それはある日の昼のこと。
283プロの事務所である休憩室で、2人の若い男女───樋口翼と有栖川夏葉が台本の読み合わせを行っていた。
「『こんな田舎ぜーったい出て行ってやるー!!』」
翼は台本に書いてある台詞を口にする。
その台詞は棒読み…ではなく、台本の中に存在する登場人物の心情を理解しているのか、言葉に心がこもっていた。
「『どうしたの?そんなところで叫んだりして』」
翼の台詞の後、姉役として夏葉が口を開く。
彼女も登場人物に成りきって、実際に動きをつけて台詞を読んでいた。
「『え……姉ちゃん!?』」
驚いた演技をする翼に、夏葉は明るい笑顔で言葉を続ける。
「『…ただいま、久しぶり』」
そして2人はしばらく、台本の読み合わせを続けるのであった。
有栖川夏葉───放課後クライマックスガールズに所属するアイドルの1人で、裕福な家庭に生まれた社長令嬢である。
いつも元気溌剌で他人に優しい彼女だが、自分にはとても厳しく、日々鍛錬を積むことで常に自身を磨いている。
283プロの中で1番身体を鍛えていると言っても過言ではない夏葉とは、翼が283プロに来てから何度か話す機会があった。
彼女はすぐに翼が身体を鍛えていることに気付き、積極的に話しかけてくれたのだ。
もっとも彼は体力作りの一環で毎朝1時間ほどジョギングをしているだけで、夏葉のようにトレーニングを行っているわけではなかった。
それを聞いた夏葉は、ジョギングだけでは物足りないだろうと考え、自宅でもできるトレーニング方法を翼に教えたのだ。
それから彼は毎朝の日課であるジョギングに加え、空いた時間に夏葉から教わったトレーニングを行うようになった。
多くの人が三日坊主になるところ、夏葉と同じくストイックな性格な彼は毎日欠かすことなく鍛練をこなした。
それを知った夏葉の好感度が上がるのは言うまでもなく、その後時間があるときは彼女と共に身体を鍛える仲となったのだ。
「今日は手伝ってくれてありがとう、翼。明日から泊まりがけで撮影を行うから、練習しておきたかったのよ」
現在、夏葉は映画の主演に抜擢され、地方での撮影を目前に控えていた。
次の仕事を待つ間の時間を少しでも無駄にしたくなかった夏葉は、事務所の休憩室で台本を読んでいた。
その後、休憩室に入ってきた翼がその様子を見て、もしよければ台本の読み合わせに付き合うと提案し、夏葉は二つ返事で了承したという経緯があった。
「少しでも夏葉さんのお役に立ててよかったです。でも、本当に自分でよかったのですか?」
「…?それってどういう意味かしら」
「自分みたいな素人が相手だと、あまり練習にならないと思って…」
申し訳なさそうな表情でそう口にする翼に対し、夏葉は首を振ってその言葉を否定する。
「いいえ、そんなことないわよ。むしろこれからも付き合ってくれると助かるわ!」
「えぇ、自分なんかでよければいつでも付き合いますよ」
「それはよかった!それで1つ気になったのだけれど、翼にはお芝居の経験があったりするのかしら?」
「えっ、特にないですけど…」
夏葉の言葉に心当たりがない様子を見せる翼。
しかし彼女は納得できず、疑問を口にする。
「本当?それにしては役になりきって台本を読んでいるように感じたのだけれど」
「あー……」
(まさか、以前にも読んだことがあるからって言えるわけないしな…)
実はこの台本、翼が前回プロデューサーだったときも読んだことがあった。
そのときも今回のように夏葉の読み合わせに付き合ったことがあったのだが、彼の演技力はお世辞にも素晴らしいものとは言えなかった。
その後、実際に完成された映画を夏葉と何度も見たことで、彼は登場人物たちの考え方や想いを理解した。
そもそも翼の演技が下手だった理由は、彼が読んだ台詞の人物像を正しく理解していなかったためである。
台本に書かれた台詞にどのような想いが込められているのかを理解しているからこそ、夏葉が感心するくらいの自然な演技を行うことができたのであった。
「えぇと、この人物の心情を考えながら台詞を読んでみたら、たまたま上手く演じることができたみたいですね」
「それは素晴らしいわね!おかげでこちらも真剣に取り組めたわ」
