それは夏休みの出来事だった。
「タヨリちゃん、今日も図書館に行くのかい?」
「うん」
何の変哲もない一軒家。
祖母らしき人物に見送られる少女は、抑揚のない返事をしてから家を後にした。逃げるような足取りでそそくさと。まるで家の中には居場所がないと言わんばかりだった。
(暑い……)
連日の暑さは相変わらずだ。
出かけて数分と経たず、少女の額や首筋には汗が浮かび上がり、風に揺れる黒髪もへばりつく。元より人に見せるつもりもなくボサボサに散らかしたままの頭ではあるが、不快であることには違いはない。
こうなってくると余計に冷房の利いた図書館が恋しくなる。
一段と早くなる足取りに応じ、首から下げたゴーグル───スポーツメガネは大きく揺れていく。
元々目が良い方ではなかった。それでも活発に外で遊ぶ自分へ母が買ってくれた物だが、それも今や母親の形見だ。
───どれくらい学校に行ってないだろう?
具体的には覚えていない。いや、思い出したくない。
親友と呼べる子がいじめをきっかけに引っ越し、今度は自分がいじめの対象に。そこへ追い打ちをかけるように母親が病気で死んだ。
結果、立派な不登校児の誕生である。経緯も経緯であるからか祖父母が何も言わなければ、仕事柄中々家に帰ってこられない父親も強くは行ってこなかった。
それでも子供ながらに不登校の罪悪感を覚え、学校から送られてくる宿題はきちんとこなしていた。
しかし、その量もたかが知れている。
あっさり午前中に全部こなしてしまえば、午後は暇な時間をどう消化するかに掛かってくる。
そこで見つけた避難所が図書館という訳だ。本なりパソコンなり、いくらでも暇は潰せる天国のような場所である。
「げ」
だが、夏休み中だったのがイケなかった。
入口に到着した際、透明な扉の奥に見知った顔が数人屯しているではないか。今となっては喋った記憶も曖昧な同級生。察するに、夏休みの読書感想文や自由研究の題材探しといったところだろう。
これが普段から顔を合わせている間柄ならまだしも、不登校の身としては非常に気まずい。
数分その場で考え込み、諦めるように踵を返す。
「はぁ……」
近場の図書館と言えばここぐらいだった。
光が丘全体で調べれば他にもあるだろうが、わざわざそこまで赴く気力も足もない。
重い足を引き摺り、トボトボと帰路につく。
日が眩しい。
まるでこちらを責め立てるように照り付けてくる夏日に、自然と足は公園の木陰へと向かっていた。
幸いと言うべきか人っ子一人居ない。
こうまで暑いと外で遊ぶ子供も少ないのだろう。心なしか蝉の鳴き声も弱弱しく聞こえてくる。
「……あっ」
うだるような暑さに視線を落としていた時、とある生物を地面に見つけた。
蝶だ。黒と黄のコントラストが鮮やかな翅を持っている───そう、アゲハ蝶だ。
(……かわいそう)
そう思った理由は、欠けた翅にあった。
他の虫や鳥に襲われたか、はたまた事故か。飛ぶこともままならなくなれば、途端にただの重りと化してしまう。それを引き摺るように地面を歩く様は、子供心ながらに哀れみを覚えさせるに十分だった。
「……」
ジッと蝶を見つめる。
このまま放っておけば、いずれ鳥に襲われて命を落とす羽目に遭うだろう。いや、そもそも餌にありつけるかどうかも分からない。
少しの間逡巡し、腰を上げる。
ゆっくりと地面を這いずる蝶をそっと持ち上げ、近くの茂みに咲いていた花の下へと送り届ける。
掌に乗せられていた蝶は、恐る恐るといった様子で花の生えた茂みへと乗り移れば、覚束ない足取りながらも花の下へと向かっていく。
(私……何してるんだろう?)
