私は、その潮風の香る方へと向かう。
先生の、あの狂気的な笑いが消え、また歴史について語っていた時の、なんとも学者らしい顔に戻ったのを、最後に見た気がする。
しかし、そんなことはどうでもいい。単位を取るために考えることの方が重要だ。
扉の閉まろうとする力に任せて歩くと、後ろからガタッ、という音がした。
「わ、私、も……たん、い……!!」
振り向いた先にいたのは、青い髪をした少女。走っていたのか、息を切らしている。
後ろで、驚いて目を見開いている先生と、数名の生徒の姿が見えたが、それよりなにより、この人物の行動に驚きを隠せない私は、ただそこを見ていた。
「間に合っ……う、うわあっ!」
「えっ、ちょ、ちょっ!」
驚きのあまり、少し頭がボーっとしていた。
勢いよく扉に向かって駆けてくれば、ぶつかってしまうのは必然だった。
避けることはできて当然だろうが、そこに思考がまわらなかった。
扉が閉められた。私というストッパーがいなくなったからだ。
最後に見えた先生の顔は、変数を見つけた学者のそれであった。少し、せいせいした。
「いっ……たた~」
「…………」
多分、地面は芝生だったのだろう。頭をぶつけても、痛くもなんともなかった。
喋ろうとするも、口が開かない。
喉を、んーんーと鳴らしてみるが、もしこれで相手に気付かれなければ、ここで窒息することになる。
投げようと思えば投げられなくもないが、なんというか、この心地の良い柔らかさに逆らいたいと思えない。
海に浮かんでいる時、こんな気分になったなと、少し昔を振り返る。
「あー! ごめんなさい!!」
私の存在に気が付いたのか、すぐに離れた。
その部位から見るに、私の息を止めていたのはその胸だろうと、理解できた。
心地よかったとはいえ、相手を窒息死寸前まで追い詰めたのだから、嫌味の一つでも言ってやろうとした。
「……随分と元気のある子だね、君は」
が……
「よ、よく言われます! えへへ」
「あ、ああ」
ここまで素直に受け取られると、何とも言えない。
先程まで、膝に手をついていたから分からなかったが、実際に見てみると、相手の身長の方が、私の身長より頭一つ分大きい。それに、豊満な肉付きをしていて、しかし、締まるところは締まっている、なんともナイスバディなところが、どうにもコンプレックスを刺激してくる。
だが、穏やかそうなその表情のせいで、こちらの攻撃性は削がれる。
「君も、歴史の単位を取りに?」
「はい、そうなんです!」
この元気の良い返事は、もうそれだけを武器に先生から愛されてきたのだろうと、邪推をしてしまいたくなる。もし、こんなのがゾンビになっていたのなら、真っ先に殺したうえで、切り刻みたくなってしまう。
だが、ここにいて、しかも、さっきの発言から考えるに、共に単位を取る仲間ということになる。
変に敵意を出すわけにはいかない。
「なら、私の仲間、ということになるね。よろしく」
「は、はい! よろしくお願いしますっ!!」
差し出した手を、思いっきり振られる。
この大きさからして、強い圧力で手を潰されると思ったが、思った以上に優しくて、やはり海に浮かんでいる時のようだった。母性とは、このようなもののことを言うのだろうか。
「……それで、この単位を取得する条件は知ってる?」
「いいえ、なにも……」
「そりゃそうだよね。とりあえず、端的に話すと、この街で革命が起きて、一家は一人残らず処刑されます。それで、その娘を」
「そ、そんなの酷すぎます!!」
あまりの力強い声に、驚いて言葉を止めてしまった。
心優しいというのを全力で表現したような、それもなんの濁りもない綺麗な心を晒すかのような、その声に。
「いくら、王様が悪いことをしたからって、殺すなんてそんな、そんな……」
「……そうだね。酷い話だ」
王様、なんて言った覚えはないが、恐らく共和国の大統領一家なんて言っても、あまり理解できなさそうなメルヘン脳をしていそうだから、王様でいいような気がしてきた。
彼女をそう推測したのは、この涙をウルウルと浮かべる顔だ。
心を乱されるが、これは純粋な心の持ち主のそれだ。
酷い話。
多分、民衆にも民衆の正義があるのだろうから、そう思うことはなかったが、確かに、一家全てを殺すなんていうのは、改めて考えてみると、酷い話だ。
平和を望まれた日に生まれ、その能力を持っているからこそ、その言葉が強く刺さってくる。
多分、能力のせいもあってか、凄惨な出来事に対する、おかしなくらいの免疫があるのだろう。
言われるまで、酷い、なんて言葉が頭に浮かばなかった。
「だから、その王族を助ける、というのが単位の取得条件になるってわけなんだ」
「助ける……!」
本当はリナだけでいいのだが、こんな感性を持った彼女のことだ。恐らく、全員助けると言って聞かないだろう。
