「ビゼンニシキさん、復帰できて良かったです。春までの過酷なローテーションを走り切ったタフさもすごいですが」
「彼女は必ずしも頑丈、という訳ではなかったが心臓が強かったんだ。悪い血を溜めにくい体質で、筋融解症もそれ以降再発することはなかった」
「それは何よりでした。三女神さまの加護もあったんでしょうかね。その後は秋の休み明けレース。貴女はセントライト記念に。ビゼンニシキさんはスワンステークスへとそれぞれの道に向かう、と……」
「彼女は考え得る全ての準備を終えてマイルの皇帝に挑んだ。しかし私たちを見守る三女神は、その慈愛と加護の他に……皮肉も心得ていたらしい」
10月28日。
スワンステークスの開催される京都競バ場に、私も遠征して来ていた。セントライト記念を勝利し、来月の菊花賞を視野に入れたコースコンディションを実際に見るため、という名目ではあったが……彼女を応援したいという気持ちの方が強かったよ。
マイル以下のレース整備やグレード制の見直しがあと半年前に終わっていたなら、ビゼンニシキも適正距離で力を発揮したに違いない……が、考えても詮無きこと。彼女の輝かしい活躍はここからで、これが復帰後の初めの一歩なのだ。
リキサンパワーや仲間たちが最前列で並び、応援に来ている。
……夏に併走したり練習をしたウマ娘も何人かいるのが見て取れた。観戦に来たファン達もGⅡレースとは思えないほど詰め掛けている。今後の短距離やマイル路線がどうなっていくのか、俄然興味が高まっているのだ。クラシック戦や天皇賞、グランプリレース以外でここまで人が集めたのは……やはりマイルの皇帝への期待に違いない。
そのウマ娘の名は、ニホンピロウイナー。
前走はGⅢ朝日チャレンジCの2000mを勝っている。しかし彼女の真価を発揮するのは短距離マイル戦。その意味では、このスワンSがマイルの皇帝としての始動と言える。注目が集まるわけだ。
マイルの皇帝……
二ホンピロウイナーを端的に評するなら『陰鬱の塊』だろう。
クラシックレースは適正距離外で敗戦。マイル以下でいくら連勝を重ねても賞賛は得られず、勝負服すら着る機会がなかった。そんな彼女の胸中には、いつしか暗い感情が混じり溜まっていくことになる。
去年トパーズSを観戦した時、彼女は大差で圧勝していたが笑いもしなかった。澄んだ空と広いターフを駆け抜けた直後にもかかわらず、狭い檻で身動きの取れない獣のようだった。
そして競う相手も目標も見いだせず、走ることにすら飽きてしまう寸前……短距離マイル戦線の整備とグレードの改定によって、この秋の舞台へ足を踏み出したうちの一人。
改めてニホンピロウイナーを視界に映す。
しっぽまで伸びた後ろ髪を二つに結んだ髪型。女性的な体つきだがその皮膚の下は……恐ろしく鍛えこまれた速筋で満ち満ちている。周囲のウマ娘には目もくれず、遠くの揺れる木の葉をじっと眺めていた。冷たく淀んだ瞳は、見えないそよ風を探しているようでもあった。
『マイル最強ウマ娘の前哨戦。名だたるマイラーが集いましたスワンS』
『さあゲート完了です……いまスタートしました!』
『まずハナに立ったのはニホンピロウイナー、抜群の好ダッシュ! 後続集団を引き連れる形となりました。二番手をロングヒエン、三番手は……』
1400mの序盤、マイルの皇帝が逃げる展開になった。
誰もが短い距離で鎬を削ってきたウマ娘たちだ、速度のギアが違う。それを踏まえてもなおマイルの皇帝のスピードは並外れている。まさにマイル戦のために進化を遂げたような身体と足。その速度領域に他のウマ娘を縛り付け支配する、絶対王者の走り……みな付いていくのがやっとで、作戦も駆け引きも打ちようがない。
ニホンピロウイナーが首をふって後ろを見る。今日初めてウマ娘を瞳に映し、その中であることに気付いた。ビゼンニシキが先頭集団に遅れずにこちらへ微笑んでいることに。彼女の笑みが余裕からではなく、心底競い合うのが楽しいからだとマイルの皇帝が感じた時……その目が木々のざわめきのように揺れた。
『さあニホンピロウイナー差を広げ先頭で3コーナーに入った! 高低差のある京都の坂を平然と登っていく!』
曲がりながらの坂路を駆け抜けるのは厳しい。どのウマ娘も一度息を入れ、ゆっくりと登ってゆっくり降りるのが淀の坂の鉄則。例外があるのなら去年の菊花賞と、このようなハイペースの短距離戦だけだ。ニホンピロウイナーはそれを分かって
マイルの皇帝。
私も同じ皇帝と呼ばれ、少なからず通じるところがある。レースの退屈、孤独。走ることの意味を見出せない辛さは痛いほど理解できる。私とて三冠ウマ娘という目標が無ければ、自らの夢を思い描くことすらなかった。そして君とそっくりの瞳をしていたに違いない。
もしかしたら。そう思っているな?