それが自己満足と理解している少女は、内心独り言つ。
これはただのその場しのぎだ。
問題の本質は別にある。にも関わらず、そこから目を逸らしている。
───『だって仕方ない。私にはそれを解決するだけの知恵と勇気もない』
そう自分に言い訳を聞かせ、慰める。
以前にも似たようなことをした記憶があった。
同時に、それで失くしたものまで思い出し、酷い自己嫌悪が胸を襲った。
───できるだけ遠くへ。
現実から目を背けようとベンチへと戻り、腰を下ろす。
先ほどの蝶が見えないように明後日の方を見遣れば、不意にバッグの中身が震えた。
「? ……電話かな」
バッグにはもしもの時にと持たされたスマホが入っている。
最近はもっぱら祖父母との通話用になっているが、それでも滅多なことでは電話は掛かって来ない。
「……メール?」
首を傾げて訝しみつつ、通知がついたメールアイコンをタッチする。
普段届くメールは、大抵携帯会社から送られてくるものばかり。
てっきり今回も同じだろう。
そう考えていた少女であったが、届いたメールの差出人名を見てギョッと瞳を見開いた。
「なに……これ……?」
差出人の欄には見たこともない記号がずらりと並んでいる。
それだけで不気味だというのに、内容の方にはこう記されていた。
『たすけて。』
心臓がバクバクと止まらない。
変なウィルスに感染しただろうか?
それとも誰かのイタズラだろうか?
どちらにせよ悪質極まりないメールに血の気が引けば、押し込むようにスマホをバッグへとしまう。
「……帰ろう」
今日は厄日だ。
図書館には入れないわ、センチメンタルを刺激されるわ。その上悪質なメールが届くわで、まさに踏んだり蹴ったりだ。
こんな日はおとなしく家に引きこもるに限るだろう。
そう思い至った少女は、俯きながら帰路へつこうと腰を上げた。
「……ん?」
その時、妙な違和感に気づく。
ポタポタと地面に向かって降り注ぐ影。
まさか雨でも降ってきただろうか?
いよいよ家に帰らなければと空を見上げた。
すると、
「……オーロラ?」
まさか、と自分の目を疑った。
ここはどこだ? 日本だ。
今の季節は? 夏だ。
テレビでしか見たことのないような天体現象が、よもや真夏の、それも日本で観測できるはずもない。
だが、舞い落ちてくる白い物体が素肌に触れた瞬間、一気に背筋が凍る感覚を覚えた。
「冷たッ!」
嘘!? と、少女はわざとらしく声を上げた。そうでもしなければ自分の正気を信じられなかったからだ。
雪が降り始めた途端に辺りの気温が下がってくる。しかも時間が経つにつれて吹雪いてくる始末だ。
「寒い寒い!」
半袖短パンの恰好では耐え切れない様相を呈す空模様に、大急ぎで近くの公衆電話へと逃げ込んだ。
外の状況は刻一刻と悪くなっていく。
数メートル先も見渡せない程の猛吹雪と化した中、電話ボックスの壁は一面雪で覆い尽くされていく。
身の危険を感じた少女はスマホを取り出す。
こうなれば祖父母に車で迎えに来てもらうことも辞さない……そう考えての行動だったが、
「け、圏外……!?」
アンテナは全滅。
これは悪い夢だと電話をかけてみるも、無情にも圏外であることを報せる機械音声が返ってくるだけ。
とうとう電話ボックス自体もガタガタ揺れ始める。
このまま潰れやしないか───恐ろしさの余り瞼を閉じる少女は、ひたすらに無事にやり過ごせることを願うだけだった。
だからこそ、気づかなかった。
猛吹雪の奥から近づいてくる一つの影。
ゆらりゆらりと近づく影が翅を広げれば、それは電話ボックスを優に超す大きさと化した。
『────シ──モ───』
「え?」
この時、少女は目を開いてしまったことを強く後悔した。
雪がへばり付いていたはずの壁の奥には、得体の知れない暗闇が拡がっていた。
「……あ、」
近づいてくるそれが“口”だと気付いた瞬間。
少女の意識は、闇の中へと呑み込まれた。
***
「はぁ……はぁ……!」
荒い息遣いが暗がりの中に響く。
木漏れ日の中を駆け抜ける少女。運動不足が祟って鈍痛に襲われる横腹を押さえ、全力で森の中を駆け抜けていく。
「ヒヒヒッ、待ちなァ!」
「他人の縄張りに勝手に上がり込んで、ただで帰れると思うなよ!」
ちらりと背後を見れば、下半身が蜘蛛のような女の怪物と、全身が包帯に覆われたミイラ男が迫ってきている。
「ごめんなさ~い!」
せめてものと謝罪の言葉を吐きながら、結晶化した木の根っこを飛び越える。
「滅茶苦茶だ、この世界!」
少女は柄にもなく絶叫した。
事の始まりは数時間前まで遡る。
───電話ボックスで猛吹雪をやり過ごしたかと思えば周りが見知らぬ土地に来ていた。
このような妄言、いったい誰が信じてくれるだろうか?
