―――はやっ!
双方が身構えた、次の瞬間だった。左斜め上からの一閃で、女ものの剣道袴の裾がざっくり切り裂かれた。
新参とはいえ、自分も「柱」の一人。かろうじて半身をよじるだけの瞬発力はあった。さもなくば右腕の尺骨が砕かれ、木刀は跳ね飛ばされていただろう。つまり、一瞬で「勝負あり」だった。
その一閃で、会場がざわめいた。「柱」の面々でさえ、一瞬呼吸を忘れた。
―――打った……打ちやがった。骨をも砕く一撃を。
誰も言葉は発しないが、息を呑む気配が波のように押し寄せる。
袴を切り裂かれた本人だけが、その意味を理解していない。理解できたのは、いま対峙している相手が、先ほどの百人とは比べものにならないほどの強敵だということだ。
まずは小手調べ、ということなのか。相手は深追いしてこなかった。こちらが体勢を立て直すのを待ち、きびすを返して元の位置に戻ったようだ。
そうだ、これはあくまで稽古なんだ。鬼との死闘じゃない。命までとられる心配もない。
戦いながら技を磨く、あるいは、相手の技を盗む。それに全神経を集中しよう。
生来の楽観的思考で気持ちを立て直すと、恋柱はもう一度大きく深呼吸し、一礼して身構えようとした。
だが、先ほどの痛烈な一閃で恐怖を植えつけられた身体は、正直だった。動悸が早鐘のように胸を叩き、木刀を握る手が小刻みに震えはじめた。
ほかの柱たちより唯一秀でている柔軟な筋肉も、緊張でこわばりつつあった。
目が見えない恐怖もやはりすさまじく、その場から逃げ出したい衝動をこらえるのに必死だった。
たった一撃でこんなに身がすくむなんて……鬼殺隊に入隊して初めてのことだった。
誰だろう……誰なんだろう……思い浮かぶ顔はいくつかある。だが、いまそれを考えたところで仕方がない。
黒い目隠しをしていても、相対する剣士からは、沈着冷静かつ怜悧な雰囲気を感じる。敵としてはおそらく、いちばん怖いタイプだ。
そのうえ、一閃で骨をも砕く剣技の使い手だ。勝てる要素がまったく見つからない。
審判を務める炎柱が、さすがに見かねて声をかけた。
「甘露寺、呼吸が乱れすぎている。驚懼疑惑(きょうくぎわく/剣道の四戒)に陥るな。それとも、もう怖気づいたか?」
「煉獄さん………」
暗黒世界で一すじの光を見つけたように、恋柱は元師匠をふり仰いだ。
「こ、この戦いに負けたら、私………『柱』を辞めさせられちゃいますか?」
「その可能性は、なくはない。あまりにぶざまな負け方だったらな」
「………そ、そうですか………そうですよね………」
「だがいまは、そんなことは考えるな。君の強みはなんだ?どんな苦境にもへこたれない明るさと根性だろう。それは俺が一番理解している。思う存分力を出しきれ!」
それだけ言うと、煉獄はきびすを返し、開始線の中心に戻った。
…………そうよ蜜璃、ここで踏ん張らないでどうするの?
