東方忘却夢   作:raises

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いつか、どこか。

在りし日の幻想郷での、小さな出来事。


<闘争を始める>
第七話 幕間 ~Way to kill~


長らく暗い、眠りの日々をもたらしてきた冬は終わり、幻想郷には快活で陽気な目覚めの春が訪れていた。

 

木々は緑葉を携え、美しい花草が道の至る所で春の景色を彩っている。

 

ちぎれた雲がちりばめられた空では、小鳥の一群が、絶えず歓喜のさえずりを奏でながら、自由に飛び回っていた。

 

『平和なら、それもいいがね……』

 

そんな、見る者すべてに幸福を与える春の風景を、難しい顔で眺める青年が一人。

 

ここは人里の、商店が立ち並ぶ中心地とは離れた、山あいの地。

 

青年は、その広大な農地の真ん中に立っていて、仕事道具である鍬を杖に、小休止をしていた。

 

厳しい冬を乗り越え春が訪れたとはいえ、また次の冬に備えて日々労働に勤しまなくてはならない。

 

作った作物を金と交換し、越冬のために金を使う。そして、運よく冬を超えられたのならば、また作物を作っていく。

 

この循環の日々は一糸違わぬ正確さで、繰り返されてきた。

 

人里にはたくさんの人々が居る。人間にはそれぞれ意思があるものだが、彼らは精巧な歯車の如く、この『循環』という機械を乱すことは一切なかった。

 

しかし、歯車とは摩耗するもの。予期せぬ不具合とは、機械には必ず生じるものである。

 

さらには何らかの手違いによって、型にはまることのない歯車が、生み出されることもあるのだ。

 

「おぉーい!昼飯にしようや」

 

青年を呼ぶ声。声の主は、彼の父親であった。

 

「ああ、すぐに行くよ」

 

いつもと変わらぬ、ほぼ毎日交わされてきたやり取り。

 

降ろしていた農具を肩にかけ、せっかく起こした土を踏んでしまわないように農地を後にする。

 

家は豪華ではないが粗末でも無い。この地域では凶作に見舞われることは殆どなく、農地を持つ人々は皆、安定した収入を得ていた。

 

青年の家も例外ではない。

 

農具を家の壁に立てかけ、入口に降ろされたすだれを上げ、中に入る。

 

昼食は去年の古い米を使った握り飯三つと、漬物。

 

簡素だが、十分な量。青年は父に謝辞を述べると、黙々とそれを頬張った。

 

青年には家族は父しか居ない。母は幼いころに亡くなっていたそうだ。

 

何分、立って歩くことすらできない程幼い頃の事なので、青年は“母親”という存在がどのようなものなのかは、理解できずにいた。

 

故に、悲しむことは無い。父も『ありゃ昔から病気がちだったからな。それなりにゃ覚悟はしていたよ』と言っていたので、夜毎、悲嘆に暮れることなども無かった。

 

食事を終えると、父が茶を淹れてくれた。別段、高い茶でもない。街の方で安く買い付けた、“本物”とは呼べない茶葉だ。

 

粗製の湯呑みに汲まれていく濁った茶。仕事の合間の、ぼんやりとした一時が流れる。

 

青年は、この一時を待ち望んでいた。

 

「父さん」

 

青年には、かねてからの企みがあった。それは、今日まで己を育ててくれた、父の許しを得ねば成しえられない事。

 

呼びかけた青年だったが、返事は待たない。

 

「俺、街に行きたい」

 

こらえ続けてきた想いの吐露。高鳴る鼓動で体が震えるのを感じる。

 

「……理由は?」

 

父は青年に背を向けて寝転がっていた。

 

平生、豪胆かつ横暴で、一種の、災害に対する恐怖に似たものが感じられる父であったが、今の父は、明らかに普段の度を越えて恐ろしく見えた。

 

しかし、ここで屈することはしない。

 

「街に行って、もっとたくさんの事をしたい、見たい……そりゃあ、ここで一生農民暮らしってのも、悪い話ではないさ。実際、俺はここが好きだ」

 

「なら、何も無理して、街に出るこたねぇじゃねぇか」

 

寝返りを打つように体を動かし、ぎろりと青年を睨みつける父親。

 

すくみはしないが、青年は心で冷や汗をかいた。

 

「世界はたぶん、思ったよりも広いんだよ、父さん……馬鹿なことを言ってるように見えるだろうけど、これだけはきっと間違い無い“真実”なんだ。俺は真実の為だけに生きたい」

