物心ついた時から、ヘンルーダには別の人間の記憶があった。英雄と呼ばれた男の記憶だ。実感はなく、そういえばそうだったなくらいのものだ。しかし、間違いなく自分で、今の自分は英雄としての生を終えた後の人間なのだ――という認識はどこかにあった。証拠のようなものもある。額にある、稲妻形の傷痕だ。
ヘンルーダは間違いなく「普通でない」女の子だった。癖の強い髪は伸び放題で、目は子供らしくなく疲れ切っていた。両親はなく、ダーズリー家で従兄のダドリーと共に育てられていた。ペチュニアおばさんが女の子らしくヘンルーダにスカートを履かせようと努力していた時期はあったが、ヘンルーダ本人がスカートを好まず、むしろダドリーが着なくなった服を引っ張っていくものだから、ペチュニアはヘンルーダに裁縫のいろはを叩き込み、お下がりの調整を自分でさせるようになった。ついでに料理や洗濯などの家事の手伝いをさせ、買い物にも行かせた。そうして出来上がったのが、根暗で愛想は悪いが、家事は完璧に出来るヘンルーダ・ポッターであった。
「早くおし!今日はダドリーちゃんの誕生日よ」
ペチュニアの声がする。ヘンルーダは物置で目を覚ました。
ヘンルーダは部屋を与えられていないことを悪くは思っていない。そもそも部屋でない場所を自室とすること自体、実は小さな子供の憧れだ。今までにも、何度ダドリーが秘密基地ごっこをしようと物置に突入しようとしてきたことか。しかしその度にペチュニアが「ダメよダドリーちゃん。あんな出来損ないと一緒の部屋に行くなんて」と追い返すのだった。ペチュニアは目に見える形での愛はヘンルーダに注いでいなかったが、ヘンルーダはそれでかまわなかった。少なくともペチュニアは、ヘンルーダがひとりで生きていけるように教育を施してくれている。
ペチュニアがキッチンに歩いていく音に続いて、フライパンをコンロにかける音がした。ヘンルーダは急いで身支度をして、髪を後ろでひとつにくくり、物置を飛び出して洗面所に駆け込んだ。手を洗うと、キッチンへ走る。何が入っているのか分からない――おそらくベーコンだろう――が、フライパンの中身を焦がす訳にはいかない。
食卓は、ダドリーの誕生日プレゼントの山に埋もれてほとんど見えなかった。コンロに辿り着くと、油を敷いたフライパンの中でベーコンがジュージュー音を立てていた。もう少しで焼き上がる。良い匂いが漂い始め、綺麗な焼き色がついたところで、ヘンルーダはベーコンをひっくり返し、空いているところに卵を割り入れた。
バーノンおじさんがキッチンに入って来た。ヘンルーダの方をちらりと見たバーノンは、何も言わずに食卓につき、新聞を広げた。ヘンルーダはフライパンを眺める傍ら、コーヒーメイカーで熱いコーヒーを淹れ、バーノンの傍に置いた。キッチンには、ヘンルーダが料理をする音と、バーノンが時々新聞をめくる音だけが響いた。
ベーコンも卵も綺麗に焼き上がった頃、ダドリーが母親に連れられてキッチンに入って来た。ヘンルーダは朝食を皿に盛りつけて食卓に並べようとしたが、プレゼントのせいでほとんど隙間がないので、簡単には置けない。自分の分をひっくり返されてはかなわないので、キッチンで立ったまま食べようかと思案しつつ、今度はトースターにトーストを放り込んだ。
「36だ。去年より2つ少ない!」
「坊や、マージおばさんの分を数えなかったでしょう。パパとママからの大きな包みの下にありますよ」
「分かったよ。でもまだ37だ」
ヘンルーダはため息をついて、冷蔵庫からチョコレートプレートを取り出した。チョコペンで「
「今日お出かけした時に、あと2つ買ってあげましょう。どう?かわいこちゃん。あと2つもよ。それで良い?」
「そうすると、僕、さんじゅう……さんじゅう……」
「39よ、可愛い坊や」
「そうか、そんならいいや」
どうやらペチュニアもダドリーも、ヘンルーダのチョコプレートはプレゼントには含まなかったらしい。たしかに大した値段もかかってないしな、とヘンルーダは思いつつ、バーノンのトーストとペチュニアの朝食、ダドリーのオレンジジュースを食卓に置いた。自分はキッチンで立って食べようと思っていたのだが、トーストを頬張ろうとした途端、いつの間にか後ろにやって来ていた怖い顔のペチュニアに肩を掴まれたので、大人しく食卓で食べることにした。
