本日の業務を終えた翼は、同じタイミングで仕事を片付けた椿と共に事務所を後にした。
家まで送って行くわ、という椿の厚意に素直に甘えることにした翼は、彼女の運転で樋口家まで送ってもらうことになったのであった。
「───翼くん、実はね…雛菜さんのことについて聞きたいことがあるの」
ハンドルを握って運転する椿は、助手席に座っている翼に向けて言葉を掛ける。
「はい、自分が分かることであればお答えします」
「ありがとう、翼くん。こんなことを君に相談していいのか、最後まで迷ったのだけれど…いいえ、これはただの言い訳ね」
少し躊躇った様子を見せた椿であったが、顔を前に向けたまま話し始める。
「プロデューサーとして恥ずかしい話だけれど、雛菜さんが何を考えているか分からないことがあるの」
「それは…」
「もちろんアイドルになりたいという雛菜さんの思いが本物なのは私も分かっているわ。そう、分かっているのだけれど…」
そう話す椿の表情はいつもの明るさは消えており、思い詰めた様子を見せる。
(椿さん、もしかして───)
そして彼には、彼女が苦悩している正体に心当たりがあった。
「───雛菜だけが残って練習せずに帰宅してしまう…そのことが気に掛かっていますか?」
「!…翼くんは、本当に鋭いわね」
「はは、椿さんの気持ちは分かります。自分も一度通った道ですから」
「え、翼くんも…?」
「えぇ。まぁ、随分前の話ですけどね」
彼が前世で雛菜をプロデュースしたとき、今の椿と同様なことを経験した。
そこで翼も今の彼女のように、雛菜との付き合い方について深く悩んだことがあった。
「雛菜さんにはアイドルとしての才能がある。特にダンスに関しては283プロの中でもトップクラスのポテンシャルを持っているわ」
雛菜を高く評価する椿であったが、その表情はすぐに曇る。
「けれど、彼女はこちらが手配したレッスンしか参加せず、他のみんなのようにレッスン後に残って練習を行ったりはしない」
「…確かに、雛菜はすぐに帰ることが多いですね」
「もちろん、自主練習を強要するつもりはないし、彼女の意思をできるだけ尊重したいと思っているわ。けれどあるときね、仲間がまだ残って練習している中、雛菜さんだけ帰るのを見て、思わず私は呼び止めてしまったの」
そして、椿はそのときの雛菜とのやり取りについて、翼に語り始める。
『お疲れ様、雛菜さん』
『あ、お疲れ様です~』
『その、みんながまだ残って練習しているのだけれど、雛菜さんはもう帰るの…?』
『はい~、雛菜はとても頑張ったので、今日は帰ります~』
『そ、そうなのね。何か用事があるのなら送っていくわよ』
『いえ~、帰りに甘いものでも買って帰りたい気分なので、送ってもらわなくても大丈夫ですよ~』
『…えっと、この後に用事が入っているわけではないのかしら?』
『ん~?今話しましたけど、雛菜は甘いものを食べるという用事がありますよ~』
『それは…』
『なので~、雛菜はもう行きますね~』
『…引き止めてしまってごめんなさい。気を付けて帰ってね』
『は~い!お疲れ様で~す』
『……(本当に、このままでいいのかしら…?)』
…
……
………、
「そんなことがあったのですね」
「えぇ、雛菜さんは幸福をとても大切にしているわ。それが悪いとは言わないけれど、自身の幸せを優先するために、辛いことから逃げている…どうしても私にはそう見えてしまうの」
「……」
「だから、雛菜さんのことをよく知っている翼くんに教えてほしいの。彼女が何を考えてるのか…そして何を見ているのかを…」
市川雛菜という存在を正確に掴めていない椿は、彼女のことをもっと理解したいと考えていた。
そこで、幼馴染であり雛菜がとても信頼している翼に尋ねることで、少しでも彼女への理解を深めようと思ったのだ。
「まずはお礼を言わせてください。雛菜のことを理解しようとしてくださり本当にありがとうございます。ですが、本当に椿さんはそれでいいんでしょうか?」
「えっ、それはどういう意味かしら…?」
「偉そうな言い方になってしまいすみません。でも、椿さん自身で雛菜のことを理解してもらいたいんです」
「…雛菜さんを理解するまで、彼女に嫌な思いをさせることになるかもしれないわ」
「雛菜は正直ですから、そのときは椿さんのことを嫌いとはっきり言うでしょう」
自分も実際言われましたし、と翼は苦笑いを浮かべる。
