いつもの白玉楼と比べて、幾分賑やかな食事を終えると、霊夢は帰宅し、鈴仙は泊まることとなった。
食事の片付けも終え、時刻は既に午後十時。
幽々子は部屋に引きこもり、妖夢は屋敷の雑務を終えたところだった。
今宵は満月であった。しかし、その美しい月は、今にも雪を吐き出しそうな雲に覆われ、星一つさえ光を放たず、空は何処までも暗かった。
仕事を終えた後は自由時間。体を休めるもよし、読書にふけるのもよし。
だが、妖夢はそのどちらもしなかった。
隔絶された暗闇の中に、唯一響く、風を切る音。
少ない明かりに照らされた薄暗い影が、忙しなくうごめいている。
彼女は稽古をしていたのだ。
半人半霊には広すぎる稽古場の中を、せわしない足取りで動き回り、手に持つ刀を振り回す。
己に近づく、あらゆるものを払いのけるかのように。己と、この手と刀が届く空間以外は何もいらないとでも言うのかのように。
感覚が鋭敏になっていき、意識が深淵へと沈んでいく。
振っていた刀は楼観剣ではなく、件の無銘の太刀。
相も変わらないその豪華さは、触れることさえ遠慮させるほどだったが、妖夢としては白楼剣を見つけるまでの代わりであるので、その使い勝手を把握しておく必要があった。
太刀であるので、刃渡りのそれは楼観剣には遠く及ばないが、切れ味は鋭く、重量の軽さも相まって、楼観剣の威力に勝るとも劣らなかった。
しかし、どうにも扱い辛かった。
刃渡りが白楼剣よりも少し長いからだろうか? しかし、この違和感は、その程度の齟齬で覚えるようなものでは無いと、妖夢は感じていた。
より根本的な……不条理に裏付けされたもの。
この刀そのものが、妖夢の存在を拒んでいるような、そんな感触であった。
「妖夢」
己を呼ぶ声。その性質から、鈴仙であることが知れた。
いつかの霊夢のように、彼女は稽古場の入口に立っていた。
「どうしたの?……それに、よく私が稽古しているって分かったわね」
「なんとくなく、よ。場所については幽々子さんに聞いたわ」
鈴仙は極めて穏やかな物腰で言うと、それ以上何も言おうとしなかった。
ただ黙して立ち尽くしている鈴仙を、複雑な表情で見つめる妖夢。
用件があるようにも思われたが……待っていても埒があかないように思われたので、妖夢は視線を虚空へ移し、再び稽古に戻った。
すると、二、三度刀を振った矢先、鈴仙が突然目を見開き、只ならぬ気質を発露させ、口を開いた。
「……それではいけない」
「え?」
最初が穏やかであっただけに、鈴仙の様相の変化は、恐怖こそはしないものの、聞き手に不安を呼び起こすには十分であった。
鈴仙が近づく。その足取りは素早く、どこか焦りが感じられた。
「このままではいけない!」
「いけないって……何がいけないのよ!?」
明確な言葉を選ばない鈴仙に、妖夢は友人から感じた不安の裏返しで、つい、強い言葉をもって応じるのだった。
問いかけた妖夢であったが、鈴仙は相も変わらぬ苛烈な様子で、己を見つめている。
仕方なしに、妖夢は鈴仙が何をしようとしているのか、しばらく待ち、確かめることにした。
それが仇となった。
鈴仙の赤い瞳が、どことない魅力を帯び始める。
ぼんやりと鈴仙を見つめていた妖夢は、その変化を訝しることもなく、その瞳を直視してしまった。
「!……」
暗転する視界。一瞬の盲目の後、光が戻る。
ぼやけた意識で辺りを見回す。
すると、稽古場であったはずの部屋は、全て消えてしまっていた。
残っているのは、月のない夜のような、暗闇の世界。
目を開いているのに差し込むのは暗黒。捉えるは深淵。
「今のままでは、貴女は負けてしまう」
頭の後ろの方から、声が響く。鈴仙に他ならない。
「負けるって、一体何に!?」
言いながら後ろを振り向く。しかし、視界には何も映らない。
妖夢は既に太刀を持っていたが、すぐさま楼観剣も引き抜いた。
相手は月兎。それも、十分な戦闘能力と、恐るべき異能も保持している。