電話が鳴り、キッチンを出て行ったペチュニアは、戻って来るなりこう告げた。
「バーノン、大変だわ。フィッグさんが足を折っちゃって、この子を預かれないって」
いや預かれるだろ、とヘンルーダは思った。何なら、自分がフィッグばあさんの手伝いをしたっていい。こっちはダドリーのケーキを買いに行くという仕事があるのだ。
今日のダーズリー一家は、ヘンルーダを除く3人は動物園へ行く予定になっていた。ヘンルーダはというと、動物園に行けば楽しいことは分かっていたが、それはそれとして他にやりたいこと――つまり、ダドリーのケーキを買いに行くこと――があった。そうでなくとも、一度人生を経験しているものだから、気分的には動物園で喜ぶお年頃ではない。
「どうします?」
「マージに電話したらどうかね」
「馬鹿なこと言わないで。マージはこの子を嫌っているのよ」
当然である。ヘンルーダだってマージおばさんのことは嫌いだ。
「それなら、ほれ、何て言う名前だったか、お前の友達の――イボンヌ、どうかね」
「バケーションでマジョルカ島よ」
何の意味もない。
「フィッグさんのとこにいるよ」
ヘンルーダは言った。
「足を折ったなら、手伝いをすればいいし。別に死んだ訳でもなし……」
「断られたと言ったでしょう」
ペチュニアがぴしゃりと言った。
「動物園へ連れて行ったらどうかしら……」
「やだ」
断固拒否したい、とヘンルーダは主張せんとした。
「お前の意見は聞いていません」
ぴしゃり。しかし、「どうかしら」と言った声音に滲み出る気乗りのしなさで、連れて行きたくないという本心は丸分かりだった。
「僕は別に、そいつが来ても良いけど」
ダドリーが言った。
「私がやだ」
ヘンルーダはぴしゃりと言い放ち、冷凍庫からナッツフレーバーのアイスクリームカップを取り出して来て、ダドリーの前に置いた。ダドリーは大人しく食べ始めた。
「バーノン、この子を連れて行くしかなさそうだわ……」
ペチュニアが言った。バーノンはとても嫌そうな顔をしたが、首を縦に振った。
「行きたくないんだけど……」
「お黙り!」
ペチュニアが一喝した丁度その時、玄関のベルが鳴った。ペチュニアが玄関まで迎えに行く。やがてピアーズ・ポルキスが母親と共に入ってきた。30分後、ヘンルーダはダーズリー一家の車の後部座席にピアーズ、ダドリーと一緒に座らされていた。
運転をしながら、バーノンはペチュニアを相手にブツブツ不平を言った。会社の人間のこと、市議会のこと、銀行のこと、株のこと。ヘンルーダのことは絶対に話題に上がらない。バーノンは姪であるヘンルーダを、空気のような存在、いないものとして扱っていた。ヘンルーダからしてみればありがたい限りだ。
その日は天気も良く、土曜日とあって、動物園は家族連れで混みあっていた。ダーズリー夫妻は入口でダドリーとピアーズに大きなチョコレート・アイスクリームを買い与えた。愛想の良い売り子のおばさんがお嬢ちゃんは何が良いのと聞いたが、ヘンルーダは首を振った。食べるならクッキーアンドクリームかバニラだが、クッキーアンドクリームはメニューにないし、そもそも今はアイスの気分ではない。
「スプーンをちょうだい」
ダドリーが売り子のおばさんからスプーンを貰い、かなり大きい一口を掬ってヘンルーダに差し出した。
「いらない」
「食え」
「いらないったら」
「ピアーズ」
「おう」
アイスクリームを一旦ペチュニアに預けたピアーズが、後ろからヘンルーダを羽交い絞めにする。
「食え」
ダドリーがずいとスプーンを突き出してきた。唇にアイスクリームがつく。観念したヘンルーダは、口を開いた。アイスクリームの乗ったスプーンが口の中に突っ込まれ、ダドリーはスプーンを離した。同時にピアーズがヘンルーダの手を解放する。アイスクリームに罪はない。仕方なくヘンルーダは、口に突っ込まれたスプーンをなめた。甘くて美味しい。元よりヘンルーダは甘いものが嫌いではない。