これなら大掛かりなドッキリか、はたまた悪い夢だと言われた方がまだ信じられる。
しかし、いよいよ現実味を帯びてきた状況から動き始めたのが間違いだった。
「こんなことなら最初から動くんじゃなかった!」
遭難した際の鉄則を思い出し、公衆電話がある場所を目指す。
幸いにも電話ボックスの場所は覚えている。このまま逃げ切れば辿り着けるはずだが、
「逃げ切れると思わないことだね! スパイダースレッド!」
「そうだぜェ……! 喰らえ、スネークバンテージ!」
「ひっ!?」
後ろから迫りくる蜘蛛女の繰り出す糸が、結晶化した木を豆腐のように切り落とす。
片やミイラ男が伸ばす包帯が木の幹に巻き付けば、瞬く間に甲高い音を響かせながら木が折れて倒れた。
「どうして私がこんな目にィー!?」
夢ならば早く覚めてくれ!
そう願っている内にも記憶にある景色が見えてきた。
必死になって森を抜けた先───そこに広がっていたのは、雪が降り積もった更地である。
「はっ……はっ……!」
顔面蒼白になりながら電話ボックスの中へと駆け込み、立てこもる。
(早く戻れ早く戻れ早く戻れ!)
瞼を閉じながら、心の中で念じる少女。
来た時と同じ場所に来れば戻れるはず───一縷の望みを託して戻ってきた少女だが、公衆電話はうんともすんとも言わない。空にはオーロラも出なければ雪も降っていない。
「ん~? なあ、アルケニモン。こいつ何してんだ~?」
「さあ、なにしてんだろうね? こんなスケスケな箱に隠れたって無駄だってのに!」
案の定追いついた蜘蛛女とミイラ男は、電話ボックスの周りで少女を嘲笑う。
見当違いの理由ではあるが、逃げ切れないという意味では少女の行動も蜘蛛女───アルケニモンと言われた怪物の理屈も同じだ。
「にしても、こいつ何モンだ~? ここらじゃ見たことないデジモンだなぁ」
「ひゃあっ!?」
「ハハハッ! 聞いたか、マミーモン! 『ひゃあっ!?』だってさ!」
コンコンと壁を叩くミイラ男───マミーモンに驚く少女。
それをアルケニモンがケタケタと笑う声が、開けた空に甲高く響き渡る。
「うぅ……、誰かぁ……!」
孤立無援の絶体絶命。
外からガタガタと揺らされるのとは別に、中でも恐怖に身を竦めてガタガタ震える。
ここから出来ることがあるとすればただひとつ───神頼みだ。
「神様仏様! もっと勉強しますし、学校にも行きます! だから助けてください!」
「助けを呼んだって無駄さ! なにせここはアタシたちの縄張りなんだからね!」
「そうそう! 完全体のおれたちに逆らおうなんて馬鹿は居な……うん?」
嗜虐的な笑みを浮かべていたマミーモンだが、突然怪訝な声を漏らした。
「なんだぁ? 地面が光って……」
「お、おい! いったいなんだってんだい!?」
「おれが知るかよ! ち、ちくしょ~!」
突如として自分たちの足下が輝くという不測の事態に慌てる二人。
立てこもる少女が何かしたものだと考えたマミーモンは、腹いせに電話ボックスへ蹴りを入れようとした───その時だ。
地面が天を射抜くような輝きを放ち、猛烈な竜巻が巻き起こった。
「きゃあああ!!?」
「ひゃあああ!!?」
「ぎゃあああ!!?」
三者三様の悲鳴を上げながら竜巻に煽られ、ついには体が宙に浮いて吹き飛ばされる。
黒い竜巻は降り積もった雪を一瞬にして払いのけた。程なくして光を放つ地面───否、正方形の床石が規則的に並んで浮かぶ紋様が弾けると共に、ようやく風は止まるに至る。