鈴仙の意図は分からない、しかし、彼女の波長操作を受けているのは確かだ。
周囲を注意深く見渡し続ける。
目を凝らしたところで、見えないのは理解している。波長操作は、対象の存在そのものに影響を及ぼすものだ。
あくまで意識の延長でしかない神経を尖らせたところで、この能力には対抗できない。
しばし、周囲を見渡す。突然、背中に衝撃が走った。強い痛みに、横隔膜が痙攣し、軽く咳き込む。
殴られた、もしくは蹴られた。それも、生半可な打撃では無い。
通常の人間が受けていたのならば、あまりの衝撃に卒倒していただろう。
攻撃をしている鈴仙は……本気だ。
「鈴仙! どういうつもりなの!?」
弁明を求める。その間、周囲への注意は一点も見逃さない。
再三、放たれる打撃。しかし、鋭いその当身が捉えたのは、背中ではなく、顔だった。
揺れる視界と意識。痛みと衝撃に、顔をしかめ、瞼を強く閉じる。
心に反して、この一撃は致命的であったらしい、思わず体が崩れそうになり、意識が離れていきそうになる。
『どうする……?』
相手は、姿が見えなければ、攻撃の瞬間でさえも見えない。
動いているのならば、何らかの痕跡や気配があっても良いはずなのだが……それさえも感じられなくなるのが、鈴仙の能力の恐ろしいところだ。
「貴方は何を見ているの?」
またも、頭の後ろから響く声。実際には後ろに居ないのだろう。これもまた、鈴仙の力の為せるところだった。
「真実とは何か?」
何故だろう。どこか聞き覚えのある問いかけに、妖夢には思われた。
「それは……斬って知るもの、見えるものでも、聞こえるものでもない」
師匠の教え。妖夢が信奉する、剣が導く、絶対の真理へ至る道。
「貴方は何も知らない。だから、知らなくてはならない」
「鈴仙……?」
その時、一面の黒い世界の中に、一筋の光を見出した。
あまりにも弱く、脆く、淡い光。
真実とは、隠されているもの。それを露わに出来るとすれば、たった一つ。暗きを明らむ、光にしか成しえない。
「……見つけた」
「!」
目を見開き、神速の如く腕を振るう。妖夢の手中にある楼観剣が、何も無い虚空へと伸びていく。
しかし、それは何かにぶつかったように止まった。
すると、今の今まで何も無かった空間に、際立った白い耳、紫色の髪を携えた少女が姿を現した。
鈴仙だ。それも彼女得意の幻影では無い、本物の鈴仙。
彼女はあまりに予想外だったのだろう、妖夢の攻撃を、咄嗟に霊力で作った壁で防ぐ。
能力の行使に己の持ち得る霊力をほぼ回していたので、防御のために能力を解除する必要があった。故に、姿が現れたのである。
しかし、幽霊十体分の威力を備えた妖刀。単純な防御で防ぎきれる代物ではなかった。
霊力の壁に亀裂が入る。鈴仙が嫌な汗を感じるや否や、さらに追撃。無銘の太刀が、彼女に襲い掛かった。
――吹き飛ばされた。
一瞬のことで信じられなかったが、体が浮き、地面に叩き付けられるのを認識すると、鈴仙はようやくその事実を理解した。
痛みで体が動かない。顔だけでも何とか上げようとするが、それは冷たい、白銀の刀によって遮られるのだった。
首には妖夢の長刀が突き付けられている。
暗闇に満ちていた世界が、次第に元の姿を取り戻していった。
「……」
妖夢は何も言わずに佇んでいた。
その瞳は虚空を捉えている。恐らく鈴仙の瞳を直視することを避けてのことだろう。
しかし、虚無を見つめているとはいえ、その瞳には確かな強い意志が宿っていた。
「なるほど……真実は斬って知る、ね」
「鈴仙、貴方は一体……」
視線は合わせないものの向き合う両者。流れるは沈黙。
「二人とも、何をしているの?」
しかし、それは不完全なままで終わりを迎えるのだった。
稽古場の入口には、幽々子の姿。
しかし、何故だろうか。幽々子には平生の余裕や、人を食ったような様子は鳴りを潜め、不安そうに、気まずそうな顔で、かみ合わない睨み合いを続ける二人をただ、見つめているのだった。