「これは俺の我が儘ですが、雛菜という1人の少女をこれからも見ていてほしい。そして、時間がかかってもいいので彼女のことを少しずつ理解してあげてほしいんです」
「……」
翼の話が終わった後、椿はしばらく沈黙を保ったまま運転を続ける。
彼女の横顔を見る限り、真剣に考えてくれているのを表情から読み取れた。
「その、自分なんかが差し出がましいことを言ってしまい、申し訳ございません」
赤信号で車が停まると、翼は頭を下げて謝罪の言葉を口にする。
椿はそんな彼の方に顔を向けると、頭を上げるよう言葉にする。
「参ったわ。今までもそうしてきたのに、そんな大切なことを忘れてしまうなんてね。まったく、プロデューサー失格ね」
「えっ!?いやいや、そんなことはないですよ…!椿さんは素晴らしいプロデューサーだと思います」
「いいえ、今までの私は雛菜さんのプロデューサーとして相応しくなかったわ。…それに気付かせてくれてありがとう、翼くん」
「椿さん…」
「まずは君の言う通り、雛菜さんのことをよく見ていくことにするわ。担当アイドルのことを知りもしないでプロデュースもできないしね」
先程まで曇った表情をしていた椿であったが、今はいつも通りの明るい笑顔を浮かべていた。
◆◇◆◇◆
椿とそんな会話をした1週間後。
「ねぇ、翼先輩~」
「ん、どうした、雛菜?」
翼の部屋にて、ベッドでゴロゴロとくつろいでいた雛菜は、何気なく彼に話しかける。
「最近ねぇ、プロデューサーが前より雛菜のことを見ていてくれる気がするんだ~」
「…へぇ、それは良かったじゃないか」
彼女の発言に、すぐ近くで椅子に座って本を読んでいた翼は表情を変えることなく答えた。
そんな彼のことをじーっと見つめながら、雛菜は確信を持った表情で次の言葉を投げかける。
「翼先輩が何かしてくれたんだよね~?」
「…何のことか分からないな」
「あは~、翼先輩ウソついてる~」
「そ、そんな言葉に引っ掛からないぞ、雛菜」
「え~、本当なのに~!だって、翼先輩ってウソをつくとき左手で頬をかく癖があるよ~」
「えっ、嘘…!」
雛菜のその言葉を聞いて、翼は思わず自身の左手を見てしまう。
そんな彼の様子を見て、雛菜はニンマリと笑みを浮かべる。
「あは~、今のは雛菜のウソだけど、翼先輩の言葉もウソだってわかっちゃったね~~♡」
「…まったく、雛菜には敵わないな。でも、本当に特別なことをした訳じゃないんだ」
そう前置きして読んでいた本を閉じると、翼は真剣な表情で雛菜に話し始めた。
「雛菜のことを見ていてほしい…そして少しずつでいいから雛菜のことを理解してあげてほしいと椿さんに伝えただけだよ。それ以外、特別なことは何もしていない」
「…あは~、プロデューサーは雛菜がみんなを残して帰ること、納得してなさそうだったからね~」
雛菜は鈍いわけではないので、椿が自分に対して不満を持っていることに気付いていた。
ただ雛菜にしてみれば、やることをやっているのにわざわざ残って練習することは雛菜的にしあわせだと思わず、甘い物を食べたい気分であったので帰ったのだ。
そんな雛菜の心情を見透かしたように、翼は柔らかく微笑みながら口を開く。
「はは、椿さんはユニットの団結を深めるためにも、できれば雛菜も一緒に残って練習してほしいと考えていたと思うな」
翼の言葉を聞いて、納得できない表情を浮かべる雛菜は彼ならどうするのか聞いてみたくなった。
「ん~…ねぇ、翼先輩がプロデューサーだったらどうする~?」
「ん、俺か?そうだな…雛菜が残って練習する必要がないと判断したのなら、帰ってもいいんじゃないかな」
「あは~、翼先輩もみんなと同じように残って練習するよう言うのかと思った~」
「はは、まぁ状況によっては俺も言うかもしれないな。でも、今の俺は知っているから───雛菜がレッスンを頑張っていることを」
「!」
翼の言葉を聞いて、雛菜は思わず目を見開いた。
「レッスンを真剣に取り組んで、レッスン内で完璧に動けるようになったのなら、その後は自分の好きなことをしてリフレッシュすることはいいことだ。モチベーションなく練習を続ける方が怪我のリスクもあって危ないしな」
何より、と一度言葉を止めると雛菜の目をじっと見つめながら言葉を続ける。
「俺の知る雛菜なら、そうするかなって思っただけさ」
当たり前のことのように答える翼の言葉に対して、あは~♡と満面の笑みを雛菜は返した。