弱気な自分を叱咤するように、ぎゅっと奥歯をかみしめた。
戦うしかないじゃない。どんなに怖くても、全身傷だらけになっても。最後の最後まであきらめずに剣を振るいなさい。この稽古を突破して、「柱」であり続けるために。
………ずっとずっと、伊黒さんのそばにいるために。
間一髪でよけるだろう、とは思っていた。新参とはいえ、彼女もれっきとした「柱」だ。
恋柱が煉獄の指南を受け、乱れた呼吸を整えているあいだ、乱した当の本人は、いまの一幕を静かに内省していた。
剣先が袴の裾を切り裂いた瞬間、おそらく自分の耳にだけ、短い悲鳴が聞こえた。胸を衝かれ、それ以上踏み込めなくなった。小手調べをしたふりをよそおい、彼女が体勢を立て直すのを待って、元の位置に戻った。
胡蝶が今ごろ、記録簿にこう書き込んでいるかもしれない。減点1、と。
白い目隠しの下に、自嘲めいた苦笑が浮かぶ。
そのあとすぐ、かすかだが、木刀を握る右腕が震えているのに気づいた。
大きく目を見開いたあとで、蛇柱はさらに深く苦笑した。
まるで、木刀を持つのもやっとだった少年時代に戻ったようだ。
幼少期をとおして、あの忌まわしい座敷牢に閉じ込められていたせいで、鬼殺隊に入ったばかりの頃は、膂力も体力も同年代の男児よりはるかに劣っていた。
いざ剣を握ってみても、長いあいだ箸より重いものを持たなかった細腕では、まともに振り回すことさえできなかった。
鬼を憎いと思いながらも、いざ鬼と対峙してみると、憎悪より恐怖が先に立った。蛇鬼の呪いなのか、鬼どもの狂気にふれると、射すくめられたように全身が震え、硬直してしまうのだ。
そんな惰弱な性根を叩き直すために、人の3倍は努力した。仲間たちに「死ぬより苛酷」と評されるほど厳しい訓練を、己に課した。
自分が時透のような天才でないことはわかっていた。だから、努力するしかなかった。
天才ではないにしても、非凡ではあったのだろう。努力は実を結び、入隊して数年で「柱」になった。鬼への恐怖は憎悪にとって代わり、斬れば斬るほど激しく燃えさかった。
その頃にはもう、剣を握る腕にはわずかな震えもなかった。
それがいま、どこかに置き忘れた古い記憶のように、この腕によみがえっている。
俺は、恐れおののいているのだ。おそらく、惰弱だったあの頃以上に―――震える右腕を左腕で押さえつけながら、蛇柱は裂かれた唇をかみしめた。
この腕が「その鬼」を………鬼になった彼女を、斬らねばならぬときが来ることを。
煉獄の指南を受けた甘露寺は、もう一度深呼吸を繰り返したあとで開始線に戻り、俺に向かって一礼したようだ。土壇場に強く、気丈なところにも大いに惹かれているが、いまは複雑な想いだった。
甘露寺は、おそらく天才の部類に入るだろう。いや、天賦の体質というのが正しいだろうか。
彼女自身は強い劣等感を抱いているようだが、常人の8倍もの密度をもつ筋肉など、どんなに苛酷な訓練をしても身につくものではない。
1歳で15㎏の漬物石を持ち上げた話を聞いたときは、開いた口がしばらくふさがらなかった。まさに、神に愛された人間というほかない。
そんな恵まれた体質をもった彼女が「柱」になったのは、必然といっていいだろう。
だが、身勝手を承知で本音を言えば、彼女には「柱」になってほしくなかった。
そもそも、彼女が「柱」でなかったら、こんな決闘をせずにすんだだろう。
彼女が一般隊士のままであったら、強引に自分の直属にし、いつでもそばにおいて、すべての敵から守る。鬼になどぜったいにさせない。
胸を張って、そう誓えただろう。
………やはり身勝手だな――――苦笑まじりにため息をついた。
苦笑はすぐに消えた。
ダンッ!と大きく床が鳴り、一瞬で間合いを詰めた恋柱が猛撃を打ち込んできた。間一髪で後ろに飛びすさったが、前髪に切っ先がふれ、数本が切断されて宙に舞った。
再び会場がどよめいた。電光石火の打ち込みに、隊士たちは騒然となった。
―――およそ、恋柱らしからぬ戦法だ。
観戦する「柱」の誰もが、そう思った。
彼女は本来、接近戦が大の苦手だ。そもそも彼女の武器、鞭のように長い剣は、接近戦を想定して作られたものではない。
鬼との戦いでも、その鞭剣を駆使した遠隔攻撃や空中戦が多く、みずから間合いをつめて戦った経験は、ほとんどないのだ。
―――どうやら、期待以上の決戦になりそうですね。
満足げな微笑みを口元に浮かべながら、蟲柱は胸のうちで呟いた。
―――伊黒さん、いま、会場のどこかで、見てくれていますよね?
