何かがおかしい。
博麗霊夢が、人里に対してそう感じたのはつい最近のことだった。
彼女はよく、少ない資金をもってして人里へ買い出しに出るのだが、それを幾度か繰り返すたびに、彼女はその疑念をより強めていった。
この感覚は、異変を察知した時に近い。
しかし、その感覚はあくまで近いものなのであって、決してその通りとは言えなかった。
今日も今日とて、霊夢は人里に出向いていた。
人々の往来は激しく、誰もが何かに追われているようで、忙しなく行き来していた。
霊夢の目立つ紅白の巫女服も、あまりに多くの人々で隠されてしまっているのか、彼女に気が付き、驚くものは殆ど居なかった。
霊夢はその雑踏の中で、眼を鋭く尖らせ、周囲に目配せをしていた。
彼女は平生から、勘が鋭い方であるというのは、周囲からの、そして自身の評価から得られたものであって、これまでもこの勘によって、さまざまな事件を解決してきた。
だが、今回ばかりは、この勘の正確性を疑う他は無い。
あまりにも漠然としていて、あらゆる推測も的を射ることは無かった。
故に、彼女は解消しようのない苛立ちを募らせるばかりで、ただ、異変が起きているという予感だけが、霊夢の心の中に巣喰っているのだった。
具体的に形容するとするならばこうである。
人里が……人間達が、沸いているのだ。
その時、霊夢の耳に、なにやら大声で騒ぎ立てる人々の歓声が、遠くから届いてきた。
霊夢は、はっとした様子を見せ、急いで群衆の中を掻き分け、未だ鳴り響く人々の、叫び声を探した。
すると、霊夢を阻害していた群衆は、ある一点で途切れ、彼女は少し開けた場所に出た。
そこで、霊夢は見つけたのだ。人間たちの熱意の源泉を。
ここは人里の中央部にある、公衆広場だった。
その広場の中央では、木造で作られた舞台のような台座が、とってつけたように設置されていて、その上には何人かの人間と、どこか、いびつな形をした、古びた西洋時計のようなものが置かれていた。
しかし、時計の針はどこにも無い。代わりに、巨大で、酷く恐ろしい、三角形の刃物が、分厚い紐に固定されていた。
その刃物は今にも物理法則を存分に発揮した力を見せようとしていて……刃の真下には、一人の妖怪が、手足を縛られ、懺悔をするかのようにその身を捧げていた。
すると、妖怪の傍らに立っていた一人の“青年”が、声高らかに、手で広げた文書を読み上げた。
「まず皆様に、今日この場に集まってくださったことを感謝いたします」
この時、広場に詰め掛けていた人々は、しん、と静まり返った。
「聡明なる皆様におかれましては、我々人間が、誰もが生得的に得ている自由という権利を、今日まで阻害され、制限されていたことを、十分理解していることかと存じます。自由とは、意志を持ち幸福を求める人間という存在には、欠けてはいけないものであることは、論ずるまでもありません」
すると、またもや人々から歓声や大声が方々に上がった。それは青年の言葉に同意を示すものがほとんどだった。
「しかし、我々の今ある状況がいかなるものか、私は一つの言葉によって表せられると、考えています。それは“支配”です! 我々は、我々を脅かしている存在……妖怪共によって、支配されているのです! それは、我々人間の、あるべき姿とは言えません」
青年が表した言葉は人々から上がる声々の性質を変えた。
人々は怒りに満ちていた。憎悪に満ちていた。……悲しみに満ちていた。
「今、私はこの妖怪の罪を、死でもってして裁きます。この者は、私の父を殺害しました……父はただの農夫でした、殺される所以など一切持ち合わせていません。父の死は、理不尽以外の何物でもないのです」
その時、人々の声は、顔も知らぬ男の死を悼んでいるのか、またも静けさを取り戻した。
「願わくば、人里の人間達よ。恐れてはなりません。恐れは力を奪い、意志を弱らせます。そうなれば、我々は支配されたままで、真の幸福を得ることは出来ません。人々よ、武器を取り戦うのです! 恐れを克服し、我々の自由を取り戻すのです! 最後の審判は今、ここに下されました……さぁ、刑を執行しろ」
すると、青年の隣にいた男が頷き、何やら棒状の装置を、引いた。
耳障りな金属音。歪んだ木材を無理矢理慣らしていくような音。そして、重たい何かが転げ落ちるような、前の音と比べると拍子抜けするかのような、乾いた音が順番に鳴り響いた。
瞬間、ほとばしる淡い赤色。二つに分かたれ、噴水のように勢いよく、飛沫を散らしていく。