 

青年は今日の為に、父への説得の言葉をいくつか考えてきた。

 

しかし、今の言葉は土壇場で思いついたもので、自身でも予想外のものだった。だが用意してきたどの言葉よりも、手ごたえが感じられた。

 

かといって、父親の反駁が止むことは無い。

 

父は深い溜め息をつくと、気だるそうに立ち上がり、座り込んでいる青年を身降ろす形となった。

 

そこには、子が父親にしか抱くことのない、強い憧れや、威厳といった感情が、全て、その立ち上がる姿勢に表れていた。

 

「街にゃあ、お前が求めているようなものは無い。あんなところに行ったところで、無意味だ。”真実“だなんて得体の知れねぇものに取りつかれている、お前みたいな奴にとっては特にな」

 

「一体、何がどう無意味だっていうんだよ!そんなこと、行ってみなければ分からない事じゃないか!」

 

父に対しては、当然の敬意は感じている。しかし父の、あまりにも人を見下し、達観した言葉と姿勢には、さすがの青年も憤慨せずにはいられなかった。

 

しかし、父はあくまで冷静に、沈着に。何も知らない若者を見る年長者のような傲慢さで、続けた。

 

「昔、俺ゃ街に出たことがある」

 

「な……」

 

考えてみれば、今日まで一度も聞いたことが無かった、父親の過去。

 

青年は、意識が呆然としてしまい、何も言うことが出来なかった。

 

そして、考えた。街に出たことがある父が、何故、街に行くことを否定し、非難するのかを。

 

すると、父はのろのろと歩きだし、部屋の奥にある倉庫へ入っていった。

 

それから間もなくして、父は、青年の居る部屋へと戻ってきた。

 

その手には、家の中では一度も見たことがない、棒状の物が握られている。

 

黒い外装。持ち手と思わしき部分には、円形の飾りと、白黒の文様が描かれていた。

 

父はそのまま、棒状の物を二つに分けた。耳障りな金属音が、滑らかに奏でられる。

 

青年はその時、それが武器――刀であることを理解した。

 

思わず身構え、後ずさる青年。しかし、少し冷静に見ると、父からは、敵意や、憎悪といったもの感じられなかった。

 

逆に、父に表れていたのは、深い慈愛や、善意といった、いわゆる人間的な“善いもの”が、彼の周囲で溶け合っているかのように見えたのだった。

 

「これは……俺が世話になった人から授かった大切な品だ。家宝と言ってもいい」

 

窓から差し込む光を、一身に受けた刀は、その刀身を鈍く輝かせ、美しさと同時に、漠然とした恐怖を感じさせた。

 

父は宝と言ったが、それほど豪華なものにも見えない。

 

それでも家宝と言うのだから、父は余程の強い思いを、この刀に込めているのだろう。

 

「これを、お前に授ける」

 

父は、刀を鞘に閉じると、片腕を突き出し、青年へ刀を差しだした。

 

何故刀を渡すのか。青年は訳も分からず、その刀を受け取るのだった。

 

父はそのまま続ける。

 

「いいか、俺が言っても、まだ街に行くってんなら、無理矢理には止めん。しかし、これだけは間違いない……あそこは嘘と欺瞞で塗れている。お前の言うような、“真実”なんてものはどこにもありゃしない」

 

青年は、今度ばかりは反論せず、黙って父の言葉を聞き続けた。

 

「あらゆる悪や危険がお前を襲うだろう。だから、少なくとも身を守る術を知らなくてはならない。その為に、これを渡した」

 

突然、父が家の外に出た。青年は刀を手にしたまま、急いで後を追う。

 

外では、家の前の少し開けた土地で、父が木の棒きれを手に、何やら“構え”を取っていた。

 

その立ち振る舞いは、正に戦士そのもので、日永一日、農具を振り続ける農民にはあらざる姿だった。

 

「刀を抜け。振り方を教えてやる」

 

「い、いきなりなんだよ。この刀といい、父さんといい、こっちは混乱してるんだ!」

 

慌てて言う青年。しかし父はあくまで冷静に、そして、冷笑するかのように青年を見続けるばかりだった。

 

その眼は『どうした?怖気付いたか?』と語っているようで、青年は思わず、その挑発に乗ってしまうのだった。

 

「け、怪我しても知らないからな!」

 