「痛ッ!!?」
襲ってきた怪物諸共吹き飛ばされていた少女は、木にぶつかった衝撃で電話ボックスの中から放り出された。
案の定、どこかしらに激突する少女は『痛っ!』と悲鳴を上げてのた打ち回る。
「なんなの、もう……!」
「……」
「ん……?」
涙目で泣き言を吐いていた少女だが、ふとした瞬間に違和感を覚えた。
目の前に見える黒い幹───いや、足だ。武骨な脚は、人間にしては肌が黒過ぎるし、爪も三本しかない。テレビや図鑑で眺めた恐竜のようだ。
そこまで思い至るや、恐る恐る顔を上げてみる。
気分はまさしく鬼が出るか蛇が出るかといったところだ。
だがしかし、眼前の存在はここまでに体験したどんな恐怖を圧倒するという確信があった。
まるで、聳え立つ塔のような圧倒的存在感。
爪先から順に腰、胴、頭と視線を移していけば───浮かんでいた。
闇夜のような体躯に、満月に似た黄金の双眸が。
「───ここは……」
黒い竜人がようやく目の前に広がる世界へ焦点を合わせた。
「……ニンゲン?」
自ずと視線は傍に居た少女の方を向く。
声も上げられず震えて固まる少女を一瞥した竜人は、怪訝そうに首を傾げ、もう一度周りを見渡した。
至る所が宝石のように結晶化しており、一見普通な森もどこからともなく伸びた無機質なコードがぶら下がっていたりと、ちぐはぐとした印象を与える世界だ。
「デジタルワールドか……」
「やい! そこのアンタ!」
「む?」
竜人が振り返れば、怒り心頭の蜘蛛女がミイラ男と共に立ち上がっていた。
「随分舐めた真似をしてくれたね! そのチビとグルだったのかい?」
「オレが? このニンゲンと?」
「トボけるんじゃないよ! そのニンゲン? だかなんだか知らないけど調子こいてると……!」
「な、なぁ、アルケニモン」
有無も言わせない雰囲気の相方に、ミイラ男は冷や汗を掻きながら口を開いた。
「なんだい!?」
「あいつ、なんだかヤバそうな雰囲気だぜ? あんまり喧嘩売るのやめとこうぜ……?」
「ビビってんのかい? 冗談じゃない! 痛い目見せなきゃもう気が済まないよ!」
制止も聞かず、蜘蛛女は鋭利な糸を繰り出した。
それを見たミイラ男もヤケクソになりながら、全身から包帯を伸ばす。
風を切る甲高い音を響かせながら迫る糸と包帯は、あっという間に竜人の体をギチギチに縛り付けて拘束する。
立派な爪を携えた両腕の武器も、こうなってしまえば何の意味もなさない。
「ヒヒヒッ、どんなもんだい!」
「なぁ、アルケニモン……!?」
「ああ? なんだい!?」
「お前、ちゃんと力込めてるか……?」
『何を当たり前なことを』と反論する寸前、蜘蛛女が悟って固まる。
「コ、コイツ……
太い樹木ですら容易く切り裂く糸に雁字搦めにされながらも、竜人をバラバラに切り裂くことは叶わない。
「か、硬い……!?」
「うぎぎ……おれの方もビクともしない……!」
必死になって縛り上げようとする二人組であったが、当事者として見ていた竜人はつまらなさそうに鼻を鳴らす。
そして、
「ォォオオオ……!!」
「んなっ!? コイツまさか!!」
「ヤバい!! 引き千切られる!!」
「オオオ……ウォーーーッ!!」
大気が震える雄たけびを竜人が轟かせる。
次の瞬間、頑強だったはずの糸と包帯はあっけなく引き千切られたのだった。二人組の戦意が絶たれたのも同じ瞬間だ。
しかし、時すでに遅し。
