今年もよろしくお願いします。
日曜日の夜。
日が完全に沈み、時計の針は19時を指しているのを一瞥した翼は、事務所の窓から見える部屋の明かりを未だについているのを確認してから、帰りの準備を始める。
まだ事務所に残る椿に挨拶をして退社した翼は、そのまま家には帰らずまだ灯りがついている283プロのレッスン室へと足を運んだ。
「遅くまで練習お疲れ様、小糸」
「え、翼くん…!」
ドアを開けてレッスン室に入った翼は、肩で息をしているジャージ姿の小糸に声をかける。
翼に声をかけられた小糸は、驚いた表情で声を上げた。
「どうしたの、こんな時間に…?」
「小糸がレッスン終わってもまだ残って練習してると聞いてな。心配で様子を見に来たんだ」
今日の昼、小糸を含めたノクチルの4人は専門のトレーナーによるダンスレッスンを行った。
レッスン自体は3時間程度で終わったのだが、その後、小糸は今の時間まで残って自主練習を行っていたのだ。
ちなみにノクチルの他のメンバーだが、雛菜は見たいテレビ番組があるということでレッスン終了後にすぐ帰宅。
透はレッスン室を出た後は事務所に寄り、事務作業に精を出す翼を仕事の邪魔にならない範囲でちょっかいをかけ、満足した後は休憩室で昼寝。
円香は小糸と一緒に残って2時間ほど練習を続けた後、まだ練習を続けたいという小糸を残して事務所に赴いた。
仕事中の翼に今日の成果とまだ小糸が残って練習していることを告げ、休憩室で爆睡する透を叩き起こして共に帰宅したのであった。
「あまり遅くなると小糸のお母さん心配するだろ。もしキリがいいのなら、そろそろ一緒に帰らないか?」
「え、えへへ、心配してくれてありがとう、翼くん。今日はもう終わりにしようと思ってたところだったんだ」
小糸は屈託ない笑みを浮かべながら翼に返答する。
「そうだったんだな。それじゃあ少し休憩してから帰る準備をしようか」
「うんっ!」
「ずっと身体を動かしてたから喉渇いただろ?とりあえず座って休もう」
そう言って翼は長時間の練習で疲労している小糸に座って休むよう促し、スポーツドリンクを手渡す。
「ありがとう、翼くんっ…ごくごく…うん!冷たくて、美味しいよっ」
「ははっ、それはよかった。それじゃあ、風邪を引かないように汗を拭こうか」
そう言うと翼は用意していたタオルを手に持ち、汗で濡れた小糸の髪を拭き始めた。
「つ、翼くん…!わたし、自分で拭けるよっ…!」
「いや、小糸も疲れているだろうし、このくらいはやらせてくれ」
「で、でも、恥ずかしいよぉ…」
ダンスの練習で頬を上気させている小糸は、消え入りそうな声で翼に抗議する。
「ははっ、恥ずかしいか。以前は雨に濡れたとき『翼くんに拭いてほしい』ってよく甘えてくれていたのになぁ」
「そ、それは小学生の頃の話だよ!」
昔の出来事を懐かしそうに話す翼に、小糸はタオルで拭かれたまま反論する。
「あれ、そうだったか?確か中学のときにも今みたいに拭いたような気がしたんだけどな」
「う…あ、あれはまだ中学に上がったばかりだったから…!」
「ははっ、そうだったな。」
小糸もそのときのことを思い出したのか、言葉に詰まる。
そんな小糸の様子を、翼は微笑ましく見つめながら丁寧に汗を拭きとっていく。
「も、もう、翼くんの意地悪っ!私はもう高校生なんだから、子ども扱いしないでよね…!」
「ごめんごめん、じゃあ今回で最後ということにしてくれ」
そう言って翼は小糸の頭を優しく撫でながら、内心で反省する。
(つい小糸を子ども扱いしてしまったな…もう彼女は高校生なんだから、これからは距離感も気をつけないと…)
幼稚園時代から一緒に過ごしてきたため、翼にとって小糸はもう1人の妹のような存在に感じていた。
小さい頃から他人を恐がり、幼馴染以外とは仲良くなれずにいた小糸。
彼女をいつも側で見守り、時には手助けする翼の姿は本当の兄のようであり、小糸も彼のことを実の兄のように慕っていた。
そして高校生になった現在でも、小糸は口では強がりながらも、彼に子ども扱いされることが嫌いではなかったのだ。
「…ぇ」
「どうかしたか、小糸?」
今回で最後という翼の言葉を聞いて、ショックを受けた様子で固まる小糸。
だが彼が聞き返すと、すぐに表情を変えて強気な口調で話し出す。
「な、何でもないよっ!もう十分に休憩できたから、帰る準備をしちゃうね…!」
「わかった。それじゃあ着替える必要もあるだろうし、俺は外で待ってるな」
そう言い残し、翼はレッスン室から出て行く。
「…もう少しだけ、続けてほしかったな」
彼がレッスン室からいなくなった後、1人になった小糸はポツリとそう呟き、汗をかいたジャージから私服へと着替えて帰る準備をするのであった。
◇◆◇◆◇
レッスン室を出た翼と小糸は、今日のダンスレッスンについて話しながら帰路に着いていた。
「聞いたぞ、小糸。とても真剣にレッスンに取り組んでいるって」
「え、えへへ…そのくらい、当たり前だよ…!」