言いながら、恐る恐る刀を抜く。無論、構えなど知らない。

 

「ふん、相手を心配する余裕があるたぁな。とにかく、打ち込んでみろ」

 

父は、棒きれを正面に構えていた。ならば、と青年は、刀を肩に立てかけるように、上の方に置いた。

 

走り出し、距離を詰める青年。父親に動きは無い。

 

そのまま青年は、父親を刀の届く範囲に捉えた。驚いたことに、その時に、父に動きは見られなかった。

 

『貰った――!』

 

刀を振り下ろし、勝利を確信する青年。しかし、多くの場合がそうであるように、強い確信には、それに反した現実が突き付けられるのだった。

 

刀を振り下ろした先に、父はいなかった。その、代わりとでも言うのかのように、青年の腕に振り下ろされた、木の棒きれ。

 

「腕を失ったな。このまま家に戻ってこられても、農具が握れねぇなら面倒は見てやれんぞ」

 

「くっ……」

 

父は青年の一撃をかわしたのだ。そして、回避と同時に攻撃を行い、青年から一本を取った。

 

「攻撃は戦いの要だ。それが相手に容易に悟られるようじゃあ話にならん」

 

父は棒を青年から離すと、棒を指導棒のようにして突っつきながら、青年の型の修正に入った。

 

「腰は低く、足は前後に、幅は広く。目は真っ直ぐ、敵の全体を見据えろ。お前のそれは、崩れてはいるが“上段の構え”ってやつだ……もう少し高く構えろ」

 

言われるがままに従う青年。こんな父は見たことがない。

 

普段は横暴で、頑迷な父。

 

話すことと言えば農地のことばかりで、それ以外の事には、全く関心がないようにも見えた。

 

だが、今の父は、普段の父とは打って変わった姿で、熱心に、苛烈に、青年の指導に当たるのだった。

 

その為、父を、誇りに感じられたし、一種の高揚感のようなものも、感じるのだった。

 

しかし、ふとした疑問が浮かんだ。父は何処でこれを学んだのだろう?

 

昔街に出ていたという話といい、父の過去に関して問いを投げかけたく思った。

 

「父さんは、どこでこれを?」

 

「その刀をもらった人からだ」

 

「昔、父さんは街で何をしていたの?」

 

その時、突然棒きれが勢いよく振るわれ、凶器へと成り代わる。

 

青年は何とか、反射的に刀をもってして防ぐことが出来た。

 

「ふぅむ、反応は良い。防御の腕は悪く無いな。構えは下段の方がいいかもしれん」

 

「いきなり……攻撃とは……けっこうな指導だな!」

 

腹いせに反撃したく思ったが、予想以上に父の力は強く、棒きれを振り払えない。

 

青年は意地になり、全精力をもって、腕に力を込め、そして、棒きれを振り払うのだった。

 

しかし、あまりの力に、青年は勢いよく平衡を崩してしまった。

 

「力も悪く無い。まぁ、生まれてからずっと、鍬を振ってりゃ体力も付くか」

 

父は納得したようにうんうん、と頷くと、棒きれをまた構え直し、挑発するかのように切っ先をふらふら揺らしていた

 

「攻撃は強く、素早く行え。相手と攻撃が重なったのなら、武器を狙い、弾いて起点を作るんだ」

 

青年も構え直し、視線を前方に置く。

 

父は、今度は、棒きれを下に構えていた。上段に対する下段。青年には有利に思われた。

 

「もう一度だ。今度こそは俺に防御をさせてみろ」

 

余裕たっぷりな父の様子に、感情的になりかける青年であったが、恐らくこの技術を身に付けなければ、街に出たとしても“無意味”に終わると、父は言うのだろう。

 

ならば、意地でも体得して見せる。

 

熱しかけた頭を冷やし、刀を持つ両腕を振り上げ、正面を鋭く見据えた。

 

――――

 

ふと、気が付いたころには、太陽がすでにその身を隠し、ほのかにもたらされた月光が、外の趨勢を保っていた。

 

青年は汗を洗い流す為、近くの小さな池で水浴びをしていた。

 

穏やかで暖かな春の時分とはいえ、夜は未だ、鋭く身を刺すように寒い。

 

青年は寒さから早く逃れようと、半ば躍起になりながら、体の汚れを取り、それが済むと、手早く布で水気を拭った。

 

