少なくとも昨日の時点では、それは在った。
つまり、白楼剣が今日の慌ただしさの中で失くなったのは自明のことでだった。
自室を出て、廊下を彷徨う妖夢。その面持ちは、酷くやつれていて、見るに耐え難いものだった。
だが彼女は、これで最後と言わんばかりに、生来の真面目さと負けん気を発揮し、腑抜けた今の姿と心を律し、失われた刀の在り処を探し始めた。
探し始めたといっても、あてがあるわけではない、なぜなら最後に白楼剣を確認できた昨日以降、一切動かすことはしなかったし、また、動くはずは無いのである。
即ち――これは信じ難いことだが――何者かに盗まれたと考えるのが当然の帰結であった。
妖夢は休む間も無く、屋敷のあらゆる箇所を捜索した。
自室、客間、客室、茶の間、倉庫や野外物置、縁の下に至るまで。
さらに妖夢は、幽々子の部屋も捜索した。
己が服従する主を疑っているとも取れる行為に彼女は引け目を感じたが、これも白楼剣の、先代達の、師匠様の為、と考え、己の行動を省みることはしなかった。
結果として、主の部屋にもそれは無かったのだが……部屋には誰も居なかった。つまり幽々子の不在はこれで確定したのだ。
彼女がこの時間に外出しているのは珍しいことではあるが、つかみどころのない彼女の性質を鑑みるに、その理由を詮索するのは無意味である。そう妖夢は考え、特に主の不在を気に留めなかった。
幽々子の部屋を最後に、屋敷のほとんどを見て回った妖夢は、半ば諦観気味に、ある部屋へと続く西洋式の扉の前に、ノブを回して開けるでもなく立っていた。
この部屋は、いわゆる地下倉庫のようなもので、冬の間はとても寒く、来る者を拒んでいた。
確かにこの寒さ、というのも妖夢がこの部屋へ入るのを阻害する一要因であったが、他にも理由があった。
意を決し、妖夢はゆっくりと扉を開く。
開いた瞬間、身をたじろがせる程の冷気が妖夢を包んだ、意に介さず、妖夢は進む。
扉の先には直ぐに階段があり、一切の照明も無く、まるで瞼を閉じたかのような暗闇へと続いていた。
この部屋が暗いのは知っていたので蝋燭を持って来ていた。それに火を灯し、僅かな明かりを辺りにもたらす。
階段を一段、また一段、踏み外さぬよう気をつけながら、ゆっくりと降りていく。
蝋燭ではこの暗闇を照らすのには不十分であったらしい、後ろの扉の方から届く光が遠くなるほど、彼女の恐怖を助長させるような暗黒が、周囲の趨勢を保っていた。
階段の終わりが見え、一畳程の木の床を経た先に、また扉が見えた。この白玉楼にはとても似つかわしくない、入り口と同じ西洋式である。
『うう。怖い……』
ノブを回し、部屋に入る。暗闇と未知への恐怖に怯える妖夢を、煩わしい埃が出迎えた。
妖夢がこの部屋へ最後に来たのは、十年以上前。まだ彼女が幼く、師が白玉楼に居た頃の事。
その時も、恐怖が胸中で渦を巻いていたのをおぼろげだが覚えていた。これ程の時が経っても未だ恐怖の克服が出来ていない自身は、いつまで経っても半人前なのだろう、と妖夢は自嘲した。
部屋の中には大量の本や何かの資料が山積みになっていた。内容が少し気になったが、白楼剣が先決、とその欲望を制した。
殆ど、というより妖夢自身最後に訪れたのが十数年前というだけあって、この部屋に人が来ることは全く無い。
つまり、白楼剣がここにあるなど考えられないことであり、またその事実が、徒労に終わる危険を感じさせ、妖夢をこの部屋へ至るのを阻害するもう一つの理由であった。
さて探し始めようか、と近くにあった手頃な本の山を崩していく。
皿に乗っている蝋燭を落とさぬよう、また消してしまわぬよう気を配る。この蝋燭がもたらす光と暖かみだけが、この暗く寒い部屋で活動する妖夢の心と体を支えていた。
『幽々子様もきちんと掃除してくれればいいのに……しているのは幽霊だけど』
本を動かすたびに埃が出るのでつい妖夢は、声にならない苦言を、行方の知れない主に呈した。
この白玉楼の、庭の手入れなどを除く殆どの家事は、幽々子が操る幽霊が行っている。その幽霊は、冥府であるここに大量に集まるので、労働者の不足には困らない。
つまりこの部屋の、世辞も浮かばない程の劣悪な有様は、間違いなく屋敷の主人の監督不足としか考えられなかった。
何度も本をどかし、最早その行為が惰性となりかけた頃。ふと一冊、他に増して分厚い本が目に入った。