「……幽々子様?」
妖夢が幽々子に気がつく。鈴仙はその一瞬を逃さず、刀の範囲から逃れ、さながら、兎の如き跳躍で、妖夢との距離をとった。
「可能性としては悪くないわ。けれど未だそれは不確実なもの……貴方が言うように、真実を知りたいのならば、切り開いてみなさい」
言いながら、鈴仙はゆっくり距離を広げていく。
「待って! 鈴仙!」
その時、妖夢の悲痛な叫びが、引き金とでも言うかのように、鈴仙が己の瞳を片手で覆った
「くっ!?」
咄嗟に目を覆い隠す妖夢。
しかし、何らかの能力が発動した気配は、感じられなかった。
そう、これは欺瞞工作。鈴仙は能力など発動していない。
妖夢がそれに気づいたころには、鈴仙は稽古場から姿を消していた。
残された従者と主人。一瞬の沈黙は、従者によって破られた。
「……鈴仙がどこへ行ったのか、幽々子様は分かりますか?」
「いいえ、全く」
稽古場を出るには、今、幽々子が居る入口を通らねばならない。つまり、幽々子は鈴仙を止めることも出来たはずだった。
妖夢はそれを咎めない……その感情も当然あったのだが、ぐっとこらえるのだった。
「幽々子様は、私達が何をしていたのか、お聞きにならないのですね」
「そうね、興味が無いわけではないけど」
妖夢は、深いため息をついた。戦いで強張った体が、ゆっくりとほぐれ、不意に軽い眠気が襲う。
「幽々子様。本当に勝手ことなのですが、お暇を頂きたく思います」
「理由は?」
「私はここ数日間で、心も、体も、私の全てが未熟であると感じました。今のままでは、きっと私は幽々子様に迷惑をかけてしまうでしょう……なので、しばらく修行の旅に出たいと思っています」
「そう」
「止めないのですね」
「貴女が本心からそう決めたのならば、私に止めることは出来ないし、止めようとも思わないわ」
「……ありがとうございます」
――――
翌日の朝。空気の澄み渡った、気持ちの良い、冬の晴れた夜明けだった。
白玉楼の門の周りは、夜半に降り積もった雪で覆われていた。白い雪は朝日に照らされ、美しく、眩しく輝いていた。
門には、扉に手をかける少女が一人、それを見守る貴人が一人居た。
「それでは行ってまいります、幽々子様。どうか、お元気で」
妖夢は鈴仙との一件の後、すぐさま旅の支度を整えていた。
妖夢の言葉に惜別の念は込められていない。それだけ、彼女の決意は固く、強いものだったのだ。
「いってらっしゃい……ふふ、今の私は貴方の主人でもなんでもないんだから、敬語なんて結構よ」
「そ、それは流石に無理です。もしそんなことをしたら、お師匠様がなんて言うか」
「ダメ。これは命令よ。敬語を辞めるまで、ここから出ることは許さないわ」
主人でも無いはずなのに命令、と何とも矛盾したことを言う幽々子であった。
「……私は、幽々子様には、役職上だけでなく、個人としても敬意を感じているのです。だから、幽々子様。身勝手な私を、どうかこのまま見送ってください」
平生、真面目な妖夢の、何時にも増した真剣な様子に、幽々子はいつもの調子を崩されてしまうのだった。
「寂しくなるわね。私一人じゃ、この屋敷は広すぎるわ」
「私が居なくとも、亡霊たちが居るでしょう」
「彼らは貴女の代わりにすらならないわよ」
「そ、それは、お褒め頂いているのでしょうか?よ、良く分かりません」
「ふふ、さぁどうかしらね」
しかし、やはり幽々子の調子に飲まれてしまう妖夢であった。
「行きなさい、妖夢。世界はとても広いわ。貴女が見出したものが何であれ、それが“真実”であるのならば。それを信じて、道を往くのよ」
「……はい」
朗らかな返事をし、身を翻す。きっと、長い旅になるだろう。
瞳と胸には希望を、手には刀を。
その切っ先が捉えるのは、ただ一つの真実のみ。
歩む道は、どこまでも遠く、険しかった。