その日、鈴仙・優曇華院・イナバは、師である八意永琳の命によって、人間の里へ買出しに出ていた。
別段、珍しいことでもない。これまでも何度もこなしてきた、仕事の一つである。
頼まれた買い物は、いくつかの薬の材料や、日用品、食材といった類の物だった。
買い物は既に終わり、後は帰路に着くだけである。
しかし彼女は未だ、里の通りを当てもなく回り、人々の様子を見たりしながら、無為に時間を過ごしていた。
冬の季節の晴れの日は、澄み渡った空気を地上にもたらす。
呼吸の度に、冷たいが、確かな生命という実感を、心身に満たし、朗らかにしていった。
こんな気持ちの良い晴天なのだから、少しだけ時間を無駄に過ごしても、罰は当たらないだろう、と優曇華は自分を正当化しながら、その心を幸福に満ち溢れさせていた。
真昼の里は、人々と喧騒が入り乱れる、荒々しいせわしなさに支配されていた。
しかし、誰もが、どこか幸福そうな温かみのある微笑みを、その顔に浮かばせているのだった。
店の前で大声を上げ、売り文句を喚きたてる店員も、重たげな足取りで道を歩く老人も、通りの隅で、こま遊びにかまける子供たちも。皆、そんな拍子抜けするような微笑を浮かべているのであった。
暗い冬の寒さの中にあっても、彼らのその笑顔が、蒼穹の空が、明朗な観念を失わずにいさせてくれた。
優曇華も、そんな彼らのひそみに倣おうと、同じような微笑を振りまきながら通りを歩いていた。
しかし、彼女の奇異な風貌を前に、道行く人々は、どこか含みのある、歪な嘲りに近い笑みを返すばかりだった。
それに気づくことなく、沸き立つ自己満足感に浸りながら、放蕩していると、次第に里の中心部から離れていたことに気が付いた。
里の人々の嘲笑や視線はもう無く、周囲は、道路も無い、手入れの施されていない冬草で占められた野原に変わっていた。
見晴らしが良く、比較的高い場所に位置するこの野原は、里を一望できる。
春になれば、瑞々しい草木を根付かせ、風流な景色を形作るのだろうか。
さらに野原を、里から離れるように進む。
すると、長く続いていた野原から突き出るようにしてそびえ立つ丘陵が見えた。
『あ……』
閑散とした野原の中で、一際目立つ丘。
その上に人影、と浮遊する何か、が見えた。
顔は見えないが、この時点で、その人影とは顔見知りであることがわかった。
それほど仲が深いわけでもないので、特に声をかけようとも思わない。
しかし、無駄に時間を過ごすのだから、無駄話に興じるのも悪くないか。
優曇華は、顔見知り程度の相手に適当な話題を考えながら、一歩、また一歩と、斜面を登った。
中頃まで来たところで、足音が聞こえたのか、人影は、警戒するように素早く身を翻し、その鋭い碧眼を優曇華に向けた。
「妖夢さん……でしたよね?しばらく振り……だったでしょうか?」
半人半霊の並々ならぬ雰囲気に気圧されながらも、優曇華は件の微笑を浮かべながら言った。
「貴女は……永遠亭の……何か御用でしょうか?」
まるで客人を相手にしているかのような慎ましさだが、その眼光は未だ鋭い。
話しかけられたのを煩わしく思っているのだろうか?確かに、誰しも一人でありたい時もある。
実際、遠目で見た彼女の横顔は、どこか物思いに沈んでいて、暗かった。
しかし何故だろうか、その表情は、どこか穏やかにも優曇華には見えたのだった。
「いえ、特には。ただ私、時間を持て余していまして……少し世間話でもどうかと思った次第なんですよ」
言い終わった頃には、丘の頂上に達していて、既に優曇華は妖夢と肩を並べていた。
「……」
妖夢からの返答は無い。
だが、拒絶したわけでも無い様だったので、優曇華は特に気に留めなかった。
「綺麗な景色ですね」
何でもない、特に取り立てることも無い優曇華の言葉に、妖夢は眉をひそめた。
丘の頂上から見下ろす景色は、冬の寒さによって退廃し、活力ある躍動感は一切感じられない。
妖夢だけでなく、おそらく殆どの人は、この景色を美しいと思う事など無いだろう。
しかし、優曇華は、里の人々の微笑を、澄み渡る空を知っている。