「いや、誰にもできることじゃないぞ。しかもレッスン終わってからも遅くまで残って練習するなんて…」
「こ、このくらい、よゆーだから…!」
笑顔で答える小糸であったが、彼女の表情に隠し切れない疲れが浮かんでいることに気付いた翼は心配そうに口を開く。
「…小糸が昔から頑張り屋さんなのは知ってるよ。だけど、無理だけはしないでくれよ」
「む、無理なんかしてないよ!このくらい、頑張っているうちに入らないから…!」
明るくそう話す小糸であったが、彼女のことをよく知る翼は安易に頷くことはできなかった。
福丸小糸は自己を客観視した結果、周りより能力が劣っていると考えている。
そんな彼女は努力することで普通の人に追いつき、そのくらいの努力は努力ではなく、当たり前のことだと思っているのだ。
そしてどんな運命か、彼女の幼馴染たちは才能あふれる者ばかりであった。
「………透たち3人の背中はそんなに遠いのか?」
「……」
浅倉透、樋口円香、市川雛菜。
彼女たちは大抵のことなら特に苦労せずにこなせるほど能力とセンスに恵まれている。
決して小糸の能力が劣っているわけではないのだが、3人は特に優れていた。
「…今日のダンス、私は夜まで残ってようやく踊れるようになったんだ」
「……」
「でも、透ちゃんたちはレッスン中に覚えて、綺麗に踊れていた…」
小糸は消え入りそうな声で呟く。
「小糸…」
「みんなに追いつくためには、努力するしかない…だから、このくらいの練習なんて無理なんかじゃないよ…!」
自分に言い聞かせるように言葉を発する小糸を見て、思わず翼は足を止める。
「つ、翼くん…?」
突然立ち止まった翼を見て、小糸は疑問の声を上げながらも同じように足を止めた。
「なぁ、小糸。前にも話したと思うけど、小糸のその努力は立派な才能だ」
「う、うん…!だから、頑張って努力して…」
「確かに努力するのはいいことだが、身体を壊したら元も子もない。それは分かるな?」
「そ、それはそうだけど、たくさん努力しないと透ちゃんたちに置いてかれてちゃうよ…!」
「小糸の不安は分かるよ。だけど、1人で思い悩まないでくれ。何のために俺がいると思う?」
「つ、翼くん…」
「俺は小糸のマネージャーだ。小糸が最高のパフォーマンスをできるよう全力でサポートするよ。だから、1人でそんなに焦らないでくれ」
真剣な表情でそう話す翼に、小糸はようやく自身の認識の誤りについてようやく気付くことができた。
「…そっか、私…焦ってた。このままじゃひとりぼっちになっちゃうって…」
「うん」
「忘れてた、翼くんがいつも側にいてくれることを…」
「うん」
決意に満ちた表情を見せた小糸は、自分の考えを口にしていく。
「透ちゃんや円香ちゃん、雛菜ちゃんならW.I.N.G.の予選でもきっと突破する…!」
「あぁ、簡単なことではないけど、可能性は高いと思う」
「そのときにね、私もみんなと一緒にW.I.N.G.の本選に出場したら…!そのときは、私もみんなの背中に追いついたってことになるかな…?」
「───あぁ、もちろんだ」
「え、えへへ、そうなるといいな…あのね、翼くん」
小糸は言葉を一旦区切ると、翼のことを力強い眼差しで見つめる。
「今の私がみんなより後ろにいるのはわかってる。だから、私は今できることを精一杯頑張るよ!もちろん、身体を壊さない範囲でね…!」
「小糸…!あぁ、俺も精一杯サポートするよ。だから一緒に頑張っていこうな!」
「うんっ!」
(小糸の努力が報われるよう、俺も手を尽くさないとな。まずは椿さんにオーディションの件について相談してみよう)
透と円香は個人で仕事をもらっているが、小糸と雛菜はまだもらえていない状況である。
現時点で、プロデューサーである椿の尽力で雛菜への仕事が来週には1つ頂けるという話であるが、小糸に関しては未だゼロである。
W.I.N.G.第1シーズンの突破は比較的審査が優しいが、それでも通常のオーディションよりは厳しいのは間違いない。
個人で仕事を依頼されるアイドルなら問題なく通過するが、そうでない無名のアイドルの場合、何かしらの対策を打たないとまず通過できないだろう。
そして、一般的の方法として知名度のあるオーディションを受け、テレビ出演を果たし、全国に自身の名前を売っていく必要があるのだ。
(椿さんはオーディションの現実をよく知っている。実力がない状態で受けても落ちるだけで得るものが少ないことが分かっているから、オーディションに関しては慎重派だ。でも、今の小糸なら…)
確かに今の小糸の歌やダンスのレベルでは確実にオーディションを突破できるとは言い難い。
それでも、今の小糸なら挑戦しても問題ないと翼は判断し、W.I.N.G.予選突破のために本格的に動き始めるのであった。
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───W.I.N.G.第1シーズン終了まで、残り4週。