特に外装は目を引くものではない。妖夢の興味をそそったのは、ただ運命に裏付けされた偶然、不可抗力によるものであった。
手に取り、蝋燭を近づける。見た目に比例して辞書を思わせるほど重い、だが言語の意味を記したものではないことは、表紙にまざまざと示された題名が、自ずと語っていた。
「歴史……?」
妖夢は予想外の題に、思わず言葉を発した。驚きを隠さず、また訝しむ様子も隠さず、恐る恐る、表紙を開く。
淡々とした調子、著者の紹介から始まり、また著者がなぜこの書を編纂したのかが述べられ、その後に、様々な国家の興隆、衰勢、事象、文化、生物、地域、が代わる代わる、時には綿密に作用しながら記されていた。
流し読みだったため、彼女は内容を理解できなかったが、この書に関するあることは、明確に理解していた。
『外の世界の本……!?』
登場していた人物の名前、地名、国名……諸々を見るに、そう結論付けるのは自明なことであった。
この幻想卿に、外の世界の物が流れ着くことは多々あり、本も例外ではない。しかし、白玉楼に外来の本があるというのは、信じられないことであった。
『この本は幽々子様の物?……いや幽々子様がこういった類の、ましてや外の世界の本を読んでいるところなど、見たことが無い!』
何故この本がここに、白玉楼にあるのか。少なくとも幽々子の所有物という予想は、妖夢は自信をもって否定できた。
では誰の。彼女この疑問の答えを見出さんと、抑えていた好奇心を開放し、次々と書籍を漁った。
何れも外の世界の本であった。
題を見る限り、小説などといった文学の類が多くを占めていたが、専門的な書や思想書、さらには宗教書まで多く取り揃えていた。
実学的な物が目立ち、教養本は少なかった、だがこの手の書物はあれこれ読む必要はないので、合理的な判断と言える。
疑問の答えは出ない、幽々子でなければ一体誰の物なのか?何故外の世界の本ばかり?またその本の種類に全く一貫性が無いのも謎である。
この本の主は、よほどの知識欲を持つ者なのか? 単純に自己を形成できていない故の多思考者なのか? それとも……想像にもできない、何か大事を成そうとしている者なのか……?
そもそもここは……この部屋は一体……何なのか?
突如、背中を這う悪寒が妖夢を襲う、だがこれは、底が知れぬ、答えの見えぬ思考によるものではない。
気配に対する生物的な本能、論理では説明不能な、感覚の発露。
『誰か居る!』
扉は開かなかった、なので、その“誰か”は部屋の中に居たと考えるのが当然。また同時に、その者が剣を盗ったであろう犯人と考えるのが必然――!
恐怖を感じるよりも速く、背負っている長刀の柄に手を添える。妖夢は白楼剣の次に楼観剣まで失ってはならない、と屋敷内での帯刀を決めたのである。それが功を奏した。
瞬間、妖夢は素早く後ろに振り向き、見るものを圧倒する程の気迫を宿し、鋭い眼差しでその正体を見定め……ようとした。
「居ない!?」
蝋燭の僅かな光を頼りに、周囲を見据える。だがいくら目を凝らしても、視界に気配の正体が映ることは無かった。
目にも留まらぬ速さで逃げおおせたのか、隠れたのか、元々居なかったのか……? 今では気配すら感じられない。
その時、輝きがあった。蝋燭のそれよりも眩しく、煌々とした光。突然の照明に、妖夢の視界は眩んでしまう。
だが瞳がそれに慣れるまではそれほど時間は要さなかった。
戻った視力で再三辺りを見回す。先ほどの光は幾分か収まっていた、しかし、未だ輝きを保っている。
光源は部屋の隅から放たれていた。本に埋もれてしまっているようで、それが何なのかは分からない。
妖夢は光の正体を明らかにするため、大急ぎで、本をどかしていった。
「これは……!」
数々の本の中に、一振りの刀が在った。だが長さと、外装を見る限り白楼剣ではない。
形状を見るに、太刀。鮮やかで美しい、黄金色をした鞘。金箔も塗られているらしい、豪華な外装である。
しかしその煌びやかさにも増して、鞘の中で何かが光り輝いていた。
見知らぬ刀の尋常ならざる有様に、妖夢は驚いた。だがここは幻想卿、この程度の奇々怪々で身を窮することはしない。
妖夢は剣士としての欲望と、先程の気配のことから、危険なものかどうかの確認という義務感も発生し、その刀を抜いてみたくなった。