拘束を解いた両腕を天に突きあげる竜人は、その両掌の間に赫々と光り輝く光球を生み出していた。
「ガイア……フォース!!」
そう叫ばれた技は、一直線に二人組の眼前に着弾した。
爆発音と悲鳴はまったく同じタイミングで響き渡る。圧倒的だ。今の一連の流れでどちらが格上かなど、少女の目からも一目瞭然であった。
「す、すごい……」
「きょ、今日はこのくらいにしといてやるよ!」
「次会った時は覚悟しやがれー!」
「あ」
───無事だった。
残念なような、安心したような。
危機は去ったものの、命までは奪われていない事実にホッと胸を撫で下ろす少女は、緊張の糸が切れてその場にへたり込んだ。
今日は災難続きだ。遭遇する場面は精神が摩耗するようなトラブルばかり。
「はぁ……なんで私が……」
「……」
「あっ」
竜人が立ち去る素振りを窺わせるや否や、少女は大急ぎで立ち上がる追いかける。
「ま、待ってェー! ……くださぁーい!」
「なんだ、ニンゲン」
「ぜぇ……ちょ、ちょっと話を、聞いて……ぜぇ」
息も絶え絶えになりながら追いかけてくる少女に対し、竜人は振り返らずに進み続ける。
しかしながら、少女は必死の形相でなんとか傍まで追いついた。
「私、知らない内にここに居て……! 突然変な怪物にも襲われるから、訳がわからなくて……!」
「……」
「だから、そのっ……助けてくれてありがとうございました!」
ピタッ、と竜人の足が止まる。
ここまで来てようやく振り向いた竜人は、怪訝そうに目を細めていた。
「何故オレに礼を言う?」
「だ、だって……さっき……」
「お前を助けたつもりはない。降りかかる火の粉を払っただけだ」
「でも、助かったのは事実だし……お礼を言わなくちゃ……」
「……」
少女の言い分に釈然としていない竜人。
しかし、
「そういうものか」
ひとまずは呑み込んだ。
***
見渡す限りの木、木、木。
視界を埋め尽くす草木が生い茂る森の中だが、鬱蒼と呼ぶには煌びやかな光に照らされている。
それもところどころが宝石のように結晶化し、日光を乱反射させている影響であるとはなんとなく察しがついた。。
「ぜぇ……はぁ……」
「……」
「ひぃ……ふぅ……」
「……どうしてオレに付きまとう?」
「だ、だって……」
物思いに耽るながら歩を進める竜人の数歩後ろに見える影。息を切らしながら小走りを続ける少女だ。
最初は無視を決め込んでいた竜人だが、延々と後ろで息を切らされて流石に鬱陶しく思ったのか、語気を強めて理由を問いかけたのだった。
対する少女はと言えば、
「家に帰りたいけど、帰り方がわからなくて……」
「……」
「1人だと怖いから、せめて誰かと一緒ならって……」
切実な胸中を吐露する少女に、竜人は瞳を細める。
「オレじゃなければダメか?」
「貴方じゃなきゃダメ!」
即答だった。
だが、少女の立場を考えれば当然である。
突然放り出された見知らぬ土地で、既知の生物は一匹たりとも見かけない。
その上、最初に出会った怪物には殺されかけたとなれば、そんな脅威を退けてくれた竜人を心強いと思わないはずもないだろう。
だからこそ即座に断言した少女であったが、竜人の反応はいまいち薄いのを見るや、頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 本当に迷惑だったら、その……」
「……名はなんだ?」
「え?」
「お前の名だ」
「あっ……タヨリ!