だいたいの動物を見終わると、園内のレストランでお昼を食べた。みなが昼食を食べる傍ら、オレンジジュースを昼食代わりにしたヘンルーダはチョコレート・パフェを2つ買い、片方にもう片方のアイスクリームを移し始めた。半分ほど移すと、今度は上の飾りを全て移す。そうして本来の1.8倍くらいのボリュームのパフェが出来上がると、それをダドリーの方へ押しやり、自分は残りを食べ始めた。ピアーズが足りないと言い出したので、ヘンルーダは食べかけていたパフェの残りをやった。どうせ夜はバースデーディナーとケーキだ。十分に事足りる。
昼食の後は爬虫類館を見た。ダドリーは館内で一番大きな蛇を見つけたが、ぐっすりと眠っているようだった。父親に動かすように強請るも、蛇は眠ったまま。
「つまんないや」
ダドリーは行ってしまった。
ヘンルーダはガラスケースの前に立ったまま何となく蛇を眺めていたが、突然蛇はビーズのような目を開け、ゆっくりと鎌首をもたげ、ヘンルーダの目線と同じ高さまで持ち上げた。
「?」
ヘンルーダはしゃがんでみた。蛇はヘンルーダの顔を追うように、鎌首を下げた。立ち上がる。鎌首が持ち上がる。しゃがむ。鎌首が下がる。
「私がそんなに面白い?」
「私の言葉が分かるの?」
また頷く。
「人間の言葉が分かるの?」
これには首を横に振った。ヘンルーダはぞくりとして、慌てて蛇から離れた。その辺に立っていたペチュニアを引っ張って来ると、もう一度蛇に話しかけた。
「どこから来たの?」
蛇はガラスケースの横にある掲示板を尾でつついた。
ブラジル産ボア・コンストリクター 大ニシキヘビ
ヘンルーダはペチュニアを振り返った。
「私今何て言ってたか聞こえた?」
「何も」
ペチュニアは言った。
「何か言ったのかい?」
「蛇に、『どこから来たの』って聞いた」
2人は顔を見合わせた。みるみるうちにペチュニアの血の気が引いていく。
今度は2人してしゃがみ込み、ヘンルーダは改めて蛇に話しかけた。
「ブラジルはいいところ?」
蛇はもう一度尾で掲示板をつついた。
この蛇は動物園で生まれました
ペチュニアの顔はさらに蒼褪めていた。
「お前……今、変な音を出していたわ……『シュー』って……」
ヘンルーダは固まった。そんなことが……そんなことが普通の人間にあり得るだろうか?人間の言葉を話しているつもりなのに、蛇の鳴き声のようなものを出しただなんて。
弾かれたようにヘンルーダは立ち上がり、出口へ早足で向かった。近くのベンチに座っていると、すぐにペチュニアが追いついてきた。
「何てこと……」
ペチュニアが呻いた。
「お前は違うと思っていたのに」
「違うって?」
ヘンルーダは聞き返したが、ペチュニアは首を振るばかりで答えようとしなかった。ヘンルーダもそれ以上は聞かないことに決め、もう一度動物の方を覗いてみた。アシカ、アザラシ、ペンギンに話しかけてみたが、蛇のような反応を返してきた動物は一切いなかった。つまり、ヘンルーダに出来ることは「動物と話す」ことではなく、「蛇と話す」こと、という訳だ。
蛇と話せるなんて、とヘンルーダは思った。そういえば記憶の中の英雄も、蛇と話せた過去がある。しかも蛇と話せる能力は珍しいもので、英雄が話せた理由も、「『闇の帝王』に印をつけられたから」という後天的かつ滅多にない事例のせいだった。
何てこった、とヘンルーダは思った。どうやら自分は、英雄の記憶の通り、この世界で英雄にならなければならないらしい。
夕方になると、動物園を満喫したらしいダドリーとピアーズと共に、ヘンルーダは帰りの車の中にいた。途中でケーキを買うためにヘンルーダとダドリーが降ろされ、お金を持たされたヘンルーダはダドリーにケーキを選ばせた。その傍ら、ピアーズの分を買い、箱に詰めてもらう。ダドリーが選んだケーキも別の箱に詰め、もう一度車へ戻り、家に着いた。
「ポルキス」
帰ろうとするピアーズに、ヘンルーダは小さな箱を押し付けた。
「これ……良いのか?」
「いらないならあげない。うちで食べるから」
引っ込めようとしたヘンルーダに慌てたピアーズは、箱を受け取った。
「貰う」
「うん、そうして。ケーキも報われるよ」
それからおばさんとディナーを作り、食卓に並べ、ダドリーがケーキのろうそくを消した。ダドリーの誕生日というイベントも無事に終わり、完璧な1日となった。蛇と話せることを知ってしまったこと以外は。
(後略)