「菊花賞の前後はあまり覚えていないんだ。遠征で向かう道、追切りやレースの調整も……心が付いていけていなかった。知らないうちに、どこかへ置き忘れてしまったらしい」
「私は現地で観戦してましたけど、固い表情だったような気もします」
「ゲート入りの途中で、スズマッハが何か言葉を掛けてくれてたかな。夏の練習では一緒にいたし、私とビゼンニシキの関係もよく知っていたから。そして……勝負服を纏ったリキサンパワーが表情のない顔をこちらへ向けていた。私と同じく感情や心を置き捨てて、すべてを見届ける……それだけを瞳に宿したような漆黒の意思があったよ」
レースの道中も鮮明には思い出せない。気が付けば2000m近くも走っていて、京都の坂をリキサンパワーが先頭で登っていったのが見えた。私もみんなと一緒に走って……どんよりとした曇天の空にそのまま駆けあがっていくように、何も見えなくなった。
身体にまとわりつくのは粘ついた空気。
灰色の雲はいつのまにか暗闇に変わり、耳まで泥を被って走るようだった。息苦しさと、振り抜くのがやっとの手足。ふと誰かが後ろから追いかけてきているのが分かった。数名、数十、数百……それ以上の気配を感じるのに、私の足音しかしない。後ろから影が伸びてきて視界に入る。
無数のウマ娘の影が、すぐ近くまで迫っていた。
それは皇帝たる私に敗れ、あるいは絶望し、願いを叶えられなくなった魂。夥しい負の堆積が私を絡めとり、縋りついているようだった。闇の奥底、影を伸ばしている輝きからは、よく知っている匂いがただよってくる。私とともに芝生と夢を駆けた灼熱。天性のスピード故に沈んだ魂。その存在を理解した時……私は狂気のまま叫んだ。
もはや皇帝でも道化でもなく。ただ影におびえるウマ娘でしかなかった。
「うあああアアアァァッ!」
影を蹴り越えろ! 目もくれず走れ!
私が踏みつけにしてきたウマ娘たち、その分だけ高みへ行かなければ。なんのために彼女らを犠牲にして、夢を奪ったのか分からなくなる。だからもう許して欲しい……責めるのを止めろ、私の傍に立つな!
『ものすごい脚だ! 来たぞ来たぞ来たぞ! ルドルフが来た! シンボリルドルフ来た! ルドルフが懸命に追っていま先頭に立つ! 歓声があがる京都競バ場! 大輪が薄曇りの京都競バ場に大きく咲いた! 3冠ウマ娘8戦8勝! 勝ったのはシンボリルドルフ!』
『トゥインクルシリーズ史上、不滅の大記録が達成されました!』
勝利の重みなどなかった。必死に影から逃げてゴールしたに過ぎない、からっぽで無価値な栄光。菊花賞を目指し夢を駆けた者たちを侮辱しただけの走り。
そして中身のないウマ娘が、ただ皇帝のような振る舞いをして曇り空に三本指を立てる。万雷の拍手も空しく胸を通り抜けた。離れた病院にいるビゼンニシキに私の走りはどう映っただろうか。この心にはあの部屋で交わした約束だけが残されていたが……いくら考えてみても、彼女の笑顔を思い描くことはできなかった。
* *
陽はだいぶ傾き、このカフェテリアの隅にも西日が差している。
クラシック8連勝までの長い長い昔話を語り尽くし、一息つく。聞き手の彼女も大層感じ入っていた様子だったが、しばらくしてぽつりと言葉を漏らした。
「シンボリルドルフさんの栄光の裏で、それほどの事があったなんて……」
「すべてのウマ娘の幸福を、という大願を掲げていた。しかしその礎には数多くの敗れていったウマ娘がいて、皇帝の覇道も結局のところ誰かを押しのけた上での道でしかなかったと痛感したよ」
「そんな……」
「あとは君の知っての通りだ。休む間もなくジャパンカップに挑み3着。夢のため、さらなる栄光を重ねようとして冷静さを欠いていた。当然の結果といえる」
「……今は」
「うん?」