胸の奥で
分かるよ。私もそうだった。
だがビゼンニシキは……淀んだ心に風を通してくれる、なんて生易しい存在ではない。それは例えるなら君の魂すら燃やし、何もかもを焼き焦がさんとする熱風だぞ?
『4コーナーをカーブ、依然として先頭はニホンピロウイナー!』
『坂を平然と下り早くも単身、直線に向かった! かなりのハイペース、後ろのウマ娘はついていけるのか!?』
当然だ。ビゼンニシキのなめらかなコーナリングを見て確信する。もはや彼女にとって右回りは弱点ではない。繰り返し練習し、その執念で得た成果は……想像以上の形で走りに現れている。
腕組みをした両手に力が入った。数えきれないほどの併走に付き合ったからこそわかる。彼女の息使いが変化し、やや前傾姿勢になったことを。そして勝負所も見誤ることもなく、仕掛けるタイミングは理想的だった。
そうだ。駆け抜けろ。飽くなき挑戦こそ君の目指した夢。私のライバルはこの距離でこそ最も光を放つ……その速度と灼熱を、マイルの皇帝に見せつけてやれ。
いけ……走れ!
坂の終わり際、彼女が右足を強く踏み出した。
いつものように芝生をえぐる鋭いスパート。そこから生じる凄まじい末脚。
それが見られるはずだった。
「「ビゼンッ!?」」
誰もがニホンピロウイナーと彼女の勝負を想起し、大歓声が上がった時……
二つの声だけが異変に気付き、驚愕の声を漏らした。
* *
『さあ直線コース! ニホンピロウイナーが先頭! ニホンピロウイナー後続をぐんぐん引き離していく! ビゼンニシキ苦しいか? いつもの末脚が鈍っている!』
『いえ違う、故障……故障ですっ! ビゼンニシキ故障発生!』
それはタイヤの空気が抜けていくのと似ていた。
信じられないことだが、彼女の足からスピードが漏れているように見えた。踏み出す力が全く芝へ伝わっていかない。私はその様子を見てもなお、目の前の光景が信じられずに呆けていたよ。
気付けば彼女の微笑みは、歯を食いしばった苦悶の表情に変わっている。痛みを堪えるためだけではなく、何かに必死で耐えている……そんな印象だった。
ビゼンニシキの身体がふらふらと揺れ、歩く速度にさしかかる前にリキサンパワーが彼女を抱きかかえ、慎重にターフに寝かせた。観客席から乗り出してあそこまで走ったらしい。私と同時に声をあげた瞬間、迷いなく駆けつけなければ間に合わなかっただろう。
リキサンパワーの後に数名のウマ娘が続く。みんな悲愴な面持ちで名前を呼び、涙を流していた。彼女は泣き叫ぶ仲間たちに対して幾つか呟きで応えていたが、観客席からは遠くどんな言葉なのかはわからなかった。
なぜ私はここにいるんだ? なぜ動かない?
ビゼンニシキが大変なことになっているのに、何もしてやらない気か?
両足は役に立たずただ震えている。傍からは冷静に佇み【不測の事態にも動じない皇帝】と見えているかもしれない。腕組みを解くと指数本が血で滲んでいた。確認すると無意識に袖を掴む力が増していたようだ。爪も割れている。
『何者も寄せ付けない、マイルの皇帝! ニホンピロウイナーが後続に7バ身差をつける本番さながらの走り! スワンステークスを驚異的なレコードタイムで制しました!』
実況の言葉も、ファンの声も聞こえない。指先のケガさえ感覚がない。
マイルの皇帝がゴール板を過ぎた辺りで振り返り、救急車に搬送されていく彼女をずっと見ていた。私と同じ……輝きのない瞳で。