輝く刀など、古今東西聞いたことが無い。興奮が冷めやらないながらも、彼女の心には期待と不安とが共生していた。
白い手が金色の鞘に伸びる。やはり金箔が塗られていて、表面はざらざらしていた。
刀を左腰に当て、柄に右手を添える。光は未だ輝き続けていて、妖夢の視界を少し阻害していた。
親指で鯉口を切る、すると内部から光が伸び、周囲の暗黒を消し去った。
ゆっくりと刀を抜く。もし古刀ならば扱いに気をつけなければならない。
――風が吹いたようであった。
いや実際には吹いていない。しかし妖夢は、家から外に出たときに感じる、あの風を。不安と期待とが渦巻き、芳しい匂いを運ぶ、穏やかな風を、この身に受けていた。
――懐かしい匂いだ。
幼少の頃を思わせる、もう感ぜられることも無い、甘美な香り。
刀身が露になるほど、周囲に伸びる光は激しさを増し、中ごろまで抜いたころには、既に光が妖夢を、部屋を包み込むように満たしていた。
――――
一転する視界。
蒼穹の空。暖かい風。真昼の明るみ。
冬の要素など一切を排した、完全な春。
花草が地に根ざし、虫達は地と空を飛びまわっている。桜も咲いているようであった。
この世のあらゆる邪が取り払われたような、透き通った風景。近くに見える、自然のそれとは違う建物までも、その景色に溶け込み、静かに佇んでいるようであった。
刀の光が収まり、まず妖夢の目に映った光景は、そんな平凡な、しかし希望という観念さえ彷彿とさせる物。
ついさっきまでの、暗く、寒く、負という観念しか感じられない地下室とは雲泥の差がある。
『ここは……白玉楼なの――!?』
確かにここは妖夢の住まう屋敷の外だった。よく知っているので直ぐに理解できたし、今朝も鍛錬で訪れたので見間違うことは無い。
すると、絵画のように遠くで佇んでいた風景の中で、小さくうごめく人影が見られた。
人数は三人。二人は幼いようで十にも満たないような子供、もう一人は年を経た、威厳を感じさせる面持ちの老人だった。
子供達はなにやら棒状の物を振っていて、対する老人は何を語るでもなく、ただその様子を見ているだけのようであった。
だがその眼差しは鋭く、どこか暖かみがあって、まるで……
「お師匠様!?」
妖夢は、長らくその顔も、声も、姿も見ることのなかった人物を前に、驚愕し、狼狽しながら、大声で師である魂魄妖忌を呼んだ。
だが、声が届かなかったのだろうか、妖忌から反応は無く、依然子供達の棒振りの様子を見るだけであった。
そこで、妖夢はまたも驚愕する。
師に向かって近づいていた彼女だったが、同時に子供達の顔も鮮明になっていって、当然視界にも入り、構造を見て取るのも容易であった。
『この子は……』
子供は……妖夢自身だった。
白銀の髪、澄んだ碧眼、傍らに漂う半霊。
紛れも無く、その子供は妖夢の特徴を持っていて、対する妖夢を混乱させた。
『これは記憶なの?』
しかし、そういった帰結を疑わざるをえない要素が、妖夢の目の前に、“彼”もまたそれが当然であるかのように、居た。
『これが記憶ならば、あの子供は……?』
そう、妖夢の眼前には、間違いなく子供が“二人”居た。
片方は当然妖夢である、しかしもう片方の“彼”が、一体誰なのか? 妖夢には皆目見当もつかなかった。
また、これは恐ろしいことなのだが……妖夢はその彼の容姿を全く認識することが出来なかった。目を凝らしてみても、意識を集中しても、それを知ることは叶わない。
認識不可能な彼を、“彼”として、男性として認識できたのは、その人物の漠然とした雰囲気、と言うべきか。
問題なのは、この光景は妖夢の記憶であるはずなのに、その中に名前も、姿さえも知らない人物が存在することである。
この不可知を前に、妖夢は恐怖を感じた。
その人物の存在によって、今までの自分が否定されるというならば……恐れるのは当然のことだった。
そんな妖夢を余所目に、眼前に広がる映像に変化が表れた。
空間が、まるで紙に火を灯したかのように焼け落ち、次第に妖夢が元居た場所の光景……現実、が露わになり始めたのだ。
暫くして、全ての空間が溶けて焼け落ちると、妖夢の周りは、あの暗い地下室に戻っていて、その妙な現実感が、先ほどまでの光景が、非現実なものであったと、再確認させるに至った。
右手が掴む刀は、既に光を失していて、刀身が見て取れた、鞘のそれに劣らぬ、見事な美しさであった。