「今はどうですか? 私はシンボリルドルフが走る日本ダービーを見て、夢を本気で目指すって決めたんです。そして記者になり、こうして憧れの人にインタビューをしている……私は目の前にいる、貴女の口から夢を聞きたい」
「……」
彼女はまっすぐ私を見据えている。
すでにきらきらした憧れだけの目ではなかった。私を心配しているのが分かる。この魂がどこに向かっているのかを。過去はもう取り返しがつかないのに、なぜ今更になって……いや、今の話か。それを語るのはとても難しいな。なによりたぶん
「さて、そろそろインタビューを終わりにしても?」
「あ、はい。大丈夫です」
「この後、旧練習コースの方で併走の予定があるんだ。暮れのウィンタードリームトロフィー戦に向けての最終調整といったところかな」
「分かりました。すみません……こちらの都合ばかり」
「できれば見に来てくれると嬉しい。やはり私はウマ娘だから、走りでしか伝えられないこともある」
「ぜひ拝見させてください。貴重な話を聞かせて頂き、嬉しかったです」
彼女はここまで時間を割いてくれたことに感謝を幾つか述べ、ありがとうございました、という言葉と共にどこか早足に踵を返した。つくづく優秀な人材……学園に引き抜きたいくらいだ。一人にしてほしいという雰囲気まで察してくれたらしい。そして周囲には誰もいなくなる。静かな黄昏に、深いため息だけが溶けて消えてゆく。
目を閉じる。
西日がまぶたに焼き付き、全身を包み込むような温もりを感じさせた。
その仄かな熱が、先ほどまで話していた風景を鮮やかに蘇らせてくる。あの病室。練習場で並んで歩いたこと。芝生と汗の匂い。弥生賞、皐月賞、そして日本ダービー。彼女と切磋琢磨した日々は間違いなく輝いていた。
遠くで生徒たちの練習している声がする。もうまもなくどのチームも引き上げの時間。インタビューでも言っていたが、今年のトゥインクルシリーズは本当に盛り上がっている。来年も将来有望なウマ娘が幾人もいて……ドリームトロフィーリーグに上がるウマ娘も次々に出てくるだろう。
皇帝としての役目も、夢も。十分に果たせたと言っていい。好きな時に自らの意思で足を止められるのだ。でも未だに、彼女とレースで競い合ういつかの夢の続きを追いかけている。そしてここまで来た。私はずっと……
思考の底に
「……ルナ」
あの時に似たオレンジ色の夕焼けを背に、涼し気に私を呼ぶ声。遠い日の幻影が、そのまま立っているようだった。濃い青の掛け襟と袖。サラシを巻いた和装の勝負服。そして灼熱を帯びた微笑み。
私のライバル。私が焦がれた太陽。
今にもレースが始まりそうな、そんな気配すら漂ってくる。
すまない。行くよ。待ちくたびれた訳じゃないんだ。
すぐ起きる。走ろう。夢の続きを。君と。楽しみだ、なあ……
「……ヘリオス」
私が思ったままを口にすると、その涼し気な微笑みがみるみる崩れ……
思いっきり微妙そうな顔になった。
「その呼び方で返すの、何とかならないか?」
「ん? ……私が
「そうかもしれないが……まあいい。インタビューは?」
「つい先ほど終わった」
「新人記者に皇帝丸だしのプレッシャーを放ってた、なんてことは無いよな? さっきすれ違った時、下向いてずいぶん暗い顔してたけど」
「何、少々昔話をしていただけだよ」
「昔話?」
「私たちのトゥインクルシリーズを少しね」
「なるほど……」
ビゼンニシキが練習場の方を見つめた。どこか懐かしむような表情をしたので、私も同じ方を向く。何気なくさっきの彼女の顔を思い出して、聞いてみた。
「呼び名が嫌なら訂正するが」
「別にイヤではないよ。二人の時しか言い合わないしな。ただ……」
「おー、いたいたビゼン先輩☆」
底抜けに明るい声がカフェテリアに響き、お互いに振り返る。
右手の横ピースがハイタッチのように伸ばされ、キツネみたいな形に変わった。
「ルドルフ先輩もちょりーす! ウェーイ!」