「ブラックウォーグレイモン」
「ブラ……?」
「二度は名乗らない」
それが竜人の名と気づいた時、彼は再び歩き始めていた。
慌てて追いかける少女───タヨリであったが、思いのほか追いつくまでに時間は掛からなかった。
やや狭められた歩幅のおかげで、半歩後ろを付き歩けるようになるタヨリ。
しかし、少しすると足音だけの沈黙に耐えられなくなった。
「あのっ、ちょっといい……ですか?」
「まどろっこしい」
「え、」
「話し方だ」
何のことか分からず目を白黒させていたタヨリだが、『オレは気にしない』とブラックウォーグレイモンは続ける。
少し間をおいて、それが自分の慣れていない敬語だということに気づく。
「あ……うん! じゃあこの世界について聞かせて」
「知っている範囲しか答えられんぞ」
「それで大丈夫。まずはじめになんだけど……ここはいったいどこなの?」
「デジタルワールドだ」
「デジタルワールド……って、どういう場所?」
「どうもこうも、デジモンの住んでいる世界だ」
「デジモン?」
そこでも首を傾げる少女に『そこからか』とブラックウォーグレイモン呆れる。
「お前はいったいどこから来た?」
「光が丘から来たの。……来たっていうか、いつの間にか居たって感じだけど」
「自分でも知らない間にこっちに来ていた、という訳か」
だが、とブラックウォーグレイモンは語を継ぐ。
「光が丘にはデジタルゲートがあったはずだ。お前もそこから来たんだろう」
「それってつまり、光が丘からデジタルワールドに来る通り道みたいなもの?」
「そうだ」
「え……ホント!? じゃあ、そこから光が丘に帰れる!?」
「たぶんな」
ぶっきらぼうに答えるブラックウォーグレイモンに対し、タヨリはようやく見えた一筋の光明に瞳を輝かせていた。
「ありがとう、ブラックウォーグレイモン! じゃあ、そのデジタルゲートを探せばいいんだね! どこにあるか知ってる?」
「……」
「あ、あれ……?」
「……
頭を抱え、瞳を細めたブラックウォーグレイモンがそう漏らす。ともすれば、困惑に彩られた弱音に聞こえる声色だった。
(何故だ、何故思い出せない……?)