父親の”稽古“は、午後に行うはずだった仕事を、全て放棄してまで行った。

 

青年としては願ってもないことだったので、特に問題は無いが、父にとっては、今後の収穫量が減ってしまうので、悩みの種が増えたことだろう。

 

しかし、父は青年を止めることはせず、ただ真摯に、青年の稽古の相手をした。

 

存外、父も持ち前の腕を息子に披露することが出来て、気持ちが高ぶったのだろう。

 

結果は青年の惨敗。子が親にかなう事は無かった。

 

『悔しいが……一歩進んだことは確かだ』

 

負けはしたが、得たものはあったのだ。父の見立てでは、どうやら自身の剣術の筋は、そこまでひどく無いらしい。

 

物覚えも悪く無く、筋力、敏捷性、ともに高い基準を持っているそうだ。

 

しかし、基準点が高くとも、さらなる高みに飛び立てなければ、技術を体得したとは言えない。

 

一日か、一週間か、一ヶ月か、一年か……街へと至る道は、暗く、果てはどこまで続いているかのように思えるのだった。

 

水浴びを終え、青年は、体が冷え切ってしまわぬ内に、手早く着替えを済ませた。

 

授かった刀は、父が大切と言っていたからか、単に愛着が沸いたからか、肌身離さず持っていた。

 

何故、父が刀などという、物騒なものを持っているのか、疑問は尽きない。そのあたりは、家で詳しく聞かせてもらうとしよう。

 

凍えるような冷気から、追い立てられるように、夜の中を歩いていく。

 

一寸先さえ見えない闇の中では、自宅から放たれている幾ばくの明かりだけが、唯一の道標だった。

 

すると、家の中で、何やらあわただしく動く影を、青年の瞳が捉えた。

 

明かりのある場所は、自宅以外には無いので、光が揺れ動くのがはっきりと視認できたのである。

 

……何故だろう、心の奥底が、どことなくざわついた。

 

何かに追い立てられるように、早歩きで、家へと近づいていくと、青年の胸騒ぎは恐怖へと変わり、家が目前に見えた頃には、最早、走り出してしまっていた。

 

願わくば、この思いが杞憂であれと。青年は、家の戸口に手をかけ、勢いよく開いた。

 

青年を迎えたものは、家に帰ったときに得られる、あの”日常“という安心感は露ほども無く、悪意や敵意といった、対する者を皆、不安に陥れる”非日常“であった。

 

「父さん……」

 

部屋の奥で横たわる、今にも消えてしまいそうな生命。青年は、一瞬だけそちらを見やり、呟く。

 

体の至るところから、血液を流し、呻くように何かを呟いている。

 

青年は長年の暮らしから、父の言っていることがどことなく理解できた。

 

『逃げろ』父は青年に、ただそれだけを繰り返し、訴え続けていた。

 

そして、一度の暴力では飽き足らないと言わんとばかりに、未だに殺意を醸し出している、異質な生命。

 

“妖怪”だ。種族は不明。だが、この妖怪が父に手を下したことは明白。

 

その時、青年の心の中で、何かが弾けるように飛び出した。

 

同時に、父の形見の刀を、ゆっくりとその残虐性を確かめるかのように、抜き去る。

 

妖怪は何やら奇声を上げ、こちらを威嚇しているようだった。

 

すると、青年の体がすくみ上るように震えた。

 

恐怖は消えない。しかし、戦わねばならない。

 

己の為に。そして、父の為に。

 

刀を構える。位置を正眼にして、相手の出方を伺った。

 

見合う両者。青年は息を飲み、妖怪は不気味に舌なめずりをした。

 

先に動いたのは名も知れぬ妖怪。身を低くして素早く移動し、青年の真正面に躍り出た。

 

一瞬のことだったので、青年は驚くほかなかった。しかし諦観はしない、相手が自分より強力だとしても、最後まで抗い続ける。

 

その時、妖怪の手元で、何かが光った。

 

“爪”だ。恐ろしいまでに長く、鋭い得物に、青年は背筋が冷えていくのを感じ、思わず後ずさった。

 

それが功を奏したのか、いつの間にか放たれていた、妖怪の初撃を、何とかかわすことができた。

 

しかし、それは運が良かったというもの。次もまた、同じ賽の目を出すことができるとは、微塵も思わなかった。

 

未だ沸き立つ恐怖を抑え込み、相手を見据える青年。父の教えの通り、相手の全体を見つめる。

 