ぜったいに後ろに退かない覚悟で、恋柱は二・三段の技(連続攻撃)を仕掛けつづけた。攻めの踏み込みと回避の退きで、床板が激しく鳴りつづける。
―――打ち込みの連打なんて、私らしくないでしょう?接近戦が大の苦手なのは、伊黒さんもご存じですよね。
でも、これにはちゃんと理由があるんです。
伊黒さんの鍛錬を見て、私ももっと打ち込みを練習しなきゃ、って思ったんです。
最初の一閃で植えつけられた恐怖はすでに消え去り、身体全体に柔軟さが戻ってきた。
上半身を前屈させて床に手をつき、倒立回転をしながら相手の横腹めがけて剣を払う。打ち返されたが、相手の足元がわずかによろめいた気配がした。着地とともに床板すれすれに剣を薙ぎ払う。切っ先が空を切る。床を蹴って後ろに飛びすさる。胸元すれすれで相手の剣先が宙を薙ぐ。床を蹴って前に踏み込み、全身の力を木刀に伝動させて突きを放つ。が、紙一重の距離でかわされた。
申し合わせたように双方がいったん飛びのき、体勢と呼吸を整えた。
会場の隊士たちは息つく間もなく、華麗な技の応酬に釘づけになっていた。
―――いったいどうしちまったんだ、甘露寺は。さっきまでと動きがまるで別人じゃねぇか。
―――ぎりぎりまで手加減してるが、あれじゃあ伊黒も手を出すしかねぇ。まさに「殺るか殺られるか」の世界に突入だ。
見守る柱たちは固唾を呑み、この先の展開に一抹の不安を覚えた。
――――先月半ば、いつもの定食屋さんで夕食をごいっしょしましたよね、伊黒さん。
お店の前でお別れしてから、お借りしていた俳句の本を返し忘れたことに気がついて、私、あわてて伊黒さんのお屋敷に行ったんです。
夜分遅かったけれど、門衛さんが「恋柱様なら、蛇柱様も歓迎されるでしょう」と、中に入れてくれたの。
帰ってすぐ稽古場に直行されたと小間使いさんに聞いて、長い廊下をとおって、稽古場の入り口まで行ったところで、私、立ち尽くしてしまったんです。
伊黒さんの素振り稽古の激しさに、圧倒されてしまって。
さっきまで定食屋さんで、私の隣で優しく微笑んでいた伊黒さんとは、まるで別人でした。鬼気迫る、って、こういうことを言うんだなぁって。
そのとき私、初めて知ったんです。
いつも私が食べ終わるまで、ながいながい時間、辛抱強くおつき合いしてくださったあと、帰宅してすぐ、苛酷な鍛錬をしてらしたことを。
その途端、涙があふれてきて、困りました。
もう本をお返しするどころではなく、急いでお屋敷をあとにしました。
伊黒さんへの尊敬以上に、自己嫌悪と恥ずかしさでいっぱいでした。
いつも伊黒さんの優しさに甘えきって、大事な鍛錬の時間を奪ってしまっていたこと。
未熟で足手まといの自分が、伊黒さんの半分も鍛錬をしていないこと。
このままじゃダメだ、って思いました。鞭剣での遠隔攻撃に頼るばかりじゃなく、通常の長さの剣で鍛錬を積んで、苦手な接近戦を克服しないと、って。
鬼との戦いはこれからもっと厳しくなるだろうし、私の「恋の呼吸」の破壊力では、上級の鬼たちに致命傷を与えることはできない。それもわかっていました。
伊黒さんにはとうてい及ばないけど……一生、追いつけないと思うけど……せめて、足手まといにならないように……すこしでも役に立てるように……あの日から必死で打ち込みの練習をしたんです。
さっきの「百人斬り」をなんとか突破できたのも、その成果が表れたから。
だから、正体不明のこの強敵さんにも、恐れずに力いっぱい立ち向かっていきます。
………見ていてください、伊黒さん。