あまりに一瞬のことだった。処刑からややあって、おぞましくも真っ赤な肉塊が、妖怪であることを人々は再認した。
その時、観衆の熱気は最大限に達し、胸中に響かんほどの大歓声が巻き起こった。
「なんて……こと」
しかし、人々とは裏腹に、霊夢の心中には拭い難い不安と、焦りが根ざすのだった。
――――
霊夢はその後、重たげな足取りで神社への帰路についていた。
足取りと言ったが、実際は歩いていない、普段通り浮遊している。
しかし、飛んでいるとはいえ、霊夢が携えている気質が、暗く沈んだものであることは、その顔を見れば自明のことだった。
神社に着いた後、彼女は慣習から、茶の支度をした。
居間の食卓の上に、手際よく湯呑みと急須を置く。
供する茶菓子は先程人里から買ってきた、お気に入りの酒饅頭だ。
だが、彼女はそれをすぐに手を付けることはなかった。
すると、彼女はおもむろに立ち上がると、何故か、自分のとは別に茶をもう一つ淹れ、うんざりした様子でため息をついた。
「用があるんでしょ? さっさと出てきなさいよ、紫」
「あら、そのお茶、頂いてもいいのかしら?」
霊夢の声に応えるように、何もない空間から声が響く。すると、空間の境界に身を潜めていた八雲紫が、その身を顕現させた。
紫は優雅な足取りで霊夢に近寄り、茶の置かれた席。霊夢の隣に身を降ろした。
「勝手にしなさい。どうせ言わなくても飲むんでしょ」
「ふふ、どこかの誰かさんと一緒ね」
「……幽々子のところに行ったときから見ていたようね」
「ええ、今回の件は、私が直接関わるには、まだ早すぎるように感じたから」
紫の言葉に、疑念を口にしかけた霊夢であったが、恐らくは答えてはくれまい。紫が姿を現したのなら、何か話があってのことだ。
今は、それを聞くだけに徹するべきだろう。霊夢はそう思い直すと、代わりにまだ暖かい酒饅頭を口にした。
芳醇な麹の香りが、鼻の中に広がり、薄皮に包まれた濃密な餡子の甘みが、口いっぱいに溶けていく。
胸中の不安とは打って変わった、一時の幸福な感覚に、霊夢は酔いしれた。
「まず、私は霊夢に確認したい。貴方は今回の一件をどう捉えるか、どう感じたのか」
「どう感じるも何も、私の仕事が減ってくれてありがたい、ぐらいにしか思わないわよ。これで里近辺の妖怪たちも、人間達にあんまりちょっかいかけなくなって、楽になるってもんね」
と、いかにも能天気な調子で言い、茶を一飲み。
饅頭の餡子の甘みと、茶の苦い、深い渋みが調和して、さらなる幸福と安らぎをもたらす。
だが、それはより強い、より鋭い言葉によって、あっさりと失われる。
「それは平生の貴方。堕落した楽観主義者としての発言ね。私は、貴方を妖怪退治の専門家として、幻想郷の秩序の一翼を担う者として問いている……さぁ、教えなさい、博麗の巫女よ。今回の人間達の一件。貴方はどう捉える?」
紫の言葉は、今の霊夢にとっては厳しいものだった。
しかし、霊夢は紫の問いかけから逃れるような性質ではない。
霊夢は一度、念じるように瞳を閉じると、もう一度茶を口に当て、一気に飲み干し、真っ直ぐ紫の瞳を見据えた。
「幻想郷の危機よ。それも、恐らく幻想郷の存在自体を揺るがす、大事件ね」
「理由は?」
「人間と妖怪のパワーバランスが崩れる。それは即ち、幻想郷の崩壊を意味する。これでは、何のために、大掛かりな結界まで作って、妖怪たちを外の世界から隔離したのか分からない。それに……」
霊夢はここで言葉を切ると、普段の彼女には見られない、ひどく暗い表情をし、続けた。
「こんなことにならない為にスペルカードルールを考案したのに……それも、無駄に終わってしまった」
「……そうね、確かにそれは私も残念に思うわ。けど、今はそれを悔やんでいる時じゃない。貴方の言う通り、これは未曽有の危機だわ。すぐに対策を練らなければいけない」
すると、神社の外で何者かの気配がした。
霊夢は住み慣れているだけあって、誰かが訪れる気配には敏感だった。
訪れる対象の器のほども、推し量れるほどに。
霊夢は暗い感情に沈んでしまっていたが、気配に気づくと、急いで外に出た。
「あんた達……!? なんでここに?」
気配は複数だった。そしてその何れも皆、並々ならぬ力や影響力を有した者たちだった。
驚く霊夢を尻目に、紫が前に出て、彼女らを……幻想郷の賢者達を出迎える。
「皆様の来訪、感謝します。今ここに、幻想郷の存亡を賭けた会議……“幻想郷会議”の開始を、宣言しましょう」