真実を知らされていないというのは、酷い話ではあるが、切り抜けるためにはそれくらいの気持ちで挑んでもらわなければ困るというやつだ。
「……ところで、ここはどこなのでしょうか?」
「下は芝生のようだし、この風景的に宮廷の庭かな」
周囲を見ていたら、一面の整えられた芝生に、南国にありそうな木々、その下は砂浜と、海から持ってきて作ったであろう池。恐らく、庭園に小さな海を作っているのだろう。
この広さと装飾は、金持ちのそれだ。
そして、私が王室の従者となって課題をこなす、という条件がある。
ヴェルサイユほどではないが、これが宮廷の庭園と言われても、納得できる。
さっき、潮風の香りを濃く感じられたくらいなのだから、海の近くの宮廷なのだろうか。
「宮廷」
「王族が住む家のことだよ。とても大きい、ほら」
見渡す限りの立派で、ちょっとくすんだ白色の建物の集合。
宮廷だろうか。元王国と言っていたから、恐らく流用品であろう。
小国でも、この程度の宮廷は作れる、というよりは、その大国からそれだけの儲けが出ていたということだろうか。
辺りを見回していると、声が聞こえてきた。
「みなさーん!」
その方向を見ると、白くてヒラヒラな衣装に身を包んだ、金髪の少女がいた。
この国を代表する花なのだろうか、庭にポツポツと見える花の髪飾りを付けている。
「お休みにしませ……あれ? いつもと着ている服が違うような」
「あ、えっと、その」
「申し訳ございません、お嬢様。今日からこのお屋敷で働かせていただくことになっていたのですが、この子が『広い庭~』、なんて言いながらはしゃいでいたせいで、こんなところにいました。私は、先に挨拶をしようって言ったのですが……。本当に申し訳ございません」
「えっ、えっ!?」
そう言って、頭を下げると、どこか困惑気味であった隣の青髪少女も、釣られて頭を下げた。
たった少し話しただけで分かったが、この青髪少女は馬鹿だ。
友達に「天然だよね~」と言われたのを、褒められたのと勘違いして生きてきたタイプだ。
この、礼儀と身分でガチガチに縛られた社会では、そんな腑抜けた態度は許されない。
ただ、もしかしたらここは……。
「あ、頭を上げて! 確かに、このお庭は、この国で一番美しく、そして綺麗だから、そうなってしまうのは分かるわ。……そうだ、今すぐ着替えましょうか」
「お心遣いいただき、ありがとうございます」
「あ、ありがとうございます!」
ついてきて、と言われたので、言われるままにリナの後を追う。
そこら辺を歩く従者たちが、こちらを見ている。
自らと違う服を着ているこの姿が珍しいのだろうか、そのせいで客として見られているのか。
どちらにしても、敵意でこちらを見ているようには見えないから、警戒する必要はないだろう。
「あなた達は、えっと確か……」
「申し遅れました。私は、リフィール・エンドと申します、お嬢様」
「ひ、ヒラセ・ウミと申します!」
「リフィール、ウミ……リフィーとウミ、と呼んでもいいかしら?」
「もちろんでございます、お嬢様」
「も、もちろんでございます!」
階段を上る途中、振り返ってそれだけ聞いてくると、笑顔で前を向いた。
従者を大事に扱っている、ということが、なんとなくだが理解できる。
さすが、将来この世界のバランスを取る存在だけある。
それにしても、綺麗な螺旋階段だ。こんなのを上るのは、いつ以来だろうか。
私と同じような気持ちで、隣で「おー」といった声を小さく出しているウミには、余計なことを言わないか注意を払わなければいけない。
「ここが、着替えがある部屋よ」
「ありがとうございます、お嬢様。案内がとてもご上手にございますね」
「そ、そんなこと、褒めなくてもいいわ」
リナは、そう言って扉を開ける。
その前、顔が少し赤くなっていたのが見えた。
リナは、ウミ未満ではあるが、単純な、というよりは純粋な人なのだろう。
「入って右のクローゼットの中だったかしら、メイドさんの服があるのは」
言われたとおりの場所に向かい、扉を開いてみると、何十着も同じ服があった。
黒いドレスのようなものに、上から大きくて白いエプロン。
唯一無二の大国の趣味だろうか、それとも文化だろうか。
どちらにしても、よく見たことのあるメイドの服といった感じだ。
「では、私たちは着替えさせてもらいますので、失礼ながら、一旦、外に出てもらえますでしょうか?」
「そ、そうね! 終わったら教えて!」
「はい、かしこまりました」
そう言うと、リナは扉の外に行った。
ウミはと言うと、メイド服を見て「本物のメイド服だ~」等と、感嘆の声を上げている。
やっと、二人になれた。
私は、少し背の高いウミを見上げる。
「ウミ、って言ったっけ?」
「はい、そうです!」
「やっと二人きりになったんだから、ね?」
「え、えっと、その」