「ははっ、夏葉さんの演技、素晴らしかったですよ」
「ありがとう、翼。でも、この程度じゃダメなのよ」
翼の称賛の言葉を聞いて、先程まで明るかった夏葉の表情に少し陰りが見られた。
「夏葉さん…」
翼は心配そうに夏葉を見つめる。
そんな彼に対して「少し聞いてくれるかしら」と口にした彼女は、持っていた台本を閉じると自身の心情を言葉にしていく。
「私ね、お芝居はあまり得意ではないの。自分じゃない誰かを演じるためには、その子の考え方とか想いを正確に理解しなければいけない。想像はできるけれど、理解するのはまた別の問題だから」
「自分がその登場人物と同じ状況になったことがないと、理解するのに時間がかかるということですね」
「えぇ、その通りよ。だから私は、色々な経験をどんどんしていきたいと思っているの!」
とびっきりの笑顔でそう言う夏葉。
そこに先程まで浮かんでいた陰りが綺麗さっぱり消えていた。
その笑顔と彼女らしい前向きな発言を聞いて、翼は内心で安堵し、優しい笑みをこぼした。
(ははっ、夏葉らしいな…)
「それと話は変わるのだけれど、そろそろ変えてもいいんじゃないかしら」
「変える…?すみません、何の話ですか夏葉さん」
「だから、その話し方よっ!」
夏葉はキリっとした表情で翼にそう告げる。
(しまった、気付かない内にプロデューサー時代の距離感で話していたか…!)
そう考えた彼は慌てて謝罪の言葉を口にする。
「すみません、つい気安く話してしまって…」
「いいえ、その逆だわ。そろそろ敬語なしで話してくれてもいいんじゃないかしら?」
「えっ、いやいや流石にそれは…!?」
夏葉の思わぬ返答に、翼は驚きから大きな声をだしてしまう。
そんな彼を心底不思議そうに夏葉は見つめた。
「どうしてそんなに驚くの?」
「どうしてって、夏葉さんは自分より年上ですし…」
「確かに年上だけれど、私は翼のことを友人だと思っているわ。アナタと同い年の樹里や智代子が私に話すように、気安く話してくれると嬉しいのだけれど」
「いや、急にそう言われましても…」
困った様子を見せる翼に、夏葉は時間を与えずに言葉を畳み掛ける。
「それとも友人だと思っているのは私だけだったかしら?」
悲しそうな表情でそう呟く夏葉。
そんな彼女にノーと返事するのは翼には不可能であった。
「…俺も夏葉さんのことは友人だと思っていますよ」
「じゃあ、次から敬語はなしでお願いね!」
先程の悲しそうな表情は演技だったのか、夏葉は瞬時に溌剌な笑顔を浮かべてそう提案する。
(はは…夏葉には敵わないな)
内心でそう苦笑した翼は、プロデューサー時代の話し方で夏葉に接することを決心した。
「…わかった。これからは敬語は控えるようにするよ、夏葉」
「っ!ふふ、3歳下の男の子に呼び捨てにされるのは初めてかも」
流石の夏葉も照れ臭かったのか、恥ずかしそうに目線を翼から逸らしてそう呟いた。
「嫌だったら夏葉さんに戻しても…」
「いいえ、嫌ではないわ!…そういえば、翼の今の担当はノクチルだけかしら?」
「今のところはそうだけど、もう少ししたら他のユニットも担当する予定と椿さんから聞いているよ」
全てのアイドルを椿1人でプロデュースしている現状、マネージャーである翼の存在は大きかった。
現在はノクチルの4人のみを椿と共に担当しているが、想定以上に翼が優秀なため、そろそろ他のユニットも担当していくことが決まっていたのだ。
「そうなのね。翼は優秀なマネージャーと聞いているし、ぜひ放クラを担当してくれると嬉しいわ」
「ははっ、自分が優秀かどうかは置いといて、もし担当じゃなかったとしてもみんなのことは俺のできる範囲でサポートしていくよ」
「あら、頼もしい言葉ね!」
凛々しい笑顔を浮かべた夏葉は、真っ直ぐ翼を見つめて言葉を続ける。
「友人として…そして仕事仲間として、これからもよろしくね、翼!」
「───あぁ、こちらこそ!これからもよろしくな、夏葉」
こうして翼は、夏葉と新しい関係性を築くのであった。
今日の裏話⑦
休日になると、翼は夏葉と共にトレーニングを行っているが、たまに他の放クラメンバーも参加している。
また夏葉以外にも、プライベートで付き合いがあるアイドルが他にもいるらしい。