとも」
白い甲冑姿の女はそう言うと、剣を構えて男に斬り掛かる。その姿は素人目に見ても洗練されていた。ともすれば、あの男と互角にやり合えるのではないかと思えるほどに。
ふふ。
ならば、この騎士サマには精々有言実行してもらいましょう。
アタシはその後ろ姿を睨み付けて、とうとう意識を手放すのであった。
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