里の人々は遠すぎて見えることは無いが、優曇華は知っている。
故に彼女は、この荒涼殺伐な風景を、美しいと形容したのだった。
「この辺りにはよく来るんですか?」
言いながら、優曇華は、気がまずそうな顔をしている妖夢を覗き込む。
妖夢はそれに目を合わせず、ただ視線を殺風景な景色に集中させたまま……
「いえ、来たのは初めてです。ただ、気が付いたらここに足が向いていまして……なんとも不思議なものです」
と、彼方へと飛んでいた視線を、腰にぶら下がる刀へと移し、それを強く握り締め、言った。
何とも変わった物言いに、優曇華は、幸福に溢れていた心の調子を崩されてしまった。これ以上の会話をどう繋いだものか。
思案に明け暮れる優曇華を傍目に、言いようの無い沈黙と静寂が、二人の間に流れる。
ふと、二人の間を切るように、何かが――風が――過ぎった。
それは、強く吹きすさび、優曇華の長い髪をかき乱したが、心を清らかなものにした。
そうやって純真となった心に、唐突に、不透明な、自身でも掴み取れない感情が、影を落とし込んだ。
一瞬だが、己の感情を知るには長い時間。
優曇華は呆然として後、ようやっと、彼女は自分の感情の正体を知った。
『私は……懐かしんでいる?』
何故そう感じているのか、何に対する感情なのか。
自身の胸に沸き起こる感情の何たるかは知ったが、それが起こった要因を、知ることは出来なかった。
詮索するだけ無駄。
この感情は、単なる不条理な既視感であるかもしれない。
そう感じた優曇華は、これを話題の種にしようと思い、話をしようとしたが……それは叶わなかった。
「……」
隣に居る妖夢の横顔が、ただ事では無い雰囲気を、醸し出していたからだ。
視線の先は、依然、腰に下がっている刀へと向いている。
「あの……妖夢さん?」
隣人の気迫におののきながら、やっとの思いで呼びかける。
すると妖夢は目を会わす事も無く……
「もしも……もしも私の様子が、その……“おかしく”なったら……申し訳ないですが、世話をお願いします」
と、呟いた。
あまりに不可解で、漠然とした言葉。
その声には、彼女の表情にあるような気迫は無い。
あるのは、何かに対する不安と、恐怖、怯え、だけであった。
優曇華の深紅の瞳が、ある一点を捉える。
それは、妖夢の視線の先と同じ、彼女の腰の刀へ、だった。
「光が……?」
「……」
――――
……気が付けば、そこはとてもとても、赤い火の只中でした。
眼下に広がっていた建物や木々、そこに住まう人々といったものの一切は全て、溶けていくように失われていきます。
その様は、あまりにも儚くて、まるで夢の中に居るかのように錯覚してしまい、顔に張り付く熱気が唯一、この光景は現実なのだと語っていました。
呆然と、ただ立ち尽くす体とは対照的に、私の心は、悲しみによってひどく激動していました。
しかし、それを嘆くことはしません。
なぜならこの光景は、この感情は、“彼”が選択した、彼が信じた道の果てにあった結果だからです。
人の信念という領域に、他人が介入する余地などない。だから、それを否定することは、何人もできないのです。
自然と瞳から、涙が溢れる。
悲しむことしかできない無力な私。
弱い私に許されたのは、ただただ、それだけでした……。
――――
「え……?」
煩わしい頭痛に襲われながら、目覚めたばかりで、少し潤んでしまった瞳を開く。
眼前に広がる空で、優曇華は、自身があの丘の上で身を横たえていると知った。
細い雑草が衣服を貫き、肌を刺していた。
だが、それよりも……それよりも、重要な問題がある。
眠る前、そして眠っている間。
『私は……一体?』
頭痛に苛まれながら、思案する優曇華だったが、妖夢と一緒に居たことを思い出し、なんとか体を起こした。
「あ、妖夢さん」
身を起こすと、彼女の直ぐ隣に妖夢が、草むらに隠れて眠っていた。
「そういえば、世話を頼まれていたっけ……」
穏やかな表情で眠る、半人半霊の少女は、静かな寝息を立て、野外であるのにも関わらず、すっかり熟睡していた。