自問自答するブラックウォーグレイモン。
知っていたという確信はある。にも関わらず、掘り返そうとすればするほど靄が掛かったかの如く記憶が曖昧になってしまう。それどころか自分の存在すらも曖昧になるようだった
目が覚めた場所は記憶になく、それ以前の記憶はない。
成長した過程すら思い出せず、あるのは断片的な記憶と知識のみ。
自分が余りにも歪であると自覚するまでに、そう時間は掛からなかった。
「オレは……いったい?」
「そ、そんなぁ……」
「む……?」
一方、少女はそれどころではなかった。
「じゃあ、どうやって帰れば……」
肩を落とし項垂れるタヨリ。
彼女からしてみれば、示唆された希望を示唆した本人によって絶たれたようなものだ。喜びが大きかった分、落胆も大きい。
このまま一生帰られないのでは? ───胸を過る不安からか、彼女の目尻には大粒の涙が浮かび上がってくる。
「ぐすんっ……」
「立ち止まってもならんぞ、ニンゲン」
「だって……」
「オレが思い出せないというだけで、存在しないという理由にはならない。そうやって立ち止まっている暇があるなら、無様でも自分の足で探してみるんだな」
「あるかどうかも分からないのに……?」
「探し物がハッキリしているだけ上等だ」
そう言ってブラックウォーグレイモンは足早に進み出す。
突き放すような言葉を受けながらも、タヨリは大慌てで追いかける。彼の言葉を前向きに激励として受け取った訳ではないが、一人残される恐怖心が勝った形だった。
「ま、待ってェー!」
「───!」
「だッ!?」
が、直後に止まったブラックウォーグレイモンの背中に激突するタヨリ。微動だにしない彼の反面、反動が丸々返ってくるタヨリは勢いの余り、空を仰ぐ形で倒れ込んだ。
「いたたっ……! どうして急に止まるの?」
「何か……来る」
そう言って空を見上げるブラックウォーグレイモン。
次の瞬間、木々の合間から覗く空の上を一つの影が通り過ぎる。
あまりにも一瞬過ぎて全貌は把握できなかったが、だからこそ刹那に受けた印象が目に焼き付いた。
「……蝶?」
青い、無機質な翅を生やした蝶だった。
生き物というよりはロボットといった方が適当だろうか。
「今のは……?」
「……知らないデジモンだ」
「ちょ、ちょっと待って!?」
「なんだ?」
「『なんだ?』じゃないよ! それ!」
起き上がるタヨリの目の前では、地から足を離して浮遊するブラックウォーグレイモンの姿があった。
「飛べたの!?」
「飛べて何が悪い」
「いや、別に悪くないんだけど……って、そうじゃなくて! 飛んでどこ行く気!?」
「
ブラックウォーグレイモンは先の飛行物体を指して言う。
「飛んでだよね!?」
「当たり前だ」
「私はどうなるの⁉」
「知るか。付いてきたければ勝手に付いてくればいいだけの話だ」
「飛んでった相手なんて終える訳ないでしょ!」
高度が高まるにつれてブラックウォーグレイモンとタヨリの距離が離されていく。
その事実に危機感を覚えたタヨリは、『ええい、ままよ』と無我夢中でジャンプし、ブラックウォーグレイモンの足にぶら下がる。
「こんな森に置いていかれるのはイヤ! 私も連れてって!」
「フンッ……好きにしろ」
「ほっ……って、うえええええ!!?」
これで一安心───と思いきや、ブラックウォーグレイモンはみるみる高度を高めていく。その高さは眼下の森に生い茂る木の一本が豆粒に見える程だ。
無論、命綱の用意はない。自身の膂力だけが命綱の状況と知り、タヨリの顔からは一斉に血の気が引く。
「ブ、ブラックウォーグレイモン……で、できるだけゆっくりで……ッ!」
「お前に指図される覚えはない」
「そんなぁ……!」
「……チッ。なら、すぐ楽にしてやる」
「え?」
───それってどういう意味?
タヨリが訊こうとした瞬間、猛烈な風と共に眼下の景色が線と化す。
「きゃあああああ!!?」
猛スピードで飛行するブラックウォーグレイモンに、足にしがみつくタヨリは絶叫する。
ややもすれば意識が落ちかねない恐怖の中、今日何度目になるかも分からない絶体絶命の状況に、彼女はこう強く願った。
(早く家に帰らせてェーーーッ!!?)
帰られる見込みは、未だナシ。
***
『───ニンゲンの子供か』
暗黒の中で声が響く。
反響しては重なり合う、まるで無数の悲鳴のような声だった。
『なるほど……あれこそが選ばれし存在という訳か』
広大な暗黒の果てには、炎が苛烈に燃え盛る。
そうして一面に広がる火が成すものは壁だった。
『我々の希望よ……選ばれし子供よ。早く来ておくれ』
逃がさぬように。
逃れられないように、と。
『この停滞したデジタルワールドに、どうか救いをもたらしてくれ』