すると、青年は不意に、自分でも理解できなかったが、相手の次の行動が、漠然と脳裏に浮かんだ。

 

予想通りにいくとは限らない。しかし青年は、己の勘を、疑いも無く信じた。

 

妖怪の二撃目。恐れを押し殺し、相手を見続ける。

 

驚いたことに妖怪の予備動作、表情、雰囲気。これら全てが予想通りだった。

 

刹那の一閃。妖怪の強力な一撃を、青年は刀で払い、弾いた。

 

だが、妖怪の力は強い。攻撃を防いだものの、隙を作ることは叶わなかった。“完璧な防御”ではなかったのだ。

 

青年の劣勢は明らかであった。それも当然のこと、ただの人間が、妖怪に勝とうなど、万に一つもあり得ない。

 

だが、絶望的な状況の中、青年は稽古の時の父の姿を思描いていた。

 

父は得物を下段に構えていた。頭や胴を晒した、無防備に見える構え。

 

だが父は言っていた、下段の構えが向いていると。

 

勝てる見込みが無かったとしても、幾ばくの可能性があるのならば、それを見捨てることはしない。

 

青年は呼吸を整え、刀を下方に降ろす。

 

対する妖怪は、二撃目を防がれたことに、少々面を食らったらしく、攻撃を止め、様子を伺っていた。

 

そんな時に現れた、格好の“的”。妖怪の不気味な笑みは止まない。

 

三撃目。禍々しい爪が、青年の胸へと伸びていく。

 

だが、青年は、またもそれを予測した。もとい、操ったといっても過言ではない。

 

青年は目を見開き、刀を振り上げた。

 

飛び散る鮮血、宙を舞う肉塊。その肉塊は、妖怪の片腕だった。

 

その時初めて、妖怪の顔から笑みが消え、悲痛そうに顔を引きつらせ、青年を仰ぐように尻もちをつき、後ずさっていった。

 

だが、余程悪運が強いのか、計画的なのか。妖怪が退いた先には。開け放たれたままの窓があった。

 

恐らくこの家にも、そこから侵入したのだろう。

 

青年は急いで追撃にかかる。だが、気付いたころには、妖怪は窓に身を投げ入れ、夜の闇に紛れていくのだった。

 

後を追うことはしない。今は、それよりも重要なことが、彼にはあった。

 

刀を仕舞い、父の下へ駆け寄る。

 

父の姿はまさに無残で、見るに堪えないものだった。

 

体中は痣や爪痕だらけで、指もいくつかへし折られている。顔は腫れ上がり、髪はむしられ、苦しそうな呼吸音が、静かな家の中で響いていた。

 

もう長くはない、それは間違いなく、自明なことであった。

 

青年は、比較的傷の浅い、父の肩へ手を当てた。すると父は応するように顔を上げ、掠れた声で呟いた。

 

「いや……これでよかったんだ。これでお前を縛るものは何も無くなる。後は、お前が見出した“真実”に従え……きっと導いてくれるさ」

 

すると、父は突然深い呼吸をし、瞳を閉じた。とても安らかな死に顔だった。

 

父の最後の言葉は、これまでの父の発言とは反していた。

 

しかし、青年はただ静かに、父の瞳を見つめ続け、その言葉を心に焼き付かせるのだった。

 

――――

 

父の亡骸は、父がかねてから言っていたように火葬によって供養した。

 

また、焼いたのは遺体だけではない。彼は己の家をも、一片残らず焼いた。

 

残ったものはただの焦土。父の名残など、最早どこにも無い。

 

だがこれは、青年の決意の表れだった。

 

父を殺した妖怪は、きっとまだ生きている。

 

父の怪我の有様を見るに、あの妖怪はかなりの嗜虐性、残虐性を持って居るに違いない。

 

青年は、そんな存在が生きて、父のような存在が死んでしまったことが、とにかく許せなかった。

 

復讐……青年の胸の内には、この決して高潔ではない感情が、暗く、深く渦巻いていた。

 

真昼の空は、どこまでも青く、広く、空気は暖かくて心地よく、虫や鳥が、忙しなく春の始まりを告げていた。

 

その空の下で、そんな幸福には目もくれず、青年はただ、道を往き続ける。

 

彼は一人、己の旅の前途を祈り、血に塗れてしまった道を、“真実”へと至る道を、歩み続けるのだった。

 

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