これが彼女の言っていた“おかしい”様子かは分からないが、このまま放っておくつもりはない。
優曇華の住処である永遠亭まで、妖夢を運ぶのは容易ではない、かといって妖夢の住処である白玉楼もまた、然りである。
「と、すれば」
小さく呟き、丘の下に広がるあの輝かしい光景を顧みた。
人間の里の宿まで運ぶのが、最も良策と言えよう。
日は沈みかけ、天も、地も、橙色に染まっている。
冬の濃い夕焼けは、地上のあらゆる全てを、暖みのある赤色で染め上げていた。
――――
「起きましたか、妖夢さん」
横から聞こえた言葉が、奥底に沈んでいた意識を外側に這いださせた。
覚醒したばかりの意識を、未だ横のままの身体に紡ぐ。
瞼を開けようとしたが、ひどく重たくて、思うように開かない。
「空寝ですか?ふふ、無駄ですよ。意識の有無で、波長も変わるんです。ほら、早く起きてください」
口ぶりから、横に居る人物の素性が知れた。
いつかの時のように、身体は倦怠感に塗れているが、このまま誤解されているのは、より気分が悪い。
妖夢はなんとか起きようと、身体の至る所に信号を送り、全体に意識が伝わると、やっと瞳を開くことが出来た。
それほど広くは無いが、二人ならば充分な間取りを持つ部屋は、その質素さから、ここが里の宿であることを容易に悟らせた。
横に居た人物……優曇華は、妖夢の居る寝台の反対に位置する椅子に座っていた。
「すみません……ご迷惑をおかけしました」
かすれた声で、恭しく謝辞を述べる。
優曇華はそれに、微笑で応えた。
「宿代は私が……」
長居するわけにも行かないと思い、代金を払って去ろうとしたが……
「いえ、それは私が。それよりも、聞きたいことが」
優曇華に制された。無理矢理にでも、と思ったが、表情とは真逆の、彼女の紅い双眸が醸し出す気迫が、それを許さなかった。
「……何でしょう?」
妖夢は優曇華に負けじと、より強い気迫を、その瞳に宿らせ、未だ微笑む月兎を顧みた。
「その太刀についてです。以前持っていた物とは、違うようですが?」
「……詳しいのですね。一目見ただけで、太刀かどうかを見分けるとは」
「いえ実は、あなたが眠っている間に、少し拝見させていただきました」
優曇華の言葉に、妖夢は驚きと同時に、何故だか不意に、まるで家に泥棒が入られたかのような、怒りの感情を覚えた。
「どうして勝手に……!どれだけ不遜(ふそん)なのですか、貴方は……」
妖夢の心は激しい怒りに支配されていたが、どうしてこんなに怒っているのか、自身でさえ理解できていなかった。
確かに、自分の所有物を他人に勝手に改められるのは良い気分ではない。
しかしこの感情は、それ以上なまでに、激しく煮えたぎっていたのだ。
妖夢は何度目かの己の心の矛盾を感じるのだった。
幸いにも、妖夢の静かな罵詈雑言は、優曇華の耳に届くことはなかった。
優曇華は、妖夢がなにやら呟いているが見て取れたが、よく聞こえなかったので、気に留めることもなく詰問を続けた。
「その太刀は、一体何処で手に入れたのですか?」
「何故それを聞くのです?」
意外な質問。故に意図が見えない。
妖夢は他人の目的を、会話によって探り出せる程、話術に長けていない。
なので妖夢は、気心の知れぬ相手であっても、単刀直入に尋ねる他無かった。
「気になるからです」
もっとも、それが報われることは殆ど無いが。
「……」
黙する妖夢。優曇華はその様子を見て、取り繕うような笑顔を見せた。
……話しても良いのではないだろうか、と妖夢は考える。
優曇華には世話になったのだし、もっとも、この様子では、彼女が引き下がるとも思えない。
恐らく刀のあの“輝き”も、優曇華に見られていただろうし、妖夢と、この太刀に、何らかの異常があることを隠し通せないだろう。
「……事のあらましは、ですね」
妖夢は優曇華に、これまで一人で抱え込んでいた全てをさらけ出した。
すると、何故だろうか。暗く荒んでいた気持ちが少し晴れやかとなって、同時にどこか“懐かしい”という感情を、その心に覚えるのだった。