「翼先輩は、雛菜のことなら何でもお見通しなんだね~」
「何でもじゃないけど、他の人よりは分かっているつもりだよ。だって、雛菜のことをずっと見ていると約束しただろ?」
「───」
寝転んで翼と話していた雛菜は、ん~と幸せそうな声を上げながら四つん這いの態勢になる。
そんな雛菜の様子を見てある危機感を抱いた翼は、彼女の方に真正面に身体を向けて声を出そうとした。
「ひな…っ!」
「やは~~!」
翼が名前を言い切る前に、彼に向かって四つん這いの状態で雛菜はジャンプする。
慌てて両腕を広げた彼の腕の中に、雛菜は緩やかに飛び込むのであった。
「ぐっ…あ、危ないぞ雛菜!」
座ったまま雛菜を受け止めたせいで、椅子からギシッと嫌な音がする。
雛菜を床に落とさずに怪我をさせなかったことを翼は内心でほっとしながらも、危険な行為だと彼女に言い聞かせた。
「あは~、次から気を付ける~♡」
翼の注意を受けて口では謝りながらも、雛菜は彼の胸に自分の顔を隠すように頭を埋める。
雛菜の柔らかい身体の温もりを全身で感じ、自分の心臓が早く鼓動するのを翼は感じた。
「って、雛菜!?流石にこれは不味いから、早く離れなさい…!!」
「え~どうして~?雛菜をこうして抱っこしてくれたの忘れちゃったの~?」
「いや、それは小学生のときの話だから…!流石にこの年齢になったら抱っこはもうしないよ!」
(雛菜に悪気がないのは分かるが、もう俺たちは高校生だ。この年の男女が抱き合うのはいくら幼馴染といっても問題があるし、早く降ろさないと…!)
何とか雛菜のことを引き離そうと翼は力を入れるのだが、彼女の身体はびくともしなかった。
翼が気付いた時には彼女の長い手足が強く巻き付いており、ぎゅーっと効果音が聞こえるほど抱きしめられていた。
「あは~、雛菜はとっても甘えたい気分だから、もう少し抱っこをしてて~~♡」
(ほぼ全力を出したのに引き剝がせなかった…仕方ない、雛菜が満足するまでこの状態でいるとするか)
翼は内心でそう考えると、引き離そうと両腕に込めていた力を抜いた。
「…しょうがないな、今回で最後だぞ。次同じことをやっても受け止めないからな」
雛菜の強い意志に負けた翼は、これっきりという条件で彼女の行動を許すことにした。
甘えん坊のコアラのように彼に抱き着いたまま、雛菜はおもむろに口を開く。
「───翼先輩は翼先輩、雛菜は雛菜。でも、翼先輩なら雛菜になれるかもね~」
「…?」
雛菜の言葉の意図を図りかねた翼は、不思議そうな表情を見せる。
そんな彼の胸に軽く顔を埋めたまま、雛菜は言葉を続けていく。
「雛菜の気持ちを理解して、雛菜が何を見ているのかわかってるってことは、それはもう雛菜だよね~~」
「なるほど…でも俺は雛菜みたく可愛くないからなぁ」
「え~!翼先輩も雛菜と同じくらい可愛いのに~…でもまぁ、いっか!」
1人で納得した様子の雛菜に、翼は首をかしげる。
「?」
「翼先輩の魅力を翼先輩自身がわかってなくても、雛菜がわかっていればいいしね~」
相変わらず彼の胸にくっついているせいで雛菜の表情は見えないが、幸せオーラが全身から放たれているように翼は感じた。
そんな雛菜の幸せオーラを間近で浴びた翼は、彼女につられてか幸せな気持ちになっていく。
「はは、俺が可愛いかどうかは置いておいて、雛菜が幸せそうでよかったよ」
「あは~、雛菜がしあわせだと翼先輩もしあわせ~?」
「もちろん。雛菜が幸せなら俺も幸せだよ」
「じゃあ雛菜がW.I.N.G.優勝したら、翼先輩すごくしあわせになっちゃうね~」
「あぁ、間違いなくそうなるな。でもまずは目の前の予選通過を目指してレッスンや仕事を頑張っていこうな」
「は~い、雛菜もっとがんばるね~~!」
ようやく顔をあげた雛菜は、いつもよりも頬を朱く染めて元気いっぱいにそう宣言するのであった。
☆★☆★☆
───W.I.N.G.第1シーズン終了まで、残り2週。
おまけ
「それじゃあそろそろ離れてもらえるか、雛菜?」
「え~~、雛菜、もう少しこうしていた~い!」
「いや、もう30分近く経っているし、そろそろ円香も帰って───」
「ただいまー…は?」
「あは~、お帰りなさい~、円香先輩~♡」
「は?」
「いや、あのな、円香これには理由が…」
「は?」
この後めちゃくちゃ円香に怒られる2人であった。